平成26年度 神戸みなと知育楽座 Part6
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第1回講演概要 日 時 平成26年6月7日(土) 午後2時~3時30分 場 所 神戸海洋博物館 ホール 講演題目 「神戸、海辺と川のをとめたち~古代伝承から~」 講演者 神戸女子大学文学部 河田千代乃 教授 参加者 155名 講 演 概 要 (編集責任 NPO法人近畿みなとの達人) はじめに 今日は、「海辺と川のをとめ」と題し、傀儡(くぐつ)、白拍子、遊女と呼ばれたさすらいの芸能者の話をする。 神戸という地名は生田神社の神部(かんべ)からきている。生田神社には44戸の神部(かんべ・しんこ)がおり、生田神社の経営を助ける役目を負っていた。1800年以前の日本書紀の記載で、神功皇后が朝鮮半島からの帰途、武庫川の沖で船が動かなくなった。神からお告げがあり、廣田神社には天照大御神が祭られ、長田神社には事代主の神(ことしろぬしのかみ)が祭られ、生田神社には稚日女尊(わかひるめのみこと)が祭られた。稚日女尊は天照大神の若々しい時の神といわれる。廣田は「広い田圃」、長田は「長い田圃」、生田は「生き生きした田圃」の意味である。阪神間は古代から発展しており、山陽道が通り交通の要衝で大陸に向かう場所であった。その生田の神に仕える巫女の話~處女塚(をとめづか)古墳に祭られる乙女~にちなむ話である。 1 大和物語の生田のをとめ 生田川は、現在のフラワー通りに沿って神霊が山から流れて海に注いでいた。生田川跡の碑は加納町にある(右写真) 大和物語では、一人の神聖な美しい女に二人の男が心を寄せる妻問いを行う物語がある。女は「生田川の河原に、平張り(仮設テント)で暮らす」と書いてあり、普通の女性ではなく遊女、芸能者、巫女であろう。 男の一人は女と同じ摂津の国の男で「むばら」といい、今一人は隣国和泉の国の「ちぬ」といった。名前はそれぞれの出身地名と思われる。二人は、年齢、顔形、志がよく似ており、いずれも素晴らしい男であった。女は自分をより思う方にと思ったが、甲乙つけがたく困って親に相談して「水鳥を射て射止めた方に」としたが、一人は水鳥の頭に、他は尻尾を射て、勝負が付かなかった。女は結局「すみわびぬわが身投げてむ津の國の生田の川は名のみなりけり(人を生かすというのに名前だけだ)」と詠んで生田川に身を投げた。二人の男も水に入り一人は女の頭を捕らえ、他は足を捕らえたが共に川に沈んでいった。 三人の墓は海辺にあるが、乙女の塚を真ん中にして男の塚は同じ距離を置いて東西にある。和泉の国の男の親は、和泉から土を船で運び墓を造ったという。乙女の塚が有名な「處女塚」である。(写真左) 西の塚から三角縁神獣鏡(卑弥呼の鏡)が出土しており、3世紀ころのものと推定されている。時代が下り、誰の墓か分からなかったので、三人の墓の伝説が出来たものであろう。二宮神社で良い石が入ったので、現在の生田川に講演者も関係して10年ほど前に「處女塚伝承の碑」(写真下)を建てた。 このような乙女の伝説は、遊女たちが紡ぎだして語り継いだものと思われる。 2 傀儡子と巫女、遊女 生田川に身を投げた乙女は遊女であったのだろうが、このような女性は古代から資料に出てきている。傀儡子(くぐつ・かいらいし)と呼ばれた、大江匡房が平安時代に書いた「傀儡子記」、「遊女記」は、傀儡子の生態を知る上で貴重な書である。この中から紹介すると、普通の人は戸籍があり税金を払い国家体制に組み込まれていたが、体制に入らない人は定住ができず、田(土地)を持たず、いわゆるテントに住んで川原などを移動して暮らしている。生計は「芸」によって立て、人形遣い、狩猟、曲芸などを生業(なりわい)としていた。 「傀儡子記」の中には遊女の名前も出ており、これらの遊女は、淀川、神埼川の中洲に住んでいるので、当然生田川の川原にも住んでいたのであろう。 生田の乙女は、生田神社の巫女として神にも仕え、神社の芸能に奉仕していたと考えられる。明治以降は国家神道となり、神社から芸能は排除され、近世まで栄えていた芸能は消えていった。 3 葦屋の処女の歌 大和物語より古い時代、万葉集に高橋連虫麻呂が、葦屋の処女の墓を過ぐる時に作る歌として、「葦屋(あしのや)の莬原(うなひ)処女(をとめ)の奥津城(おくつき)を行く来(く)と見れば 音(ね)のみし泣かゆ」など2首を詠んでいる。 芦屋の地名の由来は、葦が生えていたところから来ているが、この乙女も男からのプロポーズに海に身を投げた。莬原(うない)は、「海原」とも書き、生田川の西が八部(やたべ)郡、東が莬原(うない)郡で、現在郡境界の碑(写真右)がある。 この莬原の処女(うないのおとめ)の話が、生田の乙女の話の源流となっている。 4 莬原処女(うなひをとめ)の墓を見る歌 葦屋の乙女と同じ話で「莬原処女(うなひをとめ)の墓を見る歌」に、 「いにしへの信太壮士(おとこ)の妻問(つまど)ひし 莬原処女の奥津城(おくつき)ぞこれ」 「語り継ぐからにもここだ恋しきを 直目(ただめ)に見けむ いにしへをとこ」の2首が詠まれているが、その前説にはかなり詳しく事情を説明している。 生田川の乙女と同じような伝説で、一人の男は血沼壮士(ちぬをとこ)と言い、大阪湾を古代からチヌの海と言ったことから大阪の男であり、今一人は莬原壮士(うなひをとこ)で、地元の男である。この二人は、「相結婚(あいよばい)しける」とあるが、「よばい」は、古代は、「呼び続ける」という意味である。血沼壮士(ちぬをとこ)は、歌では信太壮士(しのだおとこ)とも詠まれているが、大和物語の和泉の男である。結局女は、「私は死んであの世で待っています」と海に身を沈めた。 歌人としても有名な大伴家持もこのことを歌に詠んでささげている。 5 真間娘子(ままのをとめ) 関東にも生田の乙女と同じような伝承があり、勝鹿(かつしか)の真間娘子(ままをとめ)を詠む歌「葛飾の真間の井を見れば 立ち平(なら)し水汲ましけむ手児奈(てこな)し思ほゆ」から紹介する。 千葉県の江戸川に近い海辺に非常に美しい女性が住んでいた。多くの男性からプロポーズをされるものの、誰にもなびかず結局海に身を投げたという話である。女性は「・・・花のごと笑みて立てれば 夏虫の火に入るがごと 港入(みなといり)に船漕ぐごとく・・・」とみんなが寄ってくるほどの良い女であった。神に仕える女で人間の男には仕えないと、真間の海に身を投げたのであった。この付近の観音堂には、手児奈が観音様となって祭られている。(写真右:手児奈を祭るという手児奈霊堂) 山部赤人も「真間娘子の墓を過ぐる時」手児奈を、「われも見つ 人にも告げむ 葛飾の真間の手児奈が奥津城処(おきつきどころ)」などと詠んでいる。万葉集巻の14は東歌(あずまうた)で東国の民謡集であるが、下総国の歌4首中3首が真間娘子を詠んでいる。 6 上総の末の珠名娘子(たまなをとめ) これまでの乙女とは反対に全ての男を受け入れる女性の伝説がある。上総の国の東京湾の沿岸に末の珠名娘子(すえのたまなをとめ)と呼ばれる乙女がおり、その美しさを「細腰の蜾臝(すがる:蜂)をとめのその姿(かほ)の端正(きらきら)しきに花の如(ごと)咲(え)みて立てれば玉鉾の道行く人は己が行く道は行かずて呼ばなくに門(かど)に至りぬ…」とあり、蜂のように腰は細く、ニコリとしたら家の鍵も渡し、妻も離縁してしまうほどであった。遊女的な女であり、町内や狭い地域におれば近隣の迷惑となる。村落共同体を乱す女性で、農耕社会のルールと異なっているので外に追い出し、村落に定住はさせてもらえない。これが遊女の本質で、神に仕えて、そのあとは男性に仕えることとなる。夫、親はこれを咎めないのが原則であった。 このように神のみに仕える女、巫女がおれば、一方全ての男に仕える女の二種類の女がいた。伝説ではどのように語られているかを考えると、前者〈巫女〉の代表が小野小町であり、男を受け入れず、有名な深草の少将との物語がある。少将へ百夜通いを要求し、少将は九十九日目に死んでしまうが、百人一首に小野小町は後ろ向きの姿で描かれており神に仕える女といえよう。後者の代表で、遊女的女性は、和泉式部であり、全ての男と枕を交わした遊女的女性として語られている。 7 六月晦の大祓 これまでの話は遊女により語り継がれた物語である。農耕民、定住民は限りなく穢れを生み、それを自分では消滅させることができない。この穢れを消滅させるために穢れを川や海に流すが、それを手伝うのがその力を持っている遊女、傀儡子、芸能者である。彼女らは聖なる人と見られ、信じられている。 穢れの祓いで、どこの神社でも行う行事は、六月末日に半年間に犯した穢れを清める六月(みなずき)大祓である。大祓に現れる三人の女神たちがこの穢れを祓う役割を担っている。 天皇のもとに行われる大祓は、六月と十二月の末に百官を集めて国中の穢れを祓う行事である。大祓の中で天の益人(あめのますひと:この国に住む人たち)の犯す農耕妨害やその他の罪を列挙している。天皇は、国中の罪を集めて、川、海へ流す。その川、海には神々が住み4人中3人が女神である。川には「速川の瀬に坐す瀬織つひめ(せおりつひめ)」が、海では「速開つひめ(はやあきつひめ)」が引き受け、根の国底の国の伊吹戸主(いぶきどぬし)の神を経由して、根の国底の国の「速さすらひめ」が異界である根の国底の国をさすらって穢れを消滅させる。このように穢れを最後に処理するのは女神である。 おわりに 穢れは川から海そして異界に送ることで浄化される。地上では浄化の役割をするのが傀儡子、遊女である。遊女はいわゆる売春婦ではなく、芸能者であり、穢れを受けて浄化する役割を担っている。しかし、土地を貰えず、街道をさすらい、公道、宿駅で芸を披露し、また、神社で芸能を演じる存在であった。即ち信仰を広める役割も担い、普通の人より優れた者であった。神社の祭りで芸能者は芸能を演じて人々の穢れを受け、浄化したのである。このような乙女が川や海のほとりに住んでおり、生田の乙女もそのような一人であった。 |
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第2回講演概要 日 時 平成26年8月30日(土) 午後2時~3時30分 場 所 神戸海洋博物館 ホール 講演題目 「須磨の文学と和歌」 講演者 神戸女子大学文学部 北山 円正 教授 参加者 135名 講 演 概 要 (本概要は、講演者にチェックをお願いしていますが、まだ御返事を頂い ていないので暫定版です。 NPO法人近畿みなとの達人) はじめに 講演者のキャンパスは須磨にあるが、バスに乗って山手へ行ったところである。現在、須磨海岸は人出も多く賑わっているが、平安時代の須磨と現代の須磨とは違っている筈である。当時の貴族の印象では、須磨は今と異なり、ひっそりとした寂れた漁村であった。海岸近くは、今日でもあまり都市化されておらず、住宅は山の方に多い。 本日は2つの話をする。ひとつは、須磨の地名「月見山」に関することで、二つ目は義経の一の谷の合戦で戦って亡くなった平忠度の話である。 〈左写真:現在の須磨海岸〉 A 須磨の月見山 1 須磨の地名 現在、月見山という山は無いが、駅名には月見山がある。須磨観光協会発行の史跡ガイド「須磨歴史紀行」には、「……須磨離宮公園のある東・西須磨の境の高台は、かつて月見山といわれ、『源氏物語』光源氏のモデルの一人である在原行平が、都での月見を懐かしんだ場所として伝えられている。……」とあり、行平が月見山に来たと印象を与える。事実須磨には文化遺跡が多くある、 須磨区の地名には、文学に出てくる名前が多く、「青葉・一の谷」は、敦盛の青葉の笛にちなみ、「桜木・若木」は、源氏物語「若木の桜」による。「磯馴・松風・村雨」や「行平」は、能・謡曲の「松風」に出る名前である。このような地名を誰がどのようないきさつで付けたのかは良く分からない。 2 須磨と在原行平 在原行平は伊勢物語の主人公有原業平の兄で、行平は須磨の印象を宮中に仕えている人に送った歌に次のように言っている。 「わくらばに問ふ人あらば須磨の浦に藻塩垂れつつ侘(わ)ぶとこたへよ」(古今集巻十八・269) ここに、「藻塩垂れ」とは、藻を焼いて塩をつくる、涙を流す意味でもある。この歌の前書きには「たむらの御時(文徳天皇の御代(850~858))事にあたりて(事件に遭遇して)、摂津の国(つのくに)の須磨といふ所にこもりはべりけるに、」とあり、この和歌で、「どうしているかと聞かれれば、寂しく暮らしていると伝えてくれ」と詠んで、寂しくわびしく暮らしている様子を伝えている。 3 古代の須磨(関・馬駅) 行平の須磨を表した歌に、 「旅人は袂(たもと)涼しくなりにけり関吹き越ゆる須磨の浦風」(続古今集巻十・868) また、百人一首にもある源兼昌の「関路千鳥といへることをよめる」和歌 「淡路島かよふ千鳥の鳴く声にいく夜寝覚めぬ須磨の関守」(金葉集巻四・072) と「須磨の関、関守」が詠まれている。したがって須磨には関があったようで、枕草子にも「関は、逢坂、須磨の関、……」と記述されている。 馬駅(駅:うまや)については、「摂津の国の須磨のにて」として 「浦風にもの思ふとしもなけれども波のよるにぞ寝られざりける」(大弐高遠集971) があり、詠んだ場所を「須磨の駅(うまや)として、藤原長実の 「思ひやれ須磨のうらみて寝たる夜のかたしく袖にかかる涙を」(金葉集巻七・753) の歌がある。 また、延喜式巻二十八・兵部省の資料に「諸国駅伝馬 畿内 摂津国駅、須磨各十三疋、葦屋十二疋」と主要な街道に三十里〈約16キロ〉ごとに置かれた宿駅、役人、馬宿泊施設を備えた「駅(うまや)の一つが須磨にあったようである。最近の新聞の記事で明石の駅の遺構が大倉海岸にあったことが分かったとあり、須磨の駅も従来は山の手と思われていたが認識が改まろう。 関と須磨の月を詠んだ和歌としては、「法性寺(ほっしょうじ)入道太政大臣、内大臣にはべりける時、関路月といへる心」として中納言師俊が、 「播磨路や須磨の関屋の板庇(いたひさし)月漏れとてやまばらなるらむ」(千載集巻八・994) と詠み、高野山の道範という僧が紛争によって1243年讃岐の国に流される時に須磨の浦で、 「ながれ行く身にしあらずは須磨の浦とまりて夜半の月は見てまし」 と須磨で眺めた月を詠んでいる。(道範『南海流浪記』)。師俊の歌で「板庇」から月が眺められるのは、月を見るために開けてあったことを表している。 4 源氏物語の「須磨」 「源氏物語・須磨の巻」では、主人公光源氏が、身分・地位を剥奪されて、都を離れて須磨にいわば逃げてきたときの物語である。須磨に来るに至った原因は定かでないが、菅原道真が大宰府に流されたことも背景にあるようだ。ところで「須磨」に地名の由来は、摂津の国の「スミ」という説もあるが確定していない。以下に源氏物語に書かれている光源氏の須磨の部分を見てみよう。 〈右:源氏物語の作者紫式部〉 住む人も居ない土地と表現して、「かの須磨は、昔こそ人の住みかなどもありけれ、今は、いと里離れ心すごくて、海士(あま)の 家だにまれに、など聞きたまへど」(須磨) 須磨の寂しさ 心細さを表現して、「さる心細からむ海づらに、波風よりほかに立ちまじる人もなからむに」(同) 須磨に向かうときに東宮に出した文は、 「いつかまた春の都の花を見む時失へる山賎(やまがつ)にして」 と「都の花を見ることが出来ましょうか?」と言っている。山賎とは山で仕事をする身分の低い人である。 行平の歌を土台に海の近くに山が迫っている様子を表して、 「おはすべき所は、行平の中納言の、藻塩(もしお)垂れつつわびける近きわたりなりけり。海づらはやや入りて、あはれにすごげなる山中なり」 と記述している。行平を引いているのは、この時代は物語を読む人が良く知っていることを前提として書かれている。 海人の様子から大変だと感じて、話は分からないが、自分の身と変わらないと感じて、 「海人ども漁(あさり)りして、貝つもの持て参れるを、召し出でて御覧ず。浦に年経るさまなど問はせたまふに、さまざま安げなき身の愁へを申す。そこはかとなくさへづるも、心の は同じこと、何か異なると、あはれに見たまふ」 とある。ここに「さえずる」とあるのは、海人が話していることを鳥が鳴いているように聞いてこのような表現をしている。 明石の巻では光源氏は珍しく人々の話を聞いた情景を 「須磨はいと心細く、海士の岩屋もまれなりしを、人しげき厭ひはしたまひしかど、ここはまた、さま異にあはれなること多くて、よろづにおぼしなぐさまる」 〈明石〉 と表現しているが、これも寂しさゆえである。 当時は都以外は全て「田舎」であり、このように人々の話も鳥の声と聞こえたのである。 5 光源氏の須磨での月見 光源氏は清涼殿での音楽、和歌などの遊びを思い出して須磨で十五夜の月をじっと見ている様子が次のように物語られている。その中には白居易の詩を取って故人=友人を思った表現をしている。 「月のいとはなやかにさし出でたるに、今宵は十五夜なりけりと思(おぼ)し出(い)でて、殿上の御遊び恋しく、所々ながめたまふらむかしと思ひやりたまふにつけても、月の顔のみまもられたまふ。「二千里外故人心」と誦(ず)じたまへる、例の涙もとどめられず。入道の宮の、「霧や隔つる」とのたまはせしほど、言はむかたなく恋しく、をりをりのこと思ひ出でたまふほど、よよと泣かれたまふ。「夜ふけはべりぬ」と聞こゆれど、なほ入りたまはず。 「見るほどぞしばしなぐさむめぐりあはむ月の都は遙かなれども」 このようなことから「須磨の月を眺めたのは光源氏」であるといえる。 6 在原行平と月 ところで須磨で月を眺めたのがなぜ行平となったかという疑問が出てくる。 謡曲「松風」は、観阿弥の作で、世阿弥が改作した14世紀末から15世紀のものである。謡曲「松風」では、行平が理由は分からないが須磨に行き、そこでは二人の女性松風・村雨が仕えることとなった。3年経って行平は都に帰るが二人は行平を慕っていた。この様子は、 「心尽くしの秋風に、海は少し遠けれども、かの行平の中納言、関吹き越ゆると詠(なが)めたまふ、浦曲(うっらわ)の波のよるよるは、げに音近き海士(あま)の家、里離れなる通ひ路の、月より外は友もなし。」 「さても行平三年(みとせ)が程、おんつれづれの遊び、月に心は須磨の浦、夜塩(やしお)を運ぶ海士乙女(あまおとめ)に、姉妹(あねいもうと)選ばれ参らせつつ、折にふれたる名なれやとて、松風村雨と召されしより、月に馴(な)るる須磨の海士の、塩焼衣色変へて、めぐりの衣(きぬ)の空薫(そらな)きなり。」 と「須磨の浦」と「月の澄む」を掛け行平が須磨の月を眺める様を表している。 この謡曲から「須磨の月」は「行平」で定着した。わが国ではつい最近まで謡曲はポピュラーなもので誰もが口ずさんでいた。したがてって行平と須磨のことは多くの人が知っていたことであり、「行平=須磨の月」となったようだ。 〈右写真:能「村雨」〉 御伽草子、浄瑠璃でも行平と須磨の月が述べられ、多くの文学作品に出て、これらは、「村松物」と呼ばれるようになった。また、攝津名所図会に「行平月見松」が記載され行平の「行平卿賞月亭(つきみてい)」の跡地と紹介されている。 B 平家物語の「一の谷」(須磨) 平忠度は平忠盛の息子、清盛の弟として多くの人に知られている。また「薩摩の守忠度」といえば年配の方は別の言葉も思い出されるが昨今の学生は全く分かっていない。 それはさておき、平家物語で語られている「忠度最後」では。勇敢に戦った忠度を討った岡部六郎太はそれが誰であるかが分からなかったが、箙(えびら)に結びつけた文を解いて「旅宿の花」という題の和歌 「行き暮れて木(こ)の下蔭を宿とせば花や今宵(こぴょひ)の主〈あるじ〉ならまし 忠度」 を見出して、忠度と知った。 平家物語の忠度都落は、次のような逸話を述べている。忠度は、都落ちした平家の一行から脱け出して都へ戻り、藤原俊成の邸を訪う。『千載集』への入集を依頼して自らの詠草を託して、ふたたび西へ向かった。俊成は、その中から次の歌を選んで、「故郷花といへる心を詠みはべりけるよみ人しらず」として載せた。 「さざなみや志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな」(千載集巻一・66、忠度集・51) 意味は、「人が建てた都は荒廃したが、桜の花は往時と変わらず咲いている。」で、大津の京は昔と同じように山桜は咲いていると平家の栄華もこれまでの気持ちを含んでいる。 先の、「行き暮れて・・」の歌は「旅の途中日が暮れて」と漂泊・流寓の運命を表し、二つの和歌は平家の運命も考え、人の栄華の行方についても詠じたものであろう。 おわりに 本日は須磨を中心に話したが、神戸の地は過去の文学作品に沢山出てくる。神戸に関係する方にはこの地に愛着を持って文学作品を鑑賞していただきたい。 |
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第3回講演概要 日 時 平成26年10月4日(土) 午後2時~3時30分 場 所 神戸海洋博物館 ホール 講演題目 「浄瑠璃(文楽)でめぐる神戸」 講演者 神戸女子大学非常勤講師・古典芸能研究センター非常勤研究員 川端 咲子 講師 参加者 105名 講 演 概 要 (本概要は、講演者にチェックをお願いしていますが、まだ御返事を 頂いていないので暫定版です。 NPO法人近畿みなとの達人) 1 浄瑠璃の歴史 はじめに浄瑠璃(文楽)の歴史を簡単に振り返ってみる。文楽は浄瑠璃と人形と音楽の3つが一体となっている演劇であるが、最初から文楽と言わず、それぞれが別々に発展してきて3つが一緒になって文楽となった。語り物の始まりは盲目の琵琶法師が琵琶を伴奏にして平家物語を語った平曲である。平家物語を題材としていたが、これだけではレパートリーが少ないので別の物語も語り出した。その中に「浄瑠璃御前物語」があり、出雲の国で好まれたものらしい。登場するお姫様、浄瑠璃御前と牛若丸の悲恋物語で、平家物語とは異なった節付けで語られた(右絵:浄瑠璃御前と牛若丸)。これが浄瑠璃、語り物であり、別の物語も語るようになった。この頃は語り手と楽器だけであったが、これに人形が加わった。人形は、傀儡師という人形を動かして芸を行う集団があり、その中でも西宮の夷舁(えびすかき)が語る者と結びついて文楽の元となった。楽器としては、琉球経由で三線(さんしん)が近世に入ってきてこれを改良したのが三味線である。ここに浄瑠璃と人形と三味線が合体した。 人形浄瑠璃を今は文楽と呼ぶが、この用語は近代になってから使われるようになった。江戸時代には、「人形芝居」、「操り芝居」、「操り」、「操り浄瑠璃」、「義太夫」などと呼ばれていた。19世紀初頭に植村文楽軒が出現したが、この人は淡路出身の興行師で、高津の芝居小屋始めた。文楽の芝居は「文楽軒の芝居」と呼ばれた。2代目文楽軒は興行手腕があり、稲荷神社境内に小屋を建て、3代目は天保の改革後稲荷神社の芝居小屋を再開した。明治5年に大阪松島に移転、初めて「文楽座」の名称を用い、ここに文楽が総称として定着した。 文楽は、世界無形文化遺産に登録されているが、名称としては「人形浄瑠璃文楽」で登録されている。以下に述べるものは江戸時代からのものである。 2 西国街道の通過点としての神戸 神戸は西国街道の通過点であり、昆陽から西宮に出て海岸沿いに西へ向かい、兵庫では西宮、和田岬、須磨と海岸線を通り、浄瑠璃の登場人物がこれを通る。都から福原、九州へ行くに陸路では必ず通るところである。海路をとる場合は、伏見から淀川を下り尼崎あたりから海路となり兵庫の海岸線を通る。いずれも神戸を見ながら西に向かうこととなる。 この様子を三つの例で示す。 浄瑠璃でないが謡曲「西国下(くだり)」は、都から福原に向かう行程であるが、 「馴れし都を立ちい出でていづくに稲名の小笹原。一夜仮寝の宿はなし。・・隠れてすめる昆陽の池。生田の小野のおのづから。・・晒すかひなき布引の滝つ白波音立てて・・・御調を絶えず運びしも武庫の浦こそ泊まりなれ福原の。故郷に着きしかば・・」 と、稲名の小笹原、昆陽の池、布引の滝、武庫の浦、福原の地名が読まれている。謡曲「敦盛」は、敦盛を討ったあと熊谷直実は出家し、再度合戦の現場一の谷に行く場面であるが、 「・・南に廻る小車の淀山崎を打ちすぎて。昆陽の池水生田川波こヽもとや須磨の浦一の谷にも着きにけり。」 と、淀山崎、昆陽の池、生田川、須磨の浦(一の谷)へとなっている。古浄瑠璃「七人ひくに」は、東寺を出て昆陽の松原、猪名の小笹原、有馬山、そのあと何故か長柄の橋とあり、次いで鳴尾、武庫山、湊川と書かれている。都から筑紫への道は、実際の経路順とは異なるが、歌枕として知られている場所を入れて、現地には足を運んで書いたものではないようだ。 3 神戸周辺を舞台とした浄瑠璃様々 神戸を舞台にした浄瑠璃を紹介してゆくが、いずれも昔から神戸を舞台にした物語、伝説を下敷きにしたものである。その一つは、須磨を舞台にした松風・村雨の物語、伝説であり、二つ目は、生田、須磨などを舞台にする平家物語を題材にした源平合戦もの、三つ目は太平記を題材にして神戸で新田義貞が、湊川で楠木正成が討ち死したことにちなむ話である。 4 松風物 江戸時代に発行されている摂津国名所図会を見ると、須磨あたりの上方向に「行平月見松」、下方向に「村雨堂」、「松風・村雨の墓」、「松風屋敷跡」など複数の名所が載せられている。松風・村雨は、もとは伝説上の人物であるが、あたかも実在した現実の歴史上の人かのようになっている。名所図会は旅のガイドブックであるが、それに記載されたこれらの名所は現在も残っている。 松風物関連の浄瑠璃は多数あるが、伝説化された物語として古浄瑠璃「松風」と「松風村雨束帯鑑」を取り上げてみたい。その一つ「松風村雨束帯鑑」は、近松門左衛門の作で、松風・村雨に浦島太郎伝説をミックスし、天下国家を揺るがすような壮大な物語である。それ以前は、松風・村雨と行平の恋物語だが、ここから天下国家の話に移行している。 3段目では、かつて須磨に流されていた行平が都に戻り、再び須磨を訪ねる物語である。自身は行平とは名乗らずに、身をやつした都人として別人のようになって本来の姿を隠して身をしのんでやって来る。近松以前にも同様の話があり、歌舞伎でも同様の物語があった。 ここに取り上げた各種の本は神戸女子大学の図書館に所蔵されているので興味のある方は訪ねて欲しい。 5 平家物語関係~清盛の時代~ 平家物語関連の浄瑠璃は沢山あるが、その中で神戸周辺のものは、清盛生きていた時代と清盛亡き後を題材にしたものの二つに分けられる。前者の代表的なものとして浄瑠璃ではないが、平家物語からとった幸若舞「築島」があり、これは清盛が港の活性化のために埋め立てて島を造ろうとするが、土を埋めても流されてなかなか成功しない。そこで人柱を立てれば成功すると言われ、西国街道の通過点である生田あたりに関を設け通過する旅人を捕らえて人柱にしようと多くの旅人を捕らえた。捕らまった男性とその娘のとの葛藤が語られている。しかし、清盛の家来の松王丸が、人柱はよろしくないと自ら身代わりになったところ海が静まり島が完成したという。この話を浄瑠璃に取り入れたものの代表作が「新板兵庫の築島」であるが、このほかにも築島を題材にした多くの浄瑠璃ができた。「摂津国名所大絵図」には築島など多くの関係史跡が記載されている。 いまひとつの代表的なものは「源平布引の滝」で、木曽義仲と斎藤実盛の物語であり、現在も実盛関係の段は文楽、歌舞伎とも上演されているが、題名の由来になった布引の滝の出てくる初段はほとんど上演されない。布引の滝も名所図会に掲載され、雌滝、雄滝ともかなり大きな滝に描かれている(前頁絵図)。初段は布引の滝の滝壺を舞台にしたもので、 「父清盛常に弁天を信じ。平家の長久を祈りし所。不思議なれい夢を蒙り(かうむり)此の滝壺の中にて。家の盛衰を心見(こころみ)よとの御告(おんつげ)」 と、清盛が弁財天からのお告げを受け、平家の将来を占う為に滝壺の中にある竜宮城へ行き、竜神からお告げを聞くようにと家来の難波六郎に命じた。検分役には清盛の長男の重盛が当たった。滝壺の中は激しい流れがあり、入ったものは死にそうになる様子が、 「彼滝壺に指(さし)のぞめば。落瀧つせの涛ゝ(たうたう)と渦巻(うずまき)。立(たつ)る水煙渕水(ふんすい)岸に。満々と藍を染めなす水の面(おも)」 などと描かれている。戻ってきた六郎が滝壺の中の状況とお告げを報告したが、竜神から他言無用と言われていたので罰が下され突如起こった雷に打たれて命を失う。 一般に浄瑠璃を上演するときに話の山場を表すような物語を描いた絵図を作り、見たことのない人が想像できるようにしているが、滝壺の絵図は有名である(右絵図)。しかしこの初段は次第に上演されなくなったが、これはこの段だけでは短い上、実盛に関係する部分はそれだけで十分理解でき、初段だけを上演してもストーリーが分からないためであろう。浄瑠璃はかなり長いので次第に短くする方向に進み、枝葉の部分は省略する傾向にある。一般に初段、5段目が上演されないことが多い。舞台では、滝が流れるなどかなり大掛かりな舞台装置があっただろうし、事実歌舞伎では本物の水を使っている。 この話の元は平治物語の悪源太義平の話や源平盛衰記にも語られており、平家物語で重盛が布引の滝に行き、家来の難波六郎が滝に飛び込んだという話がある。 6 源平合戦の物語 源平合戦、平家物語を題材にした浄瑠璃も多いが、貞享4年近松門左衛門の作により「薩摩の守忠度」が上演された。同じ近松の翌年の作品「主馬判官盛久」と対になるようなものである。この貞享4年は源平合戦後500年となる年なので多くの作品が作られている。忠度と須磨の海女との物語で、海女が登場するのは松風・村雨の影響である。この物語の中で一の谷付近の情景を表す場面「一の谷名所づくし」で、 「・・おちこぼれてあはぢしま(淡路島)・・入日にそめてあかしがた(明石潟)・・とをくなるお(鳴尾)のおきすぎて。あれすみの江(住江)も。見えわたる・・・そなたはあしや(芦屋)あしの屋のなだ(灘)の。しおやき(塩焼き)・・」 のように明石、淡路島、芦屋、灘、塩谷から和歌の浦、大江山など広い範囲の地名を掛詞として読んでいる。 「ひらかな盛衰記」は、木曽義仲が討ち死にしたあと妻や子がどうなったかの物語と梶原源太景季の話が加わった話であるが、神戸あたりが舞台の場面は上演されない。5段目「生田の森の合戦」は省略される傾向にあるが、源太景季が生田神社の梅を箙(えびら)に挿して出陣し活躍する話で(前頁絵図)、浄瑠璃では白梅を挿したが激しい合戦で血潮がかかり紅梅のようになったとしている。現在の生田神社の箙の梅(右写真)は、白梅もあり薄紅色ありとはっきりしていない。 「一の谷嫩(ふたば)軍記」2段目、3段目の一部で登場するのが、御影に住む石屋の弥陀六で、石屋は近くの石屋川をヒントに作者が作り出した人物である。弥陀六は、平家の侍を弔う為各地に石碑を建立していたが、ある日正体不明の若者が来て塔を建立するよう願った。依頼の場所は一の谷で、塔を建立することとなった。今の敦盛塚の石塔であるが、江戸時代に敦盛塚は既にありその絵図を見れば現在のもの(左写真)と同じ形をしているので、描いた作者は現地を見ていたのであろう。熊谷陣屋の場面で明らかになるが、若者は実は敦盛で、討たれたのは熊谷直実の子、小次郎で敦盛の身代わりとなっていたというストーリーで、その供養に石塔を建立したという話である。石屋の弥陀六は、実は平家の武将平宗清であった。熊谷陣屋最後の場面で義経が「宗清であろう」と言い、宗清もこれを認め、 「是に付けても小松殿御臨終の折から。平家の運命末危し。汝武門を遁れ身を隠し。一門の跡弔えと。唐土(もろこし)育王山へ祠堂金と偽り。三千両の黄金と。忘筺(わすれがたみ)の姫君一人預り。御影の里へ身退き。平家の一門先立(さきだち)給う御旁(かたがた)の石碑。播州一国那智高野。近国他国に建置し施主の知らぬ石塔は皆弥兵衛宗清が。・・・」 と、自分が石屋に身をやつして「自分が石屋なのは、平家の重盛の娘を預かり、今後の平家一門の菩提を弔えと命じられ、人々の菩提を弔う為石塔を建てていたのだ。」と答えている。 須磨あたりには平家の武将の石碑が沢山あるが、元々あった石碑を平家の武将としたのであろうが、今に残る塔は、実は宗清が建てたものだと浄瑠璃は答えを出した。 7 「太平記」関連の浄瑠璃 太平記に関連した浄瑠璃としては、「吉野都女楠」と「蘭奢待新田系図」を紹介したい。浄瑠璃の舞台は今の采女塚(もとめづか)の付近で新田義貞の合戦が有名である。二つの浄瑠璃は筋が込み入っているが、いずれも合戦の様子を中心にしている。義貞の最後は、 「湊川の合戦破れ楠正成討死すといえども・・惣大将新田左中将義貞。西宮に御陣を召れ・・義貞も西宮より取りかへし。生田の森をうしろにあ(当)て入乱れせめ戦う。・・・官軍すでに戦ひやぶれ。・・大将義貞ただ一騎・・迫りくる敵を切り払い切り払い。求塚(もとめづか)小松原こころしずかに打給う。」 と、描いている。 蘭奢待新田系図」3段目は、神戸を舞台にして、脇の浜幸内という人物が生田川のあたりでのんびり釣りをしている様子で登場するが、実は後醍醐天皇の皇子を託され守っているという想定の話である。その様子は、 「爰に脇の浜幸内迚。昔の武士も今は早。兵庫辺(あたり)に身退き。浮世構わぬ侘隠者(わびゐんじゃ)釣竿かたげて悠々と。」 のように表現されている。幸内の長男は采女塚の合戦で新田義貞の身代わりになって死ぬが、次男は敵方の尊氏の家来という複雑な関係にある。ここでは皇子をかくまう為に身をやつしているということが大事である。 おわりに 脇の浜幸内が皇子をかくまう為に身をやつしていることは、前述の重盛の娘を託された宗清に通じる。また、行平が身分を隠して須磨にやってくるという想定とも繋がっている。 このように、行平や光源氏にはじまり、都の人が身をやつして来る所として、兵庫は身を隠す場所 に設定され、神戸を舞台にする浄瑠璃では、これが受け継がれている。 |
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第4回講演概要 日 時 平成26年11月29日(土) 午後2時~3時30分 場 所 神戸海洋博物館 ホール 講演題目 「神戸ゆかりの作家と作品~村上春樹を中心に~」 講演者 作家・文芸ソムリエ 土居 豊 講師 参加者 85名 講 演 概 要 (文責;NPO法人近畿みなとの達人) はじめに この講演を依頼されたとき「みなと」という言葉があったので。神戸港を書いたものを中心としようかと思ったが、もっと広い範囲で考えることとした。神戸ゆかりの作家は多く、最も有名なのは村上春樹であるが、始めは一般的な話をして後で村上春樹に移る。また、神戸の観光誘致を文学からできないかと考えているのでこの点にも触れてみたい。 村上春樹の作品は多く阪神沿線を背景にしているが、阪神電鉄の春樹をメインにした文学散歩のパンフレットも作った。このパンフレットは沿線の各駅に置いてあった。講演者は春樹とは縁もゆかりも無いが村上春樹研究を行っている。しかし、春樹は取材には応じないので、会ったことは一回しかなく、実際村上春樹研究の第一人者の内田樹(たつる)先生にしても一度も会っていない。講演者は春樹が京都大学で講演を行ったときに抽選に当たり聞きに行ったほか、NHKのレポーターとして講演の様子を取材し本にまとめた。 1 神戸ゆかりの作家 神戸ゆかりの作家としては、神戸文学館の資料によれば、谷崎潤一郎、横溝正史、賀川豊彦、稲垣足穂、竹中 郁、遠藤周作、島尾敏雄、久坂葉子、司馬遼太郎、石川達三、林芙美子、堀 辰雄、野坂昭如、陳舜臣、妹尾河童などがあげられ、筒井康隆も神戸在住であった。谷崎、横溝は殆どの人が知っており、中学高校生にも知られている。 したがって、題材は沢山あるが、戦中・戦後を書いたもので有名なものは、野坂昭如の「火垂るの墓」が有名で映画化もされている。野坂は独特な文体で広く知られており、この作品では神戸は余り出てこないが最後に三宮の駅前で死ぬ所が描かれている。悲しい話なので観光対象にはどうかと思われる。また、妹尾の「少年H」もアニメ映像で広く知られているが、同様に悲しい話である。筒井は神戸に住み、小松左京などと関西SFで一世を風靡した。筒井の「時をかける少女」は、原作では神戸とは書いていない。映画化された時に尾道でロケをしており、尾道の方が有名になった。筒井はSF短編で平家物語を題材にした 「こちら一の谷」を書いている。源平一の谷の合戦、鵯越の奇襲を現在と過去を行ったり来たりする作品である。 2 神戸を描いた小説 神戸を描いた小説としては、志賀直哉「暗夜行路」、堀辰雄「旅の絵」、石川達三「蒼氓」、井上靖「三ノ宮炎上」、松本清張「内海の輪」、新田次郎「孤高の人」、司馬遼太郎「菜の花の沖」などが挙げられる。これらは、神戸を描いた小説としてはごく一部である。 作家より作品の舞台を見てみよう。志賀の「暗夜行路」は、神戸を通過するだけであるが地名が出ている。井上靖「三ノ宮炎上」戦中戦後の神戸を描いたものである。松本清張は多くの作品を出しているが、「内海の輪」は余りポピュラーでなく良いミステリーとは言いがたい。その他司馬遼太郎も神戸を舞台にした作品を出している。 3 村上春樹と神戸 この講演の参加者にも、村上春樹を読んだ人、これから読もうとする人がいるようだが、毎年10月上旬にノーベル文学賞の発表あり話題になっている。春樹の地元でも力が入っている。地元というのは4箇所くらいあリ、それぞれで盛り上がっている。 地元としては東京が有名であるが、実際春樹が住んでいるのは藤沢であり東京は多くの作品の舞台となっていて地元意識が強い。ブックカフェにファンが集まりホットケーキにコカコーラをかける「春樹の味」を楽しんでいる。 春樹は、小学校のときは西宮に住み、中学校で芦屋に転居、のち高校は神戸高校に通っている。したがって、西宮、芦屋、神戸も地元として発表に期待をしている。神戸高校では、ノーベル賞の発表を校長室で在校生も含めて待つのが常であり、講演者もこの場面を取材したこともある。 ノーベル賞を取らなくても、後述するように春樹文学は今では世界中で有名で多くの読者を持っている。 次に春樹の作品とその背景となった場所について見てみたい。 「ノルウェイの森」は、最もポピュラーで、知名度が高く、映画にもなっている。作品には神戸らしい所も出てくるが、映画のロケ地は砥峰(とがみね)高原で、ここでは、撮影場所として表示板を出して観光誘致に勤めているが、どれくらい観光客があるかは不明である。作品にある高原の風景が美しい高原である。(写真右) デビュー作「風の歌を聴け」は、映画化されたが、監督の大森一樹(神戸ゆかりの監督)が春樹と中学の先輩、後輩の関係であったため、スムーズに映画化できた。映画は、前衛的な作品でATGで上映されたが、分かり易くなく、原作とかなりかけ離れている。ロケは阪神間のあちらこちらで行われて入るので、震災以前の阪神の風景があり、昔の神戸の風景を楽しめる。 文学散歩はかなり以前から読者が行っているが、例えば映画に使われた三宮のバーなどである。小説に「サルのいる公園」が出ているが、これは今はサルはいないが芦屋の打出公園で、サルの額が飾られている。一般に作品には地名がはっきり書かれているものは少ない。 春樹の作品の舞台は関西であることが次第に分かってきたが、阪神間を知る読者であれば分かるがそれ以外の地方の読者が分かるかどうかは不明である。文学散歩をするときには作品に地名がはっきり書いていないので分かりにくくなっている。ところが舞台が東京であるとか北海道である時は地名がかなりはっきりと書かれている。これは、春樹の地元への遠慮かこだわりか、それは分からない。 春樹が作品の背景とした原風景を見てみよう。先ず、幼少期に育っている山、川、海岸が考えられる。「夙川から甲山を望む」(写真上)あたり、「芦屋川の松並木」、「香露園海水浴場」などを作品に取り込んでいるものと思われる。 さて、「ノルウェイの森」の原作と映画のロケ地とを見てみよう。映画はヨーロッパで出品され賞を取れるかと期待されたものであった。映画は原作とはイメージが異なっており最後の展開が不明確であった。ロケ地としては、六甲高校の校舎が使われ、神戸大医学部住吉寮も早稲田大学の学生寮として使われた。ただし早稲田大学に関するところは早稲田大学でロケをした。 「ノルウエイの森」の後の作品では、神戸といっていないが、「国境の南、太陽の西」では神戸の高台にある高校とあり神戸高校らしく思える。神戸高校玄関ホールが使われ、高台からレコードをフリスビーのように飛ばす場面がある。春樹自身も神戸高校時代のことを小説、エッセイに書いている。作品には出てこないが水道筋商店街の水野屋のコロッケ(今もある)も考えられ、高校時代に寄り道しつつ買い食いしていたものと偲ばれる。 残念ながら、震災がらみで神戸の地名が出てくるのは少ないが、地震を背景・テーマとした短編(連作短編)で遠く離れたところの物語があり、神戸の地名は出てくるが素通りする状況があり、実際には被害はないが、心にかかるものがあったのであろう。「海辺のカフカ」では、神戸の場面は、長距離トラックの荷卸し場、安い定食屋、港の波止場と四国へ向かうトラックが神戸を素通りしている。神戸をストレートに描くには荷が重すぎたのかとも思える。 4 村上文学で観光誘致は出来るか さて、村上文学で観光誘致が出来るであろうか?神戸には観光資源は多くあり文学作品に求めなくて良いという意見もあろう。また、文学作品も読者がいないことには誰も来ないということになる。春樹の場合、新作が出れば世界50か国で翻訳本が出る。現在読者は世界中に及び非常に多い。2014年夏イギリスで新作が出た時にサイン会が実施されたが、多数の読者が参加している。(写真右:サイン会に並ぶ読者)日本ではサイン会はしていない。また、台湾では村上春樹作品研究所ができるほど人気は高い。日本には研究所はなく、早稲田での設置が期待されているが、早稲田には大勢著名な先人がおり、そこまでには至っていない。早くできることを期待している。モスクワ電車内で春樹を読む女がおり、「かっこいい!」と流行している。(写真左)このように春樹には世界中に読者が多数いることが分かる文学作品と観光は珍しい取り合わせではない。有名なものでは日本にも読者が多く、NHKの朝のドラマにもなった赤毛のアンでは、小説上のことであっても、カナダへ「赤毛のアンのツアー」もあり若い人に人気が高い。ほかの例として、USJハリーポッターや、ポッターゆかりの地ロンドンほかに観光地として存在する。シャーロックホームズの住所ベーカー街にはホームズの銅像がある。このように文学作品にちなんだ観光地は世界中にある。ただ何も無ければ行った人はがっかりするので、家などの施設が保存され観光客用に整備されることが必要である。 5 その他の作家と観光誘致 阪神電鉄のパンフ「阪神沿線文学散歩」や「ノルウェイの森」のロケ地「砥峰(とがみね)高原パンフ」のような春樹だけでなくとも良いが、そのような案内パンフが出来ればと考えている。 春樹以外の作家でも観光誘致が考えられるが、観光誘致には映像化されているかどうか問題で、小説を読むより名作は映像化されて一般的になる。映像化が多いのはゆかりの作家の一人宮本輝でドラマ化されたものも多い。「花の降る午後」は、原作はサスペンス小説でスリリングであるが、映画は物足らない。異人館のフランス料理店が舞台にしている。山崎豊子は、日本全国を背景にしているので神戸に限らないが、「白い巨塔」では住まいが神戸の山手または芦屋かと出てくることは間違いない。「華麗なる一族」では、神戸の土地が詳細に出て、栄町周辺の銀行が舞台に出てくる。絶筆となった「約束の海」は神戸の潜水艦ドックを背景にしており、ホテルとしては志摩観光ホテルが舞台である。志摩観光ホテルは、山崎豊子も滞在し、執筆した部屋がそのまま残されている。 おわりに 話の締めくくりとして、「みなと」の話をしなければと思い、神戸港が描かれているものを紹介する。「ウルトラセブン」で強烈な印象を与えたのがロボットが神戸港を攻める場面で、ロケ地として神戸港が使われ世界の特撮ファンにとって有名なものである。地球防衛軍・ウルトラ警備隊が国際会議を六甲で開催中に攻められるが、警ウルトラ備隊は、富士山に基地を置いており地下道を通って神戸に現れる。まさにリニアを考えればありえないことでない。港を舞台にした世界的に知られた映像である。 全く異なるが、サマセット・モームの自伝的小説で日本を舞台にした「困ったときの友」(下欄参照)という作品がある。主人公は塩谷の異人館クラブに滞在し、ここに垂水平磯灯台(写真右上)が出てくる。モームは東南アジアに長く滞在しているが、自身が塩谷に来たかどうかは不明である。このスパイ小説はヒチコックが「間諜最後の日」として映画化されている。 「困ったときの友」解説 「月と6ペンス」などで有名な英国人作家サマセット・モームが来日していた際にこの灯台を題材にして、一晩で短編小説を書き上げた。タイトルは「A Friend in Need」(困ったときの友)。「神戸で成功した英国人がいて、それを頼りにした別の英国人が働き口を求める。先の英国人がおまえの得意なものは?の問いに求職の英国人は水泳が得意と答えたので、海岸からこの灯台を巡って再び海岸に帰り着いたら、仕事をやろうと言う。彼はそれを実行したのだが、二度と戻ってこなかった」(中略) 灯台の近くにある塩屋というところには、ジェームス山と言うかつては外国人が多く居住する邸宅地があった。 |
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第5回講演概要 日 時 平成26年12月13日(土) 午後2時~3時30分 場 所 神戸海洋博物館 ホール 講演題目 「神戸ゆかりの音楽~クラシックからジャズまで~ 講演者 神戸学院大学客員教授(ラジオ関西パーソナリティー) 山崎 整 講師 参加者 85名 講 演 概 要 (文責;NPO法人近畿みなとの達人) (文中 #曲名# 演奏とあるのは、その時に演奏された曲である) はじめに 講演者は2012年4月からラジオ関西の番組「おもしろひょうご学」のために兵庫県内各地のご当地ソングを集め、地域に埋もれている音楽の発掘を行った。今日お話しする「神戸ゆかりの音楽」は、その延長である。10年以上前になるが、神戸新聞文化欄で「関西発レコード120年」を2年くらい担当した。戦前、昭和15、16年頃まで神戸を含む「京・阪・奈」地域にはレコード会社が多数あり、音楽をはじめ落語、浪曲、浄瑠璃など、関西ゆかりのさまざまなレコードを製作、まさに「レコード王国」の様相を呈していた。神戸には、そのような土壌がある。 新聞は音が出せない弱みがあったが、ラジオでは音の威力を存分に発揮した。今日は、放送で使用した音源も使って紹介する。 1 予備知識 1868年の神戸港(兵庫港)開港以来、神戸は西欧との窓口になっており、周辺住民は耳にした西洋音楽をやがて取り入れるようになった。兵庫は平清盛の時代には、大輪田泊を中心としてにぎわっていたため決して新しい町ではないが、こと西洋音楽に関しては明治以降、ハイカラ文化としてどんどん入ってきた。 西洋人による音楽会は居留地などで催されてきた。しかし日本人洋楽家の誕生はずっと後であり、日本人の手による音楽会の開催や作曲、歌、楽器の演奏は、そんなに古くはない。円盤型のレコード産業が日本に入ってきたのは明治36年頃で、それ以降もしばらくは日本にレコード会社はなく、欧米諸国からの出張録音時代。技師集団が来日してさまざまな芸能を録音、原盤を本国に持ち帰ってプレスして出来上がったレコードを日本に輸出していた。明治42年、日本初のレコード会社ができるが、神戸では明治44年、時枝(ときえだ)商店が元町に誕生し、日本で第2番目のレコード会社として関西の歌や芸能を多数録音、「ミカドレコード」を発売し始めた。神戸にとって誇らしいものである。 2 童謡と唱歌 唱歌と童謡は、共に子供の歌ながら、性格を異にする。唱歌は官製の文部省唱歌で、童謡は、民間の作詞・作曲家の手によって創作、雑誌などで発表した歌である。 音楽教育については、明治12年(1879年)に唯一の音楽教師養成機関・音楽取調掛(後の東京音楽学校、現東京芸大)を設立、日本各地に西洋音楽を広めようとした。しかし日本人には作業歌を除けば歌う習慣があまりなく、なかなか西洋音楽は花開かなかった。小学校の教科に「唱歌」が組み込まれても、教師不足もあって「当分、これを欠く」状態であった。 現在、クラシックの演奏会といえば純粋にクラシック音楽ばかりを演奏するのが当然だが、昔のプログラムを見れば西洋音楽に親しんでもらうため、筝(こと)や三味線と抱き合わせの演奏会がよくあった。例えば、1部がバイオリンの曲、2部が筝曲、3部にまたバイオリンというような形を取っていた。当時、筝はかなりの家庭に普及しており、ちょうど今のピアノのような扱いであった。筝曲を挟めば客が集まるということである。 音楽学校では、昭和初期まで声楽・ピアノ・弦楽器の奏法と音楽理論・教授法を教えていた。管楽器・打楽器は、陸海軍の「軍楽隊」や百貨店などが主宰する「少年音楽隊」で習得した。 明治の音源はあまり多く残っていないが、その一つ、明治36年に録音されたものを紹介する。 #軍艦マーチ# 演奏 軍艦マーチは明治33年(1900年)瀬戸口藤吉(とうきち)が作曲したもので、神戸沖の観艦式で初演した。出張録音によるレコードの演奏(明治36年、海軍軍楽隊)は、今から見れば上手とはいえないが、日本人が100~150年の間にいかに演奏技術を高めたかを知る意味で聞いてほしい。 3 唱 歌 唱歌「湊川」(後に「桜井の訣別(けつべつ)」別名「青葉茂れる」とも)は、落合直文作詞、奥山朝恭(ともやす)作曲。奥山は明治20年(1887年)兵庫県尋常師範(後の御影師範、現神戸大発達科学部)に着任、6年間勤務した。海軍軍楽隊を経て音楽取調掛で学んだ旗本の息子で、当時、音楽に縁のなかった師範学校生にも親しめる「身近な唱歌」の創作を決意、湊川神社の祭神・楠木正成にまつわる詞を知人の国文学者・落合に依頼し、曲は明治24年(1891年)に出来上がった。神戸の熊谷久栄堂から出版されたのは8年後で、後に教科書にも採用され全国区になった。 #鉄道唱歌#(大和田建樹(たけき)詞、多梅稚(おおのうめわか)曲)演奏 大阪の楽器商兼出版業・三木佐助が「地理教育」と銘打って企画し、漢学者・大和田に作詞を依頼した。曲は、上真行(うえさねみち)・田村虎蔵・納所(なっしょ)弁次郎・吉田新太らの競作となったが、多の作品以外は全滅した。詞は全国の名所旧跡を網羅し、計700節にもなった。神戸では有馬、港、和田岬、布引の滝、楠公などが出てくる。歌は明治44年の録音で、伴奏の納所弁次郎は、当時ピアノの第一人者、歌は童謡のスター歌手の娘文子である。とはいえ時代はまだ明治、歌唱技術もまだまだだ。 #青葉の笛#(大和田建樹詞、田村虎蔵曲)演奏 源平「一の谷合戦」で敗れた平家の2人の武将を歌ったもので、明治39年(1906年)発表時のタイトルは「敦盛(あつもり)と忠度(ただのり)」。しかし、2節に登場する忠度がかすんでしまったために昭和2年(1927年)「青葉の笛」と改題した。田村は東京音校卒後、兵庫県師範で4年間音楽教師をし、納所らと多数の唱歌集を編集した。この音源は昭和12年で、歌っているソプラノの中村淑子は歌曲のほか、戦時歌謡も多数レコードに入れている。神戸出身との説もある。明治・大正と低空飛行だった日本人の歌や演奏の実力は大正の末から急速に上がり始め、昭和10年代に入ると、現代人の耳にもあまり違和感なく聞けるレベルに達していった。 4 歌謡曲 神戸ゆかりの歌謡曲は、それこそ五万とある。代表的な次の曲を選んだ。 #港が見える丘#(昭和22年(1947年)東辰三(あずまたつみ)詞・曲、平野愛子歌)演奏 東は大正期に神戸高商(現神戸大)で学んだ経歴から、神戸を回想して作ったのではないかと思われる。若い時に神戸港を見下ろす丘からの風景を詞とメロディーにしたと思われる。昭和22年のレコードだが、ロマンティックで今も愛好家が多い。 兵庫県のご当地ソングは、1700曲以上確認されており、うち神戸には300曲はあると思われる。 楠公600年祭、神戸みなとの祭、神戸まつりなどの主題歌を含めれば400曲にはなろう。当時を知る人しか分からず、また、音源もなくなっているものも多い。2006年のじぎく兵庫国体のテーマソング「はばタン カーニバル」も当地の曲として国体本番2年前に発表、キャラクターは今も人気がある。 5 クラシック 神戸は「ジャズ発祥の地」といわれるが、クラシック分野でも人材が豊富である。 ① 貴志康一(きしこういち)(1909-37年)作曲家・指揮者 #日本組曲「道頓堀」#(貴志康一曲・指揮 ベルリン・フィル 昭和10年)演奏 貴志康一は、大阪(厳密には母の里・吹田市)に生まれ、芦屋で育つ。旧制甲南高に学び、スイスとドイツに留学、バイオリンと作曲を習得した。師はバイオリニストC・フレッシュ、作曲家ヒンデミット、指揮者フルトベングラーら超一流ばかりであった。昭和10年、管弦楽曲「日本組曲」「日本スケッチ」をベルリン・フィル相手に指揮し、そのレコードを発売、多数の歌曲も作曲し、帰国後、指揮者としても活躍したが、28歳で早世した。 ② 大澤寿人(おおざわひさと)(1907-53年)作曲家・指揮者 神戸に生まれ、スペイン人ビラベルデに師事、関西学院を卒業後、渡米、ボストン大などで学んだ。自作の交響曲をボストン交響楽団の指揮でデビューした。戦後は神戸女学院大教授の傍ら映画音楽やラジオのセミクラシック番組のために編曲・指揮、近年、再評価が進んでいる。 #ピアノ協奏曲第3番「神風」#(大澤寿人曲 昭和13年作曲 ヤブロンスキー指揮ロシアフィル エカテリーナ・サランツェヴァのピアノ 2003年録音)演奏 「神風」は、特攻隊でなく朝日新聞の取材用飛行機の名前である。現在でもかなりの難曲だが、戦前は日本人では弾けるピアニストがいなかったため外国人に演奏を頼んでいる。 #伊丹市歌#(大澤寿人曲 伊丹混声合唱団 昭和25年作曲)演奏 分かりやすい音楽だが、作曲者はピアノ伴奏をもっと凝ったものにしたかったのではないかと思われ、弾ける人が少ないとの事情から伊丹市の担当者が「易しいもの」を要求したとの推測もできる。 講演者(山崎整)は兵庫県下の校歌巡って取材し、歴史物語として神戸新聞に連載するプロジェクトに従事した。その際、山田耕筰が多くの校歌を作っていることが分かった。しかし、ある小学校で見せられた楽譜は、簡単というより「稚拙」この上ない伴奏で、とても山田の手になるものとは思えなかった。学校で昔の資料を調べていると、当時の行事の式次第を記した紙の裏に、謄写版の印刷に失敗した楽譜がうっすらと出てきた。「これぞ山田耕筰」と断言できる立派な伴奏譜であった。戦後すぐまでは、小学校でこのような曲を弾きこなせる教師が少なかったために簡略化したのが事実であった。 ③ 原智恵子(1915-2001年) 神戸生まれの神戸が誇るピアニストである。スペイン人ビラベルデに師事、13歳の時、画家・有島生馬(作家・武郎の弟)に伴われて渡仏し、パリ音楽院を首席で卒業した。22歳でショパン・コンクールに挑戦(第3回)、予選で最も聴衆に支持されたが、「本選15位」の結果に聴衆が「不当」と騒ぎ、審査員が再協議の結果、「特別聴衆賞」を贈るという衝撃的世界デビューを飾った。海外で本格的な活躍をした初の日本人ピアニストで、スペイン人チェロ奏者カサドと結婚、夫妻デュオとして世界を演奏旅行した。 #ショパン ピアノ協奏曲第1番#(原智恵子ピアノ 渡辺暁雄指揮・日本フィル 昭和37年)演奏 これは昭和37年に東京の民放ラジオで放送された録音を近年、CD復刻したもので、戦後、日本人がさらにうまくなってゆく途上にもかかわらず、彼女の突出した実力がしのばれる。 ④ 安川加寿子(かずこ)(1922-96年) 神戸市に生まれ、外交官の父とともに渡仏し、パリ音楽院で原の師ラザール・レヴィに師事、帰国後「フランス式奏法」を紹介し、東京芸大教授として多くの人材を育てた。 #ショパン ピアノ協奏曲第1番#(安川加寿子ピアノ 井上道義指揮・NHKフィル 昭和54年)演奏 同じ曲を聞いてもらったが、安川は演奏より教える方がメーンであったので原との相違を雰囲気で感じてほしい。 ⑤ 平岡養一(1907-81年) 木琴奏者、米カーネギー・ホールで演奏した初の日本人である。神戸に生まれ、慶応大卒後、渡米し、米三大ネットワークの一つNBCラジオと契約、毎朝、さわやかな木琴演奏を全米に放送し、「アメリカの朝は平岡の木琴で明ける」と評されるほど、戦前のアメリカで活躍した。ビブラートをつける独特の奏法を自ら編み出した。 #日本狂詩曲#(貴志康一曲・平岡養一編 平岡木琴 田中園子ピアノ 昭和52年)演奏 貴志の曲を平岡がアレンジしたもの。平岡の演奏は変幻自在で、速いテンポでも遅いテンポでも巧みに弾きこなした。 ⑥ 朝比奈隆(1908-2001年) 戦前から指揮者として活躍し、レコードも発売、東京生まれだが、京都大卒後、神戸に住み、新響(N響の前身)を指揮してデビュー、上海やハルビンでも活躍し、昭和22年(1947年)関西交響楽団を創設、昭和60年(1985年)大阪フィルに改組した。ブルックナーの交響曲を指揮・普及させ、最晩年には米シカゴ響に招かれ、熱狂的に支持された。 #ジャワの唄声#(深井史郎曲 朝比奈隆指揮・日本交響楽団 昭和18年)演奏 ジャワの民謡と日本の民謡が似通った音階であることから、ジャワの音階をバックに日本民謡の旋律を融合させた深井史郎ならではの曲で、初演の朝比奈は指揮者として果敢に挑戦した。 ⑦ 五十嵐喜芳(きよし)(1928-2011年) #浜辺の歌#(林古渓詞・成田為三曲 五十嵐喜芳歌 川口耕平ピアノ)演奏 五十嵐喜芳は、日本のテノール界で3本の指に入り、美声では右に出る者はいない。大阪音楽学校を出た後、いったん高校教師となり、東京芸大で学び直してイタリアに留学後、テノールの第一人者となった。「われらのテナー」藤原義江が設立した藤原歌劇団の総監督を務め、昭和音大学長にも就任した。 ⑧ 一柳慧(いちやなぎとし)(1933-) 神戸出身の前衛作曲家で、オノ・ヨーコ(故ジョン・レノンの妻)の最初の夫である。一般にはあまり知られていなが、前衛的な曲がCDに多数収められている。 #バイオリン協奏曲「循環する風景」#(一柳慧曲 昭和57年 尾高忠明指揮・東京フィル)演奏 一柳の作品の中では、まだ分かり易い方である。一柳は、関西学院を中退してパリ音楽院を卒業したチェロ奏者・一柳信二(1902-87年)の長男で、ピアニスト原智恵子に師事し、神戸から東京・青山学院を経て米ジュリアード音楽院卒。アメリカの前衛作曲家ジョン・ケージ(1912-92年)を師と仰ぎ、「環境芸術」としての音楽をデザインした。 6 ジャズ 神戸はジャズ発祥の地として知られ、現在もジャズストリートと称して北野を中心に多数の演奏会が開かれている。 #青 空#(堀内敬三訳詞・ドナルドソン曲・井田一郎編 二村定一歌 昭和3年)演奏 井田一郎(1894-1972年)は、バイオリン奏者兼作編曲者で、「日本のジャズの父」と呼ばれている。三越少年音楽隊でバイオリンとトランペットを習得後、米国航路の船の楽団員を経て宝塚少女歌劇オーケストラに入団、大正11年(1922年)、歌劇の幕あいにジャズを演奏したのが災いし、楽団を追われた。翌年、神戸で日本初のプロのジャズバンド「ラフィング・スターズ」を結成、ジャズ発祥の街といわれる素地を作った。 #大神戸行進曲#(湊萬波詞・井田一郎曲(編も)黒田進歌、STジャズバンド伴奏 昭和6年)演奏 マーチではなくダンスのフォックストロット調。井田の曲で神戸の歌である。 #月の砂漠#(加藤まさお詞・佐々木すぐる曲・井田一郎編 松島詩子歌 昭和7年)演奏 高砂出身の佐々木すぐる作曲、井田の編曲、ジャズ風にアレンジしたものである。 #ジャズみなと音頭#(宮本啓一曲・平茂夫編 太平ダンシングジャズボーイズ 昭和9年)演奏 昭和二けた直前の演奏にしては、腕前に若干問題がある。 #私のトランペット#(服部良一詞・曲 淡谷のり子歌 南里文雄トランペット 昭和12年)演奏 南里文雄(1910-75年)は、ジャズ・トランペット奏者で、「日本のサッチモ」と呼ばれた。大阪生まれだが、神戸の高等小学校を卒業、高島屋少年音楽隊で活躍後、デキシースタイルのジャズバンド「ホットペッパーズ」を結成した。 神戸が誇るトランペッターである。この曲はトランペットと歌の掛け合いが非常に斬新。 7 筝 曲 #春の海#(宮城道雄筝、ルネ・シュメーのバイオリン)演奏 宮城道雄(1894-1956年)は、盲人の筝曲演奏家・作曲家で旧外国人居留地58番館(中央区浪花町、三井住友銀行東に記念碑)に生まれ、8歳のころ失明した。筝曲・生田流の中島検校に入門し、数年で免許皆伝、22歳で最高位の大検校になった。邦楽の枠にとらわれず、新筝曲を多数作曲し、琴古流尺八の吉田清風らと「新日本音楽」を創作した。戦前、仏バイオリニストのルネ・シュメーのたっての願いで合奏したレコードが演奏の曲で、世界的に注目された。昭和7年、全国的に大売れした。当時、日本人バイオリン奏者ではこれほどの演奏はできず、1回限りとは誠に惜しい。 おわりに 演奏を聴いてもらいながら音楽を楽しんでもらったと思う。できる限りその時代のオリジナルに接してほしかったため、わざわざ古い音源を捜した。その分、お聴き苦しい個所もあったろうが、お許し願いたい。 |
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第6回講演概要 日 時 平成26年1月31日(土) 午後2時~3時30分 場 所 神戸海洋博物館ホール 講演題目 「描かれた近代の神戸~バーナードから神戸風物展まで~」 講演者 神戸市立小磯記念美術館学芸員 金井 紀子 講師 参加者 100名 |
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第7回講演概要 日 時 平成26年2月21日(土) 午後2時~3時30分 場 所 神戸海洋博物館ホール 講演題目 「映画の中の神戸港」 講演者 フリージャーナリスト(元神戸新聞論説委員・神戸100年映画祭総合 プロデューサー) 伊良子 序 講師 参加者 96名 講 演 概 要 (文責;NPO法人近畿みなとの達人) はじめに 講演者は新聞社に勤務して映画の担当をしていた。その関係から阪神淡路大震災の翌年に開催された「神戸100年映画祭」の総合プロデュサーを神戸市に委嘱された。この映画祭をご存じない方もおられると思い、先ずこの話から始め、そのあと港だけでなくターミナルとしての空港、鉄道の駅などについての映画を語りたい。 1 神戸100年映画祭 神戸100年映画祭という名称は、この映画祭が100年続いてほしい願いもあるが、実は開催年の1996年は日本に映画が入って100年という年であったからでもある。勿論震災が発生するとは予期することができず、神戸市から100年を記念して国際映画祭を開催したいと話があり総合プロデュサーを引き受け企画を進めていた。そこへ震災が発生し、一度は見送りになりかけたが、100年目は一度しかないし、被害を受けた神戸の人たちを元気付ける意味からも開催しなければならないという笹山市長の意向もあり開催にこぎつけた。今年の秋に第20回を開催する予定である。 映画の原型が日本で始めて上映されたのはここ神戸で、明治29年(1896年)11月のことである。エジソンの発明によるキネトスコープ(右図)はスクリーンは無く、回転している影像を上から覗く「覗きからくり」のようなもので、映画とは違うので原型と呼ぶ。日大博物館にひとつ残っており100年祭に出展された。花隈の神戸港倶楽部(川重の保養施設として残っている)で12月1日まで一般公開された。12月1日は「映画の日」となっているが、この最終日にあわせている。スクリーン投影型は、フランスのリュミエール兄弟の発明したシネマトグラフ(左図)で、神戸ではなく大阪で明治30年(1897年)2月南地演舞場(現在の難波駅あたり、旧南街シネマ付近、千日前の入り口あたり)で公開、そのあと神戸に来た。最初はニュースなどや短編の「月世界旅行」などが上映された。いずれにせよ神戸、大阪と関西がはじめで、そのあと関東浅草で公開された。 メリケンパークにある映画の記念碑(右写真)は、1987年建立されたが、石を四角にくりぬいて、南から見れば六甲山が映画の画面を見たようになっている。神戸出身の淀川長治氏が選んだ世界の映画人の名前を刻んだ碑が脇にある。淀川長治氏は、神戸100年映画祭の特別顧問に就任したが、神戸3中(現長田高校)出身で、柳原の芸者置屋に生まれた。自宅から直ぐに関西きっての歓楽街新開地があり、松竹座、キネマ倶楽部、朝日館などがあり淀川氏の家族も映画好きでそこで映画を見ていた。当時「ええとこ、ええとこ聚楽舘、わるいとこ、わるいとこ松本座」と言われた時代で、聚楽舘は少し高いが立派、松本館は2~3本立てで安く、汚い映画館であった。淀川氏は映画の配給会社ユナイト大阪支店に入社した。昔は配給会社が関西に多く、小森和子さんも神戸で配給会社に勤める当時のモダンな女性であった。 新開地が栄えたのは、昭和の初期までで徐々に三宮・元町時代へ移り、栄町通りの神戸ABC会館(今の山下汽船の建物)など元町地区へ、そして三宮地区の新聞会館、国際会館、阪急会館、朝日会館などが登場して、2000席もある大きな映画館が正月興業では満席で、人があふれていた。 一時開催を危ぶまれた神戸100年映画祭は、ボランティアが集まり多くの協力で朝日会館、松方ホールをメイン会場とし、世界の映画人(監督が主)30人のゲストを集めて1ヶ月の祭典を行った。実行委員長は、岩波ホール総支配人の高野悦子氏、特別顧問は前述の淀川長治氏であった(左写真は東京におけるプレス発表)。オープニングではこの日に間に合わせた篠田正浩監督、阿久悠原作の「瀬戸内ムーン・セレナーデ」を上映した。12月1日の最終日は、神戸文化ホールで映画祭の締めくくりとして木下恵介監督の「二十四の瞳」を見た後、感動で涙しつつ「多様な民族、多様な文化の共存」という「神戸映画宣言」を行った。 互いの文化を知ることが大事であり、相互理解を深め、第3世界の多様な映画を知ることが大事である。 2 ターミナルと映画 港、空港、鉄道駅というターミナルは発着点という装置がドラマ性を持ち、映画的であり、名作が沢山ある。なかんづく海の港は、隔てる海、続く航跡などが圧倒なドラマ性wp持つ。神戸港と映画の話に入る前に発着点の名作を紹介したい。 「望郷」(仏):ジャン・ギャバンがギャング役で主演。パリを逃れてアルジェリアへ行き、カスバに身を隠すが、郷愁に駆られる。仏から来た美女との恋と、情婦の嫉妬から密告により捕まる筋立てで、叫びと汽笛の音とがかぶる見事なラストである。 「商船テナシチー」(仏):港はルアーブル港で、カナダへ移民する主人公と美女との出会いと別れを描いている。 「波止場」(米:) マーロン・ブランド主演の出世作。エリア・カザン監督で、場所はニューヨーク港、マフィアの牛耳る波止場で港にはびこる悪への労働者の抵抗と対決を描いている。 次に空港、鉄道駅では、 「カサブランカ」(米):モロッコのカサブランカ空港が舞台。ハンフリーボ・ガードとイングリッド・バーグマンが主演し、仏レジスタンスに身を投じた女と再会する昔の恋人の物語で空港での別れが印象的である。 「大空港」(米):比較的新しい映画で、場所はシカゴ空港。バート・ランカスターとディーン・マーチン主演で、雪で着陸できない飛行機と空港に居る人々の人間模様を描いている。グランドホテル形式で、パニック型の傑作である。 「駅(STATION)」(日):高倉健主演で、倉本聡の脚本、北海道増毛駅でロケをした。小さな駅で交錯する様々な登場人物を描いている。主人公は道警の刑事で射撃のオリンピック選手、上司を殺した男との出会いなど人物模様が見事に描かれている。 3 生活の場としてのターミナル 港、空港、鉄道駅などターミナルを生活の場として描いた映画も多い。前述の「波止場」、「大空港」 等もそうであるが、生活の場としての作品を紹介する。 「終着駅」(伊):ビットリオ・デシーカ監督の作品で、ローマのテルミニ駅での美人妻とイタリア男性との恋を描いているが、場所を駅のみに限定した名作である。 「ターミナル」入国できずに空港に住み着く男の話である。 「鉄道員」(伊):ピエトロ・ジェルミ監督の作品。幼い末っ子の見た貧しい家族の家族模様を描く名作である。 「鉄道員(ぽっぽや)」:高倉健主演の北海道の小さな駅に勤務する鉄道員の話でラストシーンは印象的である。 4 神戸港と映画① 世界の名作というレベルの観点からは、残念ながら神戸を舞台にした映画はないといえる。神戸を舞台にした映画として第一に挙げたいものは昭和30~40年代の日活の無国籍アクション映画である。日活ではこのような映画を数多く製作したが、講演者も夢中になって見たものである。話は荒唐無稽ではあるが、面白いものであった。 一番有名だった石原裕次郎主演の「赤い波止場」(昭和33年)は、神戸1中、大阪外大出身の舛田利雄が監督し、フランス映画ジャン・ギャバンの「望郷」(前述)のリメーク版で、中突堤が舞台ともなっている。 渡哲也主演の「紅の流れ星」(昭和42年)は、やはり舛田監督で「赤い波止場」のリメーク、神戸港の中突堤辺りのハシケだまりが舞台で、この付近には当時は安い食堂などあり人が集まった。警察に追われる主人公が渡で、神戸出身の杉良太郎も出演、奥村チヨが杉の恋人役で出ていた。 若くして死んだ赤木圭一郎主演の「紅の拳銃」(昭和36年)では、東遊園地、国際ホテル、税関などが登場し、舞子海岸の砂丘で銃撃戦をしているのが面白かった。現在明石海峡大橋があり砂浜は少なくなっているが、この頃の舞子海岸は砂浜が豊かだった。 小林旭主演で有名な「渡り鳥シリーズ」は、神戸を舞台にしておらず、いろんな港が出てくる。主人公は刑事であったのが神戸での捜査で事故を起こし流れ者になったという設定である。この作品で有名なのは、原作・脚本は元衆議院議長原健三郎氏と言われているが、確かに字幕には脚本に名前が出るがアイデアを提供した程度というのが真実のようだ。 これらは、無国籍映画と言われるが、欧米ギャング映画、西部劇のコピーで、リアリズムではありえない。しかし、荒唐無稽が許容された時代でもあった。富士の裾野で馬に乗って銃撃戦を行うなどありえない設定であるが、当時の観客は不思議と思っていなかった。これらの映画では主題歌があり、酒場の格闘シーンで主人公の歌が終わるまで相手が待つなど非現実的であった。キャバレー、拳銃、ギター、コインなどが小道具として登場した。この時代には東宝や東映の黒澤明に代表されるリアリズム時代劇があったが、無国籍映画は、これら本格的時代劇に対抗する娯楽映画であった。 5 神戸港と映画② 神戸を舞台にした映画には、アクションだけでなく文芸映画もある。これらについて語る。 「蒼氓」(昭和12年)は、熊谷久虎監督(原節子の義兄)の作品で、石川達三の第一回芥川賞小説が原作である。ブラジル移民を描いており、神戸でのロケは無かったが今の神戸移民文化センターでブラジルに出発するまでの一週間を描いた。 「風の歌を聴け」(昭和56年)は、ポートピア博のあった年に、村上春樹の出世作を原作として、神戸出身、京都府立医大卒業の大森一樹が監督した。大森氏は芦屋に住み、村上春樹や講演者と同年代である。講演者は三宮にあった名画座・阪急文化に集まる仲間として大森氏を知った。原作者の村上氏も集まっていた一人でないかと思っている。作品では神戸のあちらこちらでロケを行い、神戸港の場面もある。 「瀬戸内ムーンライト・セレナーデ」(平成8年)は、篠田正浩監督の作品で原作者は淡路島出身の阿久悠氏である。前述のように100年映画祭に間に合わせるように製作された。画面には大震災後の第七突堤の崩れた岸壁も見せている。 6 フォトジェニック(絵になる)な港とは 映画に向いた場所としては、次のような要素が必要と考えている。これらは、神戸を舞台とする映画に対する希望でもある。3つの要素は次のものである。 ①人間のにおいがする ②光と影がある ③産業遺産が残っている 例えば「ブラック・レイン」(1989年)は、リドリー・スコット監督、高倉健、マイケル・ダグラス、松田優作が出演。その一場面に脇浜の製鉄所跡で撮影した情景がある。神戸で撮影したとは分からないがストーリーの中では最もふさわしいロケ地であった。 最近のでは、「神戸フィルムコミッション」が最近の映画では「紙の月」「阪急電車」「神戸在住」などで撮影協力をしている。しかし、ハーバーランド、ポートアイランド、ビーナス・ブリッジなどが頻繁に出て同じ場所ばかりで、観光的になっていることは残念である。昔は、はしけだまり、外人バー、外人経営のレストランなど人の暮らしが感じられる神戸があった。 おわりに 代表的な作品として「風の歌を聴け」の映像が紹介され、神戸港、三宮のバーなどの場面が写された。このほか、王子動物園、西宮球場、六甲カゾリック教会、関西学院、武庫川河川敷などでロケをしている。またこの映画は実験色が強かったATG作品で、せりふを字幕で表す場面なども紹介された。 最後に講演者は、総合芸術としての映画の復活へ期待を語る。 たとえば昔は映画館の前にポスターがあったが、今はなくなって寂しく、残念である。ポスターはアートと言える。きちっとしたポスターを作って欲しいと思っている。また、監督は大きな画面を想定して製作しているので、小さなテレビの画面で一人見るよりも映画館で大きなサイズで映画を見て欲しい。多くの人が喜怒哀楽を共有する場として劇場文化を大事にして欲しいと思っている。 |
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