神戸みなと知育楽座

平成27年度 神戸みなと知育楽座 Part7

テーマ「みなと神戸名所めぐり!」
 

第1回講演概要

  日  時  平成27年6月13日(土) 午後2時~3時30分

  場  所  神戸海洋博物館 ホール

  講演題目  「みなと神戸の神社~生田神社にまつわる物語~」

  講演者   生田神社名誉宮司  加藤 隆久 講師

     参加者   112名

 講 演 概 要  
 (編集責任 NPO法人近畿みなとの達人 講演は多岐に渡り全編を紹介できないのでかなりの部分を割愛しております)


はじめに
  再来年2017年は神戸開港150年にあたるが、明治2年の生田神社の写真を見ると社の周り何もなく森ばかりであった。現在、社の周りは繁華街となっており150年前の姿は想像もできない状態である。

1 生田の神様・稚日女尊(わかひるめのみこと)
 生田神社に祭られている神様は「稚日女尊」(右絵図)という神様で「若くみずみずしい日の女神」の意味で、天照大御神の若い頃または妹神とも伝えられている。日本書紀では天照大御神が機織りをしたと書かれているが、一方古事記では、「天照大御神が機屋(はたや)で機織女(はたおりめ)に神御衣(かむみそ)を織らせた」とあり稚日女尊は、天照大御神と一体の神様とも考える人もいる。また、素戔鳴尊(すさのおのみこと)が暴れて御殿に馬の皮を剥ぎ御殿の屋根から投げ入れ機織中の天の服織女が傷を受けて亡くなったとの記述ある。いずれにせよ「稚日女尊」は、「尊」の字が用いられており日本における最高神の天照大御神と関係深い神であろう。

2 砂山から生田へ
 生田神社に祀られている神様「稚日女尊」は、神功皇后の三韓征伐の折、この神を祭れとのお告げを受けたことから始まったと伝えられている。生田の名前が初めて現れるのは、日本書紀ではじめ「活田」と書かれ「丸い田」の意味である。海から見れば生田から花隈にかけては半円の形をしていることからであろう。地域的に近い西宮の広田神社、近くの長田神社、生田神社はいずれも「田」の字が付く、つまり田圃の状態を示して肥沃な田圃を表している。明治の初めの写真でも生田神社の周りは全て田圃で、近くに川が流れており、馬場があった。この3社は全て最初に祭られた場所から移転している。神様が降臨されたところは全て川の近くで、長田神社は刈藻川の近くである。
 生田の庄、生田の宮村は、明治の始め頃人家は12戸であった。生田の神様は生田川の上流「砂山(いさごやま)」に建立された。伝説によれば、昔布引の渓流が大洪水で砂山の麓が崩壊し、生田神社が危険にさらされた。この時刀根七太夫という者が御神体を背負って自分の家に祭るが、なお洪水の危険があり、再びご神体を運び現在の地まで来た。ここで一歩も進めず現在地に鎮座されたと伝える。地名から見れば、例えば熊内(雲地)の地名は「神内(くまうち)」から来たもので、砂山の鎮座説を示すものである。熊内の朝日の鳥居は、昔の生田神社の鳥居である。

3 古代人と酒
出雲神話で素戔鳴尊が八岐大蛇退治の場面は有名で、この時8つの甕に酒を入れ大蛇が酔ったところを見計らい退治している。古代より日本人は酒造りをしており、魏志倭人伝にも「酒をたしなむ」とある。
生田神社の酒にちなんだ話をする。他所から来た人と酒を飲む習慣は昔からあり、常陸の風土記には、集まって日夜続けて酒を飲む様子が書かれている。古代の酒は米の酒か粟の酒か麹の酒かは不明であるが、日本書紀に「酒を噛む」との表現があり、甘酒のようなものであったろうか。酒造りが始まったのは6世紀以後で、水稲の出現と関係し、あるいは中国から運んだものであったろう。酒は洋の東西を問わず古代社会で嗜好品だけではなく、宗教の神祭りに不可欠なものであった。
延喜式によれば新羅の客人の入朝時の応接として、大和の片岡(酒を司る神で中臣氏が関係深い)、攝津の広田、生田、長田の4社の稲各50束を生田に送り生田神社で醸した酒を敏売崎(みぬめさき)で振る舞い、次いで難波を中心とする大和4社、河内1社,和泉1社、攝津2社からの酒を住道社で醸した酒を住道社で振舞うこととしている。それ程はなれていない攝津と難波で二度にわたり酒を振舞うには訳があった筈である。一つは外国から来る客を神の酒でお祓いするため、今ひとつは遠来の客を慰労する目的であった。生田、長田、広田の3社は神功皇后の三韓征伐の折に詔勅により神を祭った社であり、敏売の神は元は摂津の山の方にあり、この地の木を用いて船を造れば無事に帰れるとの神託があり、 帰還後、神を現在の地に移した由来がある。従って、新羅を手なずけ、三韓征伐の勝利を回顧し、征服者が被征服者に対する優位性を再確認する為の儀式ともとれる。

4 例祭に捧げる神饌「へそだんご」
 生田神社では毎年4月15日の例祭に「へそだんご」(右図)を供えている。昭和16年に幕末の国学者大国隆正の文章が発見され、「へそだんご」の意味や形が明らかになった。「へそだんご」は、その年に生まれた氏子の子供の健康長寿を祝うものである。臍(へそ)は人体の中心にあり、人体にとって大切なものである。一方図の左上のものは従来の臍ではなく「綜麻(へそ)だんご」であろう。現在は図の右のだんごを20個供えている。
一方生田の神は機織に関係が深く、左上のものは完成した布から出た余りものの糸くずをまとめたもの綜麻の形をしている。「へそくり」の言葉のもとは、機織の駄賃としての糸くずの形から来ており、左上のだんごは案外古い形の供物かも知れない。

5 生田薪能と杉盛
生田神社は芸能とも関係が深く、戦前戦災で焼失するまで境内に本格的な能楽堂があった。不思議なことに背景の鏡板には普通は春日の影向の松が描かれるが、生田神社では「杉」が描かれていた。従って橋懸りも通常は「一の松」、「二の松」、「三の松」であるのが、「一の杉」、「二の杉」、「三の杉」が描かれる。生田神社は、能の名曲「箙」と「生田の敦盛」にゆかりの土地柄であり、昭和51年楼門が竣功したのを記念して薪能を始めた。毎年9月中旬秋祭り前後の夕方から特設舞台を作って薪能を催す。
生田神社では正月には「門松」ではなく「杉盛」をしつらえる。「杉盛」は、高さ2.5mの頂にススキの穂で厄塚を組み12本の注連縄を張ったものである(閏年は13本)。 往古の鎮座地であった砂山は松が鬱蒼と繁茂していたが洪水によって松の樹が倒れ社殿を壊し流失した。これから、社地には「松樹を植えるべからず」となった。生田の神様は松嫌いの神様であり、したがって松でなく杉が用いられる。ところで、普通門松は一対立てるが、杉盛はただひとつ建てる。京都の吉田神社で節分祭に作られる大元宮の厄塚に似ており、これから来たとも言われるが形状は異なっている。常緑樹であればなんでも良い。なお、最近門松は「年神が降臨してくる場所」との説が出る。

6 生田遺跡の発見
生田神社の旧鎮座地という砂山からは古代祭祀に用いられた祭器の破片が数多く発見されている。ここで大規模な祭祀が行われたことを証明できそう。では、いつごろから砂山から生田へ移ったのであろうか。
 従来生田神社の地からは何も出てきていなかったが、昭和63年生田神社の西側の土地から5世紀前半から6世紀の住居跡が発見され、生田神社を祀っていた豪族の館跡と推定され「生田遺跡」(左写真)と名付けられた。ここから柱建築6棟、竪穴式住居跡2棟、かまどの跡、祭祀具、土器が出土し、5世紀のものでは県内では古い。三宮界隈では遺跡は皆無であったが、JR三宮駅前から雲井通りの雲井遺跡(縄文時代末から弥生時代前期)の発見がありそれ1年足らずで生田遺跡が見つかった。この付近には古墳が存在しており古くは「生田の森」に包括されていた地域であったのであろう。この遺跡からの特異な遺物として祭祀にかかわる遺物が出土した。また、糸を紡ぐ際に用いられた滑石製の紡錘車が出土した。生田の神は機織の神であり、機織にちなみ紡錘車の形代が納められたのであろう。

7 桃の呪力と追儺式
島根県と兵庫県の古墳から出土した鉄刀から古代の刀剣銘が発見され銘文を巡り話題を呼んだ。兵庫県出土の銅鐸は数多い。今年南あわじから貴重な銅鐸が発見された。奈良県広陵町の牧野古墳の横穴式石室からは桃の種が多く見つかった。この桃は古代の葬送儀礼を実証するものとして貴重な材料を提供した。 
古事記の伊邪那美命の死につながる黄泉国の説話は有名であり、伊邪那岐命が黄泉比良坂の坂本で桃の実3個を取って投げると黄泉の追手の鬼はすべて逃げ帰ったという。桃の実は人民の苦しい時、悩める時に助けるもので、呪力があり、桃から生まれた桃太郎も同様の考え方から発しているのであろう。
桃は節分にも関係深く、宮中で行われた追儺式では殿上人が桃の弓に芦の矢で鬼を射る行事を行う。
神戸長田神社の追儺式では、一番太郎鬼、赤鬼、ほう助鬼、青鬼、うば鬼、餅割鬼、尻くじり鬼が松明をかざして人々の厄を払う。その前に5人の子供が太刀役として奉仕するが、この太刀役の着物には葉付き桃の紋が染められ、式の指導の肝煎役にも同じ紋が染められている。古墳時代から記紀の時代、現代まで桃は悪鬼を祓うものとして人々の信仰の中に息づいている。

8 平清盛
神戸は平家に対して特別な感情を抱いている。世間では「おごる平家」など源氏が善玉、平家が悪玉としている。神戸市が大正14年(1925年)発行した「神戸市民読本」には「平清盛は不忠不義な点はあるが、先見の明に富み積極的に物事を遣り通す点は学ばねばならぬ。平清盛は、神戸市の発展の歴史と切り離せない人物」としている。
清盛は大輪田泊を整備し、現在のポートアイランドとも言える「経が島」を築造 した。荒波にさらされる難工事で土石を攫われるので、人柱を立てようということになったが、合理主義者の清盛は反対し、代わりに「一切経」を書いた経石を沈めた。それ以来「経が島」と呼ばれるようになった。
清盛は、大輪田泊から日宋貿易を行った。日本はこれまで894年から菅原道真により鎖国されていたが、これを取りやめた。清盛以前は大陸からの船は博多までであったが、瀬戸内海の海賊を平定、音戸の瀬戸を開くなど瀬戸内海の航路を整備した。清盛の父は、従来から博多で密かに貿易を行っており、貿易が富を生むことを知っていた。清盛は、先進的な人物で1173年厳島神社建立したが、大鳥居の笠木の中には、経石を詰め海中での安定を図っている。
貿易品は、綾、錦など高級織物、香料、薬品、陶磁器など工芸品を輸入し、また輸入書籍は、文化水準を押し上げた。特に宋銭は平安末期からの貨幣経済の基礎となった。
 1170年後白河法皇は福原の雪見の御所へ行幸し、外国人に接見したが、当時の日本ではあってならないことと批判された。清盛悪玉説は、「平家物語」、「源平盛衰記」などによって造られた虚像で、実像とは異なっている。この後源頼朝が兵を挙げ、清盛は京都へ戻ったが熱病に罹り死んだ。

9 生田の森の合戦
 清盛が死に平家は京を追われて、源平の戦いの場に神戸がなった。生田の森は東の木戸口で、源範頼勢が攻めてきた。須磨の西の木戸口には義経が当たり、背後から義経が鵯越一の谷逆落としで攻め込んだ。鵯越の場所については山陽電鉄である須磨と神戸電鉄は鵯越会下山方面との両説が争っている。平家はこの戦いで大敗を喫し四国へ落ちたが、清盛の誤算は、長男重盛の早い死であった。
生田の森では梶原源太景季が、境内に咲き誇った梅の一枝を手折り箙に刺して戦っており、現在も「箙の梅」が境内にある。(「箙の梅」絵図:右)また、「敦盛の萩」もあり、敦盛とその子との物語が残されている。その他、源平合戦に関係する様々な碑が残っている。

10 湊川の合戦
元弘3年(1333年)隠岐に流されていた後醍醐天皇が脱出、伯耆を経て京都に向かい、途中兵庫の福厳寺に留まり、やがて鎌倉幕府が滅びると京都へ還御した。「建武の中興」が始まるが、うまく行かず、論功行賞から公家と武家が反発 北畠氏が尊氏を追う。尊氏は、九州で勢力を盛り返し京都へ向かった。途中神戸で新田義貞、楠正成が迎え撃ったが、義貞は敗れて京都へ敗走し、一人正成が湊川で奮戦、ついに自刃した。世に言う「湊川の戦い」であり、湊川神社に楠正成始の墓がある。江戸末期に吉田松陰も湊川神社に参っている。

11 信長・秀吉と花隅城
 戦国時代には、織田信長が神戸でも活躍している。信長は、謀反を起こした荒木村重を討つため滝川左近、惟任五郎左衛門を出陣させ、生田の森近くに陣を設けた。生田の森の西南に花隈城(信長の築城:左写真花隈城跡)があったが、花隈城の絵図が池田家に残っている。花隈城攻撃に池田輝政(この時初陣)が加わっており、これを記念して絵図を作りこれが残っている。絵図には生田の森も描かれて、絵図の左に池田陣がある。この絵図は戦国時代の生田付近を知る貴重な資料である。

おわりに  神戸海軍操練所と勝海舟
 時間が少なくなったので、まだ少し話を用意していたが、最後に海軍操練所に触れる。慶応3年12月7日(新暦では1868年1月1日)神戸港は世界に向けて開港した。この開港にあたり忘れてはならないのが勝海舟である。海舟は神戸に海軍操練所を創りその後の日本海軍建設に大いに貢献した。
 本日は、生田神社にかかわる話を聞いていただいたことに感謝する。














第2回講演概要

     日  時   平成27年7月11日(土) 午後2時~3時30分

    場  所   神戸海洋博物館 ホール

   講演題目  「神戸外国倶楽部のむかしといま」

   講演者   (一社)神戸倶楽部顧問(元会長) F.E.レオンハート 講師

   参加者   102名


 講 演 概 要
 (編集責任 NPO法人近畿みなとの達人)

はじめに
 講演者は企業で働いており、歴史家、教育者ではないのでまとまった研究はしていない。しかし、永年神戸に住んで組織の理事などを務めていたので、そこから学んだことを話したい。講演のタイトルは、「神戸外国倶楽部のむかしといま」となっているが、神戸倶楽部だけではなくそのほかの組織などについても話す。
 残念ながら神戸は空襲を受け、最も被害を受けたのは神戸倶楽部であり、昔の資料は焼失して無くなっている。その中から分かっている範囲で話す。

1 神戸外国人コミュニティの変遷
 外国人コミュニティーといっても色々な国籍の人が神戸に入る。本日は主にアメリカ、ヨーロッパを中心に話しを進める。昔はアメリカ、ヨーロッパの人が主であったが、最近は随分違ってきた。
 兵庫県に住む外国人は現在95,000人でかなり減ってきている。その中で、中国、ベトナム、フィリッピン、ペルーなどが増えており、増えも減りもしていないのが英語圏の国(アメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド)でその他のヨーロッパの国の人は減ってきている。昔は企業で働いて神戸に住む人が多かったが、最近の英語圏の人は英会話の先生、学校の先生などが多くなっている。船会社、銀行などに勤める人々が減っている。
 以外なのは韓国で、一時6万人であったのが今は4.6万人と減少している。講演者が外国学校に通っていた頃は韓国人もいたが、多くは在日の人であった。今は、韓国から来ても外国学校に来ていない。韓国が減った理由としては、帰化、日本人の奥さんの国籍に入るなどがあり、子供も日本国籍を取ることが多いようだ。韓国から来ていている外国学校の生徒は、大阪に住む者が多くこれらが数字に表れている。
 ブラジルの人もこの10年間で3,500人から2,100人に減っているが、原因としてはリーマンショックの後に職が無くなり、国へ帰る者もあり、ブラジルコミュニティーやブラジル学校のある愛知、静岡、特に浜松へ移転して行ったようである。

2 外国人が設立した組織など
 ここでは、神戸倶楽部以外の団体について話す。
1)外国人委員会
 1868年(明治1年)神戸開港にともない、外国人がどんどん神戸に入ってきた。
 同年最初に出来た組織はForeign Municipal Council(外国人委員会)で、居留地に住む人、領事館の人が中心に作り、困っている人の相談にのるグループであった。その後名称が「神戸&大阪」などと変わり、最終的には関西委員会となった。戦前の活動はよく知らないが、講演者もこの組織の理事を務めたことから知ることとなった。資金は、外資系企業。個人からの寄付で、神戸に住む生活に困る人の援助、特に領事館のない国の人、無国籍の人の援助を行った。もうひとつの大事な仕事は今は修法が原にある外国人墓地の管理、神戸市の外国人窓口の役目であった。組織は百数十年続いたが、 2010年頃に40年余り会長をしていた人がアメリカに帰り、この組織は消滅してしまった。幸い、困っている外国人も減少、特に白系ロシア人もいなくなり、ニーズが無くなって来た。墓の管理については別の組織が引き受けており、これは後で述べる。
2)KR&AC
次に出来たのが神戸倶楽部で、1869年創設である。詳細は後で述べる。
 1870年にKR&ACが設立され、1960年頃東遊園地から移り、現在は磯上公園にある。この組織は、スコットランド人シム氏が設立したスポーツクラブで、サッカー、ホッケー、ラグビーを関西に紹介した。同じようなクラブが横浜のYCACでKR&ACより2,3年古いクラブである。1878年神戸で始めてのサッカーの試合が、英軍艦乗員とKR&ACメンバーとの間で行われた。YCACとの対抗試合は1888年から始まったが、今も続く対抗戦で、1931年に始まったサッカーのワールドカップよりずっと古い。
3)万国病院
 外国人に対する医療機関は、居留地のクリニックから始まる。居留地に家を借りて外国人の寄付で賄っていた。医者、看護師を米欧から招き、やがて万国病院が出来た。1871~74年生田神社の近くの日本家を借りて診療を行い、74~1918年には山本通りで診療していた。万国病院は、1918年新神戸駅近く、生田川の西に設けられた。1945年には空襲で焼けたが、奇跡的に一人も亡くなっていない。その数ヵ月後に終戦を迎えたが、六甲登山口にあった六甲ハウスで再開した。医師、看護婦は、フランシスコ会に依頼し、経営はビジネスマンによる理事会で進めた。フランシスコ会では、以前から長崎、北海道に病院があり、神戸にも作りたい、作って欲しいという状態であった。ビジネスマンにとって病院経営は大変なことであり、また、施設も老朽化しているので是非会で病院を建てて欲しいということとなった。そこで万国病院を会に売り1961年護国神社の近くに海星病院が出来た。
 病院を売るにあたり6階の病院のうち2階は外国人のために、1階は船員専用とするように条件を付けた。病院は売却したが組織としてKobe International Medical Foundation(KIMF)が引継ぎ
病院の売却益と寄付により海星病院に医療機器を寄付するなど病院との繋がりを続けている。また、病院へのボランテアグループを組織し、患者で来た外国人の通訳や、相談に乗ったり、買い物をするなどの活動を行っているが、活動は40年に及びこのような部門では日本で一番古い。外人墓地の管理は関西委員会からKIMFが引き継いでいる。もう一つの仕事は悩みを持つ外国人のカウンセリングで、International Counseling Center(ICC)がカウンセリング代の補助も含めて対応している。
4)ゴルフ場
 神戸ゴルフクラブは、ブルーム氏が作った日本で一番古いゴルフ場である。神戸の夏は暑く週末は六甲山で涼をとっていたが、その内ゴルフ場の話が進み1901年に4ホール、1903年に9ホール、1904年に18ホールのゴルフ場が出来た。正式の創設年次は1903年としている。1903年のメンバー数は120人で日本人は7人のみであった。現在メンバー数は530人でその内外国人は10人に過ぎない。女性メンバーが150人と日本では最も比率が高い。戦前は理事長は外国人であったが、戦後は日本人が理事長を務めている。但し理事の一人は外国人としている。外国人メンバーが少ないのは、クラブの権利を売買できない為3,4年しか神戸にいない者にとってはビジターで十分だからであろう。

3 外国人の設立した学校
 学校関係では、欧米人の作った学校を中心に延べる。
ドイツ学校:ドイツ学校(German School)は、1909年設立となっているが、多分それ以前にもあったようで100年を越える歴史を持っている。ドイツ人子弟のための学校であるが、ドイツ人以外にスイス人、オーストリア人などドイツ語をしゃべる国の子弟も受け入れていた。はじめ高原に校舎があったが数年前に六甲アイランドに移った。生徒数が減少した為ドイツ政府からの援助に頼れなくなり、校名を変えGerman-European Schoolとして、ドイツ語だけでなく英語、日本語も教えるようになった。現在生徒数は80人くらいに回復している。
カナディアン アカデミー:1913年カナダ人宣教師の子弟のためということで設立されたが、カナダとは余り関係は無くなってアメリカンスクールとなっている。戦争により教育は停止し、1951年再開した。校舎は王子公園から長嶺山を経て現在六甲アイランドにある。生徒数は多くピーク時で800人、今でも580人くらいが在籍している。
セント・ミカエル・インターナショナル・スクール:1946年設立されたが後に生徒はカナデアンスクール、次のマリストスクールに転校して言った。
マリスト・ブラザーズ・インターナショナル・スクール:Marist Brothers International Schoolは中国天津にあったが、中国が共産党国家となって宗教活動が制限され始めたので、はじめ香港を目指したが既に同校があり、神戸市須磨1951年に移って来ることとなった。生徒数はかなり多く300人くらいが在籍する。

4 宗教関係の施設
 宗教も色々あるので主要な所をピックアップする。
神戸ユニオン教会:Kobe Union Churchは、1971年設立された。戦中戦後加納町フロインドリーフあたりにあり、現在カナデアンアカデミー跡の長嶺山に位置している。
カソリック教会:Catholic Kobe Central Churchは、1923年設立となっているが、それ以前にも礼拝する場所はあったようである。名称は何度も変わったが現在中山手1丁目にある。はじめ米欧のカソリック信者の為に神父もアメリカから来ていたが、現在7~8割はフィリピン人である。
神戸回教寺院:Kobe Muslim Mosqueは1935年設立され、日本で最も古い回教モスクである。当初はトルコ人が多かったが、現在パキスタン、イラン人が中心である。
ユダヤ教会:Chel Shelomoh Synagogueは、1979年設立としているが、それ以前にもユダヤ人の祈りの場所があった。金持ちの多いユダヤ人の寄付で運営している。

5 神戸倶楽部の変遷
 前述のように昔の記録が戦災で失われておりクラブ設立100周年ということで記録を書いたオーストラリア人ウイリアム氏でさえ1891年9月1日が設立日としていた。(古い写真はウイリアム氏の記録図書から引用している、)
 神戸倶楽部は1869年「国際倶楽部」の名称で創設され3年後の1891年に「神戸倶楽部」と名称を変えている。当初は居留地内に建物を借りていた。(写真左)ついで京町に移ったがこれも借家であった。(写真右)
1879年1000坪の土地を現在のフラワーロードの西に取得し、1890年クラブハウスを建てた。(左写真:写真の右側にはボーリング場の建物)また、1879年には社団法人となった。1918年のクラブハウス前の写真は、右のものであるが、少し違って見えるが同じ場所である。
 1923年関東大震災が起こったが、この頃倶楽部はメンバーが足りず困っていた。震災により横浜から多くの外国人が神戸へ移って来て倶楽部のメンバーとなった。勿論従来のメンバーは職探しや家に泊めるなどの支援を行った。1930年までは女性は一切クラブハウスに入れなかったが、この年から年に一度は入れることとなった。1930年当時の写真(右)で、左がKR&AC、右が倶楽部である。
 1942年クラブハウスは帝国海軍に占有され倶楽部の活動は中断することとなった。その間1945年空襲を受けクラブハウスは焼失した。終戦と共に土地は倶楽部に返された。戦災を受けたクラブハウスの写真は右の2枚のようだあるが、左が1945年、右が1947年のものである。ウイリアムス氏によれば、2年間のうちにレンガなどが運び出され全く違う建物のようになったという。
1946年神戸に留まった人、外国から帰ってきた人などが集まり神戸倶楽部が再開されるようになった。1950年加納町の土地を米総領事館に売り、トーアロードの北のトーアホテルの土地を1953年に取得した。(左写真はトーアホテル)トーアホテルは1908年建設された立派なホテルで、戦後米将校クラブ、宿泊所として使われていたが失火により焼失、1950年は焼け跡であった。1955年にクラブハウスを竣工させ、翌年プール、スカッシュコートが出来た。
1975年倶楽部創設100周年を盛大に祝ったが、前述のようにこれは間違いで100周年から6年過ぎていた。このあとは正確に数えている。1980年には会員760~800人で、95%以上が外国人で日本人メンバーは僅かであった。当時は外資系の企業は子弟の学校に要する経費だけでなく倶楽部の会費も会社負担であった。1992年にやっと女性に正会員になってもらうことになった。戦後はそれまで女性は会費は安いが投票権などがないアソシエイトメンバーとしていた。
1995年阪神淡路大震災が発生、クラブハウスのダメージは少なく、近隣の人々260人の避難所となった。電気、ガス。水道が途絶し冷蔵庫の食べ物も腐ると困ることから避難者に放出して振舞った。震災により神戸を離れる者、国に帰るものが多くなり会員が大幅に減少した。1998年には会員の増加を望んでクラブハウスの大改修を実施し、結婚披露宴が出来るような施設も作った。しかし会員は余り増えることは無かった。昔は会員が多かった外資系の会社自体が神戸から少なくなってきたのも原因である。最近では2014年に公益法人改革から一般社団法人となった。2015年現在、会員350人、4割近くが日本人で35年前と大きく変わってきた。
神戸の外国人の集まりとしてKR&AC、神戸倶楽部、塩谷GCが合同で大晦日にパーティやっており、最盛期は、塩谷GC100人、神戸倶楽部150人、KR&AC 200人を数えたが今はこのパーティは止めている。神戸の外国人コミュニティーが変わり、クリスマス・正月には国に帰ったり、他所に言ったりして神戸で過ごさないようになっている。

6 現在の神戸倶楽部紹介
 今の神戸倶楽部から南に向かった夜景は左の写真のようである。
ダイニングは、40人座れる席があり、シェフが素晴らしいので料理は一流のものである。また、バーカウンターからは下にプールを見下ろすことが出来る。右の写真はプール越しにクラブハウスを眺めたものである。

おわりに
 神戸で外国人の作った組織は、昔に比べて寂しくなった。その理由としては、
① 外資系 船会社、銀行、領事館など昔は多く、学校。クラブの費用も企業等が持った。このような会社が少なくなった。領事館もパナマ、韓国のみで、大阪に行ったり、その後無くなったりしている、
② 大きいのは港関係で、震災前の1970年頃神戸港は世界一、二をロッテルダムと争っていた。
  1995年震災でダメージを受けそれが戻っていないのでないか。船会社があれば、領事館必要だし、
取引する銀行も外資系は外国銀行を使いたいので必要である。外資系銀行も無くなっている。ン③ 戦後日本経済が良くなると物価が高騰した。給料、家賃も高く、人一人置くと5~6千万円か
かる。一部の会社は東南アジアへ向かった。外資系もネッスルなど出てきたが、昔は、外資系は
社長は外国人であったが今は違っている。社員は日本人で、倶楽部には入らない。
 昔は、倶楽部メンバーにならないと友達できないし、おいしいもの食べられない状態だったが、今の神戸でどこでもおいしいものが食べられる。若いファミリーで子供がいる場合、昔はメイドも居り子供を任せで出かけられた。カナデアンスクールを出て、アメリカの大学へ行った者は、アメリカで就職して、戻ってこない。たまに神戸で商売しておればかえって跡を継ぐものもいるが、少数である。神戸に帰りたいものも多いが、東京では金融、保険など仕事があるが神戸には仕事が無い。したがって遊びには来るが住まない状態である。
 在住の外国人だけでなく船員も来たので、戦後外国人の医者は7人いたが、徐々に減って最後に医師も2,3年前に亡くなって現在はゼロである。KR&ACはもっと深刻で若い人が必要なのにいないので困っている。入会金、会費も下げて入り易くして、少し増えたが大きな変換期に来ている。
 講演者は、昔は神戸倶楽部は「年寄りばかりで嫌だ」と思った時もあったが今は所属してよかったと思っている。神戸市も努力をしてポートアイランドなどに会社を誘致し会社数は増えている。優良会社が多く立地してくれることを願っている。
 最近の情勢として寂しい話ばかりであったが、講演者は長く神戸に住み様々な交流が出来たことに感謝している。





 

第3回講演概要

  日  時   平成27年9月19日(土) 午後2時~3時30分

    場  所   神戸海洋博物館 ホール

   講演題目  「みなと神戸の寺院~須磨寺縁起~」

   講演者    大本山須磨寺貫主 小池 弘三 講師

   参加者   105名


 講 演 概 要
(本概要は、講演者にチェックをお願いしていますが、まだ御返事を頂
いていないので暫定版です。  編集責任 NPO法人近畿みなとの達人 講演には寺院の名前など多くの固有名詞が出ましたが、適切に紹介できないので、要約に留めます。)

1 町の変遷
 神戸の名称は兵庫開港からであり、それまでは大輪田の泊まりの港として有名であった兵庫が中心であった。新開地は新吉野とも呼ばれ花見の盛んで、歓楽街であった。新開地には震災前までは検番も多数あった。須磨町と兵庫を結ぶ電車が山陽電車の始まりで、昭和9年に始まった観光バスは湊川神社が出発地であった。当時は神戸の中心は湊川であった。それから繁華街は次第に元町、三宮に広がって行った。
 元々神戸というのは生田川から西の地域であったようだ。区の中で名前が変わっていないのは、須磨区と東灘区の2区のみである。神戸の名称は、生田神社の神を守る人「神戸(かんべ)」から来ている。

2 現在の神戸市仏教会
 神戸市内で神戸市仏教協議会に所属している寺は、平成26年には343ヶ寺であるが、入るのは任意である。区別では、中央57、灘42、東灘32、兵庫86、長田55、須磨35、西24、垂水9ヶ寺で、北区は入っていない。北区の寺院場合、これまでは簡単にしない中央部に出てくることが出来ず、むしろ隣接する三田市と一緒になって北進連合として活動していた。中央区、灘区は豊臣の直轄領で、灘の仏教会を構成し、又、東灘、芦屋との関係も深い。布引の滝などには修験者の寺もあり、この付近から西へ多くの寺院が集中している。垂水区は播磨の国に属すので国が違うということで、異なる活動をしてきている。高野山真言宗でも垂水は播磨の国として扱っている。
 戦前は寺院の下に教会があったが、戦後これらの教会が宗教法の改正に伴い寺院になったのも多い。戦争中には多くの人々が亡くなり小さな教会が亡くなった人を弔い、それが寺院となっていった。寺院の中には生田川の改修による移転や震災後の移転など元の土地から移るものも多くなってきた。
 六甲から北区、西区への道筋には結構古い寺が多くある。北区の道場町には古い寺が多いが、寺はすなわち道場であり寺の多いことからこの名前がついた。三田というのは三福田すなわち敬田、恩田、悲田が名前の由来であり寺院との関係も深い。
 表神戸には80数ヶ寺があり、天台宗の寺が多かったが、西の比叡と呼ばれた書写山に京都から行く道筋であることからであった。真言宗の寺院では元天台宗の寺院も多いがこれは織田信長の影響によるものであろうか?昔は寺院の改宗は比較的簡単で、住職が代われば宗派も変わることもあった。又、各藩がスポンサーであることからも改宗は変幻自在であった。

3 平清盛と福原遷都
 船が利用する港には、「泊まり」と呼ばれる船溜まりのみのものと船が少しの間留まれる「津」とに分けられる。兵庫の津は、平清盛による福原遷都で発達し、兵庫に多くの寺院が建立された。しかし、遷都は住民に負担をかけ人民の恨みを買ったようで、この後源氏が少人数で平家に勝利したのは地元民が源氏を誘導したのでないかとの話もある。
 平野には御所の跡もあり兵庫には平家に係わる寺が多く、「平家由緒会」という寺院の集まりもあった。講演者の須磨寺では、NHKの大河ドラマに清盛が扱われた時には寺に来た観光バスは前年の200数十台から一挙に800台を越える盛況を呈した。

4 清盛と神戸の寺社
 清盛とは直接の関係はないが清盛にまつわる寺院のトップに須磨寺が挙げられている。五の宮の東福寺は清盛が遷都の指揮所としたところであるが、清盛のなきあと直ぐに寺とするのは憚られた。平家は美しい親族愛のうちに滅んだが、源氏は3代続かず疑心暗鬼の内に滅びの日を迎えたと言われる。「歴史は勝ったほうが作るが、負けたほうは文学に残る」由縁である。
1279年源平合戦のあと安徳帝を祭る宝池院が建立された。又、清盛の子を祭る寺院、仏御前、祇王の墓所もある。経が島建設にちなむ恵林寺(えりんじ)には、7体の弁財天が祀られ、内一つは波除弁天である。能福寺は、清盛が出家した寺とも言われ、近くに清盛像、兵庫大仏もある。
 一の谷の合戦が、源平戦のターニングポイントであったろうが、「鵯越はどちらか?」の論争が続いているが、講演者としては須磨であると言っている。特に敦盛、直実の物語は須磨寺にとって有難いものと思っている。

5 須磨と須磨寺
 平安初期の順名天皇の時代、830年頃和田岬あたりの海中に夜な夜な光が見えるので、捜したところ金色の観音様が出現した。始め北峰寺を建立して祀るが、観音様が天皇の夢枕に立ち、ゴミの集まる波止場に不満を示した山に祀るようにと伝えた。そこで今の須磨寺のある場所へお移しした。この話は、はじめ清盛方に付いていたが後に離反した源頼政の陰謀によるものでないかとの説もある。
 須磨寺は正式には「福祥寺」であるが、現在は通称の「須磨寺」の方が有名である。
 須磨の地は平安時代には辺鄙なところで、菅原行平も流された場所で、「近畿の隅」から「須磨」と名づけられた。須磨寺には行平の掛け軸も残されている。源氏物語「須磨の巻」は行平をモデルにしたものといわれている。須磨を詠んだ歌も数多くあるが、須磨まで足を運んで詠んだ人は少なく、創造で歌つくりをしたようだ。
 近隣の地名にも、青葉町、磯貝の松、板宿(板の囲い)など縁(ゆかり)のものもあり、行平の物語としては、歌に詠んだ因幡山、京へ帰るときに衣を架けた衣懸町のほか若木町、関守町、月見山、松風町、村雨町、飛び松町(松が飛んできた)、行平町など多数挙げられる。
 特に涙を誘うのは、敦盛と直実の話で、直実が平家の陣から聞いた笛の音の本人が敦盛であったことを所持していた笛から知り、無常を感じ出家する物語が平家物語で語られ全国に広がって行った。昔は青葉の笛を見せるのに金を取る「笛見銭」というものもあった。
 俳句でも、芭蕉、蕪村など多くの俳人が須磨を訪れている。」
 
6 須磨寺建築物概要
本堂(左):400年程前の地震で倒壊、財を減らさせる陰謀か家康が秀頼に寄進を勧め、豊臣秀頼が再建した。その後3回ほど改修し、平成13~15年の改修時に耐震化。国産ケヤキの木400年前の柱などを使用している。
源平の庭(右)昭和42年建立。敦盛、直実一騎打ちの様子を表す。

敦盛公墓所(左):首塚。胴塚は別。源平合戦戦死者を弔うために建立された。
青葉の笛(右):2本あり右が「青葉の笛」、左が「高麗(こま)の笛」である。謡曲「敦盛」で有名。唱歌では「敦盛と忠度」であったが後に「青葉の笛」になった。
三重塔(中):昭和59年に400年前に倒れたものを復興した。










一絃須磨琴演奏
 一絃須磨琴は、50年前に復興し、現在300名の 須磨琴保存会の会員が演奏活動を行っている。本年10月に50周年演奏会を開く。
 演奏曲 1 松に寄せる祝歌(ことほぎのうた)
     2 須磨の月
     3 青葉の笛
 演奏者  黒田 陽子 様   芝田 裕子 様
  山田 ルリ子 様 福羅 あけみ 様 山村 孝子 様


























第4回講演概要

    日   時   平成27年10月3日(土) 午後2時~3時30分

    場   所   神戸海洋博物館 ホール

    講演題目  「旧居留地まちづくりと十五番館秘話」

    講演者   旧居留地連絡協議会会長 野澤 太一郎 講師
         旧居留地連絡協議会顧問
                 (株式会社地域問題研究所) 山本 俊貞 講師

    参加者   100名



講 演 概 要 (文責;NPO法人近畿みなとの達人)
講演その1 「企業市民によるまちづくり」 担当:山本 俊貞 旧居留置地連絡協議顧問
はじめに
 講演者は、都市計画、まちづくりのコンサルタントをしており、居留地のまちづくりのお手伝いをしてきた。居留地がどのようなまちづくりをしてきたかを話す。(左写真:講演者山本顧問)

1 企業市民による地縁組織「旧居留地連絡協議会」
 神戸の旧居留地は、面積が約22haで、約1400の事業所があり、約2万7千人が就業しいている。神戸の中枢業務地であり、ここに旧居留地連絡協議会がある。協議会はビルオーナーが中心の組織であり、会員は100社程度で構成されている。1400事業所中100社といえば組織率はそれほどでもないと感じられるが、テナント企業には小規模な事業所も多く、ビルオーナーの8割が入っていることから、居留地内の総意を確認できる組織といえるだろう。
 居留地は明治初年に開かれ、イギリス人ハートの設計で格子状の街路、遊歩道を持ち、下水道も整備された現在でも十分使えるまちである。
 旧居留地連絡協議会は、終戦直後(人によれば戦時中からあったとも言う。)の1946年頃に自警団的組織として国際地区共助会として始まった。その後親睦的な活動を中心に続けてきたが、昭和53年(1978年)神戸市が都市景観条例を作り、北野に次いで旧居留地を都市景観形成地域に指定しようと共助会に話があり、これをきっかけとして、昭和58年(1983年)会の名称を現在のものに変更し、会則も整備、会員を増強した。これを契機に「まちづくり」に取り組もうという機運が出来、本格的には平成に入った頃からまちの将来の姿を求めて、平成元年(1989年)に「まちづくり推進委員会」を設立した。平成6年(1994年)に「地域計画プロジェクト委員会」を設立、景観について検討が始まった。

2 阪神淡路大震災と復興のまちづくり
 この直後に阪神淡路大震災が発生し、地震を契機に活発な活動が始まった。震災では多くのビルが被災したが、居留地では106棟の内22棟が最終的に撤去された。(右図:旧居留地の被災ビル)被災率はビルが多いに拘わらずかなり高く地盤が脆弱であったためかと思われる。地震直後の2月6日協議会は「まちの将来がどうあるべきかみんなで考えよう」と緊急全体会議を招集した。
 この時の話し合いに基づいて「復興計画」と「都心(まち)づくりガイドライン」の2つの計画が策定された。「復興計画」は、震災の9ヶ月後の平成7年(1995年)10月に「まちがどうあるべきか」を整理し、会員の合意の下に印刷した。旧居留地は業務機能をベースとしてその上に商業、観光機能を加えたもので、あくまで主体はここに働いている人である。まちなみを残すのか、残すだけでなく成長させるかを考えているがこれまでの蓄積が元になることは言うまでもない。次いでそれぞれのビルがどうすればよいかを整理したものが「都心(まち)づくりガイドライン」で、平成9年(1997年)3月に策定した。(左:復興計画と都心づくりガイドライン)


3 まちなみづくり 
 まちなみをどのようするかについての合意形成の過程をパリの事例から説明したい。新しい町は人と車を分離し、高層のビルを細長く建て、人のための広場を広く取る考え方である。一方、古くからの町は、通り空間が一定の秩序を持った建物郡に取り囲まれて成り立っている。建物の壁面船とスカイラインが緩やかに統一された街並みである。前者を「解放的まちなみ」、後者を「囲まれ型まちなみ」と名付け、旧居留地では囲まれ型まちなみを将来にわたって継承することが合意された。(左:「開放型まちなみ」と「囲まれたまちなみ」の事例)
合意に至るまでの過程で市立博物館にある明治30年、昭和15年の居留地の街並み模型が参考となった。戦前の居留地の街並みは良かったと言う声が多く、それは石造りで重厚であったこともあるが、壁面線、スカイラインが揃っていることにもあった。(下左:明治30年、右:昭和15年の旧居留地のまちなみ模型:市立博物館
 旧居留地らしいまちなみを形成する上で。それぞれのビルがどのようなことを考慮してゆけば良いかを示す都市(まち)づくりガイドラインであるが、4つのキーワードで整理している。すなわち賑わい、伝統、風格、もてなしの4つである。賑わいは必要であるが例えばパチンコ屋などは排除し、また、住宅も適さないとして、広場を造ることとした。伝統については、先ほど説明した壁面線とスカイラインを緩やかに揃えることを考えた。壁面線を揃えた上で広場を確保するという一見矛盾した要求をしているが、これに対する回答策として中庭(パティオ)やアトリウム(建築内広場)、パサージュ(通り庭)あるいは現在大丸にあるようなポルティコ(街廊)などの手法を紹介している。ガイドラインはあくまで目指すべきものであり、守らないからといって建物が建てられないということではない。一方、都市計画法や建築基準法に基づいている地区計画では、これを守らない建物は建てられない。(右図:地区計画による建築線の説明)ただこれを守ったからといって、100点満点の建物が建てられるわけではなく、落第点ではないというにすぎない。そこで、まちの理想の姿を提示し、各々が100点に近づけるようにする役割を担っているのがガイドラインである
 再建後多くのビルで1階に店ができ看板が出されるようになった、そこで広告物掲出にあたっての視点・留意点を提案した。これが広告物ガイドラインで平成15年(2003年)策定、平成25年(2013年)改定している。広告物は北野地区ではできるだけ出さないようにという方針であるが、旧居留地では「あるのはかまわないがまちなみを阻害しないもの、街を彩る要素となるものを出して欲しい」と考えている。そこで広告物の種類別に留意点を示し、他の町では許されても旧居留地には相応しくないものの事例も挙げている。地区計画では突き出し広告、屋上広告は禁止されているが、バナー(旗)は三点支持のものであれば許されている。自動販売機もできるだけ屋内に入れるようにし、メーカーの名前も入れないようにとしている。

4 安全・安心のまちづくり
 震災後の旧居留地連絡協議会の活動のうち、特に大きな成果をだしたものとして先の「まちなみ景観づくり」に加え「安全・安心のまちづくり」が揚げられるが、時間の都合上割愛する。

5 旧居留地連絡協議会の活動  
 前述のような景観づくりや安全・安心のまちづくりという成果をだせたのは、地域主体の活動であったからである。この活動について、少しふれておく。
 旧居留地連絡協議会の活動は約20人の常任委員会が中心になり、その下に5つの専門委員会(環境、都心《まち》づくり、広報、防災・防犯、親睦)が実務的行動を行っている。① 環境委員会は、花を植えたり、ごみを拾ったりするほか、放置自転車対策なども行っている。② 都心(まち)づくり委員会は、各種計画策定の他、建物の新築・模様替え、広告物掲出等に際して事前相談を受け調整、合意を進めている。現在は夜間景観ガイドラインを検討中である。③ 広報委員会は、年に1回の広報誌を出し、平成7年《2005年》からホームページを開き、ブログも毎日更新している。④ 防災・防犯委員会では、震災直後に会員に「防災マユアルはあるか?」と聞いたところ、中小の会社ではほとんどが整備していなかったので、平成10年(1998年)防災マニュアル策定の手引きを作成した。自社の財産と社員は自社で守るというのが大方針で、それで足りないところを補うために「地域防災計画」を策定し、これに基づいて災害時の帰宅困難者対策や共同備蓄品の管理、防災・防犯訓練等を行っている。⑤ 親睦・イベント委員会は、協議会が最も重きをおく委員会で、コンサートやゴルフコンペなどのイベントを実施しているが、飲み会も多く、これにより普段つきいのない企業組織に連携が深まり成果を上げている。協議会というような組織はこれまでは殆どが商店街組合の延長線上であったが、旧居留地連絡協議会は、日本では数少ない形の異業種による地縁組織で、仕事の話は協議会にもちこまないことを原則としている。

6 おわりに
 旧居留地連絡協議会がここで述べたような成果を獲得できた要因は次の3つと考えている。
 ① 震災前からの持続的な活動:親睦を主体とした異業種交流=日頃からのおつきあい
 ② 自律的なまちづくり活動:
    「まちの将来像の共有」 =緩やかな“意思統一”+穏やかな“自己チェック”
 ③ 行政との連携: (行政)規制力ある「ミニマム」 ⇔ (地元)理想を描いた「マキシマム」

講演その2 十五番館秘話」 担当:野澤 太一郎 旧居留置地連絡協議会長(右写真)

1 旧神戸居留地十五番館の生い立ち
 慶応3年(1868年)の神戸開港に伴い外国人居留地が開設された。十五番館は第1回の競売でフランス人ガンダベルが落札、明治3年(1870年)にレストラン、後ホテルとなった。この建物は明治11年(1878年)火災で焼失し、その後明治13年(1880年)頃までに建ったと推定されるのが現在の建物である。始めアメリカ領事館として利用されたが領事館移転後は個人住宅として使われた。明治39年(1906年)にはサッソン商会が所有し、翌明治40年から江商㈱の神戸支店となり、大正6年(1917年)に永代借地権が抹消され江商㈱の所有となった。昭和41年(1966年)㈱ノザワ(当時は野澤石綿セメント㈱)の所有となり、近年まで同社の本社・営業所として使われていた。(左:旧居留地の地番)

2 旧神戸居留地十五番館を保存するに至る経緯
・居留地時代の唯一の遺稿
 現在の所有者㈱ノザワは、昭和41年(1966年)に江商から土地建物を譲り受けたが、当時の社長である野澤幸三郎氏はこの建物を気に入り、是非にと獲得したと言う。建物は昭和30年代から研究者によって重要性が指摘されており、野澤社長はこの意見に理解し、本社、営業所として大切に使用し、その後も意思が引き継がれ、増改築や造作類の取替えは最小限に留められた。この結果平成元年(1989年)に重要文化財に指定された。
 神戸の中心的オフィス街として機能して発展している場所に、居留地時代につくられた普通規模の商館が残ったことの貴重さが分かる。明治13~14年(1880~81年)頃の建築というのは、神戸市内でも最古の洋風建築である。(上:十五番館)
・保  存
 100年以上前の建物を本社・営業所として使い続けることには限界があり、㈱ノザワでは新社屋建設構想が企画し始められた。ここに問題なのは敷地の最も重要な位置をこの建物が占めていることであった。最終的には「現建物をそのままの場所に存続させ、新社屋はこれに配慮する。」とされ、新社屋は旧社屋を含むようなL字型のプランとして計画がすすんだ。この時、旧社屋と緑地を空間扱いにされることにより、13階建ての所要の面積を確保する今の本社屋が建てられることとなり、昭和63年(1988年)着工、平成2年(1990年)7月に竣工した。そして、旧本社社屋を重要文化財の指定を受け永久に保存していく姿勢を公にした。(左:十五番館と新社屋)
・復原と活用
 十五番館は築後100年以上経っており各所に傷みを生じているため、保存のための修理が計画された。修理に際しては当初形式に復原することは可能とされたが、明治13~14年(1880~81年)頃の形式に完全に復原した場合は建物の利用が資料館的なものに限定されてしまうことになる。「居留地時代の遺構を積極的に利用しながら公開してゆきたい」と考えレストランとして利用することとなった。建物の大部分は元の姿であるが、利用を考え部分的に内装等は復原せず厨房等を仮設することとした。また、建物の構造的な弱点を補強したり新素材を使用した。このように第1回の保全修理では「活用しながら建物を保存していく」と言う考えの下に復原を進めた。
 歴史的建造物は現地保存することが周辺の雰囲気を壊さず、街並みを維持できると講演者は信じている。また、重要文化財の指定を受けた建物を単に博物館、資料館等の公共施設に転用、開放するのでなく、建物を原型のまま、内部を生活の場として使用するのが歴史的建造物を生かすことになると考え、文化庁もこれを認めてレストランとして使用することとなった。
 十五番館を現地保存するに当たり、総合設計制度の適用を受けた結果、建物の高さ制限の緩和により最大限の法定容積率を採用することができ、新本社ビルの延べ床面積も敷地いっぱいに建設した場合とほぼ同じとなった。
・公開緑地
 十五番館の西と十五番館新館に面した公開緑地には次の3つの特徴がある。すなわち、① 新館建設前には敷地に大小の植木が植わっていたが、その内、楠、銀杏、桜の3本を工事中三田市郊外に移植し工事終了後今の場所に移した。② 敷地内の稲荷神社は以前からあったものを移したが、赤鳥居、緑の空間、異人館がアンバランスの美をかもし出している。③ 公開空地内の彫刻は、関係ある彫刻家にお願いした「おしくらまんじゅう」である。
・レストランとしての開業
 保存工事が終了した後はレストランとして利用したいということで平成5年(1993年)4月「Restaurant Chinese・旧居留地十五番館」と言う名の店が開業した。しかし、阪神・淡路大震災で倒壊して廃業せざるを得なくなった。

3 阪神・淡路大震災からの再建
 平成7年(1995年)1月17日払暁阪神・淡路大震災が発生し、十五番館は倒壊した。幸い兵庫県、神戸市当局の素早い判断と決断により倒壊したままの材料が風雨にさらされ且つ部材を持ち去る等の散逸を避けるため西区の養護学校跡地に格納することができた。(左:倒壊した十五番館)
 震災後10日目に文化庁の担当官が来て、「復旧を望むなら構造材の50%使用可能ならば再び文化財として指定する。」と述べた。復旧工事に当たっては「大阪城でなく姫路城で」とコンクリートでなく在りし日のまま保存されることをお願いした。限りなく元の十五番館に近い形(最終的に構造材の70%を再使用)で復旧工事を終えることができた。
 ご主人が米国外交官として札幌、東京に勤務し、この関係で明治時代からの日本の西洋建築を研究されているダラス・フィン女史から十五番館に関して書簡が届いた。再建するならば十五番館の明治時代の写真があるとのことで、早速その写真のコピーを送ってもらったが、十五番館の外観上大いに役に立った。フィン女史は平成9年(1997年)復旧工事現場を視察された。
 工事では構造材の50%以上を再利用する必要があったが、修復の結果古材利用率が70%を超え、文化財としての基準を満たした。耐震補強工事では地下9mまで直径1mの杭を打設し地盤を改良し、その上に厚さ80cmコンクリートの土台を敷き詰めた。更に4ヶ所の免震ゴムで建物全体を支持、水平方向の揺れを吸収可能とした。

4 十五番館の保存のあり方
 講演者は十五番館の保存のあり方として、東大鈴木博士の次の言葉が基本であろうと思っている。「都市が人間的な深みを感じさせてくれるのは、最新の流行のスポットがあるからではなく、味わい深い街角がさりげなく残されているからではないだろうか。」、「レプリカは都市景観を軽薄にするー現在の建物と似た形態の建物を再現すれば保存がなされたと看做す態度が広く浸透しているように思われることは遺憾であった・・・」、「都市が歴史の厚みと個性を維持するためには、費用を所有者だけでなく社会全体で負担する仕組みが必要だ。」(前頁:十五番館のバルコニーと玄関ホール)

おわりに
 旧神戸居留地地区には旧居留地連絡協議会なる街づくりの団体があり、街並み保存と景観形成を主たる目的として活動している。平成19年(2007年)日本都市計画学会から石川賞を受賞するなど高い評価を得ているが、十五番館を現地保存して地区の佇まいに華を添えているのも受賞理由の一つと思っている。







第5回講演概要
    日   時   平成28年1月23日(土) 午後2時~3時30分

    場   所   神戸海洋博物館 ホール

    講演題目  「神戸異人館建築の歴史とみどころ」

    講演者   神戸芸術工科大学名誉教授 坂本 勝比呂 講師

    参加者   105名



講 演 概 要 

 (編集責任 NPO法人近畿みなとの達人)
はじめに
 神戸の異人館は有名であり、皆さん何らかでご存じであろうと思っている。神戸港は後2年の2018年で開港150年を迎える。神戸の歴史を振り返ると異人館の存在は欠かせない。本日は異人館の成り立ち、どのようなプロセスで現在も残るかなどを語り、特に異人館の保存のプロセスについても述べたい。

1 北野・山本地区の歴史的背景
 現在、北野町、居留地、須磨・垂水にかけて異人館であったり異人館に似た建物がかなり散在しているのを見かけることができる。
 明治5年の実測図がよく知られているが、居留地、生田川。神戸港などが良く分かる。これが当時の神戸の姿で、北野、山手一帯は異人館が多く建っていた。
 居留地はイギリス人の土木技師J.W.ハートが中心になって街並みを造り上げた。神戸は、長崎、横浜、函館に9年ばかり遅れて開港しているので、時間があった関係から整った街並みで形成された。
 居留地では種々の活動があったが、ここでは建物に絞って話を進める。初期の居留地のたたずまいを見れば、石造りはあまりないが、耐火建築であり当時のハートの地図で紹介されている。
 居留地の街並みについては模型があり、明治30年、昭和15年の居留地の街並み模型が神戸市立博物館に展示されているが、これらの模型を作成する時に、講演者は千葉大学にいたが作成を行った。明治30年の模型では、海岸通りのたたずまいも分かり京町筋も今のままである。そのうち15番館は、全国で唯一残る商館である。(上画像:大正初期の海岸通)
 明治期に極東の英字新聞、ファーイーストが海側から写した海岸通りの風景を紹介しており、右側にオリエンタルホテルが、左側に香港上海銀行が映っている。神戸の異人館の洋館は、中国の租界すなわち、香港。上海、青島等での建築の流れにある。

2 異人館保存への発端
 講演者は青島に生まれたが、青島はドイツの租借地で。ドイツ総督府があり、町の中心にルーテル教会が位置し、これを囲んで取り巻くように建物があった。昭和30年当時の神戸の北野、山手の風景はその当時の青島に似ている。ただ、青島はレンガ造りであるが、北野の建物は木造である。
 異人館保存の発端として、ストロヴィー邸の消滅のことをお話しする。ストロヴィー邸では、ベランダ、左の出窓、イギリス風でよくある張り出し窓などの特徴があり、ヨーロッパの住宅の特徴をそのまま持っている。昭和35年にストロヴィー邸が取り壊されることになった。講演者は取り壊されてゆくストロヴィー邸を観察するしかできなかったが、取り壊し途中の骨組みを見ると、日本の近代建築にはない屋根にトラスが組まれ、斜め筋交いの部材があり、構造がしっかりしていることが確認できた。
 昭和35年雑誌「日本」の2月号にハッサム邸が紹介された。この建物は現在相楽園にあるが、当時は女子大の寮として使われていたことから、写真では建物を背景に女子大生が写されていた。ハッサム邸の持ち主は建物が傷んでいるので取り壊したいとの所存で、このようにハッサム邸取り壊しの情報が入った。ストロヴィー邸が取り壊されて非常に残念であったことから、ハッサム邸の建物の歴史的な価値から保存したいという意見が出てきて、持ち主と交渉したが、持ち主は建物は差し上げるが、現地に残すことはできないとの意向であった。そこで、保存要望書が市長に提出され、建物が残るなら移設でよいとした。
 当時、異人館の保存は例がなく、異人館としては長崎のグラバー邸、長野県松本市の明治初年に建築された洋風校舎の開智学校(小学校であるが洋風に作った)は明治建築として有名であったが、神戸では異人館の存在はあまり知られていなかった。
 このような経緯を経て、文化庁(文化財保護委員会)が保存に乗り出し、国の重要文化財として指定して保存する方針が出来上がった。グラバー邸もこの時同時に文化財として指定されることとなった。このような経過を経て、昭和36年に解体して移築し保存された。移築に当たっては部材を記録し復元することが義務付けられている。解体して再建された建物は、現在相楽園に建っているが、阪神大震災でも壊れはしたが倒れることはなかった。骨組みはしっかりして洋風のデテールを持っている。さすがに神戸の洋館だと感じた。(画像:相楽園のハッサム邸)

3 建築手法から見た異人館の意匠
 イタリアの建築は、フィレンツェの建物、パラッツォ(宮殿)などヨーロッパ建築を代表している。神戸のドイツ領事館は、アーチを連続させた造りで、これはハンセルの設計によっている。そのほかにも立派な建物があった。
 坂本知事の時代にハンター邸が取り壊すことになっていたが、北野町から王子公園に移して保存することになった。
 前述のようにハッサム邸もデテールがしっかりしており、柱をコリント式にし、軒周り、ベランダなどもしっかりした構造であった。建築の仕事は日本人大工がやったのであろうが、設計は外国人がして、全体としてしっかりした仕事をしている。萌黄の館の煙突は普通の四角い形のものでなく、このデザインの原点はイギリスにある。
 奈良生駒山の宝山寺は、寺であるがこの建物(客殿)は洋風で日本人大工が造っている。ペンキを塗ると洋館と間違えられると白木造りとなっている。日本の大工もこのように神戸、横浜の洋館をまねて建物を建てている。(右画像:講演者著書より)神戸山手本願寺別院の柱は洋風であるが、西本願寺では外国から様々な宗教が入って来る中、日本の宗教も立派な建物を作らなければと言う気持ちからこのような建物としたという。このような疑洋風と言う建物がこの時代には、一方にあった。

4 外国人建築家の参加
 海岸通の現在農業会館が建っているところには、ウォルシュ・ホール商会の建物があった。モチーフはルネッサンススタイルで明治4,5年に外国人の設計により建てられた。
 神戸で建物建築に携わった外国人としては、初期と後期に分ければ、初期には、J.W.Hart(英)(1837~1900)、J.Smedley(豪)(1841~1903)、J.W.Bonger(和)(~1895)、J.Lescasse(仏)(~1901)が、後期では、A.N.Hansell(英)(1857~1940)、G.de Laland(独)(1872~1914)が挙げられる。
 初期に挙げた4人は、明治初期に居留地を建築するために神戸にやって来た外国人であり、彼らが多くの建物を設計している。居留地2番館は、ハートは土木技師であったのでJ.Smedleyの設計であろうと思われる。J.Smedleyは、香港で仕事をしており開港と同時に来日し、ハートとグループを組んで仕事をしていた。後に横浜、東京に移り、東大理学部において校舎を設計した記録が残っている。このように居留地で仕事のあるところを転々としていた。
 J.W.Bongerは、インドネシアのバタビアから来日し、後に東京永田町で大山巌邸の設計に携わっている。ちなみに大山はフランスに留学していた。
 J.Lescasseの設計した図面も出てきており、生野や神戸で活躍をしていた。
 なお、十五番館の設計は誰がやったかは分かっていない。
 A.N.Hansellは、明治21年(1888年)に来日し、最初大阪で活躍、後に神戸に移り設計活動を行った。父は牧師で、本人はロンドンで修行し、高名なエドモンド・ストリートに師事した建築家の下で働いた。有名なウイリアム・モリスもストリートに師事していたことがあった。ハンセルの作品として神戸倶楽部などがあり、オランダ、北フランスのデザインである煉瓦を丁寧に積んだ外壁や煙突などは、当時流行していたクイーン・アン・スタイルと呼ばれる様式であった。この最新のロンドンで流行していた様式を持ち込んだのがハンセルであった。赤煉瓦に白い横線の石積みを通した東京駅の外観のような姿はクイーン・アン・スタイルと言えるが、東京駅の設計をした辰野金吾を工都大学を卒業して間もなくロンドンに留学するが、丁度その頃ロンドンで流行していたのがこの様式であった。例えばロンドンの警視庁、スコットランドヤードなどはその代表例であった。
 A.N.Hansellは、海岸通に香港・上海銀行や京町にジャーデン・マセソンといった当時の東洋における代表的な英国商社を設計し、神戸における近代建築や山手に異人館を手掛けて威圧感を示していた。
 もう一人、G.de Lalandは、ドイツ人建築家で、オリエンタルホテルを設計するが、一方山手に重文トーマス住宅を設計し、現在「風見鶏の館」という余りにも有名になっている。今から40年前かってこの館に住んでいたトーマス氏の娘さんがドイツから来神したことがあって、神戸市がこの館を保全公開していることに感謝されたことがあった。(右画像:風見鶏の館)
G.de Lalandも自宅を東京に建てるが、現在は「江戸・東京建物園」に移築保存されている。
 神戸の異人館は開港以来1世紀半を経過しようとしていて、神戸の町の国際的な文化を表現してきており、その歴史的存在感は、これからも神戸の町の魅力を高めていくうえに欠かせない存在になると言えよう。

5 外国人居留地の誕生と発展(近代最初の地域的都市計画)
 前述のように、海岸通に沿って香港上海銀行とオリエンタルホテルが並んだ写真が残っているが、海岸通のプロムナードはハートの発案であった。神戸は戦災を受けたが上手い具合に建物が残った。市博物館の模型は昭和15年当時のものであるが、その姿を見れば都市計画がヨーロッパ的であるのが良く分かる。一方横浜の街並・建物はアメリカナイズされた様相を呈している。
おわりに 
 以上に話したように神戸で異人館が注目され出したのは昭和30年代半ばのことである。異人館の取り壊しが発端となって、文化財としての価値が認められ保存されるようになった。このようにして今の北野の異人館ブームが存在する。








第6回講演概要


    日   時   平成28年2月27日(土) 午後2時~3時30分

    場   所   神戸海洋博物館ホール

    講演題目  「六甲、摩耶の観光開発の歴史」

    講演者   摩耶登山マラソン実行委員会委員長 前田 康男 講師

    参加者   110名



講 演 概 要 (編集責任 NPO法人近畿みなとの達人)


はじめに
  本日は六甲山、摩耶山の観光の歴史について、明治末から昭和20年くらいまでを中心に述べる。それは此の時期の六甲摩耶の推移が、その後の六甲摩耶を特色づけているからである。

1 江戸時代
 江戸時代までは、六甲山系は詩歌、文学に出てくるが、下界からの記述に過ぎなかった。江戸時代に入ると、名所図会にも登場し、元禄14年(1701年)の「摂陽群談」、寛政8年(1796年)の「摂津名所図会」、文化9年(1812年)の「日本名山図会」などに出ている。

2 明治時代
 明治6年(1873年)いわゆるお雇い外国人3名と日本人1名がピッケル、登山靴の近代登山装備をして六甲山に登っている。外国人のうち一人はアーネストサトウ、日本人は和歌山の医者であった。これが日本で初めての近代登山と言え、六甲山は近代登山発祥の地とも言える。明治7年(1874年)大阪・神戸間に鉄道が開通すると、住吉駅から六甲越えで有馬に行く人が激増した。多くの文人、歌人がこの道を歩き、作品の中で紹介している。明治10年代には、山上の池(大半が人造池)で天然氷を冬季に製造し、氷室で真夏まで保管し下界に降ろし販売した、この氷を運んだ道がアイスロードである。
 明治28年(1895年)グルームが六甲山上の三国池畔に別荘を建設した。水があり、眺望も良好、避暑地に適していた。これが六甲山開発の端緒となり、次々に別荘建設が進められた。グルームは、明治34年(1901年)4ホールのゴルフ場を山上に開設した。日本最初のゴルフ場である。明治36年(1903年)9ホールに増設し、「神戸ゴルフ倶楽部」としてオープンした。 (右写真:当時のゴルフを楽しむ人達)
 明治40年(1910年)頃、居留地外国人が登山愛好会「Mountain Goat Club of Kobe:略称M.G.K.」を設立した。明治43年には日本人の登山同好会が塚本永堯(ながたか)を会長として設立され、「神戸草鞋会」と称した。これは、日本人の最初の六甲山系の登山愛好会である。その後大正2年(1913年)に「神戸徒歩会」と改称している。この会は六甲山を開発にも非常に貢献している。仲彦三郎は「西摂大観」(明治43年)の中で当時の六甲山の様子を『山上は外国人別荘の地となり、あたかも小居留地の観あり。内地は勿論外国より来る者もある。六甲山上には外人別荘44戸、日本人の別荘12戸、60近い別荘があった』と述べている。
朝日新聞も明治44年6月11日付で、「六甲山の外人村」という特集を組み、『明治43年六甲山山頂に開設された郵便局は、翌年飛行機のような形をした新局舎を建設、6~10月の季節局で、山上の外人及び避暑客を対象としていた。灘、唐櫃から毎日物売りが来て、日用品、食料を商い市中と同様の姿であった』と伝えている。
 明治45年(1912年)、六甲山開発に貢献したグルームの功績を讃えるため山上に高さ3メートルの「六甲開祖之碑」が建てられた。この碑は昭和15年(1940年)に倒されたが、その後、昭和30年(1955年)に六甲山の碑として再建された。
(左絵葉書:六甲開祖之碑)

3 大正時代 外人だけでなく日本人も登り始めた時代
 大正時代に入ると多くの人が登り始めたので登山地図が発行され始めた。大正2年(1913年) 神戸徒歩会が会員用に初めて六甲登山地図を発行、会員に配布したが、非売品であり地図の範囲は摩耶山以西であったと思われる。この地図は現時点で、現物は見つかっていない。その後、大正7年(1918年)にも、神戸徒歩会が会員用に登山地図を配布しているが、この地図は三田の「人と自然の博物館」に所蔵されている。この地図も範囲は摩耶山から西であった。
 大正5年(1916年)に木藤精一郎を会長として「やまゆき会」設立されたが、これは現存する最古の六甲登山愛好会である。やまゆき会は、大阪府山岳連盟に所属、兵庫県山岳連盟には入っていない。この後、次々に愛好会が設立され。大正時代だけで百数十の愛好会が発足している。
木藤の功績を讃え、平成14年には「やまゆき会」が芦屋高座の滝横に碑を建立している。(右写真)
 大正7年頃の山上の様子を、九条武子が、「無憂華」所収の「六甲山上の夏」という作品の中で、『異国の人も多く、よその国に来たようだ。はるか麓の方には阪神電車も見える。』と書いている。この頃、既に阪神電車は三宮まで開通していた。ちなみに阪急電車は、大正9年(1920年)に上筒井まで開通、昭和11年(1936年)に三宮まで延長された。
 大正13年(1924年)にはR.C.C.(ロッククライミングクラブ)設立され、芦屋ロックガーデンをベースに活動、数多くのクライマーがここから育っていった。R.C.C.のメンバーには単独行で有名な加藤文太郎や歌人の富田砕花などがいたが、富田砕花は兵庫県の多くの学校の校歌を作詞している。

4 大正13年~昭和3年 六甲登山黎明期
 大正13年(1924年)に六甲山を紹介した最初のガイドブック「近畿の登山」が発売された。(右写真)。また、神戸徒歩会は、大正14年~昭和5年に5回に渡り、会員配布用の地図を発行したが、範囲は宝塚までを含んでいた。
大正15年(1926年)には初めて市販の登山地図、赤西万有堂の「最新実測神戸付近山路図」が発行された。
 昭和2年(1927年)に阪神電鉄は唐櫃村から251町歩(75万3千坪)の土地を購入し、六甲山進出のきっかけなった。
昭和3年(1928年) 木藤精一郎は、六甲山に登り始めた子供や女性を対象としたガイドブック「コドモづれの近畿登山」を出版している。その本の広告欄には森永キャラメルの宣伝が載っているが「空箱は登山の道しるべ」とあり、今では考えられない面白いコマーシャルである。

5 昭和3年~7年 六甲山大衆化の時代
 昭和3年以降は、交通の整備が一気に進んだ。昭和3年(1928年)には裏六甲ドライブウエイが有馬~記念碑台間に開通しバス運行が始まった。次いで昭和4年(1929年)には表六甲ドライブウエイも土橋~記念碑台間に開通、バスが運行されるようになった。表六甲ドライブウエイは大阪で鋳造所を経営する奥村千吉氏が私費で造り、県に寄付したものである。昭和6年(1931年)には六甲ロープウェイが真水谷~記念碑台下に開通、翌昭和7年(1932年)に六甲ケーブルが土橋~山頂間に開通した。ロープウェイは阪急系列で、ケーブルは阪神系列である。当時の写真を見ると六甲山はまだまだ禿山の地域も多い。
しかし行楽シーズンの休日には六甲山には一日3000人から5000人の人が登ったという記録がある。
 こうした背景の中で、後々まで語り伝えられるほどの阪神と阪急の壮絶な六甲山開発競争が始まった。阪神は前述の取得した広大な土地を開発に当てたが、阪急の開発地域は阪神よりはるかに狭い。しかしコンパクトに効率よく開発したと言えよう。昭和6年5月の又神(ゆうしん)日報の記事では『阪神阪急の競争は、まるで早慶戦その儘であり、開発を山の神聖を患ふる葺合署』と表現している。
開発競争を一覧表にすると次のようになる。

 一方摩耶山では、大正14年(1925年)、摩耶山天上寺への参拝者用に摩耶ケーブルが開業、天上寺へのアクセスが便利になり参拝客が大幅増加、参道の両側には土産物屋、射的、飲食店、茶屋などが並んでいた。昭和4年(1929年)には摩耶山観光ホテルが開業、釜風呂、宴会場を備え賑わった。

6 昭和7年~13年 六甲山絶頂期
 昭和7年(1932年)に阪神により山上周遊道路が完成、山上遊覧バスの運行が始まった。このバスは3箇所の停留所で自由に乗降できるようになっていた。記念碑台の横には、周遊道路完成の碑が建てられ今も残っている。昭和8年(1933年)には高山植物園が開園し、天狗岩別荘の売出が始まった。昭和9年(1934年)六甲オリエンタルホテルが開業、東六甲ドライブウエイも逆瀬川~最高峰間に開通した。昭和10年(1935年)再度山観光ドライブウエイが開通、六甲山郵便局の通年営業も始まった。昭和12年(1937年)にはカンツリーハウスが開園するなど、六甲山は絶頂期を迎えた。昭和12年(1937年)「関西山小屋・六甲特集」10月号によると、その賑わい振りはすごかったらしい。そうした状況の中、神戸市もガイドブックを出版、更に新聞社もガイドブックを出版(朝日新聞)したり、道標を建設したり(毎日新聞)登山熱を煽っていた。阪急六甲駅東には今もその道標が残っている。コロムビアレコードからは、中野忠晴の歌う「山は六甲」と言うレコードも売り出された。  
山上では、本格的登山姿、都会と見間違うような服装、和服姿の女性と様々な服装が見られた。
夏期を山上の別荘やホテルで過ごす金持ちを迎えるため、ケーブル下駅には毎朝自家用車が待つ風景もあったという。ペットを抱いた外人がケーブルで下山する時は、ペットの足がホームにまいた水で汚れないよう係員がケーブルから抱いて降ろしたという言う話も残っている。

 摩耶山では、昭和14年(1939年)に大猿が捕獲されたが、アメリカの映画の影響で「キングコング生け捕り」と大人気となり、それを見るため午前中だけで500人が登ったという記録も残っている。
また、神戸沖で観艦式が 行われた際には、見物の最適地として多くの見物客で賑わった。

7 昭和15年~20年 暗黒期
 昭和15~16年(1940~41年)になると戦時体制となりパンフレットも「心身のリフレッシュ」から「心身の鍛錬」へと変わり(右側パンフレット)、ガイドブックや地図も、軍機法の制約で、山の標高は消され、インフラ施設や重要地域はブランクになってきた。昭和16年(1941年)「御陵巡拝と近畿ハイキング」には、『ハイキングコースには、要塞地帯もあれば防諜上、立ち入り禁止の区域もある。20m以上の高所からは如何なる撮影も禁止』と記述、同年発行の「近畿ハイキングコース」には、『略図は軍機保護法の関係上、・・・詳細を記せず』と記載されている。「ハイキングコース案内・近畿篇」でも山の標高記載を中止し、水源地など全て示さず、産業施設も示すことが出来なくなった。 昭和17年(1942年)「近畿ハイキング探勝コース」の1ページ目には、『憲兵指令部御検閲済』と印されている。
 神戸ゴルフ倶楽部でも、ゴルフは敵国のスポーツとして憎悪の対象となり、非常時に贅沢であるとゴルフ税をアップし、「打球場」と呼称変更された。そして遂に昭和17年(1942年)に閉鎖し、麻酔薬原料の朝鮮朝顔やジャガイモ畑に転用された。
 六甲ケーブル、六甲ロープウェイ、摩耶ケーブルは、不要不急と認定され撤廃が決定、金属供出の対象となって、摩耶ケーブル、六甲ロープウェイは昭和19年に撤去された。六甲ケーブルは撤去工事が遅れているうちに終戦を迎えたため、終戦の10日後の昭和20年(1945年)8月25日に運転を再開した。六甲ロープウェイは阪急の方針から 戦後も復活しなかった。

8 昭和22年~33年 復活期
昭和20年代半ばに、六甲山ホテル、六甲オリエンタルホテル、ゴルフ場が再開され、昭和30年には摩耶ケーブルも再開、同年奥摩耶ロープウェイも新たに開通した。六甲山の記念碑台には六甲山の碑が再建された。昭和31年(1956年)六甲山は、国立公園に編入、昭和13年(1938年)の阪神大水害で閉鎖されていた表六甲ドライブウエイも再開された。また、昭和32年(1957年)「回る十国展望台」が新設され、森林植物園も開設、六甲山の復活期を迎えた。

9 昭和33年~50年代 復興期
 昭和36年(1961年)芦有道路(右側の写真)が開通、昭和40年代の高度成長期に入ると企業の山の家が次々建設され、山上人口も増加、記念碑台附近は六甲山銀座とも言われた。昭和45年(1970年)六甲・有馬ロープウェイ開通(表六甲線はこの後中断中)、昭和47年(1972年)「太陽と緑の道」が設定。(六甲山系もかなり含まれている)。昭和50年(1975年)には「全六甲縦走大会」が始まった。このように六甲山は復興期を迎えた。

10 昭和60年代~平成 低迷期
 しかしながら、バブル崩壊、リーマンショック等により企業の山の家が売却され空家化し、更に、阪神淡路大震災による交通機関の長期停止、娯楽の多様化が進み、かつての賑わいが薄れ、低迷期を迎えることとなった。六甲オリエンタルホテルは、平成19年(2007年)閉鎖され、スカイヴィラも平成22年(2010年)閉鎖された。(スカイヴィラは経営母体を変えて翌年再開)。
摩耶ビューラインも大幅な赤字となり、いったん廃止決定されたが、住民運動の結果、その後一転、存続決定したものの予断を許さない状態である。
 このような低迷の中で、六甲山小学校のみ、一時に比べ生徒数が大幅に増加している。半数が下界から通学であるが一縷の希望となっている。

おわりに
現在、行政、企業、各種団体等による六甲山活性化策が色々検討され、実施されている。
六甲山は神戸の街の中心から30分で行ける貴重な自然財産であり、今日の講演が六甲山、摩耶山にもっと関心を持っていただけるきっかけになればと思っている。