みなとまちづくり生涯学習講座



ピアしっくすミニ講演会

平成20年度 みなとまちづくり生涯学習講座 の開催
テーマ「神戸みなとの文化を語る」



  NPO 近畿みなとの達人では、本年6月15日より10月までの約半年間、国土交通省 神戸港湾事務所の後援を受け、海洋環境や海洋文化といった海にまつわる活動を中心に「みなとまちづくり生涯学習講座」を開催します。

  開催は、月1回で全5回、神戸市立博物館を始めとする地元の各界の専門家を講師として招き、『神戸みなとの文化を語る』というシリーズでご講演いただきます。講演時間は約1時間でその後に参加者と講師の先生との対話・意見交換を行う予定です。

  この「みなとまちづくり生涯学習講座」は、一昨年10月から国土交通省神戸港湾事務所などとの共催で始めた取組みです。、一昨年度は『海港都市神戸を語る』というシリーズで、古代から現代に至る神戸港の歴史をテーマとして6回講演を頂きました。昨年度は『うみ・ふね・みなと』として、上半期は、フローティングスクールや客船クルーズ、海辺のアクティビティなどをテーマに、子供達を船上や水辺で学ばせる意義、余暇活動などにスポットを当て、海を利用した子育て孫育てに役立てられる内容について講演頂きました。下半期は『うみ・ふね・みなと』part2として、学びの場としてのうみ、観光の場としてのうみ、海の環境、海の生物、船の歴史について講演を頂きました。
 高齢化社会の進展にともなって時間にゆとりを持つ中高年の方が増加するなかで、休日を利用した生涯学習講座の開設は、毎回60~70名程度の市民の参加を得て、みなとの重要性を再認識してもらうよい機会となっていると感じています。

  今年度は、6月から約半年間、『神戸みなとの文化を語る』というシリーズで5回の講演を予定しています。

  開催場所は、神戸市中央区小野浜町7-30、神戸港湾事務所内にある神戸築港資料館「ピアしっくす」です。(募集人数:事前申込み制、各回80名) 申し込みはここをクリックして下さい。

<問合せ先>
NPO 近畿みなとの達人 
「みなとまちづくり生涯学習講座」係
TEL: 078-333-8481 / FAX: 078-333-8521
Email: npopttatsujin@gol.com


 
20年度 みなとまちづくり生涯学習講座定期講座

テーマ「神戸みなとの文化を語る」


 6月15日(日)14:00~15:30

テーマ:神戸はじめ物語(近代都市神戸の始まりと開化風俗)

講演者:田井 玲子(たい れいこ)
     神戸市立博物館 学芸員

 7月27日(日)14:00~15:30

テーマ:神戸のお菓子物語

講演者:下村 俊子(しもむら としこ)
     株式会社神戸凮月堂代表取締役会長

 8月24日(日)14:00~15:30

テーマ:みなとと神戸の産業(シューズ)
講演者:三谷 陽造(みたに ようぞう)
     神戸学院大学 客員教授

 9月21日(日)14:00~15:30

テーマ:ファッション都市神戸に想う(ハイカラ文化発祥地・神戸ストーリー)

講演者:中西 省伍(なかにし しょうご)
     サロン・デ・モード中西 代表

 10月19日(日)14:00~15:30

テーマ:神戸 洋食はじめ物語

講演者:梶原 苗美(かじはら なえみ)
     神戸女子大学 教授

19年度 みなとまちづくり生涯学習講座
上半期 定期講座
テーマ「うみ ふね みなと」



 5月20日(日)14:00~15:30
テーマ:うみふねみなと1「フローティングスクールの取組み」
            -子供たちを船上で学ばせる意義-
講演者:井上 欣三(いのうえ きんぞう)
     神戸大学大学院海事科学研究科教授

 6月24日(日)14:00~15:30
テーマ:うみふねみなと2「瀬戸内をクルーズで世界の海へ!」
            -神戸港を瀬戸内クルーズの母港に-
講演者:上川 庄二郎(かみかわ しょうじろう)
     元関西学院大学非常勤講師、神戸経済同友会特別会員

 7月28日(土)14:00~15:30
テーマ:うみふねみなと3「海辺のアクティビティ」(仮題)
            -海を見る市民たち-
講演者:來田仁成(らいた ひとしげ)
     NPO法人釣り文化協会代表

 8月26日(日)14:00~15:30
テーマ:うみふねみなと4「大阪湾周辺のウミガメの現状」
           -産卵や砂浜の環境について- 
講演者:大鹿 達弥(おおしか たつや)
     元須磨海浜水族園学芸員、NPO日本ウミガメ協議会研究員

 9月30日(日)14:00~15:30
テーマ:うみふねみなと5「日本商船隊の歴史」(仮題)
           -移りゆくアジアの海運拠点-
講演者:森 隆行(もり たかゆき)
     神戸流通科学大学商学部教授
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下半期 定期講座
テーマ「海港都市神戸を語る part2」

 10月~翌年2月
  ①古代の神戸、②中世の神戸、③近世の神戸、④近代の神戸、⑤現代の神戸

平成18年度みなとまちづくり生涯学習講座



◆神戸築港資料館 「ピアしっくすミニ講演会」

・10月22日(日)14:00~15:20

 テーマ:神戸のルーツ1「敏馬の浦と古代の神戸」
            -その景観と外交儀礼-
 講演者:坂江 渉(さかえわたる)
     神戸大学文学部講師、文学部地域連携センタ-研究員



・11月19日(日)14:00~15:20

 テーマ:神戸のルーツ2「幕末維新期の神戸と外国人居留地」
            -若林秀岳の神戸開港の図を読む-
 講演者:八ヶ代 信行(やかしろのぶゆき)
     神戸歴史クラブ副会長、神戸市立宮川小学校教諭

・12月16日(土)14:00~15:20

 テーマ:神戸のルーツ3「福原遷都と平氏の政権構想」
            -大輪田泊の改修と対外貿易-
 講演者:高橋 昌明(たかはしまさあき)
     神戸大学文学部教授

・1月28日(日)14:00~15:20

 テーマ:神戸のルーツ4「海港都市神戸の地域歴史遺産」
           -阪神淡路大震災と歴史学-
 講演者:奥村 弘(おくむらひろし)
     神戸大学文学部教授、地域連携推進室副室長

・2月25日(日)14:00~15:20

 テーマ:神戸のルーツ5「兵庫津と江戸時代の物流事情」
           -北前船と高田屋嘉兵衛、廻船業の発展-
 講演者:神木 哲夫(かみきてつお)
     神戸外国人居留地研究会会長、奈良県立大学名誉教授

・3月10日(土)14:00~15:20

 テーマ:神戸のルーツ6「グローバル時代における神戸の舵取り」
            -スーパー中枢港湾「阪神港」の行方-
 講演者:勝海 務(かつうみつとむ)
     神戸大学工学部客員講師、神戸港湾事務所所長

上記資料は国土交通省 神戸港湾事務所のプレス用資料を転載させて頂いたものである

◆港湾空港タイムス(10月31日付け)に第1回ピアしっくすミニ講演会が紹介されました
           港湾空港タイムス発行所(株)都市計画通信社平成十八年十月三十一日付け紙面より転載


◇第2回「みなとまちづくり生涯学習講座」の開催

シリーズ(海港都市『神戸』を語る)

「幕末維新期の神戸と外国人居留地 
-若林秀岳の開港神戸の図を読む-」

 神戸港湾事務所は、NPO近畿みなとの達人、 神戸大学文学部地域連携センター、 神戸市みなと総局との共催で、11月19日、神戸築港資料館「ピアしっくす」にて、 神戸歴史クラブ副会長の 八ヶ(やか(しろ信行(のぶゆき氏を講師とする「みなとまちづくり生涯学習講座」を開催した。先月に引き続く第2回目の講座は「幕末維新期の神戸と外国人居留地」という演題で、約140年前の神戸を対象に、若林秀岳作の「開港神戸の図」について語られた。当日は約60名の聴講者が会場を埋め、明治初期の神戸の山や川、道、外国人居留地、海等の話と映像資料に目と耳を傾けた。 今回は江戸時代の鎖国政策が終焉した約140年前の幕末維新期の神戸の様子を当時の画家 若林秀岳 の作と言われる「開港神戸の図」をもとに読み解いた。このころの神戸の山は山上に寺がある山を除いては禿山が多く、川も西の湊川と東の生田川はともに天井川で交通の妨げになっており、 堤防の決壊による災害の元凶でもあった。その後、植林と河川の付け替えにより現在のような神戸の地形になったらしい。 外国人居留地は当初、駒ヶ林に予定されていたが紆余曲折を経て南北を西国街道から生田浜にかけてのエリア、 東西を生田川と鯉川に挟まれた範囲に決められた。地図が作られた慶応4年4月には、 地図に描かれているような町割と堀のような水路は存在していなかったはずで、 「開港神戸の図」にはいくつかのフィクションが盛り込まれているらしい。 明治元年の神戸港には既に沖に多くのイギリスやアメリカの国旗を掲げた大型の汽船や帆船が停泊し、 小型船で沖荷役が行われている模様が描かれている。これもフィクションの一部かもしれないが・・。 当日は、小雨の降る中、参加者の半数以上が前回の第1回「みなとまちづくり生涯学習講座」の継続受講者であり、 神戸築港資料館「ピアしっくす」は、講座への積極的な参加者と固定客(リピーター)の獲得にまずは成功した。
上記資料は 国土交通省 神戸港湾事務所のプレス用資料を転載させて頂いたものである
◆神戸新聞にピアしっくすミニ講演会が紹介されました。


◇第3回「みなとまちづくり生涯学習講座」の開催
シリーズ(海港都市『神戸』を語る)

「福原遷都と平氏の政権構想」

  -大輪田泊の改修と対外貿易- 
神戸港湾事務所は、NPO近畿みなとの達人、神戸大学文学部地域連携センター、神戸市みなと総局との共催で、 12月16日、神戸築港資料館「ピアしっくす」にて、神戸大学文学部教授の高橋昌明氏を講師とする「みなとまちづくり生涯学習講座」 を開催した。先月、先々月に引き続く第3回目の講座は「福原遷都と平氏の政権構想」という演題で、約830年前の神戸市兵庫区を対象に、 平清盛が築きあげた福原京と当時の国際貿易港「大輪田泊」について語られた。当日は約70名の聴講者が会場を埋め、講演終了後も 当時の貨幣経済の進展状況や中国との貿易品目の構成などについて質疑応答が絶えなかった。 今回は平安時代末期の歴史上、武士が台頭し始める平氏栄華の時代、1180年の福原遷都について語られた。 福原遷都とは1180年6月、平清盛の強い意向で、現在の神戸市兵庫区平野の地に、安徳天皇・高倉上皇以下が大挙して訪れてから、 都造りが計画されるが、途中から反平氏勢力の挙兵が始まり、遷都反対の伝統的な王朝貴族の意向も根強く、約170日後の11月、 一行が京都に帰還するまでの一連の動きをさす。 清盛が福原に居を構えた理由としては、古代以来の重要な港湾・大輪田泊を足場に中国(宋)との貿易の 陣頭指揮をとろうとしたことと、平家の独自性や主体性を従来以上に発揮するためには、京都の後白河法皇を中心とする王朝勢力 とある程度距離を置き、最高実力者として京都から空間的にも離れている方が何かと都合がよかったからだと言われている。 1179年に軍事クーデターを引き起こして後白河法皇を幽閉し、自前の平氏系王朝(高倉上皇-安徳天皇)を打ち立てた清盛は、 新王朝発足の意味も込めて、これまで400年近く続いた平安京を離れ、それにふさわしい新都建設と福原遷都計画を実行した。 ただし、福原での都造りは結局未完に終わり、これが遷都かただの離宮かは朝廷の公式行事をめぐり 様々な学説が述べられた。神戸には福原京を示す当時の平家時代に関する遺跡がいくつかあるが、現時点では考古学の発掘は、 まだ始まったばかりで、今後が期待されると締めくくられた。
上記資料は国土交通省 神戸港湾事務所のプレス用資料を転載させて頂いたものである


◇第4回「みなとまちづくり生涯学習講座」の開催

シリーズ(海港都市『神戸』を語る)

「海港都市神戸の地域歴史遺産」
-阪神淡路大震災と歴史学-

   
神戸港湾事務所は、NPO近畿みなとの達人、神戸大学文学部地域連携センター、神戸市みなと総局との共催で、1月28日、神戸築港資料館「ピアしっくす」にて、神戸大学文学部教授の奥村弘氏を講師とする「みなとまちづくり生涯学習講座」を開催した。第4回目の今回は「海港都市神戸の地域歴史遺産」という演題で、近代から現代にいたる神戸の都市イメージの変遷や歴史資料を保全活用することの現代的意義について語られた。当日は約70名の聴講者が会場を埋め、講演終了後も神戸に所縁のある歴史人物に対する評価や地域遺産の発掘について質疑応答が絶えなかった。

今回は平安時代末期の平清盛や南北朝時代の楠木正成など、神戸に所縁のある歴史上の人物を取り上げながら、明治以降の湊川を挟む「兵庫」と「神戸」の文化の違いや湊川付け替えによる両者の物理的一体化について当時の新聞記事などの史実をもとに海港都市神戸を解明していった。
 地元の市民は、清盛が皇室に逆らい福原遷都を実行した事実を歴史的にどのように捉えてきたか、また、湊川神社に奉られる楠木正成の戦時体制時の扱いなど、戦前・戦中・戦後の神戸市民の歴史認識の変遷が語られた。
 地域歴史遺産という言葉は、世界遺産の対極にあり、地域にとって重要な資料を地域遺産と呼んでいる。神戸地域は第2次世界大戦の空襲で多くが焼け野原になり、貴重な地域遺産が消滅した。そのため、歴史・文化の断絶が起こったのも事実である。戦後の市町村合併が盛んに行われた頃、合併問題で地域の歴史を語らない暗黙の了解もあり、戦後はモダンな近代都市神戸へのイメージの均一化が行われたといえる。
 戦渦や天災のために失われた資料は多く、震災後は特に歴史を伝えようとする市民の関心が高まってきた。HAT神戸の「人と防災未来センター資料室」には、震災時の市民の手記や写真まで地域歴史遺産として残されている。戦前の町内会の記録などほとんど残っていない現代、積極的に地域の貴重な資料を残していこうという動きが歴史資料ネットワークを通じて芽生えている。
次回、第5回講座は、2月25日(日)神戸外国人居留地研究会会長の神木哲男氏をお招きし「兵庫津と江戸時代の物流事情」と題して、北前船と高田屋嘉兵衛の話や廻船業の発展事情について語られる予定である。
上記資料は国土交通省 神戸港湾事務所のプレス用資料を転載させて頂いたものである


◇第5回「みなとまちづくり生涯学習講座」の開催
シリーズ(海港都市『神戸』を語る)

「兵庫津と江戸時代の物流事情」
-北前船と高田屋嘉平衛、廻船業の発展-

   
上記資料は国土交通省 神戸港湾事務所のプレス用資料を転載させて頂いたものである


◇第6回「みなとまちづくり生涯学習講座」の開催
シリーズ(海港都市『神戸』を語る)

「グローバル時代における神戸の舵取り」
-スーパー中枢港湾「阪神港」の行方-

   
上記資料は国土交通省 神戸港湾事務所のプレス用資料を転載させて頂いたものである


◇第1回「みなとまちづくり生涯学習講座」の開催
シリーズ(うみ・ふね・みなと)

「フローティングスクールの取組み」
-子供たちを船上で学ばせる意義-


   
上記資料は国土交通省 神戸港湾事務所のプレス用資料を転載させて頂いたものである


◇第2回「みなとまちづくり生涯学習講座」の開催
シリーズ(うみ・ふね・みなと)

「瀬戸内海をクルーズで世界の海へ」
-神戸港を瀬戸内海クルーズの母港に-


   

 神戸港湾事務所は、NPO近畿みなとの達人、神戸大学大学院人文学研究科地域連携センター、神戸市みなと総局との共催で、6月24日、神戸築港資料館「ピアしっくす」にて、(社)神戸経済同友会特別会員である上川庄二郎氏を講師に迎え「みなとまちづくり生涯学習講座」を開催した。平成19年度上期「うみ ふね みなと」シリーズ第2回講演会は、「瀬戸内海をクルーズで世界の海へ」をテーマにし、海外の事例を挙げながらクルーズの素晴らしさについて講演が行われた。当日は約70名の聴講者が会場を訪れ、瀬戸内海クルーズの魅力と神戸港のポテンシャルについて熱心に聴講した。

瀬戸内海や神戸港を活性化させるために川上氏が提唱しているのが、クルーズ船による観光旅行である。クルーズによる旅行は、いろいろなものを見てまわる(sightseeing)、ゆったりとくつろぐ(beeing)、体験する(doing)といった観光に必要な要素をすべて満たしているという。「クルーズ船とは、ホテルの玄関を出たら、また違う街にいるような、とても便利で楽しいもの」と上川氏は語る。
現在、海外のクルーズ船旅行で注目されているのが、リバークルーズという川を中心にしたクルーズだそうだ。ヨーロッパ大陸の川と運河は昔から内陸都市への物資の輸送路で、川辺のまちには様々な文化や歴史が根付いている。オランダ、ベルギー、ロシアなどでリバークルーズ観光が定期的なコースになり、100~200人乗りの小ぶりな船が利用され、親しみやすくアットホームなもので、新しい観光のスタイルとして受け入れられている。
瀬戸内海もまた昔から移動や物流の輸送路として栄えてきた地域であり、ヨーロッパ大陸のスケールでは「瀬戸」が「リバー」で、「灘」が「レイク(湖)」。沿岸には様々な伝統文化が根付いており、瀬戸内海を楽しむには、小ぶりな船でのんびりと行くリバークルーズが最適とのこと。瀬戸内海クルーズを定期化すれば、きっと「ビジット・ジャパン・キャンペーン」の目玉になるだろうと語られた。
瀬戸内海クルーズが実現すれば、世界的に有名な神戸港がクルーズの母港となり、クルーズに参加する外国人観光客はまず神戸に集まる、そのためにも神戸港を母港とするクルーズ船が必要とのこと。
神戸経済同友会では、来年から「せとうち・感動体験クルーズ」をまず試験的に行う予定で、皆様にぜひ体験クルーズ乗船者になっていただきたいと講座を締めくくった。
当日は、地元選出の盛山正仁衆院議員も参加され、聴講者と一緒に受講された。また、講演後に行われた聴講者の質問に、議員が答えるなど、会場は大きく盛り上がった。
上記資料は国土交通省 神戸港湾事務所のプレス用資料を転載させて頂いたものである


◇第3回「みなとまちづくり生涯学習講座」の開催
シリーズ(うみ・ふね・みなと)

「海辺のアクティビティ」-海を見る市民たち-


   

 神戸港湾事務所は、NPO近畿みなとの達人、神戸大学大学院人文学研究科地域連携センター、神戸市みなと総局との共催で、7月28日、神戸築港資料館「ピアしっくす」にて、NPO法人つり文化協会代表理事である來田仁成氏を講師に迎え「みなとまちづくり生涯学習講座」を開催した。平成19年度上期「うみ ふね みなと」シリーズ第3回講演会は、「海辺のアクティビティ」をテーマにし、釣りというレジャーを通して大阪湾の水質を考えるに至るまでを中心に講演が行われた。夏本番の陽気となった当日は、約40名の聴講者が会場を訪れ、海の水質保全のために何ができるのかについて熱心に聴講した。

 大阪湾はチヌ釣りで有名であるが、岸壁にへばりついている貽貝が落ちたら、チヌ釣りは終わりと言われている。來田氏は、その関係性について調べ始めた。原因は、大阪湾の水質にあった。
 元を辿ると、赤潮から始まる。発生した赤潮は、海の酸素を奪いながら、やがて死骸となって海底へ沈む。その死骸に微生物が発生し、海底の酸素も奪われ、さらに硫化水素を発生させるのである。そこに海の方向へ風が吹くと、海上の水が沖へ流れ、その分硫化水素を含んだ海底の水が陸地側へ押し寄せてくる。青潮と呼ばれる現象である。その結果、岸壁の貽貝は落ちる。
「貽貝が落ちるとき、海の中は生物が生息できないほどの状況であることがわかったのです」
 來田氏は保護司をしていたこともあり、そのときに多くの少年を釣りに誘ったという。
「少年たちは、物事の解決するためのプロセスを知らないだけなのです。釣りは、推理ゲームのようなものだと私は考えています。物事の考え方を、釣りを通して教えることができるのです」
 そうした貴重な体験を与えることのできる海をこのままにしておけないと、來田氏は大阪湾の水質調査を始めた。調査に協力してもらったのは、他でもない釣り人たちであった。釣り人は、全国に1000万人程度いるといわれている。このマンパワーがあれば、海の水質を改善するのも夢ではない。水質調査を行う器具は、釣り道具を加工して作成した。
 去年は300を越える調査事例が集まったという。今年もNPOでは水質調査を呼びかけており、7月29日、8月4日、5日には小中学生を対象に、「夏休みジュニア水質調査の日」が開催される予定だ。「釣り人だけではなく、多くの市民に参加していただきたい」と講座を締めくくった。
 
 当日は、勝海前所長に代わり、神戸港湾事務所長となった田所所長の挨拶があり、地元選出の盛山正仁衆院議員とともに、聴講者と一緒に受講された。

上記資料は国土交通省 神戸港湾事務所のプレス用資料を転載させて頂いたものである


◇第4回「みなとまちづくり生涯学習講座」の開催
シリーズ(うみ・ふね・みなと)

「大阪湾周辺のウミガメの現状」
-産卵や砂浜の環境について-


   

 神戸港湾事務所は、NPO近畿みなとの達人、神戸大学大学院人文学研究科地域連携センター、神戸市みなと総局との共催で、8月26日、神戸築港資料館「ピアしっくす」にて、NPO法人日本ウミガメ協議会学芸員の大鹿達弥氏を講師に迎え「みなとまちづくり生涯学習講座」を開催した。平成19年度上期「うみ ふね みなと」シリーズ第4回講演会は、「大阪湾周辺のウミガメの現状」をテーマにし、大阪湾のウミガメの生態や産卵の状況、そして大阪湾にやってくるウミガメをいかに保護していくかについて講演が行われた。当日は残暑厳しい真夏日となったが、約60名の聴講者が会場を訪れ、絶滅が危惧されるウミガメ保全について熱心に聴講した。

 現在、世界には7種類のウミガメ類が生息している。そのうち、日本の近海には、アカウミガメをはじめとした5種がやってくる。5月の終わりから11月まで、大阪湾にも多くのウミガメがやってきており、中でもアカウミガメは大阪湾周辺の砂浜で産卵していることがわかった。孵化したアカウミガメは、海流に乗って遠くメキシコまで行き、そこで成長する。「アカウミガメは、現在IUCNより絶滅危惧種として指定されています。日本全体、さらに大阪湾がウミガメに良い環境を提供できるかどうかは、北太平洋からウミガメが消えてしまうかどうかという問題にもつながるのです」と講師の大鹿氏は語る。
しかし、大阪湾には現在、淡路島の成ヶ島などのわずかながらしか自然海岸は残っておらず、90%以上が人工の砂浜であるため、決して産卵に適した浜であるとはいえない。また、船舶が多く行き交う地域であることや、底びき網漁などの漁業による混穫によって、多くのウミガメが傷付けられており、大阪湾はウミガメにとって脅威の多い海であるのが現状だ。
そこで、昨年2月16日に開港した神戸空港島にある西緑地人工海水地を大阪湾で傷ついたウミガメの「保養所」として利用することにした。この人工海水地は、海水の入れ替わりもあり、自然と変わらない砂浜が再現されている。日本ウミガメ協議会では、大阪湾にやってきて、漁業や船舶また何らかの理由によって、大阪湾での生息が困難になったウミガメをこの海水地で保護・飼育し、採血や体重測定などの健康チェックをして、適切な時期にウミガメを海に帰すという取り組みを行っている。また、人工海水地でウミガメを身近に観察できる学習会を企画し、保全への意識向上を図っている。「みなさんにウミガメのことをもっと知ってもらいたい。また、行政の方々は、環境のことにも目を向けた海浜事業を進めていってほしい」と講演を締めくくった。

 当日は、大鹿氏のユニークな人柄に会場が盛り上がった。また、地元選出の盛山正仁衆院議員、橋本健神戸市会議員も参加され、聴講者と一緒に受講された。

上記資料は国土交通省 神戸港湾事務所のプレス用資料を転載させて頂いたものである


◇第5回「みなとまちづくり生涯学習講座」の開催
シリーズ(うみ・ふね・みなと)

「日本商船隊の歴史 -移りゆくアジアの海運拠点―」


   

 神戸港湾事務所は、NPO近畿みなとの達人、神戸大学大学院人文学研究科地域連携センター、神戸市みなと総局との共催で、9月30日、神戸築港資料館「ピアしっくす」にて、神戸流通科学大学商学部教授の森(もり)隆行(たかゆき)氏を講師に迎え「みなとまちづくり生涯学習講座」を開催した。平成19年度上期「うみ ふね みなと」シリーズの最終回となる第5回講演会は、「日本商船隊の歴史」をテーマにし、日本の海運の状況と、アジアにおける海運拠点の移り変わりについて講演が行われた。当日は、あいにくの雨模様の中、約70名の聴講者が会場を訪れ、グローバル化の進展が進む海運の中での神戸港の在り方について熱心に聴講した。

2005年現在、海上輸送量は66.6億トンであり、過去60年間、オイルショック時を除くと右肩上がりで伸び続けている。また、海上輸送は、世界の輸送においてトン数では99.7%、金額では70%を占めており、海上輸送の役割は人口増加に伴い、今後ますます重要になると言われている。そうした状況の中で、日本外航運送は、他産業より先んじて1987年に着手されたリストラ(当時は緊急雇用対策)や財閥同士の合併といった構造改革を行い、また1990年代以降急速な成長を遂げている中国特需の影響もあり、商船三井、日本郵船、川崎汽船の大手3社が運行船腹量で世界1位、2位、4位を占めている。また、自動車船や輸送船等においても世界の上位を占めており、近年好調である。
その一方で、日本の海運・港湾そのものの将来は楽観できるものではない。日本商船隊は2,104隻の船を保有しているが、日本籍船はわずか95隻、また、船員の大半は外国人船員であり、日本人船員は全体の4%しかいない(2005年現在)。さらに、日本の港湾の地位も下がっており、1975年神戸港は世界第3位のコンテナ港であったが、現在は30位以下に低迷している。これは阪神淡路大震災によるものと言われているが、かつて米国と日本との間で主に行われていた太平洋貿易が、現在は米国とアジアへと、海上貿易の構造そのものが変化したことも大きな要因だ。
こうした現状を認識した上で、これらの日本の海運、港湾を考えていかなくてはならないと森氏は語る。また、経済競争の観点からだけでは、日本の港湾を育てることは難しく、そこには国家制度や国民がどのような港湾、海運を目指すかという意思が必要であると述べた。「グローバルに変化し続ける海運の中で、量だけではなく質を高める港湾とはどのようなものなのか。そうした発想の転換がこれからの神戸港に必要だと思います」と講演を締めくくった。

当日は森氏の多様な切り口で語られる海運に会場が盛り上がった。また、地元選出の盛山正仁衆院議員も参加され、聴講者と一緒に受講された。

上記資料は国土交通省 神戸港湾事務所のプレス用資料を転載させて頂いたものである


◇第1回「みなとまちづくり生涯学習講座」の開催
シリーズ(海港都市『神戸』を語るPart2)

「古代の西摂・神戸の浜辺と海洋信仰」


   

 神戸港湾事務所は、NPO近畿みなとの達人、神戸大学大学院人文学研究科地域連携センター、神戸市みなと総局との共催で、10月21日、神戸築港資料館「ピアしっくす」にて、神戸大学人文学研究科講師である坂江(さかえ)渉(わたる)氏を講師に迎え「みなとまちづくり生涯学習講座」を開催した。平成19年度下半期はのテーマは、「海港都市『神戸』を語る Part 2」。第1回の講演では、「古代の西摂・神戸の浜辺と海洋信仰」と題して、日本書紀などの文献から、阪神間のミナトが昔から信仰の場もであったことを紹介した。秋晴れの当日は、70名以上の聴講者が会場を訪れ、西摂・神戸の浜辺の歴史や文化、そして地域の神祭り等の祭祀伝承について熱心に聴講した。

古代の西摂・神戸地域には、猪名浦、務(む)古水門(このみなと)、敏売(みぬめの)浦(うら)、そして大輪田泊(とまり)といった瀬戸内海を代表するミナトが連続している。そうしたミナトについて、「日本書紀」や「風土記」などに関連史料が残っているが、特徴的なのは、ミナトが呪術や祭祀の場として描かれている点である。「古代のミナト内にあった砂州や砂嘴は、神が迎え入れる神聖な場所として考えられていたようです」と坂江氏は語る。港湾整備の技術が発達していなかった古代、ミナトは干潟やラグーンなどの、入り江状の砂泥地につくられた。その中にみられる凸状の地形は、神を迎える場所であると考えられたらしい。刀剣や柱、梯子などの突出したものに神が宿るという記述が、古代の史料にみられる。それを裏付けるように、全国には「サキ(崎・前)」の名をつけた神社(式内社)も数多く存在する。丹後の天橋立なども、もともと砂嘴に対する信仰の場になっていた痕跡がある。
また西摂・神戸のミナトの呪術・祭祀伝承には、単なる地域的なものではなく、国家的な祭りに関わるものが多い。坂江氏は、ミナトで行われた祭祀が単なる安全祈願だけではなく、その近辺に住む集団を動員・編成するための国家戦略として行われていたと述べる。
4世紀半ば過ぎ、日本は朝鮮半島の百済や加羅諸国と対等互酬の軍事同盟を結び、それらの国々より鉄資源や先進文物を受ける代りに、軍事力を提供していたらしい。その軍事力の担い手がミナトの海人たちであった。彼らの信奉する神々に対し国家が敬意を示して祈ることにより、彼らを軍事遠征に動員することができた。つまり古代の海人は、単なる海辺の民や漁業民でなく、王権に強く従属する民で、祭祀・奉幣は海人たちを海外遠征に動員・編成するための聖地での象徴的な儀式であったと坂江氏は締めくくった

上記資料は国土交通省 神戸港湾事務所のプレス用資料を転載させて頂いたものである


◇第2回「みなとまちづくり生涯学習講座」の開催
シリーズ(海港都市『神戸』を語るPart2)

「室町幕府のアジア外交と兵庫津
-足利義満の日明貿易-」


   

 神戸港湾事務所は、NPO近畿みなとの達人、神戸大学大学院人文学研究科地域連携センター、神戸市みなと総局との共催で、11月4日、神戸築港資料館「ピアしっくす」にて、天理大学国際文化学部教授である藤田(ふじた)明良(あきよし)氏を講師に迎え「みなとまちづくり生涯学習講座」を開催した。平成19年度下半期、「海港都市『神戸』を語る Part 2」の第2回は、「室町幕府のアジア外交と兵庫津」と題して、室町時代に足利義満が行った日明貿易について紹介した。秋晴れの当日は、70名以上の聴講者が会場を訪れ、当時の貿易の仕組みや、神戸港の姿について熱心に聴講した。

中国に明が成立する以前、東アジアでの貿易は、外交とは別物として切り離されて考えられていた。つまり宋や元の時代は外交関係がなくても経済交流は可能であったが、明の成立後は外交と貿易は国家が取り仕切るものとなった。明と貿易を行う場合には、明の皇帝に朝貢し、その国の王として認められなければならなかったようである。日本では南北朝時代を経て、1401年、足利義満が明より日本の国王として認められ、定期的な日明貿易はスタートした。
当時の貿易は、朝貢使である五山の禅僧を代表として、僧侶、武将、通訳のための在日外国人、船を動かす水夫、そして国王に対して貿易の参加料を上納した商人が乗り込む、外交船兼商船によって行われた。義満が国王であった1401~1411年までのおよそ10年間、この明との外交・貿易は途切れることなく行われ、その度に10数隻の船団で日本人、中国人合わせて1000~2000人程度の人が日中間を移動したらしい。
明の都南京と日本の都京都を結ぶ両国の港として利用されていたのが、寧波と兵庫津である。「東寺百合古文書」によると、荷物の運搬などの大量の仕事が兵庫津で行われていたことが分かる。また、国営の土蔵(現在の銀行)が出来たり、兵庫津周辺の福厳寺や永福寺などの寺が明使のための迎賓館として使用され、当時の兵庫津が日明貿易によって大きく賑わっていたことがわかる。「こうした兵庫津で行われていたインフラ整備がどの様なものなのか、現在のところ詳細には分かっていません。また、室町時代の兵庫津の海岸線も古文書からはなかなか推定が難しい。」と藤田氏。昔の文献として江戸時代の「近世兵庫津絵図」が残っているが、兵庫城や都賀堤(つがのつつみ)が造営されたことにより、その絵図は室町時代の港の姿とは大きく変化している。「文献からだけでは兵庫津の姿を明らかにすることは難しく、地質データなどを用いて土木や建築などの学問とともに複合的に研究しなければならない。当時のみなとの姿を知るためには、文系・理系の垣根を越えた研究が今後は必要。」と藤田氏は講演を締めくくった。

当日はこれまであまり取り上げてこられなかった室町時代の兵庫津に会場が盛り上がった。
また、地元選出の盛山正仁衆院議員も参加され、文系・理系の専門家が協力して歴史研究を進めて行ければ有意義なものになるだろうと述べられた。

上記資料は国土交通省 神戸港湾事務所のプレス用資料を転載させて頂いたものである


◇第3回「みなとまちづくり生涯学習講座」の開催
シリーズ(海港都市『神戸』を語るPart2)

「近世兵庫津の都市空間」


   

 神戸港湾事務所は、NPO近畿みなとの達人、神戸大学大学院人文学研究科地域連携センター、神戸市みなと総局との共催で、12月23日、神戸築港資料館「ピアしっくす」にて「みなとまちづくり生涯学習講座」を開催した。平成19年度下半期、「海港都市『神戸』を語る Part 2」第3回は講師に神戸市立博物館の学芸員である高久(たかく)智広(ともひろ)氏を迎え、テーマは「近世兵庫津の都市空間」。近代神戸につながる兵庫津の特質について、地域に残された古地図・絵画や文献資料に基づきながら試論として進められた。あまり明らかになっていない当時の兵庫の様相についての論に、当日訪れた70名以上の聴講者がみな熱心に聞き入っていた。
江戸時代、兵庫津は北前(きたまえ)船(ふね)や尾州(びしゅう)廻船(かいせん)といった西廻り航路の拠点であった。兵庫(ひょうご)陣屋(じんや)が置かれ、尼崎藩より兵庫奉行を月替わりに派遣した。都市空間としては、内陸部と海岸伝いの地域に分かれ、それぞれ岡方、浜方と呼ばれた。また浜方はさらに北浜、南浜に分離していた。岡方は、西国街道の宿駅機能を持ち、浜方は浦方を負担するといった都市空間における機能分化と補完関係が成立していた。当時の古地図では、寛政以降、西出町・東出町の町域が拡大し、新たに東川崎町が出来ている。また西国街道に沿う湊川から宇治川の範囲に相生町が形成されている。
しかし、「兵庫開港」においては、条約にもその地名が記されている(『新修神戸市史』)。にもかかわらず、実際の貿易港になったのはその東側の神戸村であった。兵庫津はまた外国人居留地造成の候補地であったが、それも神戸村東端~生田川間に造成された。さらに文久3年(1863年)には、兵庫・西宮・天保山などに洋式砲台が築造される。元治元年(1864年)砲台が完成すると、大坂城代に移管される。この年、尊王(そんのう)攘夷(じょうい)の実行、つまり長州征伐の勅命が出されている。大坂城代への砲台移管は、反幕府派への軍事的・技術的優位性を顕示するためと考えられる。このように、幕末期の兵庫津は、幕府にとって大坂守衛上の重要な軍事的拠点であった。
 明治になると、新川、兵庫運河が建設された。また、川崎町~東川崎町は、加州(かしゅう)製鉄所、バルカン鉄工所など、工業都市的性格を帯びてくる。和田岬砲台跡地は、明治29年(1896年)和田倉庫株式会社に払い下げられた。30年には、周辺の地域とともに三菱合資会社が買収し、造船所を設置した。近世兵庫は、こうした軍事的側面と工業都市的側面を継承しながら、明治政府の富国強兵政策の中で、神戸港の発展を軸に拡大する「大神戸市」に包摂されていく。
兵庫の近世から近代への移行。それは「交易の拠点から産業の拠点」への転換であったと高久氏。当日の会場は、始めから終わりまで静かな熱気に満ちていた。講演後、時間になっても聴講者からの質疑が尽きず、近世から近代における兵庫津への関心の高さをうかがい知れた。

上記資料は国土交通省 神戸港湾事務所のプレス用資料を転載させて頂いたものである


◇第4回「みなとまちづくり生涯学習講座」の開催
シリーズ(海港都市『神戸』を語るPart2)

「神戸旧居留地の歴史」


   

 神戸港湾事務所は、NPO近畿みなとの達人、神戸大学大学院人文学研究科地域連携センター、神戸市みなと総局との共催で、1月20日、神戸築港資料館「ピアしっくす」にて、神戸歴史倶楽部副会長である八ヶ(やか)代(しろ)信行(のぶゆき)氏を講師に迎え、「みなとまちづくり生涯学習講座」を開催した。平成19年度下半期、「海港都市『神戸』を語る Part 2」の第4回は、「神戸旧居留地の歴史」と題して、幕末維新期における神戸旧居留地の歴史やそれに関わった人物について紹介した。当日はみぞれまじりの雨模様であったが、70名以上の聴講者が会場を訪れ、神戸港開港に寄与した人々の歴史について熱心に聴講した。

1858年に日米修好通商条約が締結され、函館・新潟・神奈川・長崎の開港、江戸・大坂の開市、そして兵庫の開港が決定した。当初の計画では、兵庫開港は文字通り兵庫津を対象とし、外国人居留地は市街地を避けて和田岬から妙法寺川尻に至る臨海の地約70,000㎡をあて、その沖合に防波堤を築いて内側を開港場にする予定だった。しかし、その計画は実現せず、神戸での開港、現在の旧居留地の位置に外国人は居留することとなる。そこには、網屋(あみや)吉(きち)兵衛(べえ)、柴田(しばた)剛中(たけなか)、そして生島四郎(いくしましろう)太夫(たゆう)の3人の働きがあった。
船底の腐食あるいは貝殻の附着などした木造船舶を修繕するための施設である船(ふな)蓼場(たでば)は、当時四国の讃岐にしかなかった。兵庫の商人であった網屋吉兵衛は、1854年に神戸村方役所に「新規船蓼場取建願書」を提出し私財で船蓼場を造った。その後、この船蓼場の地には海軍操練所が造られ、神戸港が開港した際には、みなとの施設として使用されている。また、網屋は将軍家茂に神戸での開港を進言している。
幕府の外国奉行支配組頭であった柴田剛中は、攘夷運動の激しくなる兵庫での外国人との衝突を避けるため、外国と開港・開市の期限延期の交渉を行ない、開港まで5年の猶予を得た。その猶予の間、当時神戸村、二茶屋、走水、脇浜にあった44軒もの酒造家を下灘組としてまとめていた豪商生島四郎太夫が、現在の旧居留地の位置で居留地造成工事を行なった。
そうした経緯の中で、兵庫のみなととして神戸港が開かれることとなった。当初は居留地も地均しされただけで、当時の様子を伝える横浜新報『もしほ草』でも、「兵庫はいまだみなとらしくもならす」と述べられている。居留地に建物のない始めのうちは、政府も居留地外での居住を許可した。彼らは、下火になりつつあった神戸での酒造家に住居していたと言われている。しかし、鉄道が大坂へ開通したことなどにより、神戸の貿易都市としての価値は上がり、126の区間に分かれていた居留地はすべて高値で競売された。永代貸・無期限貸・有期限貸の3種で競売されたが、実情はいずれも無期限での借地であり、結局1899年に居留地が日本に返還されても、外国人が商売は続けられており、居留地の借地権が解消され、神戸居留地の歴史が幕を閉じることとなるのは開港から70年以上経った1942年となる。

当日は居留地を切り口とした近代神戸開港の歴史に、聴講者の大きな関心が寄せられた。
また、地元選出の盛山正仁衆院議員も参加され、今後の神戸港発展のためにも近代神戸港開港のために尽力した神戸地元の方々の歴史を知りたいと述べられた。

上記資料は国土交通省 神戸港湾事務所のプレス用資料を転載させて頂いたものである


◇第5回「みなとまちづくり生涯学習講座」の開催
シリーズ(海港都市『神戸』を語るPart2)

「現代史の中の神戸」


   

 神戸港湾事務所は、NPO近畿みなとの達人、神戸大学大学院人文学研究科地域連携センター、神戸市みなと総局との共催で、2月17日、神戸築港資料館「ピアしっくす」にて、園田学園女子大学未来デザイン学部教授である田辺(たなべ)眞人(まこと)氏を講師に迎え、「みなとまちづくり生涯学習講座」を開催した。平成19年度下半期、「海港都市『神戸』を語る Part 2」の第5回は、「現代史の中の神戸」と題して、明治維新後から現代に至るまで、の「神戸市」の成り立ちについて紹介した。当日は時折降雪が見られるような天候であったが、70名以上の聴講者が会場を訪れ、合併により生まれ、成長を遂げてきた神戸市の歴史についての講演を熱心に聴講した。

古代日本においては、「国・郡・里」によって地域は区分されていたが、大政奉還・王政復古により政治制度の近代化が求められ、それとともに土地制度の見直しも行われた。明治1年9月、江戸幕府直轄地であった天領地の北浜・南浜・岡方からなる兵庫町、そして神戸村・二ツ茶屋村・走水村からなる神戸町が旧天領兵庫県となり、まず兵庫県が成立。そして、明治11年7月「郡区町村編成法」により、兵庫町、神戸町、そしてその両町の間、宇治川から旧湊川までの地域に位置していた坂本村の三つが合併、「神戸区」となる。当時の人口は35,000人程度だった。
明治21年4月17日には法律第一号「市制及び町村制」が交付され、大日本帝国憲法発布の年となった翌年明治22年2月2日、神戸は市制施行地として指定された。周辺の荒田村・葺合村と合併するとともに、神戸区は「神戸市」となった。人口は約10年前の神戸区成立時に比べると、約10万人増の135,000人程度となる。この頃、産業革命により日本の技術が大きく進歩したため、神戸市は明治29年に湊村・林田村・池田村を併合した後、湊川の付け替えや上水道整備、神戸港の1~4突堤を完成させるなど、大きな発展を遂げている。
さらに、大正9年に須磨町を、昭和4年には六甲村・西灘村・西郷町を合併し、昭和14年には、ついに神戸市の人口100万人を突破した。しかし、太平洋戦争の影響で、わずか6年後の昭和20年には38万人にまで落ち込んでいる。
戦災復興のため、昭和22年には西北神1町9カ村を合併し、垂水区を成立、また御影町・住吉村・魚崎町・本庄村・本山村も合併し、東灘区を成立させた。その後は昭和26年に道場村・八田村・大沢村、30年に長尾村を合併し、北神への拡大を進めた。また、さらなる西神への拡大を図るため、明石市との合併も計画されたが、昭和31年1月23日、明石市住民による投票の結果、否決されたため断念。神戸市の合併は、昭和33年の淡河村の編入で完了している。

当日は市町村合併の経緯から見た神戸発展の歴史に、聴講者の大きな関心が寄せられた。
また、地元選出の盛山正仁衆院議員も参加され、神戸市の誕生、成長には欠かせなかった合併にまつわる、神戸の興味深い歴史をもっと詳しく聞きたいと述べられた。

上記資料は国土交通省 神戸港湾事務所のプレス用資料を転載させて頂いたものである


◇第6回「みなとまちづくり生涯学習講座」の開催
シリーズ(海港都市『神戸』を語るPart2)

「コンテナの夜明け」


   

 神戸港湾事務所は、NPO近畿みなとの達人、神戸大学大学院人文学研究科地域連携センター、神戸市みなと総局との共催で、3月23日、神戸築港資料館「ピアしっくす」にて、豊田繁事務所所長である豊田(とよだ)繁(しげる)氏を講師に迎え、「みなとまちづくり生涯学習講座」を開催した。平成19年度下半期最終回となる「海港都市『神戸』を語る Part 2」の第6回は、「コンテナの夜明け」と題して、コンテナ港としての神戸の歴史、そして将来について紹介した。当日は春の到来を感じさせる暖かい日となり、70名以上の聴講者が会場を訪れ、コンテナ港神戸の目指すべき姿についての講演を熱心に聴講した。

コンテナの歴史は、今から40年ほど前、アメリカ合衆国で始まる。世界標準的規格として、高さ8フィート、幅8フィート、長さ10~40フィートというコンテナのサイズがISOで策定されると、世界中のみなとがコンテナ船を受け入れるターミナルとして、整備を開始した。
神戸港は1980年代に世界第4位の輸出入数量を誇るコンテナターミナルであったが、現在は輸出入総額では8兆円を越えて伸び続けているものの、取扱コンテナ数や貨物トン数といった輸送量の面から見ると1980年代後半からほぼ変わっておらず、阪神・淡路大震災以降、国際的な地位が相対的に低下している。
しかし、神戸港の低迷の原因は阪神・淡路大震災ではないと豊田氏は述べる。日本海運が華やかであった1980年代後半は、神戸港は「1st Port」であり「Last Port」、つまり、神戸港が主要コンテナ船航路のスタートでありゴールであった。当時の航路は、アジアで最も大きな船を受け入れられる神戸コンテナターミナルで小さな船に貨物を積み替え、他のアジアのみなとへ貨物を運ぶ仕組みになっていた。こうした主要コンテナ船から貨物を譲り受けるみなとをフィーダーポートと呼ぶが、かつてフィーダーポートであった中国、韓国を中心としたアジアのみなとが急速に港湾整備を進め、現在では神戸で貨物を積み替える必要がなくなってしまった。そうした変化が、主要コンテナ船航路からの神戸抜港、フィーダーポート化が進み、神戸港の低迷を招いているという。
これに対し豊田氏は、「神戸港周辺には尼崎、大阪などを中心とした阪神工業地帯があり、世界に誇るメーカーの工場が数多く立地している。これらの製品を神戸港から輸出し、神戸港の貨物量を確保することが必要不可欠である。そのためには、次世代市民に船や海、神戸港に親しみを持ってもらえるような教育を考えることが重要である」と述べ、講演を締めくくった。

当日は、コンテナ船の歴史を振り返る中で、豊田氏が記録した40年前のコンテナ船の映像が用いられ、かつてのコンテナ船の姿に聴講者の大きな関心が寄せられた。
また、地元選出の盛山正仁衆院議員も参加され、地元産業のブランド化など、コンテナ船を神戸港に呼ぶための仕掛けづくりをしていきたいと述べられた。

上記資料は国土交通省 神戸港湾事務所のプレス用資料を転載させて頂いたものである


◇第1回「みなとまちづくり生涯学習講座」の開催
シリーズ(『神戸みなとの文化』を語る)

「神戸はじめ物語」
-近代都市神戸のはじまりと開化風俗-

   

 NPO近畿みなとの達人では、近畿地方整備局神戸港湾事務所の後援を得、6月15日、神戸築港資料館「ピアしっくす」にて、神戸市立博物館学芸員田井玲子氏を講師に迎え「みなとまちづくり生涯学習講座」を開催した。平成20年度のテーマ「神戸みなとの文化」シリーズの第1回目として、『神戸はじめ物語』の講演が行われた。当日は約60名の聴講者が会場を訪れ、近代都市神戸のはじまりと開化風俗について熱心に聴講した。

 安政5(1858)年の日米修好通商条約などに起源をもち、日本が貿易を行うために条約を結んだ国の人々に対して、居住と営業を認めた区域が外国人居留地。外国人居留地は、外国貿易の拠点であり、欧米やアジアの文化を取り入れる窓口として日本の近代化に重要な役割を果たした。
神戸の外国人居留地は、慶応3年12月7日(1868年1月1日)の開港に伴って設けられ、明治32(1899)年7月17日に横浜などの居留地とともに返還され、神戸市に編入された。居留地を設計したのは、イギリス人土木技師J.W.ハート。管理・運営は外国人の自治で行われた。また、神戸は、幕府から明治政府へ政権が移る激動のさなかに開港したため、居留地の造成工事が完了していなかった。そこで、新政府は、居留地に隣接する地域に外国人の居住を認めた(雑居地)。これらの地域(現中央区の西部)を中心に、神戸では外国人との交流が日常的に繰り広げられていった。
それでは、居留地当時の神戸港はどのような状況だったのだろう。貿易統計から見ていくと、明治30年当時、神戸港と横浜港の2港が日本全体の輸出入額の約9割を占め、輸出では横浜港がおよそ6割を、輸入では神戸港が5割を占めている。横浜が生糸類や絹織物を盛んに輸出したのに対し、神戸では関西各地の紡績業の発展を背景に、原料の綿花や機械類の輸入が多かったからである。また、外国人の国籍別人数は、明治26年当時、神戸はおよそ1,800人で、横浜はその3倍弱の5,000人。内訳はどちらも中国人が最も多く6割~7割を占める。欧米系ではイギリス人が多く、ドイツ人やアメリカ人がこれに続く。
今年1月1日に開港140年を迎えた神戸には、外国人との交流を物語る史跡や、各分野にわたるユニークな“神戸はじめ物語”がいくつも残っている。史跡では、たとえば外国人居留地、山手の異人館、アメリカ領事館とメリケン波止場に由来する「メリケンパーク」、中華街・南京町、外国人墓地、六甲山の登山ルートの呼び名など。
神戸が“はじめ”の一部を紹介すれば、ラムネを本格的に製造・販売したイギリス人A.C.シムは薬剤師で、現在の(社)神戸レガッタ&アスレチッククラブを創設。長年居留地の消防隊長をつとめ、濃尾大震災の時には募金を現地へ届けるなど、ボランティアの草分けでもあった。また、博物館所蔵の明治18年製作の西洋風の椅子は、ポートアイランドに北欧の家具店がオープンする際に、代表的な神戸家具としてテレビで放映された。「はじめ物語」は一番という事実だけでなく、背後にある長い時間や地理的な広がりの中で捉えることが必要。
 最後に、博物館所蔵の古写真などを通して、神戸の街のようすとホテルのはじめ物語を紹介します。まず、開港から20年あまり経った頃の、諏訪山から眺めた神戸市街のようす。手前に広がるのは雑居地で、左奥には居留地の街並みが見える。山手に外国人が住宅を建ててくらしたのが、北野町や山本通の異人館街のはじまり。中国人は、まず西洋人と日本人との貿易の仲立ちや、西洋人の生活を支える使用人として神戸に移ってきた。しかし、日本と中国は条約を結んでいなかったので、中国人は居留地内に土地を借りて住むことができず、居留地と港に近い場所に住居や店舗を構えるようになる。これが、中華街・南京町の起こりである。
つぎに、イギリス人C.B.バーナードが明治11(1878)年に描いた居留地海岸通の風景。そこには、外国の商館や海運会社、銀行や領事館が建ち並び、プロムナード、車道と歩道、ガス灯などが設けられ、インフラが整備されていたことがわかる。この水彩画は、モノクロ写真ではわからない街の風景や人々の風俗を色鮮やかに伝えてくれる。
 開港後は神戸にやってくる外国人のためにホテルがつくられたが、早い時期に建てられ比較的長く続いたホテルとして、メリケン波止場の向かい、現在の神戸郵船ビルの地にあった「ヒョーゴ・ホテル」があげられる。ホテルは明治4年から明治33年頃まで続き、最初の経営者はイギリス人のグリーン夫人であった。夫人は長崎や横浜を経て来神し、ホテル経営に当たるが、明治14(1881)年に43才の若さで死去。神戸市立外国人墓地に次女と仕事の協力者と並んで葬られている。英文の記録に「夫人は豊満な肢体の美しい未亡人で、美しい二人の娘は港の花ともてはやされた」とあり、家庭的で暖かいもてなしが評判をよんだ。明治4(1871)年の英字新聞にヒョーゴ・ホテルの広告があり、「12時~午後7時まで女主人が食事を出してもてなします。ビリヤード施設があります。」とある。
 つぎに「オリエンタル・ホテル」について。ホテルとしての本格的な営業は、横浜から来神したフランス人の料理人ビゴーが、明治21(1888)年頃に居留地80番(現在の日本銀行神戸支店の向かい)で開業してから。のちに経営に携わるのがイギリス人A.H.グルーム。六甲山が別荘地として開かれる基礎をつくったことや、日本最初のゴルフクラブである「神戸ゴルフ倶楽部」を創設したことでよく知られている。明治40年に海岸通6番に建築した新館の設計は、「風見鶏の館」(重文)を手がけるドイツ人デ・ラランデ。
 「トア・ホテル」は、明治41(1908)年に現在の神戸外国倶楽部の地に開業。市街地にありながらリゾートホテルの趣をもつホテルであった。設計は、アメリカで建築を学び、香港上海銀行長崎支店(現資料館・重文)を手がけた下田菊太郎。トア・ロードは旧居留地から「トア・ホテル」に至る道であることから、トア・ロードの名で呼ばれるようになる。「トア」は、もともとは小高い山を意味する英語の「tor」。昭和初期のトアロード周辺には外国人向けの商店、教会や華僑の学校などがあり、エキゾチックな雰囲気が漂っていた。

上記資料は国土交通省 神戸港湾事務所のプレス用資料を転載させて頂いたものである


◇第2回「みなとまちづくり生涯学習講座」の開催
シリーズ(『神戸みなとの文化』を語る)

「神戸のお菓子物語」
-時代の変遷と地域性の中から-

   

 

上記資料は国土交通省 神戸港湾事務所のプレス用資料を転載させて頂いたものである