神戸みなと知育楽座

平成28年度 神戸みなと知育楽座 Part8

テーマ「神戸のみなと・まち・歴史をもっと知ろう!
~人・物を運ぶ舟・舩、みなとそして神戸~」
 

第1回講演概要

  日  時  平成28年6月11日(土) 午後2時~3時30分

  場  所  神戸海洋博物館 ホール

  講演題目  「徐福の東渡~中国からの大量移民と弥生文化~」

  講演者   元練習船日本丸船長・元東京商船大学教授 橋本 進 講師

     参加者   105名

 講 演 概 要  (文責:NPO近畿みなとの達人)

はじめに

 約20万年前にアフリカに誕生したホモ・サピエンス(ヒト)は、6万年前頃から各地に分散し、2万年頃の氷期に、1集団は北方ルートで、1集団は朝鮮半島ルートで、1集団は台湾・沖縄を経た南方ルートで無人の日本にやってきた。その住民たちが縄文人で、この時代を縄文時代と呼ぶ。紀元前数千年から前3世紀頃までといわれるが定説はない。縄文人は竪穴式住居で木の実、獣、魚を採取して生活していた。この遺跡は沖縄から千島に及んでいる。
 ところが、前5世紀頃から日本にイネを持って大陸から渡来する者が現れ、小規模ではあるが農耕と混血社会が発生していた。ところが、秦始皇帝時代の前215年頃、始皇帝の命を受けた徐福は数千人規模の船団を組み日本に渡来した。徐福集団はイネや金属器を持ち込み日本文化の基調となった稲作農耕時代、いわゆる弥生時代が始まった。
 このように、徐福は日本に稲作や金属器を大量に持ち込み、弥生時代の幕を開けたが、これは「船」という大量輸送手段を使ったことに基因している。そして、彼らの後裔者は船によって中国文化を輸入する一方で、中国江北・江南からの難民移住に貢献した。この徐福の航海を科学してみる。

1 史記にみる徐福東渡
 中国大陸では、騒乱の春秋・戦国時代を経て国土は荒れ、国民は疲弊していた。天下統一を果たした秦の始皇帝の時代には、多数のテクノクラートが「焚書坑儒」の難を逃れ平和の地を求めて国外に去ったと『史記』は伝える。司馬遷は徐福について史記に「童の男女3千人を遣わして、之に五穀の種と百工とを資(おく)りて行かしむ。徐福は平原広沢の地を得、止まりて王となりて来(かえ)らざりき」と記録する。つまり、徐福は東方に安住の地を得、留まって還らなかったというのである。 徐福について、かつては中国においてもその存在は懐疑的で「伝説」であるとされてきたが、1980年代に江蘇省・連雲港市近郊に除福村があり、考証の結果、そこは徐福の故郷であることが判明した。徐福は実在した人物だったのである。

2 東シナ海、黄海および渤海の地勢と気象・海象
(1)地形 
 東シナ海、黄海および渤海は世界最大の大陸棚を形成し、黄河、長江(揚子江)が運んだ厚さ1mを超える堆積物がある。この大陸棚の水深は大部分が20m未満の渤海から水深50mを越える東シナ海へと続く。水深は100mから200mと徐々に深くなり、200m等深線は台湾北東端から長崎・五島列島沖まで南西諸島沿いに弧状に続く。水深は200m等深線の縁辺から急激に深くなる。(右図・黄海および東シナ海付近の水深、-50m線緑、-200m線赤)
 このように、東シナ海は浅く、水深200mの等深線はかなり広がっている。この200m等深線を越すと急激に深くなって水深は1,000mとなり、琉球海盆を形成し最深部は2,700mもある。
 「黒潮」はこの200m等深線に沿って流れている。
(2)気象
〈気候〉:この地域の気候は季節風型で、10月から翌年3月までは卓越する冷たい北寄りの風を、6月~8月末までは暖かい南寄りの風を伴う。
〈風〉:季節風は、杭州湾から海州湾(山東半島の南)の沿岸部では、冬期季節風は9月に始まり翌年2月から3月まで続く。風向は北または北西で、平均風力は3(3.4~5.4m/秒)である。風力7(13.9~17.1m/秒)以上の強い風が吹くのは12月から翌年1月の間で、それもこの期間に吹く風の約5~10%である。夏期季節風は穏やかであるが風力3に達することもある。秋期の9月から10月は農産物の収穫期に当たるが、この頃は大陸内部は気温が下がり高圧帯を形成し、11月になると長江付近の高気圧の一部は移動性高気圧となって東に移動し、日本に「小春日和」をもたらす。
〈温帯低気圧〉:温帯低気圧は冬の終わり頃から春先にかけ黄海や東シナ海に発生する。図(温暖低気圧主要経路図)の温暖低気圧は、①南岸低気圧(俗に台湾坊主)。②南岸低気圧(東シナ海低気圧、日本に雪を降らせる)。③日本海低気圧(立春をすぎて初めて南からの強い風、「春一番」をもたらす)。④日本海低気圧。⑤夏期大陸低気圧。に分類される。
〈台風〉:一般的な台風の経路(月別)を図(台風の経路図)示す。台風は6月頃から東シナ海に現れるが、9月頃に一番多く日本に襲来する。数年に1度、ペルー沖から中部太平洋の海面水温が1~2度上昇する(エル・ニーニョ現象)時は小笠原高気圧が東に偏るので、日本付近への台風襲来は早い時期となる。逆の現象をラ・ニーニャといい、西太平洋の水温が上昇するので小笠原高気圧は北に押し上げられ台風は多く発生し経路は北に偏る。東シナ海の航海時期は10月から11月頃がよい。
(3)海象
〈海流〉:ある一定方向に吹き続ける季節風によって生ずる水の流れを吹送流という。赤道付近の貿易風による吹送流は赤道海流となり一定方向に流れる。したがって、季節風の方向が変われば吹送流(海流)の方向も変わる。一般に中国沿岸部(東シナ海、黄海)では季節風の変化により海流の方向が変わる。夏期は南寄りの季節風によって北の流れ(0.3~0.8ノット)が、冬期は北寄りの季節風によって南の流れ(最大0.4ノット)となる。卓越する季節風によって海流の方向が反転するのは中国沿岸のみである。
〈黒潮(日本海流)〉:黒潮は暖流で、フィリピン群島の東岸から台湾東岸を北東方へ流れる強い定常流である。黒潮は東シナ海、南西諸島の西側(琉球海盆)を経て九州南方で北太平洋に入る。また、黒潮は屋久島の西方で枝分かれし、対馬海流となって日本海へ入る。平成2年(1990)日中合同で東シナ海を中心に黒潮の合同調査を実施した。報告書は、海水温度は水深200mまでは季節によって気温の影響を大きく受けるが、塩分濃度は季節に関係なく水深が200mより浅くなると急激に減少すると指摘する。つまり、黒潮・対馬海流の定常流は、大陸棚の水深200mの等深線に沿って流れていることを示唆している。 
〈潮汐と潮流〉:潮汐は主として月および太陽の引力が働くことによって周期的に海面が昇降する現象で、通常は1日に2回起こる。海面が高くなったときを満潮、低くなったときを干潮といい、干・満の海面の差を潮差という。韓国・仁川では7~8m、中国・杭州湾では9mあるという。
 潮流は、潮汐現象で起こる海水の周期的な流動現象をいい、1日4回その方向を変える。
 北太平洋の潮汐は、満潮(上げ潮)時には図示(中国東岸の上げ潮流の流向・流速)するように、中国沿岸に向かう潮流を、干潮(下げ潮)時には中国沿岸から遠ざかる潮流を生ずる。

3 徐福の渡航計画
(1)情報の収集:前漢時代には詳細な地理情報があったように、当時、中国各地にはすでに豊富な情報網があった。中国を平定した秦始皇帝は情報組織を統一して支配地の情報収集に活用していた。徐福はこの始皇帝の情報網を駆使して詳細な情報を集めたと思われる。
(2)渡航船:古代中国には筏から進化した沙船と、丸木舟から進化した福船があった。沙船は平底船底で喫水の浅い箱船で貨物の積載量は多く、長江流域や北部沿岸部で使用していた。福船は丸太をくり抜いた木材を船底材(竜骨)とし、その両側と船首・船尾に板材を接合した船で、喫水は深く頑丈な構造であったが貨物は多く積載できなかった。ところが、この両船の長所を取り入れた複合船(構造船)が現れた(図・構造船)。この構造船は船底に頑丈な竜骨(キール)と船底材を使用し、肋骨(フレーム)を付けて大型化し、フレームの上には梁(ビーム)を付けて甲板を張り、また、数か所に隔壁(バルクヘッド)を作り強度と防水に配慮した船で、大洋航海に十分堪えられる船であった。
 渡航船には乗組員のほかに童男・童女数千人と百工、五穀の種、さらに食糧・薪水を積載するので、1隻に100人を収容し約30日の黄海を想定すると、計算上は長さ20~25m、福4.5~5.0m、深さ3.0~3.5mの船となる。推進方法は風力による帆走が主で、人力による大型の櫂(かい)も併用する。この櫂は前に押す方式である。図「徐福の渡航船図」は筆者が考えた構造船である。
(3)航海計画:当時、磁石はあったが航海用の磁気コンパスはなかった。沿岸航海は山や岬あるいは島などの自然の地物または人工の構造物を利用して目的地に到達する方法である。大洋航海は太陽・星などの天体を利用して航海し目的地に到達する方法である。昼間は太陽の出・没方向を、夜間は北極に近い星(当時は小熊座のコカブ、太一星)を利用した。農作物収穫期の秋分の頃は天候も安定し、太陽はほとんど真東から出て真西に沈むからこれを利用し、夜はコカブを左真横に見ながら航海すればよい。総合すると中国出航は天候が安定する農作物の収穫後が良いといえる。
(4)到達地の目標物の設定:沿岸・大洋航海いずれの場合も到達地の目標物が必要である。徐福はすでに火を噴く山、阿蘇山の情報を持っており、各船の指揮者にこれを指示していたと思われる(中国沿岸、朝鮮半島、済州島に活火山は無い。)
(5)渡海コース:徐福は出航地を始皇帝の支配下にある長江下流の沿岸部とし、そのまま東に向かう「南路」を選んだ。造船技術者、航海技術者を集めやすく、食糧の調達も容易だったからである(図・徐福の東渡コース)。

4 食糧の調達と補給地の選択
(1)五穀:諸説がある。当時の社会情勢から稲(米)、稷(きび、たかきび)、麦(むぎ)、豆(まめ)、麻(あさ)とするのが妥当で、それらの「種」を積み込んだ。
(2)食糧:主食は米・麦・稷・豆などで大量に必要とするが、他に薪水も積載するので自ずと制限される。徐福は主食の穀類を、当時すでに開発されていた「餅」、「干飯(ほしい)」、「粉」などに加工し、野菜は乾燥して貯蔵した。これにより調理用の薪は大幅に減少した。
(3)補給地:東渡船団は大規模集団であるから風待ち、潮待ち時の食糧・飲料水の補給も大事である。徐福は始皇帝の支配下にある長江下流周辺の地を最終補給地として選んだ。

5 徐福船団の出航地と到達地
(1)出航地:長江河口周辺の数か所を最終補給地として選んだ。
(2)出航時期:気象・海象と食糧の調達・加工の面から秋10月頃、出航日は潮流の関係から10月の朔(新月)あるいは望(満月)の2~3日後とした。
(3)到達地:徐福船団は出航地からそのまま東に向かえば九州西岸に着くが、九州に近付くにつれ対馬海流の影響を受けて北寄りに流され始める。ここで渡航船の眼高を7mとして海上から望見できる九州の活火山の距離を調べて現在の海図に記入すると、雲仙岳は五島列島付近から視認できる(図・雲仙岳・阿蘇山・久住山・桜島の視認距離)。船団は火を噴く山(雲仙岳)を目指して進んだが、そこ(橘湾)には船団を受け入れる余地は無かった。さらに東の火を噴く山を目指して島原湾に入った。ここには筑後川が流れ込み稲作に適した土地が広がっていた。

6 平原広沢の地
(1)徐福の上陸地:北九州地方の歴史の底流には古代中国文明と深い交流のあったことは、多くの専門家の指摘するところである。そのひとつに、多数の歴史伝承を持つ有明海北部一帶の地がある。徐福は、到達地を故郷に似た平原と大河のある場所をイメージしていた。その場所(平原広沢の地)は特定できないまでも筑後川の流れ込む島原湾岸は彼のイメージにぴったりの土地であった。
 島原湾北部の有明海の一角に上陸した徐福集団は、あらゆる面で高度な技術を持ったテクノクラート集団であった。彼らの持つ高度な金属器具の製法や加工技術は、やがて農業・漁業方面にも応用され、彼らの住む平原広沢の地は繁栄した。
(2)有明海・三重津の歴史:有明海北部の三重津は早津江川に面し、潮差の大きいこともあって、古くから造船用木材の収集、船の建造・進水・修理、船溜まりにも適した場所として計画的に構築された港であった。佐賀藩三重津御船屋(佐賀藩三重津海軍所)を伝える絵図には潮差を利用した船の建造・進水について「潮差式ドライドック」(干満の差を利用し、水門の操作によってドライドック機能を持たせる)が図示されている。この方式は徐福の時代にも使われていたことを考えると、三重津は他の土地には見られない高度な技術が伝承されている土地である。(2015年、三重津海軍所跡は「明治日本の産業革命遺産」として世界文化遺産に登録された。)

7 それからの徐福と渡来者
 司馬遷は徐福の時代から100年後に『史書』を撰書した。今の時代を考えても100年の間隔はそれほど大きなものでなく、その記述にはかなりの信憑性がある。徐福は始皇帝の「焚書坑儒」の難から逃避したのであって2度と帰国する意思はなく、また、有明海の沿岸部に平原広沢の地を得た徐福船団の渡来者は、その地を永住の地と決めた。そう考えると「吉野ヶ里遺跡」と何か関係がありそうな気がするのは私だけではあるまい。

【おわりに】
 イギリスの科学技術史研究家のジョセフ・ニーダムは『中国の科学と文明』のなかで「徐福とその配下がどこへ行ったのか将来も恐らく知ることはできないだろう。しかし、植民者たちがどんな帆を持っていたか、あるいは、どのような手段によって広い水域を越えて船を操舵して行ったかについては全く推測の及ばない問題ではないのである。」と述べている。この言葉にしたがって徐福の航海を科学してみた。





第2回講演概要

     日  時   平成28年7月9日(土) 午後2時~3時30分

    場  所   神戸海洋博物館 ホール

   講演題目  「新米が着いた!~中世『兵庫北関入舩納帳』の語るもの~」

   講演者   NPO法人神戸外国人居留地研究会会長 神木 哲男 講師

   参加者   70名


 講 演 概 要  (編集責任 NPO法人近畿みなとの達人)

はじめに
 今年の講演のサブテーマは、「人・ものを運ぶ舟・舩、みなと、そして神戸」と「舩」の字が使われているが、本日のテーマの「兵庫北関入舩納帳」と同じ「舩」の字が使われている。「舩」は「船」の異体字であるが、全く同じ意味である。全て「ふね」は、水の上に浮かべて人や物を運ぶ交通機関のことで、中が空洞になったものである。「舟」は、小舟を指すが、「舩」も「船」ももう少し大きな「ふね」である。本講演の表題「兵庫北関入舩納帳」の中身には、数字が多く出てきて、無味乾燥とも思えるが「兵庫北関入舩納帳」は貴重なまた珍しい資料なので紹介する。

1 中世の瀬戸内海
 中世の我が国は、源平合戦が終焉を迎え、源氏が勝利し、山陽・四国・九州の平家没官領へ東国武士が移住し、平家が支配していた地域が新しい支配者東国の武士の支配下に置かれるようになった。新しい支配者は、経済力の増強に努めた。
 先ず、農業の発展が挙げられるが、水車・竜骨車(足で踏んで水を揚げる)が開発され、また、灌漑設備も改良されて、田地の安定利用が進むようになった。新品種の開発が進み、ナス、ゴボウ、スイカ、ゴマなどが、新たに作られるようになった。大唐米(赤米)も新品種である。効き目の強い肥料(魚肥=ほしか)の使用が始まり、山陽・北九州における二毛作(米のあと、綿・菜の花など色々な物を植える)が普及した。二毛作は暖かい所でないと出来ないが、瀬戸内はこれに適した気候であった。このように特産品の創設が見られるようになった。
 商品の流通を司る市場も那波浦市(相生市)、西大寺市(岡山市)、福岡市(瀬戸内市)、沼田市(三原市)などが出来た。福岡市は、一遍上人絵巻物にもその賑わいを示している。(右図 福岡市の繁盛)
 これらの市からの商品の積出港として室津(兵庫県室津市)、牛窓(岡山県)、下津井(倉敷市下津井)、塩飽(丸亀市)、尾道(尾道市)、鞆(福山市鞆)、上関(山口県上関町)、宇多津(香川県))などが港町として発展するようになった、
 一方、兵庫津は、京都の大消費地に向けて瀬戸内海の港から積み出された商品の陸揚げ地として栄え、瀬戸内海・街道のターミナルの機能を持つようになった。兵庫津では関所を設け、出入りする船から一定の割合で米銭を徴収(関銭)し、これを港の修築費用に充当 した。
 関所の設置と関税(出入港税)の徴収は、14世紀初め東大寺が朝廷に請願して確立した制度で、延慶元年(1308年)東大時別当僧正聖忠が、港の修復と東大寺八幡宮の修復のため兵庫の津に関所を設け関銭を徴収することを朝廷に請願、許可されている。これに関しては文書が残っており、朝廷では東大寺が責任を持って実施することとしている。これにより、年貢米・その他の商品を積み兵庫に入港する船から「升米」1石につき1升(1%)、出国する船から「置石」1石につき1升(1%)、を徴収する権利を認められる。徴収した関税は港の修築・整備に使用し、剰余額が東大寺の収入として、八幡宮その他の堂塔の建設・修復に使用することとなり、東大寺の兵庫津における関税徴収権が確立した。この関銭の記録が「兵庫北関入舩納帳」である。

2 「兵庫北関入舩納帳」の発見
 大正12年(1923年)刊行の「神戸市史資料編」に、東京大学文学部所蔵の「兵庫北関入舩納帳」 文安2年(1445年)1月~2月9日までの入港記録と表紙が記載されていた。(左写真) 
昭和39年(1964年)林屋辰三郎氏(当時立命館大学文学部教授)が、京都の古書店で古文書の入った箱を購入したが、その中に東大寺文書が多数収納されていた。その中に表紙と最初の部分(2月まで)が欠落した関銭徴収簿が存在した。帳簿の最後は文安3年1月10日まで記載されており、文安2年3月から翌年1月10日までの記録と判明した。東大所蔵の資料と林屋氏発見の資料は同年のものと判明、500年ぶりに繋がった。すなわち、文安2年(1445年)の「兵庫北関入舩納帳」が500年ぶりに再会したこととなった。
 これにより1445年1年間の瀬戸内海から兵庫津に入港した船の記録が揃った。積み込まれた商品の1年を通じての総量、季節変動・地域変動などが明らかになり、中世瀬戸内海の商品流通の解明が可能となった。3月以降の記録はかなりきちんとした物であるが、1、2月の記録はメモのような形態であった。当時は紙が貴重品であったことから、しかるべき時に転記するつもりであったようであるが、3月から改めて新たに始めようということとなったのでないかと思われる。

3 「兵庫北関入舩納帳」の語るもの
 「兵庫北関入舩納帳」は、右写真のような記載であるが、 ① 兵庫津への入港月日 ② 船の所属港=船籍地 ③ 積み荷の品目と数量、 ④関銭額  ⑤ 関銭の納入日 ⑥ 船頭名 ⑦ 荷受人(問丸名)が記載されている。関銭の支払いがされた場合は船籍地の右に印を付けている。この期間に関銭が納入されていない場合には、この印がない。免税品の場合は、記載はしているが左に印を付けて関銭も記載されずい(徴収されない)、区別している。
 積載品目を次頁表に示す。全品目は「その他」を入れて64品目で、塩は産地が表示されている。海産物も多い。
 兵庫津への年間入港数は、1937隻とほぼ1年間に2000隻が入港し、11、12月が多い。1、2月は資料が不完全であり全貌は明らかでない。
 入港船の船籍地数は106港である。瀬戸内海が大部分で九州は入っていない。港と隻数は図に示すとおりである。(右図:主な船籍地と廻船数)


積載品目
 の月別入津量は右表のようである。入舩納帳には、8月10日(今の9月初め) 地下(じげ)船(兵庫船籍)10石、 8月11日 三本松(讃岐) 70石、8月13日 尼崎(兵庫)新米5石 などと記載されている。

 表には、讃岐升 半双 などが書かれているが、讃岐升は、讃岐地方(香川県)で使われている枡で、讃岐地方産のコメであると分かる。半双は、取手の付いた盥で枡の代用として使っており、取手があって便利で、播磨地方(兵庫県)で広く使用されていた。この当時同じ1升枡でも地域によって量が違っており、従って何の枡で計ったかが分かるように区別している。なお、枡の統一は秀吉の時代に京枡(京都の枡)で統一されたが、それは相当後のことである。「その他」では何処の米か分からないが、讃岐は、讃岐米、半双は、兵庫産米と分かる。
半双は、10月から、讃岐升は、3月からが主で、始めに入ってくる米は、兵庫産で、やがて3、4月に讃岐産が入ってくる。早場米と晩生に分かれて入荷していることが現れている。米が年間を通して平均して入ってくることは、価格の安定化とも関係するのでないかと思われる。全体で3万石であるが、全てが瀬戸内海というわけでもない。                         
 赤米は、大唐米ともいわれ、東南アジア原産で、多収穫、干害・虫害にも強く、焚き増えがする。農民は米の多くが年貢として差し出さねばならないので、自分たちの食べる物は多少まずくても量が優先して赤米を栽培した。従って自家消費用であり、本来流通しない物であった。
 大麦・小麦は、米の端境期の6・7月に85~90%が集中している。
 山崎胡麻は、京都・山崎離宮八幡宮(石清水八幡宮の末社)で石清水八幡宮に灯油を献納しておりその原料である。油神人が組織され、全国に油の独占販売を行う、独占販売権を有していた。
 榑(くれ)は、建築用材木で、板の形をしたもので、屋根や壁の下張りに使用していた。四国産が多く、3万6千石入港している。京都に大名が多く入って来たことにより需要が増した。
 ツボは、ほとんどが伊部(いんべ)・片上港(備前市)所属の船に積載され、備前焼で、スリバチもあった。年間1175個が入津しており、備前焼がさかんに焼かれていて、水がめに使用するため、はるばる運ばれてきたと言える。

は、瀬戸内海の最重要・最大の商品である。塩の産地別・月別の入津量を纏めたものが下の表である。
 記録からどうして塩であるかが分かったかは、次のような記載があったことからである。
 「 室津 三原(淡路の三原)70石 235文(関税) 衛門二郎 木や」
   三原 シオ(三原産と分かる)45石 170文 又五郎 道祐」
 三原の船が三原産の塩を運ぶ時は、「三原」と生産地は書かず、「シオ」とのみ書いている。一方、室津の船は「三原」と産地が分かるように書いており、特に「シオ」と書かないルールになっていた。同様に、
 「下津井 しわく280石 1貫45文 衛門九郎  塩飽 シヲ5石 380文 将監 道祐」
と塩飽のシオも下津井と塩飽の両船で表現方法が異なっている。塩だけがなぜ産地を示すかは良く分からないが、質・味などの違いがあったのでないかと考えられる。
 産地は、嶋・小嶋・塩飽・三原・詫間・引田・備後(特定の地名でない)など17地域である。産地が、備後と呼ばれたのは、備後(広島県)・安芸(山口県)・伊予(愛媛県)を生産地域とする塩の総称で、入津量は5万1400石にのぼる。2番目の嶋(小豆島・香川県)産1万1400石以下上位5か所の生産地の小嶋(児島・岡山県)、塩飽(香川県)、三原(淡路・兵庫県)、方本(香川県)、宅間(香川県)はすべて東瀬戸内海に所在し、あわせて総量は約5万石である。備後は西瀬戸内海であり、東瀬戸内海地域(5万)と西瀬戸内海地域(5万)の二大製塩地域が形成されていたことが分かってくる。
 近世の塩の代名詞となる「赤穂塩」は、7月2日に地下船(兵庫船籍)が「あかう塩」30石を積んで入港しているが、量は僅かであり、この頃はまだ主生産地でなかった。赤穂が塩の代名詞となるのは江戸時代になってからである。

4 兵庫津について
 兵庫津は、大集荷基地であり、海道のターミナルであった。兵庫船籍の船を「地下(じげ)」と呼ぶが、廻船総数は296隻で、2位の牛窓(岡山県)の133隻を大きく引き離している。
(右表:兵庫津への地下船 商品別入津数 )

 積載品目は、43で全品目64の67.2%を占めている。中でも米は96隻と3隻に1隻の割合となっている。品目別の量は、1位・米=4600石 2位・阿賀塩=1340石 3位・榑=3790石 の順である。
 兵庫廻船の特徴の特徴を挙げれば、
 ① 廻船数が群を抜く、すなわち、廻船数296で、全体1937の15,3%である。
 ② 積載品目も群を抜いて多い。すなわち、品目数43で、全品目64の67.2%である。
 ③ 中・小型船を中心にして、多様な品物を迅速に輸送する。
 などが挙げられる。
 兵庫船籍の船は小型が多かった。勿論大型の船もあったが、大型船は遠くを航海する場合に使用された。安芸の塩を尾道で集め、名前を「備後」として大量に運ぶことは合理的であった。このような運航状況が伺えることを資料は示している。
 兵庫津には瀬戸内海地域の豊富な産物が各地の港から多様な廻船によって集められ、兵庫津が京都・奈良をはじめとする畿内各地への物流の玄関の役割を果たし、瀬戸内海最大の集荷地であり、大消費地としての畿内と、生産地としての瀬戸内海を結ぶ物流の結節点として最も重要な拠点となった。その意味で「海道のターミナル」と位置づけられたのである。

おわりに
 この後、兵庫津は西回り・東回り航路の開発により天下の台所・大坂の外港として、全国の商品の集散地として、北前船の寄港地として、2万人の人口を擁する海港都市として発展するが、この基礎をこの14世紀の時代に形成し、近世への橋渡しをした。
 このような時期に1年間の資料がほぼ完全に残っているのはまれであり、また貴重なことである。その意味で皆さんに「兵庫北関入舩納帳」について知っていただきたかった。




 

第3回講演概要

  日  時   平成28年9月24日(土) 午後2時~3時30分

    場  所   神戸海洋博物館 ホール

   講演題目  「水上交通を使用した中世法華僧の布教について」

   講演者    大本山本興寺貫首遶 小西 日 講師

   参加者   90名


 講 演 概 要  (編集責任 NPO法人近畿みなとの達人)

はじめに~問題の所在
 本講演会の年間のテーマは神戸を中心とした海上交通であると聞いている。以前瀬戸内海を紹介する書物が発行されて、日隆についても触れてあり、いろいろ調べたが、この書に書いてあることが記録と違っていることが分かり、このテーマについて研究するようになった。本日の講演の内容はこれに従っている。
 室町時代もその中に含まれる中世は暗黒の時代ともいわれている。これは宗教が現実の人々の生活に強く影響したため、これが社会を暗くする面があった。一向一揆、法華一揆などの発生も人々と宗教との関係を示している。このような時代に布教活動を行い西国布教に際して海上交通路を利用した日隆について語りたい。

1 尼崎本興寺の開創と変遷
 現在本興寺は阪神電車尼崎駅の南側にある。ところで、今日、法華宗と日蓮宗とは別の宗派であり、日隆は法華宗の僧である。
 本講演の主人公である日隆が創建した本興寺は、應永27年(1420年)の開創であるが、それに際して当時室町幕府の管領で、摂津の国の守護(大名とは少し違う)細川満元の支援が大きい。満元との関係は後述するが、日隆は尼崎に方8丁の土地を得て、本興寺を建立した。
 本興寺は、日隆が創建した京都本能寺(應永20年(1413年)建立)と兄弟寺であり、2寺は本能寺は布教の道場、本興寺は学問の道場として二つの拠点として存在している。はじめ一人の住職が兼務していたが、その後別々に住職を置き、両輪として進み今日に至っている。  
 当時の尼崎は大物の浦に代表されるように、港湾都市として存在していたが、この地に京都で修行した若い僧に広大な土地を与えるかという疑問が沸く。これについては次のような話が伝わっている。満元の夫人が懐妊し、女の子が生まれ母子ともに危ないと言われた満元は、男の子が欲しいので占い師に尋ねたところ、祈祷しかなく、尼崎の巽(たつみ)に来ている旅の僧に頼めと伝えた。満元は日隆に願ったが、初め断るものの祈祷をした結果、男の子が生まれたと言う。このほかにも何かはあったようだが、細川氏の協力が発展の土台となっている。
 時代が下り、江戸時代元和3年(1617年)に戸田氏鉄が尼崎に入封し、新たに尼崎城を築城するため寺域は召し上げられ、現在地に移ることとなった。文政5年(1822年)火災により多数の建物が焼失している。

2 日隆聖人略伝
 日隆は越中射水郡の武家の家に生まれ、本来の姓桃井家は足利一族で、足利家系図の最後に長直(長一丸)の名があり、これが日隆である。足利家は源家から発し、足利尊氏などに繋がるほか、桃井家、細川家にも分かれてゆく。桃井家の桃井直常は、南北朝時代の有名な武将であったが、その後足利尊氏の弟直義方について敗れ、桃井家は没落し、一家は越中の国射水郡浅井島村に蟄居し、その中に父桃井尚儀、母益子(斯波義正の娘)の元に至徳2年(1385年)長一丸・日隆は生まれた。(前頁:桃井家系図)  
 長一丸は武士にはならず、出家して仏道修行を志し各地で勉学修業をした。京都に出て妙顕寺に入るが、この寺は日蓮聖人の弟子日像、大覚の時に繁栄して勅願寺になっていたが、日隆が入山する時には比叡山により破却され、名前は妙本寺と変えられていた。ここで日隆は妙本寺貫首月明と対立し、ここを出ることとなった。これから自身の教学研鑽と布教を開始した。拠点は京都本能寺と縁あって布教を始めた尼崎本興寺であった。布教は北陸、近畿、瀬戸内海の兵庫、牛窓、宇多津など広範にわたり、このうち西国への布教に際しては海路を利用している。
 教学の面では、「御聖教」385巻が本興寺に伝承されている。江戸時代にはお参りした人が薬効を期待して少しずつ書物を食べることがあったが、当山28世日顕が修理し、現在に残ることとなった。また、尼崎に教義を教える学校として勧学院を開設した。ちなみに近代になって役所に届ける学校となったが、その時に「兵庫県で一番古い学校です。」と言われている。
 日隆聖人の像は左写真のようであるが、70歳を超えて身体不調が見られたため、弟子達が堺の仏師淨伝に依頼して姿を写した尊像を造り.開眼したという。昭和60年御像修理の際、体内より「御こつ」と記された包みが発見された。本人の顔を写したといわれているのでこれから聖人の声を再生している。

3 本興寺と細川氏
 細川満元との関係は前述しているが、満元は、永和4年(1378年)細川頼元の長子として誕生し、    應永19年(1412年)から同28年(1421年)まで管領・攝津の国の守護を務め同33年(1426年)卒すと伝えられている。したがって本興寺が創建(1620年)されたのは満元の管領の時代であり、日隆に寺地を提供することが出来たことになる。
 本興寺と細川家の関係が深かったものとして細川氏の文書が多く残っている。その一つが満元の孫勝元が畠山氏に出した書状(左書状)や春元の書状が残っている。
 また、「おふ方どの」あての日隆の書状(右書状)では、身分のある未亡人である「おふ方どの」への日隆からの礼状である。文中に「三すじ」に対する礼状であることが分かるが、これはお金か織物のことであろう。このように本興寺と細川氏とは深い関係にあったことが想像できる。

4 日隆聖人の布教について
 日隆の布教活動の成果は、①新たに寺を起こした創建、②従来の宗派からの改宗、③同じ法華宗での転派、④寺号授与のほかに⑤門流に帰したという伝承 の5つが数えられる。
 ①創建については、京都:本応寺、河内:本厳寺、尼崎:本興寺、加納:法華寺、備中:本隆寺、宇多津:本妙寺、堺:顕本寺が、②改宗については、敦賀:本勝寺(真言宗→法華宗)、色が浜:本隆寺などが、③転派については、兵庫:久遠寺、淡路:妙勝寺、妙京寺などが、④寺号授与二ついては、牛窓:本蓮寺備前:長遠寺などが、⑤門流に帰したとの伝承としては、尾道:妙宣寺、山口:本圀寺、撫養:安立寺 が記録に残っている。 
 日隆は、布教に当たって祈祷を行うとともに霊水を湧出させた伝承が残っている。例えば、祈祷では、河内本厳寺の火伏の祈祷、宇多津本妙寺の水源確保の祈祷、色が浜本隆寺の疫病退散の祈祷、前述の本興寺の変成男子の祈祷が伝えられており、霊水の湧水では本興寺の霊水「金水」、宇多津本妙寺の鳳凰水、牛窓本蓮寺の御霊水、加納法華寺の筧の霊水などの霊水湧出が伝わっている。
 布教のルートは、地域別に次のように3つに分けられる。①尼崎→兵庫→牛窓→備中→尾道→宇多津、②京都→敦賀→色が浜、③河内→加納(正成の出身に近い所)→堺 。いずれも、当時港町として知られた都市であり、あえて港町を目指して布教したということが考えられる。
 日隆の布教のあとをたどる地図を見れば、備中牛窓までは確証があるが、尾道、山口に関しては記録には残っていない。日像聖人の弟子であった大覚は、京都から西国、広島に布教をしていた。日隆は。大覚の布教の後を辿ったものと考えられる。後に、祈祷などの功績により、日蓮に大菩薩号、日朗、日像に菩薩号、大覚に大僧正の位が授けられている。日隆当時、法華経中の「本門」と「迹門」のいずれが勝るかの論争があり、これを正すために日隆が諸国を巡ったものと思われる。

5瀬戸内海の運輸と尼崎の地理的条件
 古代から瀬戸内海は、海上交通路として使われてきた。京都から淀川を通り瀬戸内海に出た所が尼崎であり、ここから兵庫の津を経て牛窓など西へ船を進めていった。
 当時の交通は大変不便であって、陸路で馬の使用も考えられるが、宣教師が「日本の馬は小型のため、貧相で輸送には適さない。」と記録している。従って陸路での移動は徒歩によるものであった。このような時代であったから船を利用する旅は盛んであったようである。一遍上人の絵巻物に、臨終に際して明石から須磨に船に乗せて海岸を信者が綱で引いて移動したということもある。このように、陸路より海上を通るほうが便利であったと言える。
 12世紀の大型の船が絵巻物に描かれているが、大型といってもこの程度の小さなものであった(上図:12世紀の船)。尼崎では大物の浦が港であったが、後の時代には堺が大きな港となってきている。
 従来水運の対象は、沿岸諸地の庄園から中央に運ばれる年貢物と沿岸各地間の商品の輸送であった。日隆の時代には、瀬戸内海の荘園が従来から次のような点で変わって来た。すなわち、① 荘民の荘園制支配(支配者は都にいる)に対する抵抗が強まった。② 荘園領主の収取が、国家的秩序を背景にした収取から、現地の武家勢力を請負代官とする支配へと転換した。③,貨幣経済の浸透を前提として、年貢物が代銭を以て納入されることが多くなった。従って、お金を送らず為替として送ることとなった。
 このように、年貢物の輸送が減少し、貨物としての商品の輸送量が増大して、輸送の組織についても変化が起こってきた。荘園領主に従属する「梶取」は、年貢を運搬する一方民間の船を所有する運輸業者へなり、「梶取」の名称も消滅して「船頭」の名称が現れるようになった。「船頭」とは、船を運航する責任者であり、「船頭」の下で働く「水手(かこ)」が専業化するようになった。このように独立した運輸業者が現れることとなった。
 ここに、物資を銭貨に換える「問丸」が必要となってきた。「問丸」は、荘園制下では、①水上交通の労力奉仕 ②年貢米の輸送 ③陸揚作業の監督 ④倉庫管理 に携わっていたが、荘園領主から独立して、専門の貨物仲介業者、運送業者へとなった。また、輸送物を遠方まで直接運ばず、所在の商業地で売却して現金を受け取るような形態が生まれてきた。「兵庫北関入舩納帳」には、問丸として、道念・道祐・木屋・豊後屋・孫太郎・衛門大郎・二郎三郎・衛門四郎の名前が残る。問丸は、現在の商社の役割を行っていたこととなる。

6 有徳人について
 徳を持った人を表す有徳人という言葉があるが、有徳人は商業に従事するか、地元の有力者であって、財をもって社会に貢献、また、社寺に多額の寄進を行う人である。日隆にかかわる各地の有徳者としては、
     京    都  小袖屋宗句、 尼崎巽浜 米屋次郎五郎。
    備中高松  川上道連・江本蓮光  堺 木屋某・錺屋某、
    敦    賀  紺屋五郎衛門、 越前色浜 刀禰 某、
    兵    庫  正直屋某
などが分かっており、備前牛窓には、船を持った現地の土豪石原但馬守道高、兵庫北関入舩納帳の尼崎の欄には、衛門次郎、衛門太郎の名前が問丸として出てきている。
 本興寺の「寺領屋敷地所当収日記」には、建立間もない時期に土地、家屋買得の記録が残り、①尼崎覚道 ②豊嶋屋二郎四郎 ③ 奈良屋衛門二郎 ④北寺南盛坊 ⑤彦四郎 ⑥道見 ⑦弥三郎兵衛 ⑧今倉道祐 ⑨衛門五郎 ⑩又二郎 ⑪左近三郎 の名前が記されている。
 衛門五郎には、日隆より香の寄贈に対する礼状が残っており、また、日登から多量の抹香(5斗)に対する礼状が残っている(上書状)。香は、日本に産出せず東南アジアよりの貿易品であり、書状によるとこれを扱える問丸であり、また、信者であったであろう。このように、各地の港に信者がいたと考えられる。「納帳」の衛門太郎には、日隆が曼荼羅本尊を授与している。
 瀬戸内海には海賊も出るので、これに対するために別の海賊を乗船させたりする対策も必用であった。そして海賊間の交渉により通行していたようだ。ちなみに朝鮮通信使も海賊を怖がって同様のことをしていた記録がある。
 一方、陸路では兵庫から都までに3日はかかり、馬賃、宿賃、食事代、酒代など経費が掛かるほか、橋 賃、草鞋代 などの多くの支出が必要である。また、関所が設けられておれば関銭が必要であり、我々が考える以上に中世の通行は大変であった。このような情勢の中で日隆は大きな成果を挙げたが、多くの人の支えがあり、日隆を取り巻く有徳人の海運業者が信者ともなって助けたと考えられる。
 「アジア仏教史」には有徳人のことが出てきていないが、これまで出なかったのは、本興寺が資料を公開していなかったことも一因であろう。
    
おわりに~日隆以後の法華宗の教勢
 日隆の入滅後3年目に京都を焼き尽くす応仁の乱が起こった。また、叡山との論争などが生じ、天文法華の乱が起こり、叡山に武将が味方したため法華の21ヶ寺は焼き尽くされ、京都から追放の目に会い堺に逃れることとなった。6年後に京都に帰ることが許され15本山が存続することとなった。
 もともと日蓮は、法華経が皆を幸せにするという信仰から、「立正安国論」を著し鎌倉の執権に上奏したが受け入れられず、時の権力者からの迫害にあってきた。宗門では宗論が行われたが、信長の時代にも仕組まれた「安土問答」に敗れたので、今後問答は止めようということも言われた。
 日隆の時代に、種子島の僧が堺で種子島行きの船を待つ間に尼崎で日隆に会い、論議して歯もたたず、とてもかなわないと弟子入りして日典と名乗り、やがて帰国して法華の布教を始めたが、迫害を受けた。しかしこの後兄弟弟子が替わって布教し、種子島、屋久島、口永良部島の全島が法華に改宗した。この後鉄砲が種子島に伝来し、尼崎・堺―京の鉄砲のルートが出来てきた。鉄砲の伝来は、本能寺。本興寺に幸いをもたらし、本能寺には信長からの鉄砲に対する礼状が残る。このように、信長との関係は良好であり、信長が本能寺で最期を遂げたのもその縁であろうか?武将が本能寺、本興寺には自分の軍勢は立ち入らないという「禁制」の文書を出している。勿論只ではこのような文書を発するわけでなく、当然代償としての戦費を送ったのであろう。この禁制の効果であろうか、本興寺は戦火によって焼かれた記録はない。本能寺は京都にあったため何度も戦火に会い、周知の通り信長の最後にあたり焼失している。
 禁制では、三好長慶の時代に法華宗は三好の後援を受け、斡旋により勅願寺となった。その頃寺内町という組織があったが、これは本興寺の力の及ぶ(支配する)範囲を示し門前町ではなく、かなり広い範囲を支配していたことが分かる。寺としてもかなり経済力を有していたことが知られる。
 江戸時代に入り、徳川幕府は関が原で勝利を得たというものの西軍を恐れ大阪城を守る西の関門として尼崎に城を築くこととした。尼崎城の用地として幕府は本興寺の土地に目を付け、寺としては大変なことになったが、抵抗は出来ず移動を余儀なくされ今の地に移った。徳川時代は宗教統制が始まり、どの宗派も幕府に敵対できなくなった。法華宗では教学研究が盛んになり、また信者間の活動も盛んになってきた。
 本日は、中世日本の有数の港であった尼崎を拠点に、当時の有力者あるいは海運業者の力を借りて法華僧が海路を使って活動したことをお伝えした。


















第4回講演概要


    日   時   平成28年10月8日(土) 午後2時~3時30分

    場   所   神戸海洋博物館 ホール

    講演題目  「江戸期の海運と神戸」

    講演者   神戸新聞執行役員総務局長
            (神戸深江生活文化資料館館長) 大国 正美 講師

    参加者   75名



講 演 概 要 (講演者未チェック 編集責任;NPO法人近畿みなとの達人)

はじめに~問題の所在
兵庫津。神戸の近世海運史の中での役割
 神戸開港三十年史では、「神戸は開港以来の新しい町で開港までは寒村であった」との記述があるが、兵庫津には浜本陣という全国唯一の大名が止まる宿ではなく物資を一手に引き受ける本陣が存在していた。それ以前にも清盛が開発した古代からの港であり、神戸と兵庫津を分けて考える必要がある。江戸時代初期には、廻船の拠点であり、兵庫津、神戸から大坂に物資を送りこれをさらに江戸へと運ぶ西国の物資を一手に引き受ける重要な役割を持っていた。幕藩体制の中で次第にその役割は変わってきており、単に一つの観点から考えることは誤りである。

近世と中世の違い
 中世では兵農未分離の有力武士が割拠している状態であったが、信長時代には武士か農民かいずれかを明確にするようになり、さらに秀吉の時代には農業を行うものは村に住み、武士は町に住むようにされた。このように近世になって兵農分離が進み専業の武士が都市に住むようになり、江戸は100万人の人口を有する当時世界一の都市となってきた。江戸は大消費地となったが、諸国の物資は大坂に持ち込みそれを江戸へと運ぶシステムが出来上がった。そこで大坂は天下の台所と言われたが、川が埋まりやすい欠点があり、西国の物資は先ず兵庫津に集めて大坂に運ぶことになった。スムーズに江戸に物資を運ぶことが重要で、安定した物流により物価安定を図るため幕府は神経を使い、これが幕末まで続いた。
    
1 近世前期の兵庫津・神戸の海運業
天下の台所の流通網・・1660年台にほぼ確立
 江戸期に入り、集約的な農業の発展、西廻りの航路の開拓、西国大名の物資の集約、江戸への航路確立、参勤交代制度の定着によって、1660年代には天下の台所である大阪を中心とする流通網がほぼ確立している。江戸の経済圏は膨張し、これに伴い上方から江戸へ物資を運ぶ菱垣廻船、酒を専用に運ぶ樽廻船が開発された。1640年頃から農村では下人、諸従を使って農耕する形から、下人、諸従は独立して土地所有者となって農業に従事するようになった。それまで一族による農業経営が直系家族のみによる農業経営に変化してきた。このことから富が安定的に行き渡る時代になり全国流通網が構築されるようになった。
 それまでは加賀など北国の物資は、加賀―敦賀―琵琶湖―京都―大坂のルートで運ばれていたものが、加賀―下関―瀬戸内海―大坂のルートに変り河村瑞賢などが活躍を始めている。しかし途中の寄港地は未整備であり困難を伴った。菱垣廻船はどのような荷物も積めたがスピードが遅く、傷む商品の運送には適さなかった。腐る恐れのある酒はスピードが必要であり、樽廻船が開発され上方から江戸へ多くの酒が輸送されるようになった   

近世前期の船数と船籍地
 天和―貞享年間(1681~88)兵庫から尼崎までの船数を見れば、廻船では二茶屋(現在の元町)114、神戸37、兵庫23とこの3港に集中している。約50年後の1734年(享保19)年の廻船は、二茶屋94、神戸44、西宮44(酒屋の発展)、御影37、兵庫津9、今津4、大石2 と変わっている。1719~26年に但馬・今子浦に入港した摂津の廻船は 二茶屋41、大坂32、神戸(現在の大丸付近)16、脇浜11、兵庫0と、二茶屋は大坂よりより多く兵庫津からの廻船はない。兵庫津は廻船自体以外に少なく渡海船と漁業の町であった。廻船は大きなものでは1000石を積む。
 兵庫の上荷船は、通常の上荷船が20石から30石積であるのに比べ40石積から100石積と大きいが、廻船1隻に対して少なくとも10隻必要である。渡海船は、上荷船とよく似た船であるが、兵庫周辺、西宮、尼崎が主で、大きさでは兵庫、西宮、尼崎の順であった。尼崎は渡海船が多いといっても漁船のほうが多く兵庫津とともに都会と思われてはいるが、実は漁船の多い漁村であった。当時兵庫~尼崎の海岸線は尼崎藩の所領であり、海の労役を果たしていない村は、船を持つことが出来なかった。
 江戸時代、大和川は淀川に合流し、殆どすべての川は大坂河口に集結していた。そこで淀川の河口である安治川は砂が埋まり易く直ぐに埋没するため淀川を遡ると座礁する恐れが大きかった。そこで安全のため兵庫津で小さな船に積み替えて、大坂の安治川から中の島の蔵屋敷に物資を運んでいた。このように兵庫津は、廻船は少ないが大坂へ運ぶ中継地として栄えた。
 
絵図に見る海運で栄える港町
 17世紀中期ごろの兵庫津を描いた屏風「摂津国名所港津屏風」(右図:堺市博物館に所蔵)には、活気があふれている様子が描かれ、商業集積が進んでいるようであるが。しかし屋根は大半がまだ中世的おもむきの板葺きであり、船も多数見られるが、まだ小規模と言える。1696年の湊川付近の絵図では、兵庫津には江戸初期になかった町(宮内町・北宮内町・川崎町・西出町・東出町)が出現し、兵庫津より東に湊川に向かって民家が立ち並んでいる様子が分かる。1667年に作成された「摂津国花隈之城図」は、境界争いがあったため正確な絵図を作ったものであり、花隈城跡付近も街並みが連続している。
 1719年の「福原庄6ヶ村生田村山論絵図」(右図)は、神戸・走水で山争いがあり、測量を行って作成した絵図であり、神戸・二茶屋・走水と連続する町並みの形成が分かる。二茶屋、神戸村は17世紀後半まで町続きで、18世紀前半には居留地を除けば人家が密集していた。
 1719年から26年に但馬・今浦港に入港した摂津の廻船の記録を見れば、二茶屋41、大坂32、神戸(現在の大丸付近)16、脇浜11、兵庫0と、二茶屋は大坂より多く、また兵庫津は無い。廻船は神戸、二茶屋などで積み替えて大坂へ行き、大坂で菱垣廻船に仕立てられて、兵庫津は大坂の外港の役割を果たしていた。
 
2 近世中期の大坂上荷船・茶屋仲間と兵庫津・尼崎の積荷論争
大坂上荷船・茶屋仲間
 大坂は始め幕府の直轄地で、家康の孫の松平忠明が大坂藩主となった。大坂の陣の戦乱の後で荒廃していた町の立て直しを図ったが、そのためには労力が必要であり大坂は川が多いことから物資輸送に川を使うこととし、大坂の川船が協力し、その見返りに大坂の川中を走る特権を得た、大坂の川船は、周辺の船と激しい営業争いを行って、大坂の川の流通を独占しようとしていた。大坂の川船は一人乗りで上荷船、茶船は20石積み程度で、安治川河口から中の島へ、更に天満へ遡っていた。
 1600年代末より新しい流通体制が確立し、各地の物資が兵庫津へ集積されて、兵庫津から大坂に運ばれるようになった。大坂側では大坂市中への他の所属の船の横行を大目に見られなくなり、ここに裁判が起こされるようになった。
当時尼崎藩は兵庫津も支配下においており、兵庫津から尼崎の船に対する対応を行っている。

尼崎藩の政策と幕府の方針
 1685年尼崎藩は事実上始めての海洋法と言える、これまでの法令を整理した「浦条目」を制定した。この条目には、浦方の義務、海難の救助、漂流物の所有権、船員の義務、運賃の規定などを定めている。神戸・二茶屋規定、廻船石高の規模規定、上荷船の増加禁止、兵庫津におごりをさせぬため兵庫奉行の監督、他国船問屋増加禁止、東西須磨村規定なども含まれ、守れない場合の死罪規定もあった。また、大坂の川中で紛争があった場合、理があっても兵庫側を処分するとしているが、通説の解釈では、「藩は幕府と対立することを避けようとした」と幕府追随説であるが、実際は違っているのでないかと思われる。(大坂上荷船右図)
 1693年に極印のない(許可のない)船は大坂に入れないとの触れを出し、翌年も同様の触れを行っている。大阪以外の船が大坂に入る時は通行料が必要であったが、大坂側は更に要求が強くなり、「帰りは空荷にすべし」と言う要求を出している。
 この時代の尼崎藩、大坂町奉行の対応の経過を示せば、次のようである。
 1690(元禄3)年、尼崎藩は大坂市中への運賃定(淀川の蔵屋敷地域まで)を定める。
  ―尼崎藩は大坂川中まで兵庫の船が入り込み輸送する前提としており、単純な幕府追随ではない。
 1693(元禄6)年、大坂町奉行が極印のない船は荷物を積むことを禁止(翌年再令)。
 1696(元禄9)年、大坂町奉行が蔵屋敷の船も荷物を積むことを禁止。
 1697(元禄10)年、尼崎渡海船の紛争;大阪市川中での荷積み中、大坂上荷船・茶屋船仲間が妨害、
尼崎側が大坂町奉行に訴えるが敗訴、大坂川内での営業特権の証拠を求める。―この直後から、大坂上荷船は、安治川河口の芦分橋に番船を配置、乗合人を乗せさせず、帰りは空船にさせる手段に訴えるー
 1698(元禄11)年、兵庫渡海船を大坂上荷船・茶屋仲間が大坂町奉行に訴え。兵庫側の全面敗訴
 1702(元禄15)年、尼崎渡海船の紛争;上と同様
 この頃以降から様子が変わってきて、尼崎藩も態度を変え、領内の船の保護に乗り出し始めている。1704(宝永2)年ごろ神戸。二茶屋。脇浜の木船を尼崎藩が強制入港し、尼崎の築地に市場が始まった。これは、尼崎藩の本格的な保護政策の開始であり、この結果、京都や伏見まで薪類不足で価格高騰し、各地から嘆願が出された。
 1706(宝永3)年、大坂町奉行は、従来通り大阪以外の川船も帰りに積荷を認めた。この年の別の筏流し禁制裁判で、大坂町奉行は大坂の川船が利権におごり運賃を高騰させているとして、大坂の船は敗訴している。幕府は大坂への流通網維持のため上荷船・茶船の特権を保護するのが基本であったが、自由競争排除が流通経費の高騰・流通量の減少の原因との認識に転換した。
 これ以後大坂の船は困窮することになった。

大坂への集荷減少と上荷船の困窮
 1700年代前半になると大坂へ入る物資が減り始めた。幕藩体制下の領主的な流通構造の弱体化によるものであり、幕府も物価を下げるために四苦八苦の状態であった。正徳年間(1711~16)には西宮。御影・脇浜・神戸・兵庫津で材木市が立ち、民間需要も出てきて脇野浜で積み替え大阪に着かないという地元売買、いわゆる地産地消の構造となって来た。1754(宝暦4)年に大坂材木商が材木市禁止を訴えるが敗訴している。材木のほか同様のことが油の売買でも出てきた。油は江戸初期には主に都市需要であったが、農村にも油の需要が高まり、初め人手で絞っていたものが水車の利用で生産が向上してきた。村や在郷町も消費者になってきて、大坂に運ぶよりは手前で売った方がてっとり早く利益が大きいので流通もこれに応じた形に変って来た。このような状態から 1779(安永8)年、大坂上荷船は困窮し、500艘のうち330艘が休業状態となって、幕府の新たな上納銀を払えなくなった。大坂町奉行も大坂を支援することは物資輸送のコストを上げることとなるので支援しなくなった。
 天文元年以降の大坂への移入品の数量は右の表のようであり(出典「大坂と周辺都市の研究:中部よし子編」)ほとんどの品目で減少している。

3 近世後期の兵庫津の海運の変化と北前船の展開
 伸び悩む兵庫津の渡海船
 1747(延享4)年、富山藩の領主米を神戸・二茶屋村持ちの廻船で神戸・二茶屋浦に入港し、兵庫で積み替えず大坂に直行した。兵庫側は積み替えを「定法」と主張するが、根拠がなく却下される事件が起こった。また、1769年に今までの尼崎藩が領主であった地域が幕府の直轄領となり、幕府統制が強化されて今までのように尼崎藩の保護が受けられなくなった。このため兵庫津の渡海船は伸び悩むことになって来た。

勃興する北前船
 北前船では、従来は運賃をもらって船主が運ぶ「賃積船」の輸送業者であったが、各地で積み込んだ商品を売り買いする「買積船」となってきた。北前船の航路は、春先に兵庫・大坂を出航、瀬戸内海~下関~日本海を経て初夏に北海道に至り、帰りは、初夏~夏に北海道を出発、秋に兵庫・大坂に着く経路をとっていた。「下り荷」は、米・酒・そうめん・脂などの食料品、木綿・木綿古手・足袋などの衣料品,たばこ・塩・陶磁器・紙・蝋・鉄、筵などで、東北では木綿などが不足し、古着を刺し子にしていた。「上り荷」は、身欠きニシン・数の子・ニシンのしめ粕・昆布・アワビなどで、北海道の昆布は、上方で昆布出汁となり、江戸の炒り子と違う出汁文化も生んだ。
 北前船は、船の商社とも言え、船頭の才覚で極端な価格差を利用し、各地で売買を重ねて航海した。このため大坂に届く物資は減少してきた。在郷消費の拡大は、幕藩体制を脅かす流通構造を作り、天下の台所と言われた大坂は地盤沈下が始まった。北前船の中心であった兵庫津は、18世紀前半までの「大坂の外港」から変化し、大坂を疲弊させる港となって、西国経済の民間需要を支えるいわば官を支える港から民を支える港へと変化してきた。

兵庫・神戸を代表する北前船主
 兵庫津を活動の中心とした北前船の代表的な船主を紹介する。
(北風彦太郎)17世紀前期、加賀藩の米を大坂に運ぶ(北前船の嚆矢)、18世紀後半に衰退。
(北風荘右衛門)(鍛治屋町)問屋で1706年に廻船6隻、1805年蝦夷地御用取扱人、養子正造が1858年に幕府函館産物会所の兵庫出張所用達。しかし討幕運動に参加、北前船の経営から離れる。
(俵屋孫三郎)(神戸村)1771年廻船15艘所持、1778年近衛家用達、18世紀末期が最盛期、1793年(越後)・1794年(越後)、1806年(伊勢)で相次ぎ難破。
(工楽松右衛門)(佐比江町)1779年頃、船頭から独立、御影屋、松右衛門帆、幕府の命で蝦夷地にわたり波止場構築、工楽の姓を与えられた。1810年ごろから高砂に戻り、姫路藩廻船船頭となる。
(高田屋寡兵衛)(西出町)淡路出身18世紀末期に北風家の船頭から独立、函館大町に本店、択捉島開拓、蝦夷地御用定雇船頭、択捉・根室の場所請負の特権(アイヌからの独占仕入れ)を得る。廻船12艘を弟金兵衛に継ぐが、密貿易の疑いを掛けられ処分される。
(井上善右衛門(日向屋))1760年代から70年代にかけ絞り油業経営、廻船加入、出資を経て北前船に進出、1803年に初めて松前通廻船渡世、国後の請負場も譲り受け、妙栄丸(青森県・深浦の円覚寺に船絵馬)など所有。明治には西洋帆船購入、価格差縮小で東京市場へ出て、賃積輸送も進出した。
 船主には元々船乗りが北前舩経営に進出したが、中には破船によって没落する例も見られた。18世紀後半以降は西摂津海岸が幕府領になったこともあり、幕藩領主と結びついて特権を得た。
  
おわりに
これまでの話で幕末に向かっての動向をまとめてみる。兵庫津の船の構成は、渡海船が減少してきたのが幕末には増加を示している。これは、北前船の効果や周辺の消費の増によるものである。幕末にかけての町並みは東出町、西出町、東川崎町が発展し空地が減少している。開港場の変更は、居留地が必要であるため空地の少ない兵庫津から神戸に移ったのであろう。西国・北國の産物を大坂に集め江戸経済を支える構造が崩壊し、兵庫津は幕藩体制を支える大坂の外港から地域経済を活性化させる流通構造の担い手に変って行った。神戸村には幕末に勝海舟の海軍操練所や舩たて場が設けられており、神戸港を全体像としてとらえてゆくことが必要である。


第5回講演概要
    日   時   平成29年2月4日(土) 午後2時~3時30分

    場   所   神戸海洋博物館 ホール

    講演題目  「神戸と結ぶ瀬戸の島々~よみがえる内航旅客船」

    講演者   神戸旅客船協会会長(加藤汽船社長) 加藤 琢二 講師

    参加者   88名



講 演 概 要 

 (講演者未チェック 編集責任 NPO法人近畿みなとの達人)
はじめに~瀬戸内海における近代海運の起こり~
 講演者の自己紹介を兼ねて、日本の海運の起こりと国内旅客船の発展を、講演者の会社・加藤汽船と例にとって紹介する。
 明治2年西洋型船の民間使用が認められた。江戸時代は帆掛け船を使っており、西洋型の船は各藩は持ってはいけないことになっており、日本の近代化とともに解除された、明治3年岩崎弥太郎が西洋型の船を使用し始めたが、岩崎は東京の人間である。神戸では光村弥平が神戸―大阪に運航を始めた。
 明治10年に西南戦争が起こり、神戸が九州出兵の兵站基地となり民間船社が一気に参入70社、110隻に及んだ。講演者の会社・加藤汽船は当時加藤海運と言い、讃岐藩の米屋であったが船1隻で参入2隻の帆船を借り受け神戸・大阪と松山の間で運航を始めた。ところが、西南戦争は明治10年9月に終結し、7ヶ月の海運バブルは終わり、船腹過剰から貨物がなくなり競争が激化した。それに加えてこれまでの大隈重信の積極財政から松方正義による緊縮財政に変ったことから、益々船社は苦しくなってきた。
 明治17年に住友財閥が中心となり大阪商船が設立された、大阪商船は93隻の船を有し。118の航路を運航した。明治17年の日清戦争。27年の日露戦争そして大正3年の第一次世界大戦と戦争とともに大阪商船は大きく発展していった。神戸では日露戦争時に乾汽船、山下汽船などが設立されて順調に発展していった。
 加藤汽船は香川県の会社であったが本社を神戸に移し、内航で活躍した。しかし第二次世界大戦で所有船舶は徴用され会社活動は停止状態となった。ほとんどの船が失われたが、生き残った船1隻で、昭和24年に航路を再開、昭和30年代には高度成長から車社会の幕開けとなり、フェリー中心に運航した。昭和36年宇野~高松の宇高フェリー、昭和44年阪神~高松のジャンボフェリーと進んだ。 昭和40年代の本四架橋の影響もあり、陸の事業にも進出することとなった。例えば放送局(KBS瀬戸内海放送)にも手を広げている。(右写真:フェリーの状況) 
 阪神淡路大震災により青木フェリーターミナルが被災したが、多に移ることなく、現在の瀬戸内海のフェリー輸送をおこなっている。

◎ 瀬戸の島々と神戸
 瀬戸内海の島々としては。①伊吹島、②塩飽諸島、③女木島、④直島諸島、⑤小豆島について述べる。(左図)
 1)伊吹島
    伊吹島は、観音寺から船で約25分、「いりこ」の島で、年間2700トン、全国第5位の生産額を誇る。伊吹島のいりこは品質が良いことで知られている。いりこは獲ってからどれだけ早く茹であげるかが勝負であるが、伊吹島のいりこ作りがどれだけ素早いかというと島の周りがいりこの漁場なので、島の周りでいわしを獲るので魚をいためない。二隻曳き「バッチ網」漁で獲った魚は輸送船に移して急いで島へ横づけし、島に戻ると、船に太いホースを突っ込んでホースで吸い上げ釜に入れ茹で上げる。これまでの時間は船がついて約20分後である。
    島の様子まるで迷路のような 路地ばかり、島で唯一の食堂のメニューは、「いりこ飯」、 「いりこうどん」、「ぶっかけうどん」といりこが主流となっている。この島の当地グルメは、「洋食焼き」 であるが。これは、泉州の食べ物である。これは、伊吹島から泉州に出稼ぎに行っていたなごりである。伊吹島は貝漁業で有名であったが、その後いりこに変った。昭和40年代貝をとる船団が泉州へ出稼ぎに行き、その時に「洋食焼き」を移入した。
  息吹島と神戸のつながりというと、三好家である。三好長慶は、摂津を本拠とした室町末期の天下人で、兵庫藩を保護して自らの軍事に利用していた。息吹島の島民は、三好長慶の末裔である。 
 長慶の子・義継は、信長に攻められて自害した。その子 義兼、義茂が、流れて伊吹島へ至った。 
 現在でも島民の大半は「三好さん」である。三好の故郷・徳島の武者行列に伊吹島の人々が参加して いる。
 2) 塩飽諸島
  塩飽諸島は、大小28の島からなり、うち有人13島、全体で約2千名の人口である。
  塩飽諸島のお国自慢は、① 塩飽水軍 ② 塩飽  大工、 ③ 自治制度 である。
  一つ目の 塩飽水軍は、村上水軍と違い武器を持たず、 元禄期までは幕府のコメを輸送していた。島の廻船業の全盛期は、江戸元禄期 幕府の御城米輸送を独占的に扱う特権を持っていたが、享保の改革で、特権を失い、江戸商人の下請けとなり、衰退、しかし明治までその伝統は続いている。(上写真:弁財船)
 咸臨丸の水夫の殆どは塩飽の人々で50名中35名であった。
 二つ目は塩飽大工である。
 享保以降、島の廻船業が衰退し、船大工の技術を生かして「宮大工・家大工」に転身した。明治の初め島の三分の一が大工であった。作品としては、 例えば 岡山 国宝吉備津神社社殿、同西大寺。香川の善通寺五重塔などがある。 
 三つ目は島民の自治 「人名制」である。これは、水軍の功績で明治まで、全国で唯一続いた。 
 自治としては、選挙で代表を選び中心は勤番所(前頁写真)である、 
  本島は、塩飽諸島を古くから束ねていた中心の島で、現在、面積約6k㎡、人口約600人である。本当の見所は、前述の勤番所、塩飽大工の見事な作品集で、国指定の伝統的建造物群の笠島集落(右写真)で、古民家を利用した洒落たカフェもある。
 塩飽諸島と神戸とのつながりは、 神戸家具(洋家具)である。神戸は「西洋家具発祥の地」であり、笠島地区の元塩飽大工真木家の真木徳助 が、明治の初め神戸に出稼ぎに来ていた、加納町に製作所を儲け、外国人が神戸に持ち込んだ家具を真似て作り、注文に応じたのが最初である。
 神戸で、家具・指物細工として活躍した「塩飽大工」は、真木徳助のほか、溝渕和太郎が、明治7年下山手に創業、大木悦次郎が、三ノ宮横町で営業を始めている。塩飽大工は家具以外にも神戸で様々な活躍をしている。例えば神戸海軍総連所、湊川神社などの建設である。
 塩飽諸島ででもう一つ紹介したい島が、多度津港から船で約50分のさなぎのような形の島佐柳島(さなぎじま)である。この島は、猫が人間より多い「猫島」である。この島のグルメといえば「茶がゆ」で、 昔から有名であり、特にお茶が特殊である。高知県大豊町の碁石茶使用して、漬物のように桶に漬け込んで発酵させる。抗酸化作用が強い。
 この島のもう一つの特徴は、「お墓」で、両墓制(りょうぼせい)と言い、遺体を埋葬する「埋め墓」と
霊魂を祀る「詣り墓」のお墓を二つ作る風習がる。この島は、玄武岩からなり、石を積み重ねた「詣り墓」は、 賽の河原のようでもあって、可愛らしく感じられる。
 佐柳島と神戸と深いつながりがある。神戸ウォーターは、「長い航海でも腐らない、おいしい水」として外国の船はみんな神戸で水を積み込むことを楽しみにしていた。神戸で水を積み込む仕事を明治~大正~昭和と支え続けてきたのが佐柳島の人々であった。当時の船は岸壁につかない 船まで運んで行くのであるが、明治の初め神戸港で船に給水する事業を最初に立ち上げたのが、佐柳島出身の村田惣吉さんであった。村田の立ち上げた「神戸良水社」には、さなぎ島出身者をかき集めて始めている。明治38年、神戸市が事業を公営化し、その時市に事業移譲したが、事業譲渡の際、良水社がつけた唯一の条件は、佐柳島出身者の優先雇用」であった。昭和の初め頃、東川崎町にある従業員宿舎には島出身者が100名以上住み、中には、父祖三代の者もいた。さなぎ村ともいえる。皆ま真面目で、コツコツ金をためて、退職金を手にして島に帰って行った。

 3) 女木島
女木島は、高松からフェリーに乗って約30分で到着する。島には、イース
 ター島のモアイ像のような像が建てられている。 
イースター島で多数のモアイ増が倒れた時、日本の援助で復旧を行った。高
 松のクレンメーカー 復旧方法の検討のためモアイ像を作成、引き起こしの訓練を行った。これに使用した像を女木島に設置したものである。(写真右)
地元では女木島というより「鬼が島」と呼ばれる。島の周りには外敵の来週に備えたかのような立派な石垣が張り巡らされている。(写真左)
 大洞窟があり、その中には鬼の住処が造られている。海水浴  
 場でも有名である。
鬼が島伝説は全国各地にあるが、神戸にもあり有馬の近くに「鬼が島」がある。(無理なこじつけであるが)

 4)小豆島
小豆島は人口3万1千人、瀬戸内海で2番目に大きな島で、神戸から直行便があり、また、姫路、岡
 山からも船便があって非常に便利な島である。
小豆島と家は何でも「オリーブ」で、うどんにもオリーブを入れるし、そうめんの付け出汁にも、味
 噌汁にも「オリーブ」を入れる。土庄の港に着く前からオリーブの香りがしており、島内の給食で使う 
 油はすべてオリーブオイルで、年間約1トン使用している。
  人間だけではなく、オリーブハマチは、養殖のエサにオリーブの粉末使用し、赤身の臭みがなくなる
 効果がある。オリーブ牛は、オリーブの絞りかすを飼料に使っている、
ところで、オリーブの発祥地は神戸である、
明治11年 パリ万国博覧会が開催された折、日本館長の農務官僚前田正名(まさな)が、フランス
 から苗木2,000本を輸入し、明治12年 国営「神戸オリーブ園」設置された。明治15年日本で始めて、
 搾油と塩蔵に成功した。湊川神社のオリーブは、前田正名が明治11年パリ万博から持ち帰ったオリー
 ブのうちの1本である。神戸のオリーブ園は、トアロード沿いの山本通3丁目付近にあった。 面積は、 
 約1ヘクタールであった。その後神戸オリーブ園は、明治21年松方財政の下廃止された。
さらに20年の歳月を経て、明治40年小豆島でオリーブ栽培を開始、2年後開花。結実に成功しえた。
 小豆島でオリーブの栽培を指導したのは、神戸オリーブ園の技術者だった農学博士福羽逸人(ふくばね
 はやと)であった。神戸と小豆島はオリーブで結ばれていた
 
◎ 国内旅客フェリーの現状と課題
1) 国内フェリーの現状
 現在の国内フェリーは全国で約200航路、その内長距離は16航路である。神戸発の航路は右図に示すように九州、四国、沖縄のほか中国・上海へも運航している。
2)旅客船・フェリーの輸送実績
 全国の旅客船・フェリーの輸送実績は(下図)、旅客が、平成25年7,980万人、車両1,180万台である。旅客、車両とも漸減傾向にあり、特に平成21,22年に落ち込みが激しくなっている。

3)フェリー輸送の特徴
 フェリー輸送の特徴は、① 何でも運べる、② 大量輸送が可能、③ 運転手が休みながら車と一緒に移動できる ④ 様々な船内設備がある 4点である。フェリーは、車両、コンテナ、重量物と何でも運べ、陸上では運べない大型クレーンも運ぶことが出来る。また、大量輸送が可能であることから大幅な省エネが可能となっている。ちなみに自走トラックとフェリー利用とを比べるとエネルギーが5分の1で済む。最近は、ドライバーは乗らないでトレーラーのみを運ぶ輸送がフェリー輸送の中心になって来ている。また、船内には、お風呂、サウナ、レストラン、個室、ゲームコーナー、大広間と様々な施設が備えられている。
 戦略港湾の考え方から、神戸港に貨物を集め欧米。中国。東南アジアへ大型コンテナ―船で運ぶようになっているが、神戸港に貨物を集める、また、神戸港から貨物を運ぶフィーダーが重要になってきており、フェリーがその役目を果たしている。
 旅客船・フェリーは航路ごとに特徴があり、トラックを載せたり、荷物をかき集めるなどして努力している。旅客がないからと言って一概にその航路が駄目と言うわけではない。

4)災害時の対応
 フェリー・旅客船の社会的役割として災害時における活動について考えてみたい。
 阪神淡路大震災の折に、船舶は人の輸送、特に緊急輸送において活躍した。震災により道路は交通止めに、鉄道は壊滅的な被害を生じたが、旅客船が人の輸送に貢献した。当時は明石大橋がいまだ開通しておらず、定期航路が多くあった、また、旅客輸送は免許制であったが、特例で人の輸送に当たることが出来た。ハーバーランドの安全対策の策を撤去して岸壁として使用し、次々と航路が出来ていった。鉄道開通状況と海上輸送との関係を見ると、鉄道の開通に伴い船の利用者が減っている。当時は小型の旅客船があったので機動力よく対応できたが、現在は事情が変わっているので対応がむつかしくなっている。
 フェリーは物流面で活動していた。緊急物資は当初伊丹空港へ集結し、伊丹から神戸へと考えたが,伊丹から神戸への道路が閉ざされている。そこで関空に集め、関空―神戸を関空エクスプレスや、フェリーがあったのでこれを利用し神戸に輸送した。自衛隊も関空に終結六甲アイランドを経由して各地に向かった。一般にはあまり知られていない事実である。
 旅客船は宿泊機能を生かし「避難施設」として活動している。講演者の会社もジャンボフェリーは青木フェリーふ頭が被害を受けたので高松に一旦帰ったが、神戸で何かに使おうと係留できる場所を探し、人づてによる評判から、自然発生的にお風呂シップとして好評であった。
 現在各地で自治体と旅客船社が災害協定を締結して災害に備えている。

おわりに
 昔は、船は早い乗り物で、島から乗ればそれで中央に早く行け、島は中央に近い存在であった。島には昔からの風習が残っており、島と中央との結びつきが強く感じられる。このような観点から瀬戸内の島々を見てもらえは幸いである。

第6回講演概要


    日   時   平成29年3月18日(土) 午後2時~3時30分

    場   所   神戸海洋博物館ホール

    講演題目  「神戸の姉妹・友好港と神戸港」

    講演者   神戸市 みなと総局 みなと振興部 振興課長 横山 和人 講師

    参加者   70名



講 演 概 要 (編集責任 NPO法人近畿みなとの達人)


はじめに
 神戸港は今年1月1日に開港150年を迎えました。 年の数え方にも「満」と「かぞえ」があるが、この150年は、数え年である。満で数えると150年となる。  
 神戸開港当初は、湊川より向こう(西側)は兵庫港で、こちら(東側)が神戸港であり、神戸港は漁港であった。神戸市役所の24階に青山大介氏の絵(現在の鳥瞰図)とともに150年前の絵図が掲示してある。神戸開港の1,2年後にスエズ運河が開通しているが、このような時代背景にあった。

1 姉妹港・友好港
 本日は「姉妹港」、「友好港」について語るが、中国では「姉妹港」という言葉は使わない。これは、「姉」、「妹」で序列をつけることになりそれを避けるためである。
 神戸の姉妹港・友好港は、シアトル、ロッテルダム、天津の3港であるが、例えば大阪港は、姉妹港がサンフランシスコ港をはじめ6港、友好港は上海港1港のほか、ロサンジェルス港など4港を「交流港」としてかなり交流する港が多い。
 現在日本の港は相対的に低下している。神戸港は積替え港であって、コンテナの中身は神戸市内には入らない。つまりトランシップの港として発展してきた。1ドル360円時代には、外国船にとって神戸港は安い経費で正確な仕事をするということから利用が多かった。阪神淡路大震災で神戸港が大きな被害をこうむったが、その間釜山港は荷さばきのコンピュータ化が進み、荷物の扱いが正確になって来た。震災後ほぼ2年で神戸港は復旧したが荷物が戻ってくることにはならなかった。外国に目を向ける新しい取り組みが必要となってきている。

2 国際港湾会議
 1952年(昭和27年)第1回国際港湾会議が、神戸で開催された。会場は旧商工会議所で、15港が参加した、当時主導したのは、シアトル、ロッテルダム、神戸の3港であった。3年後1955年(昭和30年)ロスアンゼルス第2回国際港湾会議が開催され、「国際港湾協会」の設立が決議された。第1回のIAPH総会の参加国15か国であった。
 1967年神戸開港100年を記念としてシャトル港、ロッテルダム港との姉妹港提携式が行われた。記念の年なので1967年を開港100年としたので、その結果2017年が開港150年となる。
 ロッテルダム港は沖合に人工島を建設し、港で使用する電気は全て風力発電を用い、入港中の船舶もエンジンによる発電を禁止して環境に配慮している。 
 シアトル港は古い港はプレジャー船用の港に変わっている。
 1980年(昭和55年)天津港と友好港提携した。
 
3 2017年神戸国際港湾会議
  2017年(平成29年)2月神戸国際港湾会議が開幕され、国内外28港が参加した。会議の目的の一つは、各港の若い人材の参加とビジネスミーティングの場の設定であった。また、神戸港は、個別に11港と友好を深める調印をし、交流促進の合意書を作成した。目的は、① 海運情報の共有、② 人員交流による人材育成、③ アジア諸港との交流網の拡大 であり、これらにより、神戸港の将来港勢の拡大を図る、すなわち神戸港のコンテナ貨物の拡大に向かうことへの期待である。 
 
4 神戸開港150年
 神戸開港150年の行事を紹介する前に。神戸港の歴史をざっと振り返ってみたい。
 神功皇后の時代、神戸は「務古水門(むこのみなと)」と言われていた。平安時代に、平清盛が、大輪
田の泊を日宋貿易の拠点とすべく、泊りの前面に人工島(経ヶ島)を建設した。足利義満が対明貿易で兵庫津を拠点にしたが、豊臣秀吉の天下平定後、政治経済の中心が大坂に移り、兵庫津はさらに発展した。 
 江戸時代になると政治の中心は江戸に移ったが、大坂は商業都市として経済の中心となり兵庫の津も樽廻船、菱垣廻船の輸送基地として大坂とともに繁栄した。
 1853年(嘉衛6年)ペリー来航し、日米和親条約締結が締結されその後安政5年(1858年)日米修好通商条約が締結された。この中で、 箱館、神奈川、長崎、新潟、兵庫の開港が約束され、順次開港に至った。しかし、横浜開港以降、外国人殺傷事件等が続発し、幕府は神戸開港の5年延期を申し入れた。慶應3年12月7日(1868年1月1日)兵庫が開港された。
 神戸港は、明治初期から港湾の整備が始まり、国際貿易の拠点として発展してきた。昭和40年代日本初のコンテナバースが神戸港に整備され、続いてコンテナ船の大型化に伴い 港湾整備が進んできた。現在、国際コンテナ戦略港湾として、西日本の各港湾とのフィーダー輸送が進み、震災以後の最高値に達している。一方、集荷の努力に取り組み、また、客船特にクルーズ船の寄港地としての神戸港が注目されている。外国客船の入港は、2011年7隻であったのが、2015年42隻と大幅に増加している。

5 神戸開港150年記念事業
 神戸開港150年記念事業としては、次のようなものがある。
  1)国際会議  前述のように2月に実施している。
  2)クイーンエリザベス神戸発着クルーズ 3月に実施している。
  3)記念式典・祝賀会 5月に国や港を代表する方々を国内外から迎え、記念式典・祝賀会をポート 
  ピアホテルで実施する。同時に概ね30年後の神戸港の目指すべき姿・将来像を策定する。
  4)海フェスタ 7月15日から8月6日の間、帆船フェスティバル、みなとまつり、神戸港の見学、
  海の総合展・絵画展、シンポジウム、開港150年版みなとこうべ海上花火大会などを実施する。
  5)秋の「食」イベント 9月の予定で、神戸港から全国に広まったグルメを楽しめるイベントを実
  施する。
  6)その他 神戸開港150年音楽祭、その他を実施する。
 
おわりに
  神戸市では神戸開港150年に合わせてメリケンパークのリニューアル、須磨海岸再整備、などウォーターエリアの再開発、港湾技能研修センターの整備、市内小学生全員を対象とする神戸港見学など開示分野の人材育成・確保のための施策も実施している。