神戸みなと知育楽座

平成29年度 神戸みなと知育楽座 Part9

テーマ「神戸のみなと・まち・歴史をもっと知ろう!」
神戸開港150年記念~150年を彩る人々~
 

第1回講演概要

  日  時  平成29年4月8日(土) 午後2時~3時30分

  場  所  神戸海洋博物館 ホール

  講演題目  「国際貿易港・神戸の原点~清盛の「経の島」築造と日宋貿易~」

  講演者   神戸大学区名誉教授 高橋 昌明 講師

     参加者   92名

 講 演 概 要  (編集責任:NPO近畿みなとの達人)

 1 はじめに~清盛の人柄
 清盛は新しがりやのハイカラ人間で、華と先見性のある人だった。先見性の現れとして、 海外貿易に積極的にとりくんだことがあげられる。また、竜宮城の趣を持った厳島神社を造営した。おかげでNHKの「平清盛」では、広島は観光客で繁盛した。
 今日は清盛と兵庫の津で行われた日中貿易と大輪田の泊と経の島の話をする。840年前に清盛がやりかけた平安末期の大事業である。

 2 平安時代の日中交易 平安時代は。794年から1185年までの約400年であるが、九世紀の末、往復の危険と最早中国から学ぶものがないとして、遣唐使派遣が停止された。それ以降の貴族政権は、内に閉じこもる権力で、中国と国交を持とうとしなかった。それでも天皇や貴族たちは、中国の美術品・書籍・漢方薬、その他ブランド品が欲しかったので、ときおり九州博多に来航して来る中国の民間貿易商人から、優先的に買い上げようとした。特に漢方薬は貴重である。クロテンの毛皮のようなものもあり、ブランド品だから夏でも着るという漫画のようなこともあった。ただ、外国人にたいする恐れと忌避感から、中国船は博多に足止めで、関門海峡を越えて瀬戸内海に入ることは認められなかった。
 
 3 清盛の福原居住
 この状況を変えたのが、清盛で承安2年(1172年)から始まる中国(南宋王朝)との外交折衝である。中国はこの頃宋の時代に北方の金が強く宋は南に下がって南宋王朝となった。外交交渉は、福原(現神戸市兵庫区平野)の清盛別荘でおこなわれた(右図の1,2,3)。彼は政界の最高実力者だったが、1168年頭を丸めて形ばかりの出家をし、朝廷対策を在京の息子たちや親平家の有力貴族にまかせ、仁安4年(1169年)以来この別荘に住んで京都の政治を遠隔操縦していた。政権は後白河上皇と清盛の連合政権であった。

 4 交渉の結果中国との交易が始まる
 この交渉は中国皇帝が了解したもので、日本側も院政(王家の家長で退位した天皇が政治を左右する政治の形)をしいていた王家(天皇家)の家長である後白河法皇が一枚加わる形で進められている。守旧派貴族たちは反発するが、それは無視された。翌々年話がまとまったらしい。以後、中国の貿易船が直接都に近い難波の海に直接入るようになった。

 5 承安の外交の交渉相手
 折衝の詳しい中身は、残念ながら確かな史料が残っていないため、よく分からない。が、中国側の責任者は、明州の長官(知州)と沿海制置使を兼ねていた趙伯圭で、南宋第二代皇帝孝宗の実兄という超大物である。明州はのちの寧波で、中国の最重要海港の一つ。遣隋使・遣唐使以来、日本からも多くの船舶が向かっている。沿海制置使は南宋の時代、浙江・福建などの沿岸地方に設けられた制度で、沿海の防禦、航路の安全確保、海賊取締を職務とし、浙江では明州に役所が置かれていた。

 6 中国側の関心
 承安2年(1172年)9月、最初日本にもたらされた清盛宛外交文書は、沿海制置使司を差出人としていた。同一人の兼務とはいえ、知州ではなく沿海制置使としてのそれだった点に、日本との貿易を本格化するにあたっては、貿易船の安全が条件、とくに日本近海・瀬戸内海の島嶼海域における海賊の除去が不可欠、という中国側の判断があったと読むべきである。

 7 平家は海賊平定に実績
 翌年5月清盛の返書と贈り物(後白河・清盛の)が宋皇帝のもとにもたらされた時、孝宗は枢密院に命じ、沿海制置司に、日本へ往復した綱首と水軍の使臣(使節)の労をねぎらわせている。平家は清盛の祖父正盛以来瀬戸内海の海賊平定に大きな実績をもつ。瀬戸内航路の整備とは、施設の問題というより、人災、すなわち海賊への対策を講ずることである。
 NHKのドラマでは、「今度のドラマは海が中心だから当時の船を造って欲しい」と頼んで当時の船を復元してもらった。(左図宋船の想像図) 

 8 大輪田の泊の改修
  この交渉は、当地の歴史に新しい展開をもたらすきっかけになった。海運の本格化にそなえ、承安3年(1173年)から清盛が独力 で大輪田の泊の改修を始めたからである。大輪田の泊は古代以来 重要な港で、福原の南3.5キロの地にあった。当時の我が国の船は丸木舟の上に構造物を造ったもので水深が浅くても支障なかった。それまでの大輪田泊はかての須佐入江(砂浜)のあたりで、その中心は現在の清盛塚、真光寺辺にあったと考えられる。とすれば、尖底で喫水の深い大型の宋船は
水深の浅いこの水域には入れない。したがって宋船は沖に停泊して小舟で陸揚げをする状態であった。しかも、宋船は、10月頃に季節風に乗ってやって来て、翌5月頃にまた季節風に乗って帰って行く。この間停泊をしておかねばならない。これでは貿易をやっていけないことになり,港の改修が必要になって来た。経の島はそれとは一応区別される、より水深のある現来迎寺のあたりであろう(前ページ図、)。これが後の兵庫津、現在の神戸港の一部である。

 9 人工島の築造
 工事の中心は、風波を避けるための船の碇泊施設(船溜り)となる人工島の築造だった。実際、神戸港の南端、和田岬は近代以前には海の難所といわれ、東風・南風が吹くと兵庫津に避難場所がないため、遭難があとをたたなかったといわれる。季節風を利用して日中間を往来する中国船が、長期に港にとどまるためには、人口島は欠かせない施設である。

 10 難工事
  人工島の築造を担当した工事責任者は、平家の有力御家人、平家水軍の中心人物の一人である粟田成良(しげよし)(阿波の民部)で、吉野川下流南岸の沖積地に位置する桜庭(現徳島市)を本拠とする。彼は都落ち後に安徳天皇の屋島の御所も造営した。だが築島は沿岸から沖に突き出す構造で当時の技術力では困難が多く、石を海中に沈めて築いた石垣が、風でたちまち崩れ去ったという。
 人工島というものの実際は堤防のようなもので、石垣を造り真ん中に土を入れる構造のようであった。

 11 経の島のいわれ
 『平家物語』という古典作品には多くの異本があるが、そのもっとも古い形を残している延慶本というテキストには、「石の面に一切経を書いて、船に入て幾らと云ふ事もなく沈め」る工法がとられたとある。つまり老朽船や破損船に石を積みこみ、目的の場所で船ごと沈めて人工島の基盤を造った。それらの石の表面には、一切のお経の文句が書きこまれていたという。人工島が経島と呼ばれるのは、このためである。

 12 輸入品
 以後、大輪田泊が舶来品の直接入手地となる。輸入品の一つは宋銭であり、その大量輸入によって経済が混乱(銭の病の流行)したという。医薬品については治承4年(1180年)10月10日、権中納言藤原忠親が、前月16日より「輪田の泊」に停泊中の宋船に「侍男」を使わし薬種を交易させた。
日本では奈良から平安のはじめ自前で銭を造っていたが、11世紀になると銭が流通しなくなり、米、絹などが銭の代わりに使われ、また、手形のようなものも流通していた。銭が再び流通し出すのが清盛の時代である。

 13 輸出品
 一方、輸出品は硫黄と木材である。硫黄は対西夏戦用の黒色火薬の原料となる。当時中国では、産業の躍進によって自然の収奪が進み、森林がどんどん消滅、薪炭から石炭へのエネルギー転換が進行していた。木材は貴重になりつつあった。また中国では一般民衆まで遺骸を納める棺材に金を費やすことをいとわなかったから、実際にはその需要が大きかったらしい。
 孝宗皇帝は日本に特別の関心をもっていたらしく、日本産の松材をもって一堂を建造し、これに「翠寒堂」と名付けて愛用した。木材は銭の代わりにバラストの役割を併せもった帰り荷でもあり一石二鳥であった。

 14 平家単独政権の成立
 安元2年(1177年)、平家と後白河の暗闘が顕在化し、翌年6月鹿ヶ谷(ししがたに)事件や治承3年(1179年)11月の清盛のクーデタにより。平家が国家権力を全面的に掌握した。これにより後白河・平家連合政権から平家単独政権へと移った。
 この折清盛は数千の兵と急遽上洛、院政を停止し、法王を幽閉した。平家政権は平治の乱後と言われるが実際はこの時からである。

 15 『太平御覧』の献上
 クーデタ1ヵ月後の12月16日 清盛は皇太子言仁(ときひと)(後白河の子高倉天皇と清盛の娘徳子の間の皇子、高倉天皇は後白河と清盛の義理の妹との間の子)を京都西八条第に迎え、摺本(木版印刷本)『太平御覧』を贈る。これ以前の2月13日、本朝未到来の『太平御覧』260帖を内裏に献上する予定で、清盛自身は筆写したものを手元に置いておくとの情報あった。12月の献本のことを日記に記した東宮大夫藤原忠親は、「後朱雀院儲君(皇位を継承すべき皇子)の時(約150年前)、万寿の比(1025年)御堂(藤原道長)より御送物有り、摺本文選・文集と云々、つぶさに経頼卿記(『左経記』)に見ゆ、けだし彼の例を追はるる也」と記す。

 16 言仁への清盛の期待
 『太平御覧』は、全体を55部門に分け、あらゆる事類を網羅しようとした一大類書で、いわば百科事典のようなものであった。清盛は、道長が贈った『文選』や『白氏文集』は伝統になずむ過去の天皇のもので、新時代の天皇には『太平御覧』がより相応しい、と考えていたのではないか。献本は、ただの舶来珍本趣味ではなく、すべてをすべる天皇、東アジアに開けた天皇に育って欲しい、との言仁への願いをこめたものではないかと思われる。

 17 国家による大輪田泊の改修
 治承4年2月20日、清盛「入道前太政大臣家」の名で国家権力の力を借りての大輪田泊の「石椋(いしくら、石を積み上げて作った防波堤)」改修を要求(「殊に私力を励まし新嶋(経の島)を築くと雖も、波勢常に嶮しく石椋全からず、自ずから国々の功力を凝らすにあらざれば、いかでか連々の営築を致すことを得んや」)。翌日21日に高倉天皇が譲位、孫言仁を天皇に即位させ(安德天皇)ている。高倉の最後の日に間に合うことを狙った駆け込み申請・承認と言える。これまでの整備はいわば清盛のポケットマネーであったが、今後は国家の権力を使い、国の力を借りないと修理できないとしたものである。

 18 福原遷都への伏線
 清盛は治承4年(1180年)、6月から福原周辺に都を遷し始める。大輪田泊の国家による改修申請は、福原遷都のわずか100日前のことであり、常識的に考えても、安徳に引き継がれるべき国家的事業が、安徳のための未来の新都構想と無関係であるはずがない。新都の事前インフラ整備、すでに完成していた大輪田泊の補修および第二期工事とでもいうべきものだったのだろう。遷都先は当初は現在の兵庫・長田であったがうまく進まず、結局清盛の別荘のあった場所の周辺となった。平安京は794年から1180年まで約400年間続いた。その都を遷すのであるから驚天動地のできごとであった。

 19 海を介して東アジアに開かれた都
 福原京の建設は、同年8月から始まる源平内乱によって中途断念され、11月には京都に帰っている。 いわば遷都は断念されたわけである、が、断念されなければ、内陸部の平安京とは異なり、海を介して東アジアに開かれた清新な都になったことだろう。清盛は海に開かれた都を造ろうとした。その出発点が、この神戸の地であったといえる。
 
 20 人柱伝説
 なお、清盛の築港にあたって松王丸を人柱を立てたという話は、室町後期から戦国時代にかけて流行した幸若舞という芸能の語り台本などに見えている。日本に人柱の習慣があったか否か議論の分かれるところだが、14世紀後半に成立した『帝王編年記』という書物では、「一人を埋めて海神を祭り、石面に一切経を書写す」とある。ほぼ同じ頃成立した『平家物語』では、難工事なので人柱を立てるという公卿たちの意見にたいし、清盛が「それは罪業なり」と反対して、石に一切経を書いて沈めることになったと記している。
 ふつう「勝った」政権は「負けた」政権を「悪」と位置づける。「悪」だから滅ぼされたのだ、というわけである。鎌倉期にできた説話集では、清盛が人を大切にしたと伝えている。その一例には、当時寝るとき布団ではなく衣を重ねてかぶって寒さをしのいだが、清盛は自分の身の回りの世話をする小姓たちを、寒かろうと自分の足元に寝かせ、朝になり、自身が起きる時でも、小姓を起こさぬように、そっと起きだし十分寝させてやったという。これらから考えると、人柱より人柱の代わりに石に一切経を刻んだという方が妥当と考えられる。



第2回講演概要

     日  時   平成29年6月3日(土) 午後2時~3時30分

    場  所   神戸海洋博物館 ホール

   講演題目  「工楽松右衛門~近世海運発展の最大の功労者~」

   講演者   神戸女子大学文学部教授 今井 修平 講師

   参加者   110名


 講 演 概 要  (編集責任 NPO法人近畿みなとの達人)

1 はじめに
 講演者は、高砂市史の編纂に16年間携わり市史は全7巻の充実したものが出来上がった。高砂出身の工楽松右衛門は、全国的に活躍し、多くの業績があるが功績のわりに知られていない。講演者は神戸に住むが、大阪出身で、大坂に愛着があったものの研究対象を大坂から播磨へ移している。
 松右衛門は、松右衛門帆で末代まで伝わっているが、港湾の建設、修築など大きな土木工事に貢献、港湾工事の先駆者でもある。魅力的な人物であり、現在の我々もその功績を知るべきであり、その活動を大勢に知ってもらいたいと思っている。
 
2 神戸の開港  
 幕府が外国に窓口を開き外国貿易をする港を定めた。長崎と神奈川は初めに開港することとなってい たが、神奈川は狭いということから横浜となった。兵庫は、有数の港町で諸外国も要望していたが、京都いため朝廷の了解が得られず、徳川慶喜の尽力で慶應3年12月7日(西暦1968年1月1日)開港することになった。直後に戊辰戦争も始まったため、実質的な開港は明治2年に持ち越され、兵庫がすでに市街地があったため、隣接する神戸村に外国人居留地を造り、神戸港を開くことに至った。
 江戸時代は、260年間平和な時代で、経済文化の発展をもたらし、評価されるべき時代であるが、薩長政権の明治政府によるマイナスキャンペーンがあり十分評価されていない。兵庫の港は武士ではなく商工業者の町人が町を運営しており、全国的にも言えることであるが、江戸時代の民度の高さが明治における発展につながっている。兵庫の港があったから神戸の発展につながったわけである。

3 工楽松右衛門の時代
 工楽松右衛門は、江戸時代中頃の人で、1743~1812年に生き、高砂神社に銅像が建てられている。銅像は大正4年に松右衛門を顕彰するため建立されたものであるが身体壮健で長寿であったことをうかがわせる。銅像の右手の指さす方角は箱館でないかと思われる。
 松右衛門の生きた時代は、江戸時代中期で、8代将軍吉宗の享保の改革の後半から田沼意次の執政期、老中松平定信の寛政の改革を経て11代将軍家斉の治世の前半で、文化、文政の時代に亡くなっている。この時代は商品流通・貨幣経済が発展し社会が繁栄し、文化も興隆していた華やかな時代である。
 松右衛門は、通説では漁師宮本松右衛門の子として生まれるとされる が、一説には裕福な廻船問屋の子として生まれるとも言われる。松右衛門の生まれる2年ほど前に姫路藩全域に及ぶ寛延の百姓一揆が起こり、打ち壊し被害にあった者の中に高砂の富裕町人として宮本長四郎の名があり同族と見られる。20歳(一説に15歳)の時、兵庫津の廻船問屋御影屋平兵衛に奉公し操船を学習し、北前船の沖船頭となり、のち独立して御影屋松右衛門として活躍した。

4 当時の高砂
 当時の高砂は姫路藩(酒井家15万石)の外港として、人口8,000人の都市であった。普通の村は2~300人から500人程度であり、高砂はかなり大きな町であった。ちなみに姫路が2万人、兵庫が2万人、大坂が35万人、京都40万人、江戸は100万人であった。同時代のロンドン、パリは6~70万人であるから江戸、京、大坂は世界史的にも大都市であった。
 高砂は加古川河口の都市で、瀬戸内交通の結節点となっていた。加古川を通じて高瀬舟で年貢米が運ばれ、高砂で瀬戸内海の廻船に積み替えた。姫路藩の年貢米は、収穫の半分を大坂へ海上輸送で送っている。高砂には姫路藩の役人が15,6人駐在し、百間蔵もあり年貢米の半分は高砂に貯蔵された。加古川流域に所領を持つ他の大名も同じように高砂に蔵を設けた。 
   
5 当時の兵庫津
 兵庫津は、古代・中世の港湾都市で、織田政権期の天正9年(1581年)池田恒興による兵庫城築城により城下町として整備された。豊臣政権期には片桐且元が代官として支配し、江戸時代には尼崎藩領として陣屋がおかれた。明和6年(1769年)から幕府の直轄地とされ、天下の台所大坂の経済的従属下におかれたが、北風荘右衛門の活躍により、買積船の拠点として繁栄を取り戻した。
 兵庫城は、明治になって最初の兵庫県庁が置かれたが、城郭の痕跡は全く消滅していた。神戸市中央卸売市場に石碑が建つのみであった。2~4年前、神戸市が卸売市場跡地をイオンに売却した時、海抜0mより下に石垣が出てきた。更に発掘を進めると本格的な城の石垣が出てきた。海抜0mで、海に面した水城となれば城からそのまま船で出て行ける。織田信長や豊臣秀吉の時代、海辺の城が流行り、日本海に面した丹後宮津城や琵琶湖に面した近江長浜城などがその例である。瀬戸内に面した讃岐高松城は現在でも水門が残っている。
 江戸時代、一国一城令によって兵庫城は廃城となり、本丸跡には尼崎藩の陣屋が置かれ、兵庫の城下町は尼崎藩領の港町として再生した。さらに明和6年以降は幕府の直轄地となって、大坂町奉行所から派遣される与力が数人駐在するだけの、町人たちが自治的に運営する純粋の港町になった。

6 近世の海運
 諸大名は参勤交代によって一年の内半分は江戸に住み、残りは自国で暮らす。そのため人や物資の行き来が多くなるが、 陸路より海路の方が効率的なので、海上輸送の割合が大きくなってきた。
 戦国時代にポルトガル人がやって来て、日本の造船技術は高まり、羅針盤を利用して、東南アジアにも船で進出するようになった。しかし、江戸時代になり、幕府は寛永12年(1635年)日本人・日本船海外渡航禁止し、オランダ人と中国人のみ長崎に来ることを許した。また、500石積以上の大船建造を禁止した。寛永15年(1638年)には、商船に限り500石以上の大船建造を許すが、外洋航海可能な3本マストの構造船は禁止され、一本マストの沿岸航海専用の和船に限定した。江戸時代を通じて海上輸送は大きな帆柱1本の弁財船(べざいぶね)による沿岸航行のみとなるが、年貢米の大量輸送のためと江戸・大坂間の物資大量輸送の必要から、やがて1000石積、1500石積の大型船(菱垣廻船・樽廻船・北前船)が発達、江戸時代の高度な市場経済を実現した。近江商人の弁財船の絵馬があるが、弁財船は、沿岸のみを天候、陸の地形を見ながら航行した。弁財船には、7.8人から10人の乗組員が搭乗した。
 江戸の郊外には100万人の消費人口を支えるだけの商品生産能力はなく、大坂から輸送される大量の消費物資に依存していた。大坂や京都から江戸へ送られる高級な消費物資を「下りもの」と称したのに対し、江戸周辺地域で産出される商品は「くだらないもの」と言われた。大坂は、瀬戸内海航路の終着点でもあり、西日本・北日本の年貢米や特産品は大坂へ集まった。西回り航路、瀬戸内海を通り北国・蝦夷地へ向かう北前船が活躍した。大坂より港湾機能が優れている兵庫は北前船の発着地として盛んになった。 
 また、兵庫、西宮が幕府の直轄地になり、大坂商人の従属下におかれ一時、沈滞するが、北風荘右衛門の尽力もあって、単なる運送ではなく、船頭が自己資金と自己判断で商品を仕入れて積み込む買積船の活動を中心に兵庫が再び発展した。工楽松右衛門が廻船問屋、御影屋に奉公して頭角を現し、やがて独立して自ら廻船問屋として活動するのはこの頃のことである。

7 松右衛門の活動
 松右衛門の活動は地方にも資料が多く残っている。前述のように、40歳ころ独立し、兵庫の御影屋松右衛門として活躍し、500石船、1000石船で蝦夷地の松前から日本海沿岸、瀬戸内、江戸にかけて、米・木材・木綿・海産物の買い積み、回漕を行った。
 さらに、高砂、鞆、函館の港湾改修、択捉有萌港、港湾河口の浚渫などを請け負った。 幕府から「工楽」の苗字を賜るが、これはロシア対策で抜擢された択捉島有萌港築造の手柄によるものであった。
 福山藩水野家、小倉藩小笠原家、相良藩田沼家などから港湾修築の依頼を受け、姫路藩酒井家から扶持を受け、高砂に拠点を置き高砂に移り住んだ。70歳で没するがその後2代目、3代目も高砂の港湾修築に従事、2代目は、高砂で新田開発も行った。

8 松右衛門の事績とエピソード
1) 松右衛門帆の開発
 松右衛門の業績で一番知られているのは、松右衛門帆の開発である。動力が発明されるまでは大型の船は帆船であり、中世までは、竹の繊維を編んだ帆を使っていた。江戸時代木綿の生産が盛んになったが、それまでは絹、麻が主で高価であった。木綿の生産地は、摂津、播磨、河内、三河で、木綿布は普通は分厚いものではない。播州は木綿の産地で、姫路藩は木綿生産で藩財政を立て直した。木綿を藩の専売制とし、江戸の商人と話を付け、大坂の商人の中間マージンを抜いた。また、藩札を発行し貨幣代りとしたが藩札の信用度は高かった。
 松右衛門は、40歳のころ木綿を使用した帆の開発を考え、特別の太い木綿糸を作り。さらにそれを2本撚り合わせ、織機も特別に工夫してできた帆布は風受けが良く丈夫でしなやかであった。製造法を独占せず人にも教えたところ、あっという間に普及し、日本中どこの船も使用するようになった。この帆は昭和の中頃まで使われている。風受けが良いいと、船の速度が上がり、航行の日数が減って、物資の輸送量が上がる。物流が豊かになり、世の中が豊かになったが、帆布改革がこれを助けたことになる。松右衛門の最初の工房は兵庫の佐比江。のち明石の二見浦で本格的な生産を開始した。その技術の公開と普及に尽力。航行速度と安全が飛躍的に向上し、近世海運の飛躍的発展(商品輸送量の増大)をもたらした。

2)港湾の修築
 松右衛門のもう一つの功績は港湾の修築である。大蔵永常は、文政5年(1822年)刊行した『農具便利論』で詳細に港湾修築に使った船などを紹介している。
 松右衛門は、函館港の改修において功績をあげ、松前藩士に取り立てを言われたが、これを断り代わりに箱館の「たで場」(ドック)作りを願い認められる。また、幕府からの依頼と荘右衛門の推挙により択捉島有萌港を開発し、この功績から幕府から工樂の姓を与えられる。
 この後故郷の高砂港の整備を行ったが、(右図:高砂港修築)この時箱館で使用した工事用の船を活用した。改修工事は「日本未曾有」と賞せられた。大蔵永常は工事に使用した船を克明にスケッチしている。以下にその一部を紹介する。
 その一つは、「石積船」(次頁左図)で、ありまた、船に空間を設けて石を運ぶ「石釣船」(次頁右図)で大石の海上運搬を行っている。海上でのくい打ち船も開発している。(次頁図) ロープを引き上げて港をさらう轆轤船も開発している。その他さまざまな船を開発し使用しているが、「農具便利論」にその多くが描かれている。
 『農具便利論』で、大蔵永常は、次のように書いている。













  「農具にあらざれども、新田開発の時、又ハ風波の荒き所へ波戸を築き、或いハ海辺の堤など
  築くに用いれバ、農家の一助ともなれバ、此書のすゑに図を模写し出す也」
 67歳で小倉港、次いで鞆の浦の修築で技術者派遣し、今も当時の姿が残っている。42歳の時、出羽秋田から大材(木口4,5尺、末2尺)を運搬するために、筏に組み、帆柱と櫓や舵を付けて搬漕したが、向かい風の折は、舵を回してヨットのように斜めに進むようになるが、普通の船ではできるが大きな筏では困難なので舵を補強して実行した。司馬遼太郎は、『菜の花の沖』で、高田屋嘉兵衛が やったこととして描いているが、実はその前に工楽がやっていたことをうまく小説に使っている。
 もっとも司馬は、松右衛門を嘉兵衛の師匠としてたいへん魅力的な人物に描いている。
 また、若い時に欅の大木の輸送をたのまれ、船に窓を開けて材木を通し海上を運搬した。淀川では、高瀬舟を2隻使い運んだと言われる。

9 『農具便利論』に描かれた松右衛門
 大蔵永常が『農具便利論』に書いている松右衛門の話の一部を紹介する。
  松右衛門が漁師の子供であったことなどを次のように書いている。 
   「工楽松右衛門といへる翁ハ元播州高砂浦の漁師にてありけるが、いとけなきより魚漁(ぎょりょう) をこととし昼夜海に浮かび釣りする糸の手ごたへにて其魚の品類(しな)を掌中に分かつ事を自然に得て、季節に随い其類の集まる所をしり、往々道を知りて網するに、更に中(あたら)ずといふ事なく、万に才智ある事若かりしより妙を得たり」 
 兵庫に出て御影屋の船の乗るようになったことは、次のように書いている。
   「弐十歳の頃より摂津の国兵庫に至り、御影屋某が商い船を司り、北海を乗る事あまたゝびにして利を得る事すくなからず」
 また、発明の大切さについて次のように述べたと書いている。
   「四十歳なる頃主家を退き自己の業(わざ)を営む。此人常にいへらく、人として天下に益ならん事を斗(はから)ず、碌々として一生を過ごさんハ禽獣にもおとるべし、凡そ其利を窮めるに、などか発明せざらん事あるべきやハ、…」
  前述の大材を運ぶ時の工夫を次のように書いている。
   「四十二歳なる年、羽州秋田より大材を筏に組北海を乗始、其後も度々なりしが、中にも本口四五   尺余、末弐尺余なる帆柱を棕櫚(しゅろ)縄をもてたてぬきに結付、棚を組、垣だつを拵へ櫓の間をしつらい、舳(とも)に舵をたて、艫(へさき)に碇を置、帆柱三所に建、中帆・矢帆をもふけ、筏の底平かなれバ、真艫(まとも)の時ハ三ツの帆にて心よく走れども…」
  このほか松右衛門に関して『農具便利論』は多くのことを書き記しているが、ご参照願いたい。

10 おわりに
  前述のように、松右衛門は、「人として天下の益ならん事を計らず碌碌として一 生を過ごさんハ禽獣  にも劣るべし、およそ其の利を窮るに、などか発明せざらん事のあるべきやハ」と生涯天下のために発 明開発をすることを旨とし、「其志す所無欲にして皆後人のためなる事のみ生涯心をもちいたりき」と言 っている。
  大蔵永常が『農具便利論』を刊行する10年前に松右衛門は亡くなっているが。永常は2代目松右衛 門に出来たばかりの書を送って、「初版で間違いがあろうが、過ちがあれば修正したい、」との書状が今 に残っている。
  松右衛門が海上物流に功績があり松右衛門帆の発明者であるだけでなく、港湾修築に大きな貢献があ ったことを多くの人に知っていただきたいことを重ねて申し上げたい。


 

第3回講演概要

  日  時   平成29年7月1日(土) 午後2時~3時30分

    場  所   神戸海洋博物館 ホール

   講演題目  「A.H.グルームとA.C.シム~スポーツを

  講演者   高木應光 
           NPO神戸外国人居留地研究会理事

  参加者   99名

  
講 演 概 要  (編集責任 NPO法人近畿みなとの達人)

はじめに
 関西におけるスポーツは神戸から広がって行った。明治初めに来日し、神戸からスポーツを広めたA.H.グルームとA.C.シムについて話をする。

第Ⅰ部 A.H.グルーム
1 出  生
 グルームはロンドン生まれであるが、両親はスコットランドの出身といわれる。多くの英国人が神戸に来ているが、スコットランド人が多い。グルームは1846年9月22日生まれで、ロンドンのシーモア・ストリート15が出生地である。
 右の写真は、グルームの幼少期、家族とともに撮ったもので、矢印がグルームである。
 
2 マルボロウ・カレッジに学ぶ
 グルームはパブリックスクールであるマルボロウ・カレッジで学んだ。この学校はイートンやラグビー校(1500~1600年創立)に比べると、新しい学校だが1842年の創立で175年もの歴史を有する。卒業生には、モダン・デザイナーのW.モリス、前イギリス首相キャメロン、英・次皇太子妃キャサリンなどがいる。

3 グラバー商会 神戸へ
 グルームの兄は東インド会社シンガポール支店勤務であった。ところが、インドでセポイの反乱が発生し、1858年に会社が解散、香港へ渡った。兄は長崎のグラバーと共同出資で商社を設立し、ジャーディン・マセソンの代理店も兼ねた。グラバー商会は上海、横浜にも支店をもうけ、弟グルームは神戸支店づくりを、トロチックは大阪支店を設けた。このトロチックは伊藤博文ら、いわゆる「長州ファイブ」の密航を手助けした人物。彼らはロンドン大学で学び、それぞれの道を歩んだ。その縁で白洲次郎もロンドン大学で学んだといわれる。
 グルームは神戸開港1868年に来神、明治2年の写真が残っている。当初は御影東明・高島平助邸の離れを借り、その後元町3丁目の「善照寺」(左:写真)へ移り、明治2年ごろ、住職の紹介で大阪・玉造の宮崎 直と結婚した。

4 独 立 
 兄から「グラバー商会が間もなく倒産」と聞いたグルームはグラバー商会を辞し、共同出資でモーリャン・ハイマン商会を設立、お茶の輸出を担当する。お茶の選定は得意技で、産地をよく知り、天性この仕事に優れていたようだ。モーリャン・ハイマン商会は、居留地1番、108番に事務所があり119・124番は倉庫だった。
 また、オリエンタル・ホテルを色々な事情から引き受けることになる。ホテルは当初80番、後6番へ移る。ホテルは料理で有名で、英国の作家キプリングがその料理を褒めている。当初、西洋野菜は缶詰を使用したが、グルメだったグルームは自家栽培を試した。成功したのは、ジャガイモ、玉ネギ、かぶら、ニンジン、アスパラなど。失敗したのは、セロリ、レタス、カリフラワー等。また、養鶏、養豚はホテルの残飯を利用して飼育した。

5 六甲山の開発                      (写真:グルームの別荘) 
六甲山に初めて別荘を造ったのはグルームである。      やがて、多くの外国人が別荘を建て、明治末~大正初には50~60戸の別荘が立った。グルームの別荘はそれらの一番西側に在った。
入口には、表札は無く自然石に「101番」とのみ刻まれていた。グルームの別荘は「101」と呼ばれたが、それは「グルームの商館が居留地101番であったため」と言われているが、その事実はなく根拠不明である。
 一方、グルームは日本初のゴルフ場を六甲山に造って
いる。創設年については、1903年とする書籍が多数であるが、事実は次の通りである。グルームは、自身と友人とで楽しむためのプライベイトなゴルフ場(4ホール)を1901年に造った。その後、このゴルフ場は人気となり、1903年クラブに組織替えする(会員が資金を出し合って運営)とともに9ホールに増設した。これが今日まで続く神戸ゴルフ倶楽部(KGC)である。開場式には服部一三知事*が主賓として出席、開場式のメインイベント=処女ドライブ(最初の1打)=は知事が打った。だがゴルフが初めての服部は、ドライバーでパターのように打ったため、わずかしか飛ばなかった。本来なら処女ドライブボールをキャディが拾い、記念品と交換するのだが、拾ったのは知事のすぐ横に居たグルームだった。この記念ボールは、今もクラブハウスに飾られている。後に18ホールに増設している。
*彼はハーンを日本に呼んだ人物で、ハーンも神戸と縁が深い。
       (写真:六甲山の神戸ゴルフ倶楽部)
 神戸ゴルフ倶楽部の各ホールには、ニックネームが付けられている。例えば、#1Dumpie(ここでホールインワンすれば、グルーム愛飲のスコッチウイスキー「ダンピー」を1ダースプレゼント)、#6 Rokkosan(全コースの真ん中に位置した)、#15Groom’s Putt(グルームの口癖「ここで決着をつけるぜ!」)、#18 Doechh & Dorius(「一杯やろう」)などがある。キャディは六甲山・南麓の小学生高学年(小学生キャディ:右写真)。六甲山は冬寒く、ゴルフができないので11月初旬に閉場する。その直前にキャディ大会を実施、「主客転倒」キャディがプレイし、メンバーがキャディを務めることになっていた。賞品も多数で、舶来の菓子や飲み物(ジンジャエール等)、美味しいお弁当も出た。キャディは大変可愛がられ、彼らのためにもクラブは7本に制限され、入れ替え用のゴルフバッグも準備されていた。けれども、グルームはたった1本でプレイした。彼らの中からプロが生れたのも不思議ではない。ところが、関東のクラブでは両者の関係は疎遠だったという。それはグルームの人柄のよるものだろう。また、クラブハウスの設えが質素なのも、グルームの性格を表しているのだろう。
 冬でもゴルフがしたいW.ロビンソンが、1904年現,魚崎中学校辺りに横屋ゴルフ・アソシエーションを開場する。これが日本で2番目のゴルフ場。1920年に創設された鳴尾ゴルフ倶楽部は、横屋GAの流れを引くクラブ。
 グルームの趣味は狩猟だったが、横浜で生まれた5男が聾唖者で、妻に諭され狩猟を止めた。ノコギリとハサミを持って山上付近を散歩、表示板を造り、銃をスコップに持ち替え、山道整備もした。
 六甲山では別荘やゴルフ場の設置に伴い、借地料、キャディの雇用、芝の管理、別荘門番(買出しの雇人)、ハゲ山への植林、山路整備、駕籠屋も、また歩く人には「腰押し」の仕事も生まれ、地域経済に貢献した。地元の村々では「六甲山の開祖グルーム」への感謝を示すため1911年記念碑を建立。しかし、対英米関係が徐々に悪化、1940年に破壊されてしまった。その壊された石碑から石臼を造ったという話もある。現在、元の場所に新たな記念碑が建っている。
 六甲山ホテルと記念碑台の中間辺りに白髭神社があるが、この神社の由来はグルームが狐を助けてやったことによるものである。 

6 おわりに
 グルームは日本びいきで、その例として次のようなことがあったと言われている。
 ・髪(日本髪):妻・直が新しい髪型にするとグチャクチャにしてしまった。
 ・靴はダメ,草履・下駄:末娘が靴を履きたがったところ、勉強が良くできたら買うと約束。学級委員長
    に選ばれた時、渋々靴を買ってくれたが、長い編上げブーツでとても履けるような靴でなかった。
 ・男尊女卑:15人もの子供の中で、男は世界に飛び出せ。女はどこにも行くな、英語も学ぶなと厳命。
 ・墓:キリスト教式でなく、修法ケ原の外国人墓地でもない。鵯越の共同墓地・宮崎家(浄土宗)の墓
    に眠っている。
 
第Ⅱ部 A.C.シム
1 出 生:スコットランドからロンドンへ
 A.C.シムは1840年8月28日スコットランド・アバルーで生れ、間もなくアバディーンへ移る。グラバーもアバディーンの出身。1862年22歳で王立ロンドン病院に3級薬剤師として採用され、1865年薬局経営の資格も取得する。やがて上海に雄飛、南京路の輸入商社「メディカル・ホール」に勤務。上海のレ・ウェリン商会が神戸支店を開設、1870年に神戸のレ・ウェリン商会支配人、そして1874年商権を買取り居留地18番A.Cシム商会のオーナーとなった。

2.時代背景
 英国では産業革命が進み、資格が問われる時代となった。いわゆる「師・家」がステータスとなり、高収入をもたらした。法律家、建築家、医師、薬剤師など専門職・資格者は、中産階級の仲間入りを果たす。また「アスレティシズム」の時代でもあった。ジェントルマンの育成にスポーツが利用され、やがてスポーツができることがステータスであり、「スポーツマン」=「ジェントルマン」と見なされた。上海のジェントルマンだったA.Cシムは、競走、ボート、ハンマー投げ等で活躍するスポーツマンだった。
 東アジア英国経済圏は、ほぼスコットランド人脈で構成され、例えば1852年首相 となったG.ゴードン=アバディーン公爵もスコットランドの人、多くの同郷人を要職に着けた。銀行の父シャンド,灯台のブラントン,政商グラバー,造船キルビー,日立造船ハンター,総合商社ジャーディン・マセソン,建築家ダイヤー,ローマ字ヘボン,新聞ブラック等スコットランド系の人々が日本の近代化に尽力。東アジアの5港の都市では、ビジネス情報とともにスポーツの情報も数日で伝わっていた。
 シムは1870年6月に来神、そのわずか3ケ月後にKR&ACを設立している。このクラブは、現,日本のスポーツクラブとは異なり、会員自からが資金を出し合い設備を造り、クラブの運営も行うものだった。神戸に来て間もない「どこの馬の骨」とも分からない人物=シムの呼びかけに応え、多くの人々が資金を出したのは、なぜだろうか? それはシムの上海でのジェントルマン=スポーツマンとしての名声が聞こえていたためである。やがて、シムはスポーツマン=ジェントルマンとしての信頼を基に、様々な要職に付きリーダーとなる。

3.神戸欧米人社会のリーダー
1)市民自治のリーダー
 他の居留地は途中で自治権を放棄したが、神戸は約30年間にわたって自治を貫き通した。
・立法:居留地会議(副議長A.C.シム:住民代表)
     各国領事+住民代表3名+兵庫県知事からなる意思決定機関
 ・行政:行事局、警察署、消防隊:隊長A.C.シム、公共施設・設備の維持管理、競売の財源利用
(・司法:領事裁判権)不平等条約に基づき裁判権と関税自主権を有した。
      *不平等条約は1899年7月17日の居留地返還日まで続いた。

2)ビジネス界のリーダー
 シムは薬剤師であり、ビジネス界のリーダーとして活躍した。薬剤師として医薬品、工業薬品、化粧品、香水、石鹸などを扱い、また「関西のラムネの祖」でもある。1870年6月27日に初のラムネ広告を出している。ラムネはコレラ対策に効果ありといわれ、また輸入コレラ薬も評判となり両者の相乗効果で大きな利益を上げた。ラムネの販売では、ルートセールス(フェアーな商法)や委託販売方式を確立した。
   
3)スポーツのリーダー:
 スポーツクラブの創設は欧米でも1870~80年頃であり、KR&ACの創設は日本の先駆けといえる。『KR&AC100年史』には、「A.C.シムは、英・米・普ら領事の支持を取付ける。日本官庁との交渉も始め・・・」と記されている。KR&ACは、1870年9月20日に発起人会議を行い、9月23日正式に創立された。目的は、「スポーツと会員の親睦および社会的活動」としている。クラブハウス(Gymnasium theater)は、600人も収容可能で、演劇、音楽会、映画会、パーティなども開催した。



  

 
 



 

 
              (左:KR&ACと右:神戸倶楽部)
初期の主な活動
  1870・12 クリスマス・レガッタ、
  1871・2  サッカー
  1871・4  陸上競技会(初の競技会:生田神社東の競馬場にて実施)、やがて東遊園地にて 
  1871・10 横浜遠征:インターポート・マッチ第1回
  1872・4 摩耶山往復走(マラソン)≒14.5km:1’24”30 …→ 2013「シム記念大会」復活
  1875・5 レガッタ・インターポート(神戸・長崎・上海)
  1876春  レガッタ・インターポート(横浜・神戸・上海)
  1876冬  ラグビー VS. 英艦モデスト号
などが記録されている。
 KR&ACはボートハウスを敏馬浜に移したが、やがて海が汚れてきたのでプールを建設。大阪・茨木中学水泳部員(日本初,学校プールを造る)らを招き、新泳法・クロールを紹介。やがて、早大へ進んだ高石勝男は1928年アムステルダム五輪クロール100mで銅メダルを獲得した。
                                           (写真:敏馬のプール)
日本人チームは、積極的にKR&ACに胸を借りスポーツ技術等の習得に努めた。
・サッカー:御影師範、神戸一中(戦前・神戸勢:  
全国優勝11/18)など
・ラグビー:箙(J.エブラハム)による:三高、 
京大、慶應、東大などが来神
・野球:神戸一中(泉谷祐勝ら:早大→天狗倶楽
部→天皇のチーム、池田多助:一中校長)
・ゴルフ:横浜とのインターポート・ゴルフ、ク
ラブ対抗戦⇔鳴尾ゴルフ倶楽部など                                  
・ボート:関学、神戸商大、御影師範、神戸一中、
大阪中之島や瀬田(VS.京大)へ遠征も
・テニス:KLTCとLLT&CC(現,YITC)のインターポート・テニス→ 熊谷一弥、清水善三らも
*試合後は、アフターマッチ・ファンクション(試合後のパーティを全種目で実施していた)。
・六甲登山:外国人たちは盛んに六甲山に登ったが、それは「日本アルプス」へ登るためのトレーニング
でもあった。神戸徒歩会には外国人も入会、「ロックガーデン」は日本人による命名。次第に子供や婦人たちも登るようになる。また、外国人の早朝散歩に倣って「毎日登山」が盛んになり、中には2万回以上の人もいる。これは神戸の特徴ある健康法の一つでもある。
・マラソンでは、神戸のスポーツの歴史・伝統を基に「シム記念・摩耶登山マラソン」が企画され、4年
  前の2013年に復活した。これこそ「スポーツの街・神戸」に相応しい大会である。

4)ボランティアのリーダー
 KR&ACの目的は、「スポーツ」+「社会的活動」である。ボランティア活動でもA.C.シムは、大きな功績を残している。就寝前に自宅前の火見櫓へ登り、常に出動準備をしてベッドに入ったという。6mの断層が生じた濃尾地震(1891年M8.4)では、芝居を行い義捐金を集め岐阜におもむいた。27,000人の死者を出した三陸沖大津波(1896年)では、A.C.シムが内外の居留地代表として釜石へ赴いた。岩手県の広報紙にA.C.シムの名前が見える。

おわりに
 A.C.シムは1900年11月28日に亡くなり、外国人墓地に埋葬された。墓石には“A True Man.”と記されている。英字紙・神戸クロニクルのR.ヤングは「…シェークスピアを引用し・・・This was a Man.」と述べている。翌年に建立されたシムの顕彰碑は、英語と和文(漢文)の両語で書かれた日本で唯一のもの。除幕式では知事・服部一三が追悼の言葉を述べ、最後に楽団が「オールド・ラング・サインAuld Lang Syne(蛍の光)」(シムの故郷・スコットランド民謡)を演奏し散会した。






第4回講演概要


    日   時   平成29年8月26日(土) 午後2時~3時30分

    場   所   神戸海洋博物館 ホール

    講演題目  「日本の観察者~L・ハーンとW・モラエス~」

    講演者   神戸外国人居留地研究会会長
                     神木 哲男 講師

    参加者   105名



講 演 概 要 (講演者未チェック 編集責任;NPO法人近畿みなとの達人)

はじめに
 1854年ペリーが来航し、日米和親条約を締結、それに従い1858年日米修好通商条約が発効し、函館、長崎、横浜が開港された。この後西洋系外国人が来日し始めた。1868年1月に、神戸開港・大阪開市、外国人との交流が始まった。
 明治の初めの来日外国人は、3つのタイプに分けられる。
 第1は、いわゆるお雇い外国人と呼ばれる明治政府の招聘により来日した外国人で、1874年(明治7 年)には、イギリス人269人(53.5%)、フランス人108人(21.5%)、アメリカ人47人(9.3%)、ドイツ人32人(6.4%)、その他47人(9.3%)、合計 503人に上っている。働いた部署は、工部省228人(45.3%)、文部省77人(15.3%)、海軍省66人(13.1%)、その他132人(26.3%)と記録されている。
 第2は、商人・企業家で、貿易活動や造船などの工業生産活動に従事した、Merchant Adventurer である。リスクは大きいものの、うまく行くと一儲けが出来ることで、神戸グルームや、シム、大阪で造船に携わったハンターなどは、神戸を拠点とした。 
 第3は、日本の観察者として、日本の文化・芸術の紹介・批判者であり、L.ハーン、W.モラエスは
神戸と密接な関係を持ちつつ世界に発信をした。本日はこの二人について述べる。

第Ⅰ部 ラフカディオ・ハーン Lafcadio Heam =小泉 八雲
1 生い立ちと生涯のまとめ
 昔の人はハーンを「怪談」でなじんだが、最近の人はハーンの名を知らない者が多い。後半で、ハーンを知るために「生き神様」を紹介する。以下年を追ってハーンの人生を辿って見る。
・1850年:6月27日 ギリシャ駐在イギリス連隊のアイルランド軍医チャールズ・ブッシュ・ハーンと現地の娘ローザ・カシマチの間に生まれる。2歳のとき、ダブリンの父の生家ハーン家に身を寄せる。4歳のとき、父が母を一方的に離婚し、母と生別、父の母方の大叔母に引き取られる。13歳の時、ダラム近郊のカトリック系の寄宿舎に入学。
 13歳の時、遊びの最中に左目を事故で失明、大叔母が破産、学校を退学、この頃はロンドンのスラム街をさまよう。
   (右:ハーン写真:左目のけがのためハーンの写真は右横顔ばかりと言われている。)
・1869年、19歳のとき一人アメリカに渡る。 給仕、印刷屋、校正係などの職に就く。
・1873年、23歳のとき 「シンシナティー・インクワイラー」・「シンシナティー・コマーシャル」紙の記者として活躍、両誌とも業界紙である。
・1878年28歳、黒人混血女性マティー・フォリーとの関係を清算するため新聞社を退社し、ニューオーリーンズに赴く。当時の新聞「タイムズ・デモクラット」の文芸部長として健筆を振う。
   〈ハーンは若い頃から文才があった。余談だがハーンもモラエスも幾人も女性を愛した=後述=〉
・1890年(明治23年)40歳 出版社(ハーバー社)とカナダ太平洋鉄道会社の注文で、日本の旅行記を書くため、挿絵画家と共にバンクーバーより横浜に到着(4月)。挿絵画家の方が報酬が高いことを知り、出版社との契約を破棄、東京帝国大学言語学教授B.H.チェンバレン(お雇い外国人の一人)の紹介で松江の島根県尋常中学校・師範学校の英語の教師の職に就くため松江に赴く(8月)。1週20時間、英語を教える、月給100円、契約書に「ラフカヂオ・ヘルン」と署名、以後ヘルンと呼ばれる。
   〈松江には、1年3月滞在。=案外短期間である〉
・1891年(明治24年)41歳 旧松江藩士・小泉湊次女セツ(当時23歳)と、結婚〈右写真セツ)。チェンバレンの紹介で熊本第五高等中学校(旧制第五高等学校)の英語教師として熊本に赴く。(11月)
   〈3年間熊本に勤務するが、五高の先生とも仲が悪く旨く行かず。〉
・1892年(明治25年)42歳 セツと共に博多ー神戸ー京都ー隠岐へ旅行、  神戸では西洋人に交わり、居留地で買い物を楽しむ。(7~9月)
・1893年(明治26年)43歳 長男レオポルド・カズオ・ハーン生まれる。(11  月17日)
・1894年(明治27年)44歳 「コーべ・クロニクル」記者として赴任するた  め神戸に〈熊本を離れ)向かう。(10月)
・1895年(明治28年)45歳 コーべ・クロニクルを退社(1月) 下山手通6丁目26番地に転居。(7月)
同年、日本国籍を取るため小泉セツが分家する。(8月)中山手通7丁目番外16に移転。(12月下旬)
・1896年(明治29年)46歳 八雲と改名し、小泉セツに入夫する。(2月)
  〈日本国籍取得については後述〉
東京帝国大学文学部英文学教授の職に就くため神戸を去り、東京に向かう。(9月)
  〈神戸には約2年間の滞在〉
・1903年(明治36年) 53歳 大学より解雇通知が届く。(1月)学生による留任運動が起こる。帝国大学教授を辞職。(3月)
   〈夏目漱石が留学から帰ってきたので、ポストを開けるために解雇されたと言われる。〉
・1904年(明治37年)54歳 早稲田大学で英文学の講義を担当(4月)、心臓発作により死亡。(9月26日)

2 神戸時代の生活
 ハーンの神戸時代は短かったがその間の活躍は次の通りである。
 1894年(明治27年)10月10日前後、ハーン家は神戸に到着、ホテル住まいを始める。下山手通4丁目7番地に住居を定め、セツの養父母、親戚の男、女中2人、ハーン親子、合計8人の生活がはじまる。10月11日にはじめて社説を書き、以後ほぼ毎日論説を執筆、月給100円
   〈論説の例を後半で紹介する〉
12月中頃、目の炎症を起こし執筆不能となる 1ヶ月ほど眼に湿布を当てて静養につとめる。
   〈神戸に対しては、嫌悪を示し、開港地神戸の雰囲気になじめなくなり、交際を極度に避けるようになる〉 
1895年(明治28年)クロニクル社を退社する。チェンバレンはハーンに第二高等学校(仙台)、鹿児島の中学校に教職の口があることを知らせるが、両方を断り、チェンバレンとの間で確執が生じる。日常生活では、日清戦争で凱旋する兵士をセツ、カズオとともに出迎えの行列に加わったり、カズオと共に神戸港に停泊中の軍艦の見物に出かける。 山手通6丁目26番地に転居。
   〈家の貸借については、兵庫県が間に入り、賃貸契約書も作成。家族写真を神戸市田写真館でとって おり残っている。〉

3 日本国籍獲得
 神戸でやったことのもう一つのことが、国籍の獲得である。
1895年(明治28年)7月、日本国籍を取る決意をする。 「ヘルン氏、其内縁ノ妻君ノ婿養子トナリテ日本人トナラントスルノ手続中ナルガ戸籍取扱上ノ事ニツキ当地市役所(松江市)ニ問合中」
小泉セツ分家。(8月) カズオの出生届を提出。(1895年9月)  帰化問題についてセツの真意を問うため役人が来る。   1896年(明治29年)1月、ハーンが小泉八雲として入夫婚姻(帰化)が認められる。2月、私生児カズオを子と認め、摘出子となる。
   (右:国籍取得の関係書類)
   〈国籍を取れば財産が残せるため、イギリス国籍では相続できないからセツ、カズオのための行ったものである。届出は松江で行う。ハーンは神戸で家族のことも含め多くの仕事をした。小泉八雲は二重国籍という問題が提起されたが、イギリスは関知せず日本側の手続きだけで完了と言う。〉

4 神戸を去る
 1895年(明治28年)12月、チェンバレン、文科大学長外山正一の手紙を同封して、ウッド博士の後任として英文学教授の職に就くことを勧める。ハーン、承諾の手紙を書く。契約承認 契約期間:1896年9月10日~1899年7月31日。
1896年(明治29年)9月8日 セツと共に上京、神戸は僅か1年3ヶ月であった。 

5 生神様の話
 ここから、ハーンの作品を朗読して紹介する。まず始めは「生神様」で、詳しくは、平川祐弘編『日本の心』講談社学術文庫収)を参照願いたい。以下作品の要約である。
 話としては津波が来るのを察知した主人公が、自分の畑に火をかけて村人が駆けつけることにより人的な被害を免れたという話である。元の話は和歌山県で起こったことであるが、場所を東北(三陸)に変えている。これは、ハーンの居る間に三陸地方で大津波があり、2万人を超える犠牲者を出したことから作品の場所を変えている。この作品の中で、ハーンは日本人の自らを犠牲にする尊い行為に共感を覚えたのであろうと思われる。
 この話は、子供向きに書き換えられて小学校の国語の教科書に使われていたが、最近はあまり知られなくなった。国定教科書の教材募集でこの「稲村の火」が選ばれ昭和12年から22年に教科書に載った。
はじめにこの話を作ったのはハーンで、和歌山広村の醤油屋浜口御陵の話で、この後堤防を築き、以後の 津波被害を食い止めたことが知られている。 

6 手  紙
 西田千太郎宛てに出した書簡2通であるが、この中で、ハーンは、「神戸はよいところであるが自分には不愉快である」とし、その原因が日本婦人の音を立てない歩きや、やわらかい声で話すのに比べて、外国婦人を見たり、声を聴いたりすることが神経に触ると言っている。また、婦人方の服装、生活などを日本人と比べて「いつも優しい、礼儀正しい、麗しい、清い質素な日本生活の方がどんなにか住みよいでしょう」と述べている。ハーンの神戸嫌いはそこに住む外国人と相入れなかったことにあったようだ。
   〈ハーンは、日本の女性を賛美している。居留地の外国の女性はそうではなかった。〉

7 神戸クロニクルの社説
 神戸クロニクルの社説に、神戸に上陸したばかりの外国人に対して車屋が良く行うあちらこちらを引き回して、時間をかけて高い料金を要求することを紹介し、「外国語がわからなかったと答える車屋の立場は難攻不落と言ってよい」と結んでいる。居留地で起こったことをこのように書いている。
 日清戦争に勝利した日本に対しては、古くから住む外国人は「今後日本は生意気になり、仲良く付き合うことが出来なくなるだろう」と言っているが、これに対してハーンは「日本は自らを強くするために訓練を受けており、その強さを得たのちは費用のかさむ外国人教師を無駄と考えただけであり、いつまでも外国支配に屈し続けることは馬鹿げている」としている。ハーンは、日本の勢力の伸張を述べているが、日本はもらい物をしたのでなく対価を払い必要なものを得ているとしている。このように、ハーンは日本を高く評価し、一方イギリスの中国に対するやり方を批判している。当時の情勢を的確に発信している。

第Ⅱ部 ヴィンセスラウ・ジョゼ・デ・ソーザ・モラエス Wenceslau Jose de Sousa moraes
1 生い立ちと生涯のまとめ
・1854年5月30日 ポルトガルの首都リスボンで中流家庭の長男として生まれる。父は高級官吏、母は軍人の娘、姉(エミリア)と妹(フランシスカ)がいる。
・1872年 18歳 この頃から、リスボンの新聞に詩の投稿を始める。〈彼も文才があった。〉
・1875年 21歳 海軍兵学校を卒業、アフリカのモザンビークに海軍少尉として赴任。
・1888年 34歳 2月 海軍輸送船「インディアナ号」でポルトガルの植民地マカオに赴任。〈澳門:中国関東省南部と接する地域、1887年にポルトガルの植民地になる〉
・1889年 34歳 8月 海軍巡視艦で日本に初めて来航。以後1897年まで毎年日本に来航。
・1890年 36歳 (マカオで)イギリス人と中国人の間に生まれた亜珍(アチャン17歳)と同棲。
・1891年 37歳 マカオ政庁港務副司令官に、職務の傍らアジアでの見聞録を本国の新聞に発表。亜珍との間に二人の息子(ジョゼ・デ・ソーサ・モラエス、ジョアンデ・ソーサ・モラエス)をもうける。
・1893年 39歳 6月、マカオ政庁の命令で大砲購入のため来日、長崎・神戸を経て横浜着。 商談は成立せず。以後同じ目的で来日。  (上写真:東遊園地のモラエス像)
・1897年 43歳 日本滞在中に、マカオ港港務司令官にタロネ少佐が任命されたのを機に(自らは中佐)、マカオに帰任せず、(辞める) 神戸で領事就任の運動を行う。 特命全権公使として来日したガリャルド・マカオ州知事らとともに、7月京都御所で天皇・皇后に拝謁。
・1898年(明治31年)44歳 神戸大阪領事臨時運営を命じられる。(12月)
・1899年(明治32年) 45歳 神戸大阪ポルトガル領事となる。(9月)、神戸市海岸通に住む。
・1900年(明治33年) 46歳 11月、大阪松島で芸者をしていた徳島出身の福本ヨネ(当時25歳)と同棲、加納町に住む。
・1901年(明治34年)47歳 初夏、ヨネを伴って讃岐・金比羅宮へ参詣し、徳島にも立ち寄る。この頃から日本に関する通信や随想をポルトガルの新聞「コメルシオ・ド・ポルト」に寄稿。
・1909年(明治42年) 55歳 ヨネを伴って盂蘭盆に徳島を訪れる。神戸市庁舎落成式で各領事を代表して祝辞を述べる。
・1910年(明治43年) 56歳 ポルトガル10月革命によって王制が崩壊、共和国となるがその後の政情不安で、神戸領事館の維持が困難になる。
・1912年(大正1年)58歳 6月20日、ヨネ、病気で倒れる。ヨネの姉・斎藤ユキが看病のため徳島より来神。8月20日、ヨネ死亡、38歳。9月、神戸・大阪総領事となり、イタリア領事も兼任。身の回りの世話をしてもらうため出雲出身の永原デンを雇う。政情不安のため領事館の維持経費の本国からの送金途絶。
・1913年(大正2年)59歳 永原デンの出身地出雲への移住を決心するが、突然それを中止し、身の回りの整理をし、一切の公務を辞任し、徳島に移住、伊賀町に住む。ヨネの姉ユキの娘・斎藤コハル(当時20歳)と同棲。著述に専念。 (写真右:コハル、左:ヨネ)
1914年(大正3年)60歳 3月第一次世界大戦勃発。ドイツのスパイなどと噂され、市民から投石。4月、コハル出産。生児はその夜死亡。
・1915年(大正4年)61歳 コハル、2度目の出産(。1918年10月、男児死亡)
・1916年(大正5年)62歳 8月12日、コハル喀血。10月2日死亡。(23歳)。以後孤独な生活を送る。  
・1919年(大正8年)65歳 亜珍と長男ジョゼが来日、徳島を訪れる。8月12日 自筆証書遺言書2通を認める。
・1926年(大正15年)72歳 「日本夜話」、「日本精神」ポルトガルで出版。
・1927年(昭和2年)73歳 「大阪朝日」、「徳島毎日」、「徳島日日」新聞などの記者が訪問、一斉に訪問記を掲載。亜珍が香港から来徳。
・1929年(昭和4年) 75歳 4月、神戸領事が訪問、神戸に引き取って世話することを申し出るが、拒否。6月30日夜、酒によって水を飲もうとして誤って自宅の土間から転落、死亡。翌日、隣家の住人によって発見。7月3日、告別式。
   (左写真:晩年のモラエス)

2 布引妙見堂尼僧との交流
 モラエスは随想『徳島の盆踊り』(岡村多希子訳(講談社学術文庫)で、布引の滝の近くにある阿弥陀堂の老いた尼僧について述べている。ヨーロッパでは見かけないこの尼僧にここに来た外国人への対応と周辺の情景を細かく記している。
この尼僧とは、交流が深かったようで、ポルトガル人の友人(神戸の領事)にあてた徳島からの手紙で、自身の依頼により友人がその尼僧にあて僅かなお供え物をしてくれたことに対する礼を述べている。また、再度そこを尋ねてほしい依頼を書いた手紙の追伸で「(依頼の件は)もう必要ありません。たった今葉書が届いて、尼僧が死んだことを知らされました」と綴っている。
 徳島に行ってからも神戸のことを思っていることがしのばれる。
 妙見堂の案内(右写真〉が明治45年に作られておりモラエスよりも古い建立である。今は堂をしのぶものは、何も残っていない。
 平等院の国宝の扉絵に布引の滝が描かれているが、12世紀に妙見堂があったことになる。このあたりはまだ確認していない。この妙見堂がどこにあったかは定かでないが、ロープウエイの脚の工事で取り壊されたかも分からず、講演者は探してみたいと思っている。

3.日本精神についての論調
 モラエスは日本人を没個性的と言っているが、それを否定している訳では無く、その中にあって周りに柔軟に対応していることを評価している。「現時点で何よりも心を打つのは、何世紀にもわたる自分の文明を本質的に全く異なる別の文明と交換するに等しい、しっかり違う新しい事物への適応にみせる日本人の驚くべき柔軟性である。」
 日本人は、個人は自分では考えないで組織で考える。その集団が人々の意見を形成しているとして、団結、共同に対する日本人の考えも評価している。このように没個性を鋭く見抜いている。また子供の教育に関しては、「西洋が厳格であり成人後にそれが役立っているが、日本では学校では、友愛あふれるところとなり、身分、貴賎に差別されておらず、子供の行動は自由であるが、年令の上がるに従い規制が高まりその時になって惑わされている。」など鋭い指摘をしている。

第Ⅲ部 おわりに
 小泉セツの英語ノート=ハーンが一語一語口にしたことを書き写し、日本語を添えたもの=に、次の文章がある。「ユオ・アーラ・デ・スエテーシタ・オメン・エン・デ・ホーラ・ワラーダ」英語に直すと、 
 「You are the sweetest little woman in the world」であり、八雲が、セツを愛していたことが良く分かる。〈この言葉だけはセツさんは日本語で書いていない。セツには悪妻説があるがこれは誤りと恩ぅ。〉
モラエスは、『おヨネとコハル』(岡村友希子訳 渓流社)に彼の愛した二人について次のように述べている。
  『その全存在が希望、空想、幻想で踊っていた人生の花盛りー23歳の時―にこの世から身罷ったあわれなコハル、あわれな徳島女!悲しい運命のめぐりあわせによって、四年前に徳島のもう一人の女であるおヨネの苦闘と死に立ち会ったように、私はコハルの苦悶と死に立ち会うことになった。起伏の多い人生行路のそれぞれ別の時期に、私は彼女たち二人にこの広大な日本にあって、私が、悩み苦しむときに、やさしい仕草、慰めのことば、共感や情愛のこもった気持ちの一つも期待することができるものと日頃考えていた唯一の人たちであった。』
 神戸には、ハーンとモラエスは同時期に居り、会ったこともあろうかと思われるが、確証はない。




第5回講演概要
    日   時   平成29年10月7日(土) 午後2時~3時30分

    場   所   神戸海洋博物館 ホール

    講演題目  「海を駆ける~実業家松方幸次郎と
         その時代~」

    講演者   神戸新聞特別編集委員兼論説顧問
          林 芳樹 講師

    参加者   135名



講 演 概 要 (編集責任 NPO法人近畿みなとの達人)
 
はじめに
 明治から大正、昭和にかけ、松方幸次郎は31年間、川崎造船所(現川崎重工)の初代社長を務めた。同時に膨大な絵画を収集した松方コレクションでも知られている。
しかし長らく、失敗した経営者とみられ、コレクションにしても玉石混交との批評があった。いわば歴史の表から消えてしまった人物だったが、それを再評価する試みを紙面で展開した。
 コレクションに託したものはなんだったのか。なぜ膨大な絵画を買ったのか。まだまだ分からないことは多いが、浮かんできたことを話したい。時代の雰囲気、神戸の風土についても触れたい。
 
1 火輪の海
 昭和から平成に変わる折、神戸新聞で3人のチームを組み、松方幸次郎と松方コレクションを追うことになった。タイトルは「火輪の海」。神戸新聞創刊90年、神戸市制100年に当たり、松方コレクション展の計画が持ち上がったのが背景だ。
しかし松方幸次郎の資料は川崎重工の社内にも少なかった。そこで取材班の1人は留学したアメリカと川崎造船所の取材、もう1人は実業家や国会議員として過ごした東京、そして講演者は故郷の鹿児島、コレクションの舞台になった欧州や川崎造船所を掘り起こす取材に当たった。
 取材を重ねるうちに面白くなり、新聞の連載は当初の案から膨らみ、結局連載は270回にのぼった。連載後は本にもなり、神戸市の中央図書館にも5冊くらい入っている。
 はじめに松方のことを述べる。松方は恰幅の良い紳士だった。これは死ぬまで変わらなかった(右写真松方幸次郎)。豪放磊落で、31年間の川崎における仕事ぶりは超ワンマンであった。当時の会社幹部の書き残したものを読めば、そのワンマンぶりがよく分かった。
第一次世界大戦が勃発時、鉄と船が足らなくなるとみて「鉄を買え、それも分からぬように黙って買え」と部下に命じ、その前に「靴を買え、1ダースだ!わしは鉄を買いに行くので靴が磨り減るのだ」。
結果として第一次大戦は川崎が大企業へと上っていく契機となった。
 彼は合わせて6年間、ロンドンに社長室を移した。当地の新聞には「完璧な英語を話す企業家」と紹介されており、紳士として知られていたようである。後にギャラリーで絵画を買う時は、ステッキ(小さい時に怪我をして杖を突いていた)で端から端まで指して、「ここからここまで買う」と言ったというエピソードがあるが、本当のようである。したがって、松方が行くところに画商が集まった。「ゴーギャンが見たい」と言えばヨーロッパ中のゴーギャンが集まったとまで言われる。
 忘れたくないのは、川崎で労働争議が起き、取材中の記者が警察に検挙された時、松方が警察に怒鳴り込んだ時の言葉だ。「ジャーナリズムの弾圧は文化の破壊である」。大正時代にここまで言えるのは、リベラリストとして素晴らしいと思う。
その一方で、住んでいたロンドンのアパートへ行った社員は社長の部屋がすぐ分かったそうだ。なぜなら、ベランダに褌が干してあり、それが目印となったからである。
 そんな松方をドラマにできないかという話が、かってあった。誰が主人公を演じるだろうかと注目したが、その時のドラマ化は実現しなかった。しかし、読売TVが開局50周年記念ドラマとして取り上げた。主役は勝野洋さん、夫人を水野真紀さんが演じている。

2 松方幸次郎はどんな人物か 
 さて、松方とはどんな人であったかをもう少し深く探りたい。私たちが取材した時、松方一族は400人以上もいた。その家系図の一部(右図)を見る。真ん中が明治の元老の一人松方正義であり、幸次郎は3男である。長男の巌は華族の銀行と言われる十五銀行の頭取であり、この銀行は川崎のメインバンクだった。後にさくら銀行となっている。次男は、外交官、4男も銀行家であるが、タイガースの初代オーナーとして野球の殿堂入りしている。5男はガス会社社長、8男は日活社長、そして13男は共同通信の専務を務めたが、山男としても有名だった。日本が初めてエレベストへの登頂に成功したときの隊長だった。
 親族の中には白洲次郎もいる、フィギュアのスター八木沼純子さんの名もある。一族のパーティに参加したこともあるが、とても開けっぴろげで親しめた。純子さんが輝いていたのが印象深い。系図にはライシャワー大使の夫人春子さんの名もある。大変な家系だと分かる。
 松方正義には15男、7女がいた。ある時明治天皇が松方家を訪問し、「松方は何人子供がいるか?」と問われたところ、「後ほど調べて報告します」といった話も伝えられている。
家系図を見て思うのはまず、この一族に生まれた幸次郎が日本を引っ張っていく人物として育つのもうなずけるということ。もう一つは薩摩閥である。俗に「薩摩の芋づる」といわれるように、薩摩の人脈は根強い。鹿児島では西郷人気がずぬけていて、松方正義の人気はない。大久保の懐刀で、西郷に相反する立場にあったこともあるだろう。ただし薩摩閥はびっしりと張っていた。
 その1人が川崎造船所の創業者・川崎正蔵だ。東京の築地で小さな造船所を始め、やがて神戸の官営造船所の払い下げを受け、これが川崎造船所となる。その事業を継ぐ人物として指名されたのが同郷・松方正義の息子幸次郎だった。幸次郎のアメリカ留学費用は川崎が出しており、縁は深い。そして1896年(明治29年)、30歳で川崎造船所の社長となった。
 取材をした時、幸次郎の一家では末娘の為子さんのみが存命で、宮崎の学校で校長をするシスターであった。取材のお願いをしても最初は固辞された。「父は神戸に迷惑をかけた」というのが断りの理由であった。何とか取材には応じていただき、普段の暮らし向きなどを聞いた。現在の神港学園東側にあった屋敷は広大だったが、雨漏りがあったそうだ。小さい頃から「英語の勉強をしろ」と言われた。絵画は家には1点もなく、ある日突然、英国から多額の請求書が来て、夫人が怒ったという。
 さて当時の造船所は、造船というものの、船造りがメーンではなく修理が主だった。陸に船を上げて修理していたが、これでは大きな船をこなせない。そこで幸次郎は6年がかりで長さ150mの大きな乾ドックを造った。難工事で、さすがの松方も辞表を懐にしていたそうだ。
しかしこのドックが完成すると、松方は一気に多角化の道を走る。艦船、潜水艦、商船、汽車、航空機、自動車にまたがる巨大企業を目指した。当時の川崎の株券にはこの6つの絵が描かれていた。
 ただし、コレクションでかかわった画商の言葉が企業家としての松方のすべてを語っていた。それは「自信が強すぎる。進むを知って止まるを知らず」というものだ。絵画購入だけでなく、経営全般がそうだった。それを失敗の要因に挙げられるが、いずれも後に大きく育っており、種をいっぱいまいたことは評価すべきだろう。

 3 ロンドンでの松方幸次郎
 さて、コレクションの話に入る前に、司馬遼太郎の「坂の上の雲」について触れたい。「坂の上の雲」の主人公は秋山兄弟、それに正岡子規で、松方も同時代の人である。本の中に、坂の上に白い雲が輝いているなら、それを見つめて坂を上るというくだりがあるが、それは松方の姿そのままだ。
では松方はロンドンに滞在していた計6年間で、どんな白い雲を坂の上に見たのだろう。
当時のロンドンは造船の最先端にいた。神戸外大・光永教授の話によれば、世界シェアの80から60%を占める造船大国だった。松方は造船の現場でリベットの機械打ちを見て刺激される。当時の日本は人力で打ち込んでいたからだ。
効率を旨とする様子を見て、松方はどのようにしたら日本が追いつけるかを考える。そして帰国して社員に言ったことは、「勉強しろ」だった。英国に学ぶため、現地の書類を翻訳して社員に読ませた。中枢の社員をロンドンへ送り込んで学ばせた。
 現場を支える若い職工には夜間の実業学校で学ぶように勧めた。これは年間1000人以上に上り、社が授業料だけでなく奨学金も出した。「そこまでやるか」と言われると、「いずれ元は取れる」と実業家らしく答えたという。
 ロンドンで感じた第2の白い雲。それは労働関係のことであった。英国では当時労働者階級が非常に力を持っていたのを目の当たりにした。すでに政党として労働党が出来ており、8時間労働は当たり前であった。では浮いた時間を何に使うかいうと、英国はサッカーであり、一部は文化にも余暇を使った。川崎は直ぐに日本では初めて8時間労働を取り入れている。神戸港には8時間労働発祥の地の碑がある。
 ロンドンで感じた坂の上の雲の3つ目は、芸術文化に関することである。光永教授の話では、当時ロンドンには215もの野外彫刻が設置されていそうだ。街を行くと芸術作品がそこら中にあった。また裕福な人は美術館を造るというのが当時のはやりだったようだ。
 このことに松方は心を捉えられたと思う。松方は美術館を造ろうとし、名前も「共楽美術館」として、本気で計画し、設計図も作り、東灘に土地を探したが、良い土地がなかった。東京に土地を見つけたが、松方や川崎の名前を付けず「共楽美術館」と名づけたのが彼らしい。残念ながら挫折したが。
 船を造るには向こうから技術を学ぶだけでなく、人間、すなわち働いている現場の力が大きい。その現場力を高めるため絵を買うに至ったのではないだろうか。絵画は1万点を集めたが、最初の1点は造船の絵であった。その1点が1万になったのはなぜだろうと娘の為子さんに聞いてみたところ「父には一ついう言葉はない」と話していたのがおもしろい。例えばハサミが無いと言えば大量にハサミを注文したとのことである。
 では大量のコレクションを買い集めた理由をいくつかに整理したい。よく言われるのは「貧しい画学生に本物の絵を見せたい」と言う言葉である。これは本音だろうし、あちこちで語っている。ではそれだけだろうか。
 松方は終生、鹿児島弁を使った。ある日「おいはスパイじゃ」と話していたと資料にある。笑い話ではなさそうだ。第一次大戦で敗戦国ドイツのUボートはすべて破壊されていたが、どこかに図面があるだろうからそれを秘密裏に探してくれと、海軍より頼まれていた。松方は悩んだがそれを受け、海軍機密費を受けている。密命を帯びた訪欧では裕福な実業家で通して各地を訪れ、Uボートの図面を探し出して日本に送ったといわれる。買い集めた絵画の中に設計図を1枚1枚紛れ込ませて送ったようである。でもそれだけだろうか。
 絵画の収集について記者に問われ、「こういうことは岩崎さん(三菱)がやるべきことだが、仕事としてやった。」と答えている。趣味でも道楽でもなく、文化を高め、国力をつけるための基礎作りという意味だろう。松方コレクションとはさまざまな思いが絡まり合って生まれた。
 こうして集めた絵に中には、モネの作品の水連(右絵)がある。直接モネと会って34点も購入している。モネは感激したろう。

4 松方コレクション
 松方が日本へ送り込んだ絵画は1300点に及ぶが、金融恐慌で社の経営が行き詰まったために売り立てられ、散逸した。ロンドンの倉庫で保管していた絵画は火災で灰になった。かつては300点といわれたが、最近の調査で953点もあったことが分かった。
 さらにフランスに残したものが400点ばかりあった。日本はフランスの敵国だったということで、敗戦後に仏政府が押さえてしまった。吉田首相が掛け合い、370点が返ってきたが、フランスはゴッホの名作などを手放さなかった。このほか浮世絵が8000点あり、合計すると1万点を越えている。これを松方コレクションと呼んでいる。
 フランスから返還された絵画などを収蔵する施設として1959年(昭和34年)にできたのが東京・上野の国立西洋美術館である。建築家ル・コルビュジエが設計した他の建築物と合わせて2016年に世界文化遺産となった。
 フランスで400点を保管していた農家の倉庫(左写真)にも行ってみた。パリ郊外である。作品はこの中に積み上げていた。しかし湿気はないように保存されていた。このようなところに保存していたのは、ドイツ軍に見つかったたら持って行かれることを恐れたためである。 
 国立西洋美術館には、銅像(右写真)などロダン作品がたくさんあるが、松方が鋳造の権利を買っていたもので、フランスから送られた。
 帰って来た絵370点の中には有名なルノアールの「帽子をかぶる女」(左絵)もある。

5 経営破綻
 関東大震災につづく金融恐慌で川崎造船所は大きな痛手を負った。社員16000人のうち4000人を解雇せざるを得なくなった。当時神戸市の人口は60~70万人であり、下請けや関連企業の関係者を含めれば川崎となんらかのかかわりがある市民は実に多かった。それだけに川崎の破綻は大事件だった。松方は責任を取らざるを得ない状況となり、1928年(昭和3年)に引責辞任したが、最後の株主総会で松方は涙を流しながら、自分の不明を恥じた。
 しかしこれにくじけるような松方ではなく、そのあとソ連からの石油輸入に携わり、また国会にも出た。最後は鎌倉大仏近くに住む弟宅の離れで亡くなった。同居していた娘の為子さんが看取り、洗礼を授けた。享年84であった。
ところで松方コレクションにいくらかかったかは、結論が出ないままだ。松方は自由にできる金が3000万円と話していたので「3000万円コレクション」が一人歩きをしたが、全額を絵画購入に使ったとは言っていない。鈴木商店のロンドン支店長だった高畑誠一さんの話では絵画購入に使ったのは70万ポンドとある。日本円にして700万円、これに加えて海軍機密費もあり、全部で1000万円かと推測する。白米換算で現在の金額にして180億円となる。
 ただし20~40億くらいではないかと計算する専門家もいるし、80億くらいとの声もあるが、いずれにしても莫大な金である。夫人がロンドンから届く請求書にあわてたのは当然のことである。

おわりに
 最後に、取材をして感じた神戸の遺伝子について述べる。
作家陳舜臣さんは真新しい街・神戸の祖といえる人物を、ここに海軍操練所を開いた勝海舟、塾頭の坂本龍馬にみた。身分の高下は問わない。実力本位。これが神戸の祖だと。
 松方が奔放に活躍した大正期、神戸の人口は東京、大阪に次ぐ第3位で66万人の大都市だった。沿岸には大きな工場が建ち並び、その働き手として周辺の農村部から次男坊が集まったのだ。長男と違って、守るべき格式も習わしもない。陳さんの指摘のように、前例にとらわれない軽やかさが、次男坊の街・神戸の遺伝子といえる。
 松方はそんな時代のそんな神戸に生きた。鈴木商店を率いた金子直吉にも神戸の血を感じるし、ダイエーを創業した中内功さんにも似たものを感じる。
 そうした遺伝子は今も健在だろうか。



第6回講演概要


    日   時   平成29年11月18日(土) 午後2時~3時30分

    場   所   神戸海洋博物館ホール

    講演題目  「松方幸次郎と鹿島房次郎の後継実業家
              ~知られざる巨人 平生釟三郎」

    講演者   甲南大学非常勤講師
          (元東京海上日動火災保険㈱) 
         高田 博次 講師

    参加者   85名



講 演 概 要 (編集責任 NPO法人近畿みなとの達人)

はじめに
 講演者は平生の勤めていた東京海上火災(現東京海上日動火災)に約40年勤務しており、社内では平生の研究者ということになっている。前の社長は私のことを平生の「語り部」又は「伝道師」と呼んだがそれ程とは思っていない。
 講演者は神戸とは縁があり、阪神淡路大震災の復興支援関係者でもある。震災の年の7月に復興支援ミッション(使命)をもって来神、神戸支店企業営業部の責任者を務め、3年かけて復興支援の目途が立ち本社へ戻った。2年前の震災記念20周年の日、早朝5時からの小雨降る点灯式に参加したが、点灯にあたり月や星が出てきて予報が外れ驚いた。神戸には不思議なご縁を感じている。今日も午前中小雨だったが先程雨も止んだ。
 平生の研究者として講演では「平生さん」、「平生先生」と語るが「平生」と呼ぶこともご容赦いただきたい(右写真: 平生釟三郎)。
 平生の言葉には、後述するが、「人間は面白いか、有り難いかのいづれかでなければ、人は寄ってくるものじゃないよ」というものがある。 平生さんの人間力、人物主義、人物本位の人材登用などをぜひ知ってほしい。
 2012年東日本大震災の翌年の10月、 東京海上日動の役員勉強会の主催者経営企画部担当役員から頼まれ、東京海上日動の経営危機の実態、危機を救った3人(平生、各務に加えて二人の同時代の経営者粟津日動火災初代社長)のことを話した。この時に会社に提案しその時の講演内容をもとに社内研修用にDVDを作成するように頼んで出来たDVDがある。 本日は講演で時代の感覚を共有してもらうため、冒頭先ずこれを10分ほど見て欲しい。  
 以下DVDを見ながら=1890年頃東京海上の英国営業の大きさは、国内営業を合わせ全体の50%以上となっていたが、本社には保険引受けの基本のアンダーライティング(リスク分析と保険引き受け技術)の知識がなく英国営業は大失敗であった。このDVDには、平生さんが出てくる関東大震災などもあるが本日は時間の関係で上映は割愛する。 1890年頃ロンドンでは、英国の保険引き受けを現地の代理店に任せ、この代理店がリスクを考えずに保険を集めた結果、隠れていた大欠損が発覚する。東京海上の経理は現計計算(どんぶり勘定)であったが、引き受け証券ごとに損得を集約した年度別計算が必要であった。また、国内ライバル2社との競争も激化、実際は大赤字となっていた。会社は、明治27年(1894年)26歳の各務鎌吉を英国に派遣、使命は赤字の原因究明であった。各務は英国人の主任アンダーライター(保険のリスク分析や引き受け技術の公認専門家)を辞めさせ、自らアンダーライターの資格を取り英国営業の改善に乗り出した。本社の各務の後任は平生で二人は英国と日本で両輪となり会社の再建に乗り出した。この間、国は東京海上に40万円を公的支援するなど行ったが、最終的には平生と各務が連名でロンドン支店の閉鎖を本社に具申し、後は英国屈指の保険ブローカー(公認保険仲介業者)のウイリス商会に引き受け代理店を委嘱、ロンドンから撤退した。これも各務と平生の信用によるものであった。撤退に当たっては堂々と意見具申する二人の若手、これを受け入れ聞く耳を持った本社の経営陣がいればこそであった。=この好判断だった撤退に当たっては平生の先見の明(この機会を奇貨とした住友鴻池をバックにした国内№2の日本海陸保険会社が東京海上の契約を根こそぎ引き受け後に解散=倒産したこと)と各務への粘り強い説得によるところが大きい。

  以下は当日配布した平生の略年譜を参照しながらの話。
1 平生と東京高商(現一橋大学)・東京海上
 平生は東京高商の恩師矢野次郎校長の要請で29歳の明治27年(1894年)東京海上に入社、高商の先輩である各務の後任となった。平生は明治 23年(1890年)高等商業学校卒業したが、学業では卒業の前年まで学年首席であり、学校は首席卒業者を官費で海外留学させることになっていた。25歳になっていた平生は断った。2番で若い20歳の祖山を平生は推挙する。平生は卒業すればすぐ社会の役に立ち、また経済的にも親を楽にさせたいとの思いからで、結局平生は卒業時に矢野校長から2番目に呼ばれ、前年2番の祖山が首席で卒業し海外留学している。平生が祖山に席次を譲ったのでないかと思われる。祖山が海外留学に失敗したことを知り後年悔やんでいるから。
 平生は、大正14年(1925年)東京海上の専務を60歳で退任し、会社を辞め教育事業に専念すると
各務に告げるが、各務は平生を無二の盟友と呼び、また平生の経営能力を惜しみそれを許さず、年譜にあるように昭和13年の定期株主総会まで、無任所取締役、勝手勤めの異例の取締役として各務の友情と経営判断で会社に在籍していた。当然会社から高額の役員報酬を得ていた。
 結局平生は、73歳で昭和13年(1938年)に取締役退任・退社するが、各務が決めた役員功労金は30万円(いろいろな説があるが今のお金で約3億円~約9億円)で、平生は、その三分の一を甲南病院、甲南学園、そして家族に三等分したと言う。平生は、東京海上の各務の精神的・経済的支援を得ながら、彼の60~70歳の間に、年譜の通り、数多くの素晴らしい仕事をしており、後述するが甲南学園の創設や甲南病院の建設、経営危機にあった川崎造船所を社長として立て直し、また、広田弘毅外相に懇請されブラジル経済使節団の団長(後述)を務めた。
 このように、日本製鉄の社長・会長就任など無報酬・無給を条件に引き受けた経済活動の他、貴族院議員や文部大臣に就任するなど、神戸と日本のために大奮闘している。
 
2 県立神戸商業学校(現在の兵庫県立商業高等学校)校長時代
 大正14年(1925年)東京高商を卒業し、恩師矢野次郎校長の命を受け、付属主計学校で経理と英語を教えていた平生は、日本政府と矢野校長の要請で朝鮮半島仁川の税関の高級官吏として招聘された。仁川では、日本の貿易業者の賄賂を拒否し、朝鮮の貿易業者も日本の業者と同じように扱った。 
 また、仁川で私学校(英語の夜学校=現在の仁川高等学校)設立などにも携わった。明治26年(1893年)28歳の時、高商の恩師矢野次郎からふたたび要請があり、神戸に行き知事に会えと伝えられ、仁川から帰国、翌日知事に面談。その翌々日学校に着任した。目的は、県議会が廃校決議をしていた名門県立神戸商業学校の再建、学校の立て直しであった。恩師の言葉には逆らえないが、常に相手から最初に全面的協力の言質を文書で取っておくのが、再建屋とも言われる平生のやり方であった。本校予算の県との復活折衝の話がある。県議会でその前年に半額査定された予算を知事や教育委員や議会の教育関係議員の共感を得て復活(しかも増額)するが、そのため平生は知事の協力を得て、異例の参考人として議会に登場、再建の道筋と復活予算の中身を議会で熱心に説明。議員はその内容と情熱に感服して増額予算まで付けたが、裏には教育委員会の人や、反対議員を一人ずつ休日先方の自宅に訪ね人間関係を作っていた。料亭常盤花壇(福原か?)での県の教育委員や議会関係者を一堂に集めた懇親の接待では、議員達が女将から経費はすべて平生校長の自費(給料の一か月分)であると聞き驚いたという。
  また一部の不良学生による学生のストに関しては、学生がさぼるが教師は見ぬ振りし注意しない等の悪循環を断ち、首謀者の厳罰主義を徹底、また教科書販売代理店からの賄賂を一掃するなど学内の綱紀粛正を断行。徐々に教師にも学生にも平生校長の学校再建の情熱と実行力が分かって来て学校再建にこぎつけた。

3 東京海上保険会社の経営危機を救う
 明治27年(1894年)東京高商の恩師矢野次郎校長の強い意向と友人各務鎌吉の強い要請で平生は、東京海上保険に入社した。社命でロンドンへ支店の立て直しに行く各務の後任としてであった。各務はロンドン支店の経営的重大問題を発見し本社の重役陣に説明し善後策を協議するため日本に一時帰国する。その留守居役として平生も明治30年(1897年)32歳でロンドン支店に赴任する。前任者の各務はロンドンですでにアンダーライティング(保険引き受け技術)の公認資格を取っていた。
アンダーライティングとは、保険料の値決めやスクの分析と保険契約の選別の技術ことでロンドンの公認資格試験は英国人の難関大学出身者でもむつかしいもので、資格者をアンダーライターという。ロンドン支店の主任アンダーライターの英国人はバックマージンを取っており、リスク分析力の欠陥とともに赤字発生の原因ともなっていた。
 ロンドンでの平生の下宿先は、滞在年次は若干違うが夏目漱石と同じミルディ家であった。漱石は英語は読み書きができるが相手の言っていることがよく分からないし、充分しゃべれなかったようで、海外生活を楽しめなかったようだ。実際下宿のユダヤ系英国人の主人に対する評価が漱石は平生とかなり異なっている(『夏目金之助ロンドンに狂せり』という書にくわしい)。
平生もはじめはメキシコ人に間違われたが、主人が天文学などの書物を読むインテリで平生には親切であることを評価しており、英国生活を楽しんだという。
 ロンドン支店の閉鎖をめぐる各務と平生の論争は、連日連夜に及ぶ激しいものだった。平生は、いったん支店の閉鎖・撤収論で、これ以上リスクの大きな悪績物件を持ち込まれると経営的に大変だし、会社に体力がないというのが根拠であった。各務は、新しい改革案をすでに本社の重役会に提出済みであり、アンダーライターの資格を取った自分が中心となって新体制でやるので、平生は日本で支援をして欲しいというものであった。論争は約二か月間にわたり続いた。平生が、最後に「各務が長期の病気や死んだら経営はどうするのか?」と聞き、各務が「お前がやれ」、平生「出来ない」と続いて、それならばと二人が連名でいったん支店を閉鎖し撤退すべしと本社へ上申した。本社は最初たいへん驚いたが、現地をよく知る二人の専門家の上申だからと最終的には了承されるに至った。
 ここから、40年に亘る「各務と平生二人の盟友関係」が生まれる。

 このDVDには出てこないもう一つの大きな危機と勝利、日露戦争における勝利について話したい。 
 日露戦争特に日本海海戦ではロシアのバルチック艦隊が日本の連合艦隊に全滅するという大勝利になったが、実はもう一つの勝利とも言うべき勝利があった。それは未曾有の戦争保険の引き受けに直面し経営危機を乗り切った東京海上の勝利である。各務と平生がロンドンや上海から秘かに集めた保険情報の的確な分析をもとに日夜奮闘し海上保険と戦争保険を慎重かつ大胆に引き受けた結果、大きな利益があった。各務と平生は二人の人脈がある英国の海上保険業界や上海の英系保険会社などから保険情報を得ていた。ある日ベトナムのカムラン湾に永く停泊していたバルチック艦隊が忽然と消えた。その行方が全くわからない。司馬遼太郎の『坂の上の雲』では連合艦隊の名参謀「智謀湧くがごとし」と言われ
た秋山真之が悩む場面だ。バルチック艦隊との合流を待つ高速の浦塩艦隊がいるウラジオストックまでバルチック艦隊の進路はどこを通りどこで決戦がおこるのか。対馬海峡沖か宗谷岬沖か津軽海峡沖か。
東京海上の各務と平生は英国と上海から情報を秘かに集め慎重に戦争保険の引き受け方針を決めていた。
その結果、社内では日本海海戦の決戦は対馬沖しか考えられないこととなった。なぜなら上海には、大艦隊に随伴していたような燃料の石炭や水や食料の小型補給船舶が用船契約を解除され次々に戻ってくる。宗谷岬沖回りは大回りで燃料運搬船などの随伴船が不可欠。津軽海峡沖は潮が速く水深が浅いところがあり戦艦などの大型艦船は操船がむつかしい。対馬海峡沖ならウラジオストックまで最短で行けるし海戦途中で不利になっても中立国の中国の港に逃げ込めるからだ。日本の商船や貨物船の一般の船舶保険や貨物保険では戦争危険は免責。高い保険料の特別な戦争保険を別途買う必要があった。日本の保険会社には情報が少なく、この戦争保険の引き受けは怖くて消極的。ほぼ東京海上のみが英国や上海の保険会社からバルチック艦隊の予想進路に関する情報を得ており、大口顧客の戦争保険を制限的ながら他社より積極的に引き受けたが損害は軽微で独り勝ちに終わった。各務や平生によれば、二年間で会社が儲けた利益は約100万円(会社の資本金の約三倍)であった。
 実はこの日本海海戦当時各務は病気で東大病院に入院中であった。平生が各務に代わり全店の指揮をとっており、毎日のように病床に各務を見舞い戦争保険の引き受け実績と損害皆無を報告。引き受け拡大の相談をしている。

4 甲南学園の設立
 この時代の学校教育は、知育偏重の詰め込み教育と上級学校への準備教育が主流であり平生は、詰め込み教育から世界にも通用する紳士足りうる全人教育へ、すなわち人格を磨き、自分でものを考える習慣をつけさせ、自から発展的に自学自習できる全人教育、人格主義的で進学校ではないような学校教育を求めた。平生はそのような東洋一の学校を造りたいと日記に書いている。
 平生はまた、生徒の天賦の個性と才能を引き出し伸ばすことを目的として中高一貫七年制の旧制甲南高校を創立。当時こういう学校はなかった。平生の人格主義的教育の根幹には、武士道精神に加え日本主義というべきものがある。フランスが誇る世界的な文化人類学者、クロード・レヴィ=ストロースが「日本には数千年前に世界に類まれなる平和で善良・勤勉な驚くべき縄文文明と精神文化があった。それは19世紀末に西欧を風靡したフランスのアールヌーボーのような芸術的な匠の精神をもつ縄文文明と日本的な精神文化であった」と言ったが、この日本的な縄文精神はまさに平生の日本主義、大自然と日本固有の国柄を大切にする日本主義と通底していると思われる。平生の人格主義的教育精神には、幼少時から武士の父から厳しく仕込まれた武士道精神があり、卑怯なことは絶対しない精神、弱者を助ける憐憫の情や、利他的精神、共同互助と共栄共存の精神があった。平生は敬神家の父親に連れられ幼少の時から伊勢神宮によく参拝した。父子とも敬神家で明治天皇を崇敬していた。

5 人生三分論
 大正13年(1924年)平生は盟友各務の勧めで米・伯(ブラジル)・英・欧を240日間でまわる外遊を行った。この時、英国からブラジルへ行く長い船旅の船中で一冊の英語の本を読み感激している。それは米国の保険ブローカーの社長から贈られた当時のベストセラー、米国の富豪E・ボックの自叙伝だった。それは、まさに平生自身が考えていた「人生三分論」そのもので、それぞれ、
 第一期:親と社会の恩に応えて自己の教育に邁進する学生時代
 第二期:社会に出て自己の経済的自立と社会的信用基盤確立の勤労時代
 第三期:社会へ恩返しする社会奉仕・お礼奉公の時代
 というものであった。
 平生の50歳からの第三期では、東京海上の各務の経済的・精神的支援を受けながら、社会奉仕・お礼奉公の世界に入る。この時には平生は、甲南学園の教育事業をはじめ、灘購買組合の設立支援、甲南病院の創立、川崎造船所の再建社長の受諾、ブラジル経済使節団の団長受諾や文部大臣就任の後は日本製鉄の社長就任など、様々な事業や活動を社会奉仕としてやっている。

6 甲南病院の創設
 平生は、利他的な公共精神の強い欧米に比し、利己的精神の強い日本の富豪や財閥批判に関して数百回の全国講演を行い人間改革、教育の必要を説いている。日本の富豪、財閥は富を生かせず、使い方が問題で、社会の安定・発展のため例えば美術館や病院、研究所や図書館、学校の建設や 運営支援、冠講座の実施などに使うべきと説いている。また、日本の富豪、財閥は、持株会社に富を移 し家門繁栄の延長で蓄財しているので、今日でも問題になっている格差是正による社会の安定のため相続税を高額にし富裕層の富を国が再配分せよとも説いている。平生は、西欧の利他的なノブレス・オブ レージュのような精神、すなわち富や権力を持てる者は持たない人を助ける義務があり、犠牲的・利他的精神を求めている。
 また、国の詰め込み教育は使えない人間を生む弊害だと述べている。
 このようなことが、甲南病院の創設に繋がってくるが甲南病院(写真上)は御影にある今でも立派な病院で、創設当時東京の聖路加病院に次ぐほどの医療体制を持っていた。
 甲南病院を建てるに当たり、神戸医師会の利己的かつ感情的な反対などもあり、資金集めには大変な 苦労をしている。なぜなら既得権益を脅かす恐れのある「貧しい人も富める人も 同じ治療を受けられ る、費用は持てる富に応じて治療費を請求する病院を造る」という平生の基本方針に反発があったから だ。また地域の富める反対者は山の上にある病院ゆえ患者の貧乏人が歩いてくる道筋の周辺にばい菌が ばら撒かれるとか下水とともに流れるなどと反対し、地域のジャーナリストを抱き込んで反対に回った。
 当初の建設費は、100万円(約10~30億円)が必要で、平生は私財10万円(約1億~3億円)を投じたが、 財閥では住友が10万円、三井5万円を出したが岩崎家の三菱合資会社は、拠出を渋り中々応じなかった。世界的大不況の影響もあり資金集めにはたいへんな苦労はあったが、最終的には志のある名医も揃い、 また看護婦を研修にやった東京の聖路加病院も感心するぐらいの病院が出来た。聖路加病院の医師や看 護婦が見学に来てびっくりしたという話が残っている。  

7 ブラジルとの関係
 講演者は、平成23年(2013年)日伯移民100年の行事、岐阜県庁主 催の講演会で、日伯経済文化協会栗田正彦氏と一緒に基調講演を行った。配布資料の岐阜新聞の記事にあるが、平生は昭和10年(1935年)、当時 の外相広田弘毅の懇請を受けブラジル経済使節団長となり1か月間滞在 した。(後述の川崎造船所社長の時代であるが。)
 当時ブラジルには、欧米は資本投下しても利益を吸い上げるだけで、 現地には教育や技術は残さないという不満があった。平生の考えは、現 地の多くの人々の役に立つ事業が必要で欧米のようにブラジル政府や現 地の一部有力者だけが潤うようではダメという主張であった。つまり共 存共栄を図ることに目的があった。当時ブラジルでは綿花を輸出用に大 量に栽培していたが、日本への原綿の赤道を越える長距離輸送にはそれ に耐える品質改良が必要。野積み保管の原綿はスコールで泥水に濡れて 駄目になる。これを防ぐ設備の改善と保管・輸送技術を指導して輸出ブラジル綿の品質改良に努めた。その結果翌年にはブラジル綿の日本への輸出が十倍になり現地ではたいへん感謝された。(右ブラジル訪問時写真)
 この使節団を皮切りに、何世代にもわたり積み重ねられた勤勉で利他的な日本人の各種事業の結果、今日まで日本人は約束を守ると現地では好評であり、その端緒を造った一人が平生であった。この時の外務大臣広田弘毅との信頼関係から、その翌年昭和11年(1936年)の二・二六事件の直後、広田内閣の時に平生は昭和天皇に親任され文部大臣になっている。
 当時文部大臣は伴食(格下)大臣と言われたが、平生の場合は名実ともに親任の文部大臣であった。また、文部大臣に就任する以前の貴族院議員の時、昭和10年(1935年)に平生は昭和天皇へブラジル事 情についてご進講をしている。 

8 川崎造船所
 平生は、昭和8年(1933年)川崎造 船所の経営再建のため社長に就任している。当時川崎は日本一の造船所で潜水艦をはじめ国防機関として大小いろいろな艦船も造っていたが、ライバルの三菱造船所や呉工廠に比べ価格が高く生産性も落ちて来て、艦船の政府・軍からの大口発注も減ってきていた。 最大の艦船工場は赤字続きで長年にわ たる経営不振の責任を取り退任した初 代松方幸次郎社長に代わり、川崎造船 所の2代目社長に鹿島房次郎が就任した。鹿島は川崎総本家の筆頭理事でかつて神戸市長も務め名市長と言われた 実力の人だった。市債を発行民間の市街電車を買収。その市街電車を基に市電網を造り、神戸港の発展 のため岸壁拡張工事や、初等教育の充実のため小学校増設などを行った人であったが、川崎造船所では 抜本的な経営・生産性の改革は進まなかった。そして鹿島社長は膨大な債務と資金繰りに追われ急逝・殉 職する。
 労働組合活動に理解があった初代の松方幸次郎社長時代には、川崎造船所は職工組合が強く、時短も許され人件費もライバル会社の一割増しになっていた。その十年ほど前、大正十年に神戸の川崎・三菱両造船所では合同で戦前最大規模の大労働争議が発生、当時は警察ではおさまらず軍隊が出動する騒ぎになったことがあった。
 資料の大阪朝日新聞の記事にもある通り川崎造船所の従業員は約1万3千人家族を合せると約七 人。一説では下請け工場の従業員と家族を含めると十数万人。当時の神戸市の人口は約60万人であった。 川崎造船所の倒産や人員整理では多くの人々の生活が甚大な影響を受ける。
 殉職した二代目社長鹿島を継いで平生が三代目社長に就任することになったが、それは株主総会前に 神戸新聞(上新聞記事)と大阪朝日新聞で報道されていた。
  社長引受けにあたって、平生は次のような条件を出した。すなわち、無報酬、再建は2年、成功後は 速やかに退陣、赤字部門の役員や責任者を除き社員従業員の人員整理はしない、株主や債権者には応分 の負担を求める、甲南高校の校長は兼務し月水金の午前中は甲南へ出勤する等である。
また平生が実施した経営的施策は、
 ・有休資産・余剰設備の売却(運転資金の確保のため)
 ・組織の簡素化(意思決定とアクションの迅速化)と標準原価制定と部門予算制度の導入実施
 ・新鋭の大型ガントリークレーンなど設備の更新(生産性の向上)と技術開発研究部門の設立
 ・工場給食の実施(それまでは弁当持参で食中毒発生)と家族も受診できる川崎病院の設立
 ・若手従業員の技能向上のため東山学校の設立(有給で技能や職能を向上)
などであった。
 赤字部門の役員や責任者の大幅な入れ替えを断行する平生社長の人事の妙に加え、こうした矢継ぎ早の経営施策が奏効し始める。老齢にも関わらず自らは無報酬で利他的に奉仕活動に専心する平生社長の姿を見て従業員や従業員のおかみさんまでもが平生に共鳴。自発的に時短返上を申し出るなど、労使一体の気風が生まれ、川崎の再建、経営のV字回復が短期間で成功していった。 

おわりに
 灘購買組合(現コープこうべ)設立では、キリスト教社会主義者の賀川豊彦と住吉村の資産家那須善治が平生を介して出会っている。那須善治は人生の後半に経済的窮地を救ってくれた平生に余生と余財を善用すべく助言を求めた。平生はかつて英国駐在時代に知っていた組合活動を実践する賀川に共感。那須を賀川に紹介する。平生と賀川とは思想・信条は違っても社会の安定・発展のため共存共栄や共同互助の目的では合致。互いに提携し購買組合設立を支援している。

 最後に平生が残した珠玉の言葉を紹介する。平生が残した言葉は日本の未来を照らす言葉となろう。以下に列挙する。
 ・「人間の魂が人間をつくる。人間は人間の魂の力に依らなければつくれるものではないと私は信
  じている」(『私は斯(こう)思う』文部大臣平生釟三郎述)。
 ・「教育(Education)の語義は、ラテン語の"educo"(引出す)」、「すべての人は天賦の才をもっている
  天才」、「個性と才能を引出し発育させるのが教育」、「鉱物には金もあり銅や鉄・鉛もある。金
  だけでは産業は成り立たない。人間も同じ。違った個性の持ち主が、それを発揮してこそ社会が
  成り立ち進歩する」、「教育とは、その個性を発見し引出し完成させることだ」。
 ・「日本の教育は教へると云(い)うだけでものを考へさせると云うことはしない」、「日本人をして
  世界的の人たらしめ、欧米人と快く交際せしめんには、外国語に熟練せしむるを要す」、「健全
  な常識を持った世界に通用する紳士(淑女)たれ」。
 ・「人間は面白いか、有り難いかのいづれかでなければ、よってくるものじゃないよ」、『共同互
  助』の精神と『共存共栄』の精神の大切さ (“One for all, all for one.”一人は万人のために、
  万人はひとりのために)。
 平生の言葉の深奥に、数千年前の縄文時代から先人たちが大自然を敬いながら共存共栄してきた善良 で勤勉な匠の精神、平生の日本主義精神につながる日本人のこころの源流を見る思いがする。それは明 治以降アインシュタインやチャップリンそしてクロード・レヴィ=ストロースなど多くの優れた欧米人達 が来日してこのような日本の心を発見、驚き感銘に打たれたというものと同じものかもしれない。