神戸みなと知育楽座

平成25年度 神戸みなと知育楽座 Part5

テーマ「神戸のみなと・まち・歴史をもっと知ろう!」
 

第1回講演概要

  日  時  平成25年6月15日(土) 午後2時~3時30分

  場  所  神戸海洋博物館 ホール

  講演題目  「神戸牛~生産、飼育、流通から料理まで~」

  講演者   岩藤勝彦 神戸市産業振興局農業振興センター 畜産振興係長

     参加者   120名

 講 演 概 要  
 (編集責任 NPO法人近畿みなとの達人)


はじめに
 神戸市内には乳牛が、2,000頭、肉牛が7,000頭おり、北区、西区で飼育している。神戸牛は但馬牛が元である。神戸ブランドは数多くあるが、神戸牛は知名度が非常に高く、海外でも評判である。この神戸牛について語る。 

1 神戸ビーフの由来
 神戸牛の店頭価格は高いもので100グラム3,500円と非常に高価である。神戸牛は安いものでも800~1,000円であり、ステーキなど最高級3,000~5,000円するようで、中々食する機会に恵まれないのが実情です。つまり神戸牛は安く食べれる所は無いと言える。
 神戸牛の由来は、開港から約150年の神戸港の歩みと同じである。神戸港の開港は横浜港に遅れること10年1868年であるが、開港とともに外国人が来て欧米での生活を神戸でも行った。ここに、牛肉が無いことが大きな問題となった。勿論当時の日本には肉食の習慣は無く、牛肉をどこで手に入れるかとなった。農家では耕作のために牛を飼っており、農家から分けてもらうことを要請した。農家にとって牛は大事な家畜であり、手放せないものであったが、そのうち外国人の手に入るようになった。牛を処理するところも無く、船の上で船員が解体をした。食べた肉は大変美味しく、その評判が知れ渡った。外国人の日本に来る楽しみは、風光明媚な景色を見ることと神戸牛を食べることと言われた。
 次第に牛を売る商売、肉を売る商売が出てきて、これが今に繋がっている。いわゆる老舗と言われる店ができたのもこの頃からである。

2 神戸ビーフと但馬牛
 但馬地方(兵庫県北部)では、約1,200年前から牛が飼われていた。この地方は山間地で山が多く,耕地が狭いので、小回りのきく牛が農耕に適した。牛は農耕のほか、牛車を引くなどの動力源で生活に欠かせないものであった。オス牛は扱いが難しく、メス牛が用いられたが、この但馬牛が近畿一円に広がった。ちなみに西日本では牛が、関東では馬が農耕に使われたが、関東は田が深く足の長い馬が用いられた。このことから関西で肉と言えば牛肉を指すようになった。幕末の神戸周辺では、但馬牛の雌牛が農家で飼われており、「神戸ビーフ」といえば但馬牛のことをさすようになった。
   この地方では、江戸時代、年貢米を運ぶ牛が痩せていると、農業に不熱心であるとして、領主や代官からお咎めを受け、反対に牛が太っていると、ご褒美がいただけた。農家は牛を大切にし、毎日麦を煮てワラとともに与え、太らせておく習慣であった。牛は草食動物なので餌は草だけでも良いが、当時は草を刈り取り乾かして保存することはしていなかったので、冬の間は草を与えることはできなかった。穀物は貴重だが麦を牛に与えることで大事に育てていた。この穀物給与が飼育・肥育技術の原点である。 

3 神戸ビーフはなぜおいしいか
 冬の厳しい但馬地方では、筋肉内に脂肪を蓄えておける牛が生き残り、但馬牛には筋間脂肪(サシ)が入るようになった。美味しさの素はこの「サシ」で、但馬牛にはこの遺伝子が伝わって行った。山口県に天然記念物の見島牛があるが、これも同様である。「サシ」の入った肉(霜降り肉)は、熱を加えると脂肪が溶けて、肉の舌触りを滑らかにし、筋肉のもつ味と、脂肪の香りが、「神戸ビーフ」特有のまろやかさを醸し出している。「サシ」が入ると高価で売れ、全国に多くの肉があるが「サシ」を入れるために,但馬牛を導入して肉質の改良を行っている。
 神戸市内の平成25年2月1日時点での黒毛和牛農家は、16戸で飼育頭数は、北区1,327頭、西区1,367頭、計2,649頭である。1戸当り30~40頭の農家から700頭に上るところもある。ちなみに兵庫全体では、230戸、23000頭であるので、神戸は県全体の10分の1である。
 生まれるときは25キロ程度で小さいが、8ヶ月で260キロ位になり、繁殖農家が家畜市場へ出荷する。出荷された子牛を購入して肉牛として肥育するのは肥育農家の役割で、繁殖と肥育とが分業している。オスの去勢牛で30ヶ月齢、メスで36ヶ月齢で食肉市場へ出される。この時、去勢牛で650~700キロ、メスで600キロであるが、それまで餌を与えて飼育・肥育する。肥育の飼料は、月齢によって表のようなものを与えている。アメリカなどでは牧草だけで育てているので肉は赤身である。配合飼料は輸入しているので高くなり、1頭育てるのに約70万円掛るので、100万円で売れないと採算が取れない勘定である。 穀物だけで霜降りが出来るかと言うとそれだけではない。牛の血統といった遺伝的要因も影響する。配合飼料は、大麦、加熱圧べんトウモロコシ、一般ふすま、大豆粕などで、配合の割合は牛の成長段階により異なるが、細かな配合割合は農家によって異なり、いわば企業秘密である。














4 神戸ビーフになるためには
 神戸牛の生産、流通、販売を携わる集まりで昭和53年設立された神戸肉流通推進協議会では、神戸ビーフの定義を「兵庫県内で肥育された但馬牛で、県内の食肉センターに出荷された、生後28ヶ月齢以上60ヶ月齢以下で、枝肉の格付けがA・B4-6以上であるもの.さらに、枝肉重量が470kg以下であり、メスは未経産牛、オスは去勢であること。」としている。それまでは定義がなかったが、厳格な定義を設けた。枝肉は、脂肪の度合(霜降りの割合)により図のように12の区分をしている。赤身が多いと肉質は良くない。
 平成23年度に神戸市中央卸売市場西部市場で扱われた但馬牛出荷頭数4,157頭のうち神戸ビーフに認定2,239頭で55.2%、兵庫県内で3,584頭 全国の0.7%に過ぎず、貴重なものと言える。牛肉の歩留まりを見ると。出荷650キロの牛は食肉処理され、枝肉400キロとなる。骨と脂肪を外した生肉は230キロで始めの35%となる。1頭の重量を増やしても歩留まりには余り関係は無く、ロースやヘレなどの高級部位量は限られて肉は高値となる。「神戸ビーフ」は、「神戸肉」、「神戸牛」と同じこととして地域団体商標(地域ブランド)として平成19年.8月3に登録し、のじぎくマークを印している。神戸肉、神戸牛、但馬牛、但馬ビーフは牛肉のことを言うが、但馬牛(たじまうし)は、生体を指す。但馬牛は他の和牛と同様に、人間の戸籍に相当する血統書が作られ、鼻紋で識別し、肥育、流通全ての段階でこれが必要となる。血統書は非常に重要なものである。
 世界に冠たる神戸ビーフを支えているのは、生産者(繁殖)1,520名、(肥育)281名、神戸肉指定店220店(本店だけではなく個々の支店ごとに必要)であり、ブランド管理のため、会員にならないといけない仕組みになっている。全国の銘柄牛は、46道府県で229事例に登り、飛騨牛、南部牛などがある。松阪牛には各付けは無い。
 毎年、5月のゴールデンウイークにメリケンパークで「ミートフェア」を実施して、協議会がサイコロステーキの試食など多数の来訪者で賑わっている。また、11月3日の神戸市農漁業祭みのりの祭典において湊川公園では生きた牛を展示、どの牛の肉がおいしそうかの投票コンテストを行い神戸ビーフのPRに努めている。


5 神戸ビーフの輸出
 平成24年2月に神戸牛をマカオへ始めて輸出し、7月には香港、11月には米国、平成25年5月にタイへ輸出を始めた。輸出量は平成25年6月15日現在、香港約11トン、マカオ約6トン、米国約1トン、タイへ60キロ、合計約18トンであり、頭数にすると79頭程度と推定できる。価格は部位によって異なるが例えば香港へは、100グラム5,000円程度と言われている。他の地域の和牛も高値で輸出され、前途は明るいようである。主に関西国際空港経由で輸出がされ、平成25年3月21日に神戸市中央卸売市場西部市場からの初輸出の式典を行っている。

6 牛肉料理
 牛肉は、部位によって用途が違い、料理方法が異なる。牛肉の部位は、図のように、軟らかい部位、中間の部位、硬い部位に分かれる。それぞれの部位に適した用途と調理法の特徴は次のようである。
  軟らかい部位:①グリル、炒め焼き、ステーキ、ローストなどの調理法に向く。②調理での注意点は過熱しすぎないこと。③煮込み料理には向かない。
  中間の部位:①ロースト、ステーキ、フライ、ソテー、炒め煮、煮込みなどの調理法に向く。②焼いたり、煮たりする時は薄切り肉が合う。③厚めの切り身は加熱しすぎると硬くなる。
  硬い部位:①煮込み、ブイヨン、シチューなどの調理法に向く。②煮込めば煮込むほど軟らかくなる。

7 牛肉のトレーサビリティー
 BSEの問題で牛肉の消費が落ち込んだが、牛(肉)1頭ずつに遡りができる様に番号付けが平成16年から始まった。牛が生まれたら番号を付け、出荷、異動、肉になるときもそれが継承される。牛を譲渡したり譲受けた場合には家畜改良センターへ届出が義務付けられ、牛肉のトレーサビリティーが確立した。牛を譲渡等の場合、① 管理者の氏名(名称)、住所、連絡先、② 牛の個体識別番号、③ 譲渡し(譲受け)相手方の氏名(名称)、住所、連絡先、 ④ 譲渡し(譲受け)等の年月日、飼養終了(開始)の年月日を届ける。 とさつ時、 ① 牛の個体識別番号 ② とさつの年月日 ③ 譲受け相手方の氏名(名称)、連絡先 ④ と畜者の氏名(名称)、連絡先 ⑤ と畜場の名称、所在地
を届け出る。
 牛肉販売業者は、牛肉の容器・包装・送り状、小売店舗等の見やすい場所に、固体識別番号、又は、これに替わる「ロット番号」を表示しなければならない。「ロット番号」の表示は、①牛肉と対応する牛の1対1での対応関係を識別することが困難で、かつ、対応する複数の牛の頭数が50以下であること ②「ロット番号」を定めた者の問合せ先を併記し、消費者等の求めに応じ、対応する複数頭の牛の個体識別番号を情報提供 としている。焼肉、シャブシャブなどは「ロット番号」を出すことができ、遡りができる。
 個体識別番号表示の対象外となるものは、次のものである。
① 牛肉を原材料として製造、加工、調理したもの ひき肉(製造:ハム、ソーセージ、ベーコン等、加工:タレ         付込みの牛カルビ、牛以外の肉や野菜との混合品、調理:販売用に牛肉を調理したもの(持ち帰り用             網焼きステーキ等)
② 牛肉を肉挽き機でひいたもの(挽肉、合挽肉)
③ 牛肉の整形に伴い副次的に得られたもの(小間切、小肉、くず肉)

第2回講演概要

     日  時   平成25年9月21日(土) 午後2時~3時30分

    場  所   神戸海洋博物館 ホール

   講演題目  「南京町の歩み~中華料理を中心に~」

   講演者   曹 英生 南京町商店街振興組合 理事長

   参加者   110名


 講 演 概 要  (文責;NPO法人近畿みなとの達人)


1 はじめに
   現在、中秋節が開催されている。2万人の町への来訪を期待している。中国の歌や舞踊が催されるので、今からでもお越し願いたい。
 今、南京町には年間約500万人の来訪者がある。特に、春節祭の約4日から12日間実施の間に 35~45万人が訪れている。神戸市は春節祭を神戸市地域無形民族文化財に指定しており、盛んになった。しかし、30~40年前は南京町は現在とは異なり、危ないところという評判で、観光地というよりむしろ市場といったほうが良かった。土日曜日には人の出歩きも無く、店も休み、中華料理店も少なかった。市場として、魚屋、八百屋、肉・鳥の店、中華食材の店などがあり、特殊な人しか来ない状況であった。つまり一般の人は町には用事がなかったと言って良い状態であった。夜には、夜だけの営業の外人バーが30軒も営業し、酔客相手の店で、観光客には縁の無い場所と言えた。各店とも客が少なく寂しい風景であった。
 その南京町が県、市の協力で区画整理事業を行って現在の観光客で溢れる町になった。これらの経過をこれからお話しする。

2 南京町の歴史(神戸開港から)
 南京町の歴史は古く、1868年の神戸開港時に自然発生的にできた。1888年に神戸又新日報にはじめて「南京町」の名称の記載が見られるが、これ以前からこの名称は使われていた。日本の3つの中華街で、横浜は中華街、長崎は新地中華街の名称を使っており、横浜の場合、約50年前市長の要請で「南京町」を「中華街」と変更している。したがって神戸だけが「南京町」の名称を保ってている。
 華僑は、出身地が南京に近いところで、日本、横浜、神戸に渡ってきた。南京はオシャレでファッショナブルな所であり、尊敬をこめて「南京さん」とも呼ばれた。このような南京さんが沢山集まった町で必然的に南京町の名称となった。時には「南京虫」で代表されるような差別的な扱いを受けた時期もあった。神戸が南京町の名前を変えなかったのは、町として弱かったことにあるが、今や「南京町」を商標登録しており、この名前を冠すれば物が売れる時代になっている。
 元々、現在の南京町の南、栄町通、海岸通に居住者、商売人がいた。居留地は外人用の町であるが、明治当初中国(清国)は日本と条約を締結していなかったため居留地は使えないで、居留地周辺の雑居地に住み、店を出した。中国人は漢字で日本人との意思疎通が可能であり、欧米人と一緒に来日した。器用さから、衣裳(洋服)が作れる技術者(テーラー)が上海から、他に外人住宅向け住居のペンキ職人、コックなど日本人ではできない業種の人々が招聘された。その結果、南京付近出身の中国人が沢山集まることとなった。

3 南京町の賑わいと戦後の荒廃
 昭和8年(1993年)の記事に「南京町かなりの賑わい」とあるが、町や店の状態は、各店の前に八百屋などが臨時の販売屋台を出す、二重構造的の町であった。現在も飲食店の前に屋台的な店はあるが、それは各店のものであり全く異なる。日本では牛肉の食文化はまだ十分浸透しておらず、南京町では豚、鳥などが売られ賑わいの中心となり、いろんなものが買えた。現在も肉、鳥販売の店が名残を留めている。
 それ以前の大正期には、賭博がはやり、中国人の胴元が日本人の客を集めるなど危ない地域でもあった。一時生田署と話し合いの結果、日本人立ち入り禁止となるような、負の部分もあった。
 1942年太平洋戦争が起こり、1945年の神戸大空襲で南京町も被災した。(最近上映された「少年H」の著者の妹尾カッパさんも南京町をよく訪れている。)空襲時住民は阪神電車元町駅の地下に避難した。南京町は焼失住民の中国人は町が焼けたために横浜へ向かったり、国に帰るなど離散し町は寂しくなった。
 町には30軒にも及ぶ外人バーが乱立し、無銭飲食外人騒動、喧嘩も絶えず、夜間の外出は危険な状態であった。建物も終戦後立てられたバラック建て消防車も通れない危険な所であった。

4 観光地南京町を目指して区画整理による整備
 NHKの朝の連続ドラマ「風見鶏の館」の評判から、神戸が一大観光地となり、観光ブームが起こった。異人館に次ぐ第2の観光地域として南京町に白羽の矢が立ち、神戸市と地元が協議して区画整理組合を設置、10年がかりの事業が始まった。問題は道路を拡張するための25%の減歩であり、対策として買い上げのほか、今までの2階建てまでの規制が5階建てまで建設可能と緩和がとられた。昭和60年(1985年)にようやく完成し美しい町へと蘇った。
 その間、1982年に「南楼門」が完成、1983年には100坪足らずではあるが広場と東屋が完成した。広場は、ヨーロッパの町が広場を中心にしていることに学んだが、後述する震災後の炊き出しの拠点となるなど役立っている。

5 南京町に観光客を呼ぶソフト 第1回春節祭
 区画整理によりハード面の整備が進んだので、ソフト面の強化を図るため、神戸観光の拠点とすべく「春節祭」の開催を企画し、1987年第1回春節祭を開催した。春節祭には龍舞が付き物であり、当時最大の龍は全長47mであったので、これと同じ龍を香港に注文した。龍の扱い・踊り・音楽は長崎「おくんち」に学び、お囃子はオリジナルと諸般の準備を進めた。ところが龍が到着せず、従って龍舞の練習が出来ない状況となった。そこで箒などに紐を繋ぎ仮想龍で練習を始めた。NHKがたまたまこの練習風景を見て、「故郷紀行」に取り上げたので、大きな宣伝効果があった。ようやく、年末に龍が届き、関帝廟で開眼を行った。龍は生地とワッカのみ、説明書と首っ引きで、店の営業が終わったあと組立作業を行った。この作業で連帯感が出来町中の団結が強くなった。
 ところが、神戸が発祥と言われるエイズ騒動が発生、心配はあったが、町が良くなったことから負の情報がシャッタアウトされ、信じられないほどの観客が集まった。龍舞は激務なので一日2回の予定であったが、観客を考慮して3~4回実施した。ただ、警察には怒られた。今では観客の流れを警備対策上東門から入り、西門または南門に出る一方通行でスムーズな人の流れを確保している。
 春節祭により各店はおおいに潤った。春節祭の経費は大体2000万円くらい必要であるが、福引による収入なども事業に充てられる。近年は警備に要する経費が次第に増えて事業にまわす金が少なくなって来ているのが問題である。

6 南京町の諸整備
 南京町にも様々な施設の整備が進められた。中国獅子像一対に続いて、1989年十二支の像を広場に設置した。ところが中国では猪はおらず替わりにパンダの像となった。市から設置許可と異なるとの指摘から新たに猪の像を作り広場に置いている。従って13支の像が置かれていることになる。
 1990年南京町とその周辺は景観形成地域に指定された。神戸市の10数地区の内最初の4地区のひとつである。これにより、まちづくりの推進をはかり、研修会なども実施している。1993年に市民トイレ「臥龍殿」が竣工した。組合員の拠出により総額7,000万円の建物で、大工は台湾から呼んでいる。「臥龍殿」は日本トイレ協会の「グッドトイレ」とされた。

7 阪神淡路大震災発生と対応
 1995年1月阪神淡路大震災が発生した。迫っていた春節祭は1月31日に中止を決定し、替わって肉まん、お粥などの炊き出しを行った。同時に義捐金も集めたところ42万円が集まり足長育英基金などに寄付した。炊き出しは暖かいものが食べられると全国で評判になり、多くの人が集まった。復活宣言も出し明るい神戸をと獅子舞も出し、住民、若者の流出防止も期待した。
 この年は、神戸市が主催する神戸祭が中止されたが、元町商店街と一緒に民間での「神戸5月祭り」を実施した。参加の音楽家などはみな手弁当での活動であった。この祭りは全国に大きく報道され、神戸の頑張りがPRできたものと思っている。行政サイドもこの成功に安心したか7月に国際観光コンベンション協会がイベントを開催することができた。
 年中行事となったルミナリエは、500万人を集めているが、折角の機会と1996年(震災の翌年)「第1回南京町ランターンフェア」を神戸ルミナリエに併せて開催し、中国提灯が町中を彩り、暖かい光で装飾された。

8 最近の南京町
 1997年「南京町」が南京町商店街振興組合の商標として登録され、「春節祭」が神戸市地域無形民族文化財に指定された。1998年「第1回中秋節」を、秋の風物詩とするべく、中秋の名月を祝うお祭として開催した。2005年震災から10年を記念して「西安門」を設置した。2007年3月には神戸市にとって大きな行事である神戸空港の開講に併せ、「興隆春風祭」を開催、龍舞、獅子舞を披露した。このように一年を通じて様々な催しで観光客をもてなしている。」

9 中国料理の概要
 中国では三大料理または四大料理と言っているが、四大料理とは、北の北京、東の上海、南の広東、西の四川を言う。
 広東料理は南京町にも多く、「食は広州にあり」と言うように食材が豊富で、海に近いのでシーフードの風味を生かすあっさりした味付けが特徴である。 北京料理は、寒い気候でも元気に過ごせるよう、塩気が強く、油を多く使った揚げ物や炒め物が好まれる。ネギ、ニンニク、ショウガなどの薬味を醤(ジャン)や油に加えて味に変化をつける。 上海料理は、上海が長江下流に位置し、湖沼が多いのでエビ、カニを使った料理に特徴がある。水質がよく稲作が盛んなので紹興酒の名産地 「小籠包」も得意で、コクのある味付け、豆腐や春雨を使った煮込み料理などがあり、上海ガニが有名である。 四川料理は、湿気が多い盆地気候の四川地方では辛い(ホット)料理が好まれる。 豚肉や鶏肉のほかウサギや羊も使う。煮込みか油をたっぷり使った調理が主流で、ザーサイの漬物や唐辛子など保存性の高い食材を付け合せやタレに使う。代表料理として麻婆豆腐が有名である。

10 おわりに クイズと質問に答えて
 問:中国では飛ぶものは飛行機以外、四足では机以外を食すなどと言い、多くの食材があるが、「蚊の目の
     スープ」があるが、この食材はどのようにて集めるのか?
 答:蝙蝠の糞を集め漉して蚊の目を集める。
 質問1:南京町のごみの処理はどうしているか?
 答:収集を専門業者に頼んでいる。また、各店で注意している。
  質問2:小籠包と豚まんの違いは?
 回答:「豚まん」の名称は講演者の祖父の命名であるが、老祥記では皮を一日がかりで発酵させて作るの
      に対し、小籠包の皮は餃子の皮と同様である。これは、小籠包が、中のスープが大切であり皮に吸い込
      まないようにしている。



 

第3回講演概要

  日  時   平成25年10月19日(土) 午後2時~3時30分

    場  所   神戸海洋博物館 ホール

   講演題目  「神戸への水の道~古代ローマから産業革命のイギリス、そして神戸~」

   講演者    松下 眞 神戸市水道局中部センター 所長

   参加者   95名


 講 演 概 要  (文責;NPO法人近畿みなとの達人)


1 はじめに
  本日お渡ししたペットボトルは、布引ダムが重要文化財に指定されたことを記念して始めたもので、布引ダムの水を奥平野浄水場で浄水した正真正銘の神戸ウォーターである。今、神戸の水は、ほとんどが琵琶湖の水で、それに布引の水・住吉川などの水を加えたものである。神戸独自の水源は布引ダム以外に、千苅ダム、鳥原ダムがある。
  世界にはスマホを使えるところでも水場に水を取りに行くなど水に困っている国は多い。アフリカでは川まで水を汲みに行き、頭に載せて女性が運んでいる。集落に井戸ができればこの労働が軽減されるが水量には限りがある。大都市は井戸だけでは供給しきれないので、水道によって大量の水が使えるようにする必要がある。生活するうえで、水の供給は非常に重要なものである。
 本日は古代ローマの水、産業革命時代のイギリスの水、そして神戸の水と歴史的な水の道についてお話したい。

2 四大文明と灌漑(川の制御と利用)
  文明は川のほとりに生まれた。四大文明のエジプト文明はナイル川、メソポタミア文明はチグリス・ユーフラテス川、インダス文明はガンジス川、中国文明は黄河の流域でそれぞれ芽生えた。人類は川を制御して水を操つることにより発展してきた。中国四川省の都江堰では、自然の地形を利用して、夏と冬の河川水量の違いを自然に手を加えた人工施設で流れを制御し、流量を調整して灌漑に使いやすくしている。これにより成都平原は大農業地帯となり生産力が格段に向上し人口増加に対応できた。

3 古代水道(都市への給水、ローマ時代、江戸時代)
  ローマでは都市国家ができ、都市に住む市民や奴隷に大量の水が必要になった。B.C.312年アッピア街道沿いに水道が建設され、ローマの都市内に水場ができ、公衆浴場、噴水が作られた。水を供給するための水道橋は、都市水道の原点である。水道橋はローマ皇帝の権威の象徴でもあり、ローマ600年の間に11本の水道橋が建造された。ローマの水道には次の共通する原則がある。①きれいな水源を探し求め、都市まで延々と引く。②流れる水は生きているので流しっぱなし。③汚染防止のため覆蓋で覆う。さらに特徴として、④鉛管が使用されている。ポンペイの遺構を見れば原則はローマと同じだが、傾斜地に町があり、自然流下で水を流し、街角には水場があり、最も高い場所に配水池がある。ただ、ここには水を貯える機能はなく水の分配だけである。この分配施設は現存している。
  ローマの文化は地中海世界全体に広まり、東はシリア・トルコ、西はイベリア半島のスペイン・ポルトガル、南は北アフリカ、北はフランス・イギリスまで水道橋は作られた。ローマには水をためるダムはなかったが、スペインは乾燥しているため、貯水するダムがローマ時代に造られている。南フランスにある水道橋Pont du Gardでは、三層のアーチが美しく「世界遺産」になっている。湧水の出るユゼスから水を使うニームの町まで50㎞をわずか17mの落差で一日3万トンの導水を行っている。川を超える部分には水道橋を架け、導水トンネルもあり、湧水の場所には修理も考えて堰を設け、流れを変える構造になっている。ニームの町は小ローマのようでコロセウムもあり、町の近くに分配するための配水池を設け鉛管を使用、噴水にも使っていたかと想像される。スペインのセゴビアにもローマ水道の「世界遺産」がある。水源から町まで17㎞と短いが、カーブ状の水道橋が美しい。
  日本では利根川下流の湿地帯に江戸の町ができたが、良質の水がなく困っていた。このため、江戸外部から水を引く「上水」がいくつも建設され、「神田上水」「玉川上水」が特に有名である。「玉川上水」は、1600年代半ばに庄右衛門・清右衛門の兄弟が羽村で多摩川から水を引き、江戸市中に導水、途中四谷からは地下水路を通り江戸城に引き込まれた。取り入れ口には玉川兄弟の像が設置されている。その後、近江八幡、赤穂などいくつかの近世水道が作らたが、井戸から水を汲み上げる方式であった。

4 近代水道(産業革命とイギリスの土木技術)
  中世ヨーロッパは水道に進歩がなくローマの遺産を食いつぶしながら、近世を迎える。大航海時代ポルトガル、スペインが新大陸に進出、交易で発展し、15~18世紀イベリア半島で水需要が増大した。交易で儲けた資産で都市にローマ水道橋がリバイバルで建造された。リスボンのアグアス・リブレス水道橋は、1748年に完成している。だがイギリスでは、ほぼ同時期にアークライトが水力紡績機(1765)を発明し、川の水を利用して水車を回し動力とするようになった。これを契機に産業革命が勃発し、次から次に新しい機械が発明され、工業に応用されるようになった。
  ワットの蒸気機関の発明(1768年)から、エンジンやポンプができ、鋳造管も製造でき、水が下から上へ昇る、即ち自然流下に頼らなくても、水を自由に動かすことができるようになった。鉄も利用され橋が建設された。最初は加工しやすい鋳鉄橋(アイアンブリッジ)だったが、後にスチールを使ったフォースブリッジなどが建造された。一方水の重さを利用した電気を使わないケーブルカーも現れた。また、コレラの蔓延から経験的に濾過層を通した水が安全であることが分かり、緩速濾過のシステムが大規模に適用されるようになり、近代水道の骨格が形成されてきた。水の浄化技術も、水圧をかける送水、水量確保の為のダム、揚水設備、導水管なども整備され、まさにイギリスの産業革命が水道の歴史上でターニングポイントとなった。ウェールズのヴェルイニュウィーダム(VrnwyDam)の建設では鉄道や蒸気機関のクレーンが使われ大規模土木工事が行われた。
  イギリスは「準平原」と呼ばれるなだらかな地形で高い山がなく、水を貯めるのにアースダムという日本のため池のようなダムが一般的であったが、高さに限界があるので、19世紀後半以降、土木工学の知識を駆使して背の高い石積みダムが建設されるようになった。19世紀末から20世紀初頭のイギリスの石積みダムとしては、マンチェスターのThirimere Dam(~1894)、リバプールのVyrnwy Dam(1881~1892)、バーミンガムのElan Valley Dam(1895~1904)、シェフィールドのDerwentValleyDam(1901~1916)などがある。

5 神戸の開港と水道
  1868年に明治維新となり、西洋からさまざまな技術が輸入されたが、水道も同様で、二人のイギリス人、パーマーとバルトンが活躍した。わが国における近代水道の建設時期は、横浜市(1887年)、函館市(1889年)、長崎市(1891年)、大阪市(1895年)、東京都(1896年)と開港した都市から建設され次いで広島市(1898年)、神戸市(1900年)、岡山市(1905年)、下関市(1906年)、佐世保市(1907年)と次第に整備が進んだ。
  神戸は横浜から13年遅れて、1900年(明治33年)に日本で7番目の近代水道として給水を開始した。水道工学は、帝国大学でも教えられるようになり、意欲ある若者が水道工学を勉強し、その後の水道の普及に貢献した。神戸は最初パーマーに設計を依頼したが、日清戦争などもあり着工が遅れ、人口フレームが時代に合わなくなり、バルトンに再設計を依頼し、1897年(明治30年)に着工した。バルトンの原設計では、規模が小さいことが分かったので、拡張を検討しながら工事が進められた。このときに活躍したのが佐野藤次郎である。
  佐野藤次郎は、帝国大学でバルトンに学び大学院のインターンとして大阪水道創設工事に従事、1895年、鋳鉄管の製造を委託しているイギリス・グラスゴーの鋳物工場に監督者として派遣され、グラスゴー大学にも籍を置き、勉強した。その間イギリス各地で建設中であったダムや水道などを見て回り、1896年に帰国、そのまま神戸水道の創設工事に従事した。神戸水道工事の工事長は、吉村長策という長崎の水道工事を設計・施工した人で、水道建設の分野では第一人者といわれた人物であったが、佐野藤次郎は吉村に引っ張られ、神戸水道の拡張設計を任されるようになった。
  スコットランドのグラスゴーは造船業で栄え、1850年に水道ができ、1890~1895年頃大拡張工事をおこなっていた。グラスゴーでは、水を集める面積を増やし、導水トンネルをもう一本掘り、Mugdockの貯水池も拡張していた。佐野は、イギリス滞在中にグラスゴーに滞在しておりこれらの工事を直接見た可能性は高い。
  当時の写真を見ると、神戸における水道工事は、人海戦術でおこなっているが、イギリスの影響を受けたと思える施設が多く存在する。例えば、神戸の布引・烏原の両ダムについては、イギリスのアースダムの平面配置を基本的に継承しており、配水池・濾過池の構造、千苅ダムの導水計画などもイギリス水道と類似性が見られる。また、昭和54年に取り壊した濾過池下部の集水構造は、イギリスの水道工学テキストに出ているものと一致していた。

6 神戸から周辺の都市へ
 吉村長策、佐野藤次郎らは、神戸以降に各地の水道工事に関わっている。
岡山水道は1905年(明治38年)に給水されたが、ここには吉村長策・佐野藤次郎が共に関係し、当時の三野浄水場は今でも現役の浄水場でもある。台北の水道(1907年)は、総督府民生長官の後藤新平の要請を受けバルトンが赴き、弟子の濵野弥四郎(後神戸市水道課長)が働いている。韓国釜山水道(1909年)の聖知谷ダムには佐野などの名が碑文にある、尾道(1921年大正10年)は、井戸が掘れないので水道建設を希望していたが、山口玄洞が資金提供し、佐野藤次郎・水野広之進が建設を担当した。扇型浄水池が珍しいが神戸市の上ヶ原浄水場と類似の構造である。鳥取は、アースダム決壊後、石積の美歎(みたに)ダムを計画、佐野藤次郎、友永染蔵が関係した。現在このダムは、重文に指定されているが、砂防ダムとして機能している。豊岡(1922年大正11年)では、資金が無く困っていたが、中江種造氏が援助して、儲けは豊岡出身の若者の奨学金に回すという意志を受け継いでいる。なお、設計・工事は佐野藤次郎から中田修(神戸市)に受け継がれた。

7 現在の神戸市水道システム
  ローマの風呂は、下で湯を沸かして上に風呂があり、サウナ、プールもある構造であり、現在のスーパー銭湯と共通点がある。この方式はアラブでも継承され、冷たい水、熱い湯、サウナの組み合わせであった。イギリスのバースという地名は、風呂Bathの語源となっているが、ここも温泉利用の温浴施設で、17世紀のは上流階級の社交場であった。
  トイレを見るとローマのオスティア遺跡では、椅子掛式トイレでテベレ川に流していた。19世紀末のシアトルの水洗便所は、今と変わらぬことが現地でのアンダーグランドツアーで確かめることができる。パリの下水道も見学できるが、いろいろな大きさの玉を転がして汚物を除去したことが分かって興味深い。 
神戸の水道の水源は、琵琶湖が75%、その他は千苅10%、残りが布引・鳥原・住吉川である。また、配水場、ポンプ場も多数あり、各施設の情報を集中的にコントロールしている。トンネルを流れてくる水は途中で貯めることが出来ないので、下流での需要の予測が重要になる。浄化方法も進歩しており、高度処理(オゾン、活性炭、膜濾過など)を行っている。水道の水はきれいでおいしいものであると認識いただきたい。
 トイレの使用水量も、30年前には1回18リットルであったのが今や4.8リットル程度に年々少なくなってきている。新しいマンションでは節水型トイレが使われるのでマンションが出来るたびに水需要が減ってきた。また、ライフスタイルの変化で、野菜の水洗いが少なくなり、食器洗いも少なく水の需要が大幅に減少している。これらのことが水道に経営を苦しいものにしている。
 
8 おわりに~これからも続く「水の道」
 人口減少に伴って都市はどのように形状を変えてゆくのか、その中で水道はどのように対応していくべきかを考えなければならない。また、施設・設備は、どんどん古くなっていくため、事業運営が永続する仕組み作りをどうするかを考える必要がある。しかし、都市あるところに「水の道」はあり、今や都市に水道は不可欠なライフラインであることから、都市がある限り「水道」というインフラを維持していくことが必要であることはいうまでも無い。















第4回講演概要

    日   時   平成26年1月18日(土) 午後2時~3時30分

    場   所   神戸海洋博物館 ホール

    講演題目  「灘五郷の歴史と日本酒の楽しみ方」

    講演者   安福 幸雄 (株)神戸酒心館 会長
         湊本 雅和 事業部支配人(酒ソムリエ)

    参加者   105名



講 演 概 要 (文責;NPO法人近畿みなとの達人)


はじめに
  2008年に4人の日本人がノーベル賞を授与されたが、受賞後の晩餐会では従来はシャンパン、ワインが供されていたのが、この年は受賞者を考えたのか日本酒が採用され、スウェーデンに輸入の実績のある日本酒から、ソムリエに選ばれたものが講演者の会社の酒「福寿」であった。 2010年も「福寿」が供されたが、営業マンはこのことを宣伝には使わなかった。しかし、2012年山中教授が受賞されたことで、山中効果と言おうか「福寿」の話がマスコミに取り上げられることとなり、誠に有り難いと思っている。
 また、酒は料理に合わせて楽しむことが必要と考え、講演者の会社では、料理に合う酒をアドバイスすることが大切との認識から、「酒ソムリエ」を採用し、台湾やドバイなど海外へ出かけ、現地の方々にお酒の造り方や楽しみ方の指導を行っている。

A 灘五郷の歴史
1 日本酒の業界事情(最近の販売量と飲酒動向)

  新聞報道などで日本酒の業績が悪いと伝わっていると思う。日本酒の販売量は「石」で表すが、ピークは昭和48年で977万石であった。その後、年3~4%の割合で減少してきた。そこに阪神淡路大震災が起こり、復興後元気が出て持ち直すかと期待したが清酒消費量は更に落ち込んできた。現在ピーク時の34%程度、震災後の47%である。2年半前頃から良くなってきて、下げ止まりと発表しようとした時に東日本大震災が起こり、再び下降して昨年も前年の3%程度減と見込まれている。全国の造り酒屋は、終戦時3,160社、ピークは販売量とは異なるが昭和40年で3,690社であったのが、現在は1,533社で終戦時の半分、ピーク時の4割である。
 アルコール全体の販売量を見れば、平成8年と最近の比較では11%減であるがワインは52%増、焼酎甲類は14%増、同乙類は81%増であるが、ビールは43%減、発泡酒などは4倍であるもののビール類の中では36%を占めるに過ぎず、ビールもまだまだ売れていると言える。日本酒の販売量は減っているが、全国各地の蔵元でイベントを行うと大盛況で、新酒が出来たときの蔵開きには多数の参加がある。講演者の会社で行っている「福寿を楽しむ会」もいっぱいである。それに拘わらず販売量の減少に歯止めがかからないので、このギャップの解明が課題である。

2 日本酒の業界事情(輸出の状況と海外事情)
  日本酒の輸出は好調で、特にアメリカでは病院食に和食が採用され、またスーパーでも豆腐、日本酒が販売されているように、健康志向から和食が好まれ、それに連れて日本酒の需要も高い。ヨーロッパは、日本の文化に触れたいということから、文化と一緒に日本酒を楽しむという姿勢で、ブームでなくトレンドと言える。輸出量は10年前の2倍であるが、全国の酒出荷量の僅か2%、約90億円であり、フランスのワインの76億ユーロ(2014年1月相場で1.1兆円)スコッチウイスキーの42.3億ポンド(同7,173億円)に比べるべくも無い。今後の頑張りが望まれる。政府も国酒運動に力を入れており、和食が世界文化遺産の登録されたことが追い風になると思われる。輸出先は、最近韓国が伸びて1位になりつつあるが、昨年の累計ではトップはアメリカで4,153klと3割を占める。次いで、台湾、香港、中国、カナダ、タイ、シンガポール、豪州、ベトナムと続いている。

3 日本酒の歴史
  BC300~200年から米麹はあり、米による酒造りが始まったと推定されている。715年頃の播磨国風土記に「すみざけ」の記録がある。酒税は早くから取られており、878年酒税が徴収されている。時代が下って、興福寺塔頭の多門院の僧が3代140年にわたりつけていた多門院日記の中に、1568年に火入れで麹を殺菌したと言う記載がある。パスツールが低温殺菌法を始めた1868年から実に300年も遡ることである。
 1720年灘目(灘付近)、今津から酒の江戸下りの記録がある。灘五郷は歴史的な変遷があり、ある時代は灘三郷と呼ばれた。現在の灘五郷は、東から今津郷(日本盛、大関)、西宮郷(白鹿、白鷹)、 魚崎郷(櫻正宗)、御影郷(白鶴、菊正宗、剣菱、福寿)、西郷(大石辺り 沢の鶴)からなっている。1822年頃灘三郷が江戸への入津量は江戸中期以降最高の66万5000樽であり、1840年櫻正宗の山邑太左衛門が宮水を発見、このことで灘が発展した。明治11年(1878年)白鶴が瓶詰めを開始したが、これは画期的な出来事と言える。昭和18年(1943年)清酒に級別1~4級の格付けが決められた。この級別は平成元年に廃止され酒税法の抜本改正が行われた。この改正は3年の経過措置があったが、業界にとって大きな影響を与え、価格差が無くなり品質競争、ブランド化へと進んだ。平成4年は米の大凶作で、これが酒需要の減少に拍車をかけた。

4 灘五郷の勃興 伊丹、池田から灘へ
  江戸時代、酒造りは灘より伊丹、池田が盛んで主産地であり、元禄時代は最盛期であった。伊丹の白雪は創業1550年と大変古い蔵元である。蔵元は、そのあと1724年では伊丹54軒、池田27軒に比べ灘は82軒と灘が多くなってきた。従来伊丹、池田からは馬車に酒樽を積んで江戸へ陸路による輸送を行っていた。1730年樽廻船が出現、酒の海上輸送が本格的に始まった。樽廻船の出航地は今の伝法あたりで伊丹、池田からはそこまでは陸路であるが、灘は海沿いに位置するので海路を使い江戸へ向かった。この輸送の利便性が伊丹、池田を灘がしのいだ一番の原因と思われる。
  灘の酒が日本一になったのは次のような要因が挙げられる。
① 宮水:酒にとって理想的なカルシウム、燐、カリウムを
  沢山含み酒に不適な鉄を含まない宮水が西宮神社の
  近く(右写真)にあった。
② 米:酒米としては日本一の山田錦をはじめよい米が
  近くの六甲山の北側で採れた。最近山田錦の同じ種を
  他の地域でも作ってもいるが、土壌と気候の関係から
  本当の山田錦はできない。
③ 水車精米:阪神間は菜の花畑で、和歌山の業者が急流
  の川を利用して水車で菜種油を絞っていた。これが移
  転したので後を受けて精米に用いるようになった。足踏
  み精米から水車(動力)精米に替わり8分撞き精白
  (8%)が20%と向上、また、精米量も増えた。
④ 吉野杉:容器の樽の材料として酒に最適な吉野杉を使
  えた。秋田杉は色づくと香りが強い、九州の杉は、油が多く香りが無いなど、吉野杉には及ばない。
⑤ 丹波杜氏の技術:交通関係から篠山杜氏は灘へ、但馬杜氏は伏見へ向かっている。篠山を朝出発すれ
  ば夜には灘に着く。全国の酒造り職人は普通個人契約であるが、灘ではトップの杜氏と契約し、杜氏が
  ベストメンバーを組んで蔵へ入るシステムをとっていた。冬の3ヶ月(100日)蔵に入り集団行動をするに
  は、チームワークが大切であり、このシステムが最良であった。ちなみに 酒蔵に女性を入れないという
  説は、チームワークが乱れるから女性を加えなかったためであろう。
⑥ 樽廻船:いわゆる酒の専用船であり、当時としては画期的なものである。大量に輸送でき、またお酒は吉
  野杉の香が酒によく乗り富士見酒として喜ばれた。(詳細は後述)
⑦ 経営戦略:一番良い酒を江戸向けに積み出した。当時江戸の消費の70%が灘の酒であった。

5 樽 廻 船
  慶長年間から船による輸送が始まり1619年堺の商人が紀州から江戸へ物資の輸送を菱垣廻船で行った。荷物は混載であり荷待ちで長く待つことにより酒が悪くなったり、荒天時には沈没しないように荷を捨て軽くするが、重い酒樽は船底にあり捨てられないのに、他の荷物と同様の賠償を要求されることなどから17世紀後半には酒を扱う回船問屋から不満が出てきた。そこで酒樽輸送専用の船を開発することとなり1730年頃には組織が出来、樽廻船による酒輸送が始まった。最盛期には100隻前後が活躍したが明治15年に姿を消した。
  樽廻船は4斗樽1500丁(幕末では最大3000丁)を積み、荷役は岸壁でなく沖合いで伝馬船から積み替えた。新酒番船という慣行があり1724年に始まって江戸への一番船を目指して先を争った。三番船まででその年の酒の建値が決められた。通常12日かかるが、速いもので4日、最短は2.4日で江戸に着いた。アメリカとの通商で活躍したジョセフ彦は樽廻船の船乗りで遭難してアメリカに渡った。

B 日本酒の楽しみ方
1 日本酒の造り方
  日本酒の造り方はワインに比べて大変難しく、複雑だと言われる。
  日本酒の材料は米と水の二つで、これに麹菌という大切な媒体が必要である。麹菌は鰹節、味噌、醤油、味醂などの醸造・製造に必要で、日本料理の主要調味料のうち、塩以外は麹菌などのカビによる発酵が必須である。ワインはぶどうを取って桶に入れ、発酵の後、絞れば簡単に出来るほどブドウからワインへと変化しやすい。米と水からはそのままでは酒にならず、工程に則って醸造しなければならない。
  麹菌はどこにでもいるが目には見えない。麹菌のうち良いものを取り出し純粋培養してゆく。麹米は機械で大量生産することも可能になったが、福寿においては全て手造りである。麹米造りを人間の手で行うことで明確な個性が表現できる。
アルコールは甘みから造られる。砂糖、サトウキビ、ぶどうジュースは初めから甘いので酒になる。ぶどうは甘いが酸味があるため腐りにくく、ワインへと変化しやすい。
  麹米造りはおよそ1200年前から日本で知られていた技術である。それ以前は米から甘味を造るため口で米を噛んでいた。噛んで甘くなったところで吐き出したものを溜めておくと酒が出来た。「口噛みの酒」という酒である。ところが麹を用いると酒の材料が僅か2日間で大量にかつ衛生的に出来ることを発見して、酒造りに麹米を用いることが始められた。麹米造りの原型は中国からもたらされたが、気候の違いから日本独自の技術へと発展していった。
  ワインの品質は「色付き期」の天候が大切である。8月では緑色の酸っぱいだけのぶどうは収穫期になると重量と甘みが増加し相対的に酸味が減少する。この変化は自然の恵みでなされ、人はそれを補完する立場である。「清潔な桶と完璧なブドウがあれば素晴らしいワインを造れる」と言われるのは、甘みや風味を造る工程がいかに重要であるかを物語っている。色付き期は二ヶ月だが、麹米は二日間で完了する。しかし仕込み期間中、連続して麹米を仕込むため作業量を見たときにぶどうも米も変わりはないといえよう。
  酒造りに用いる麹米は蒸米2割、蒸したご飯の残り8割はそのまま発酵槽に投入する。投入時の蒸米は甘くない。しかし発酵している桶に入れれば(発酵とは別に)ご飯の澱粉の組織を麹の酵素が切り離してブドウ糖に変え、徐々に安定して全てを甘みに変えることができる。甘みは少しずつアルコールと二酸化炭素に変化する。全ての甘みがお酒になれば辛口の醪(もろみ)となる。これを漉すことで日本酒となる。
  日本酒のアルコール度数は17~19%まで達するが、ワインは16%が限度である。 干しぶどうや甘みが過剰な果汁では酵母が活発に動けず発酵が順調に進まない。常に酵母周辺のアルコール環境が高くないことが日本酒造りの特異点である。

2 日本酒の楽しみ方
  日本酒は食べものとあわせて飲むと一層おいしくなるし、殆どの料理に合わせることができる。ワインは料理をおいしくもするが喧嘩をするときもある。
  ワインには色、産地など多くの要素がある。色では赤、白のほか黄色や灰色のものもある。料理も幅が広く、このためソムリエが必要になった。その昔ソムリエがレストランにいなかった時は、客はウエイターにワインのことを聞いていた。しかし細かなことは彼らには判らなかったので、セラーで働くワイン番(カビスコと呼ばれる)が客席に出向きワインの説明を行ったところ好評で、後にカビストがレストランの表舞台に出ることとなりソムリエと呼ばれるようになった。
  日本酒はどんな料理にも合わせることができる。したがって昔は個人の好きな酒を飲んでおれば良く、ソムリエの役目は必要なかったが、しかし昨今は色々な風味の酒が出てきて、また食べ物の種類も多くなってきた。どんな料理にどんな酒が良いかと日本酒のソムリエが求められるようになった。日本のソムリエは国酒である日本酒を知るべきであるが、残念ながらそうでない人も多い。
  米を磨くというのは澱粉だけを米から取り出すことであり、澱粉のみで醸すのが大吟醸、少し蛋白質が残るものが純米酒である。大吟醸は華やかな香とすっきりした味わいで、まろやかな味わいの肴がよく合う。酒を選ぶ際の判断はその肴を食したとき「ご飯が欲しくなるかどうか」である。純米酒はご飯が欲しくなるものと相性が良い。大吟醸はその逆である。
  飲む順序としては、大吟醸を楽しんでから純米酒へ移るのが良い。高価で良い酒だからと、最後に大吟醸を飲むのは繊細な味わいが分からなくなるためおいしく飲めない。温度は「冷から温へ」、冷やした大吟醸から始め、純米酒、暖めた純米酒とするのが最適である。熱燗の本醸造は切れのある味わいとなる。熟成酒には低温熟成、常温熟成があり、低温熟成の大吟醸は香が保たれ、味もまろやかになる。常温熟成では色、香が個性的となる。常温熟成の古酒は、脂ののった肴(霜降り牛肉をあぶったものなど)と大変相性が良い。

おわりに
  現在の灘五郷は酒蔵が27社あり、その内大手は11社で、長年の技術を持っているので期待できる。また、酒の資料館も地方ではあってもせいぜい1社であるが、灘には数多くある。厳しい清酒業界であるが和食が見直されているのにあわせ酒の本当の良さを知ってもらいたい。



















第5回講演概要

    日   時   平成26年2月22日(土) 午後2時~3時30分

    場   所   神戸海洋博物館 ホール

    講演題目  「神戸駅弁物語~駅弁から空弁まで~

    講演者   岸本和夫 (株)淡路屋 常務取締役

    参加者   100名




講 演 概 要 (文責;NPO法人近畿みなとの達人)
はじめに
 講演者の自己紹介を兼ねて駅弁に携わった経緯などをお話する。講演者の家は弁当とは関係なかったが、大学時代に電車からアルバイト配送員募集を見て、淡路屋で働き出した。当初一年生のときは土日だけであったのが、次第に増え、業務内容が面白くなってきて、盛り付け、包装など様々なことを配送の合間にやりだした。大学を卒業して淡路屋から誘われたが、医療関係の会社に入った。しかし、相変わらず土日は弁当の仕事をしていた。その年の秋に淡路屋で新たなプロジェクトを立ち上げるからと招きがあり、年末に会社を辞め淡路屋に入社、営業部で新たなプロジェクトに携わることとなった。
 ところが入社後すぐに阪神淡路大震災が発生、会社は当時兵庫区から東灘区魚崎に移っていたが、渋滞の中を会社に近づくと悲惨な状態であった。会社は無事であったが、電気、ガス、水道は止まり何もできない状態であった。この時東京の京王百貨店で「全国有名駅弁とうまいもの大会」が開催されることで1月17日に出発する人もあったが、被害を受けているので参加取りやめも検討された。しかし、誰かが行けばという声が上がり、独身で身軽な講演者が東京へ行くこととなった。行くときは不安があったが着いてみると、初めて会う同業者など周りから「よく来たな!」など温かい言葉を掛けてもらった。客も多く、テレビ取材もあり、買い物をする人の中には何回も訪れ、チョコレートやクッキーの差し入れまでいただいた。自分が作った食べ物に多くの人が並んでお金を出して買ってもれえるだけでなく、会期の2週間の間に何回も「また来たぞ!」と激励を受けた。次の年行くと「また来たか!」と歓迎され、感激した。
 この経験から駅弁に対する思い入れが深まったと感じている。

1 ㈱淡路屋の歴史
淡路屋の創業は明治36年1月5日で、大阪に拠点を置き鉄道構内営業を始めた。名前の淡路屋は淡路島とは関係なく前身は明治の初期に大阪曽根崎新地で開業していた料亭「淡宇(あわう)」である。今から5代前の当主は英語の教師であったが「これからは、鉄道の時代」と言って駅弁へ名乗りを上げた。
明治37年 阪鶴鉄道(現在の福知山線)池田駅構内に食堂を開設、明治38年に生瀬駅に移転 弁当、寿司、菓子の販売を始めた。生瀬駅は有馬温泉への入り口であると共に機関車の補給駅で停車時間が長く、弁当や菓子が良く売れた。当時の資料として、生瀬駅での広告がある。(右図)衛生に関することを書き、淡路屋をよろしくとあり、今と同じである。
明治43年、山陰本線開通に伴い園部駅構内立売営業承認を得て支店を開設、明治44年園部駅、生瀬駅にて「鮎寿司」を販売し、結構人気を博した。掛け紙(包装紙)には25銭とある。また、生瀬駅での幕の内弁当は30銭、御饅頭15銭の掛け紙も残っている。

2 駅弁の始まり
 駅弁の発祥地、時代については元祖・本家と同じように色々なところが手を挙げて諸説がある。多数の説のうち、明治10年7月説があり、官営鉄道神戸駅が出来た時と、昭和32年(1957年)神戸駅発行「神戸駅史」の記述されている。明治18年7月16日日本鉄道㈱の宇都宮駅で竹の皮におにぎり、おしんこ包んで白木屋(初代斉藤嘉平)が販売した。どれが最初か決まっていないが、例えば明治10年官営鉄道梅田駅(現在の大阪駅)、明治16年7月28日日本鉄道㈱上野駅などがある。ほかに熊谷、 高崎、小山など言い出すときりがないほど説がある。できれば神戸駅という資料や情報があればと願っている。
 今ではスーパーや百貨店で駅弁大会を行っているが、「何が駅弁か?」と言う問題がある。日本鉄道構内営業中央会が決めた「駅弁マーク」(左図)があり、中央会で商標登録して中央会参加の構内営業の会社しか使えず、昔から商売しているところが守り続けている。全体は弁当箱を表し、外枠は経木で十文字の仕切りがあり、赤丸は梅干・日の丸を表している。幕の内弁当は、芝居、演劇で食べるものであることから使っている字は勘亭流である。ローマ字は「EKIBEN」そのものである。この駅弁マークが付いているものが「駅弁」であり、付いていないものは「お弁当」である。
 「駅弁の日」と言う日があり毎年4月10日で、「弁」の字を分解して4と十から決められた。この日は各種イベントがスーパー、百貨店でも開催されるが鉄道駅で行うことが多い。 
 現在でも立売の販売形式はあるが、弁当を入れた箱は重く、大きな声を出す必要があり、素早い計算が要求されることから売り子を出来る人が少なくなってきている。駅弁売りのスタイルは風情と印象から規則があり、上着は紺か黒の法被で、襟の左に駅名、右に販売店名を白抜きで示し、帽子は黒っぽい鳥打帽、足元は靴か草履となっている。ホームで声を上げて販売する姿は懐かしく思う人が多い。
 淡路屋の「肉めし」の掛け紙も昭和36年の初代のものから時代に応じて変わってきている。勿論値段も変わっているが、味は変わっていないと言われている。

3 全国有名駅弁とうまいもの大会
 京王百貨店は昭和39年に開業したが、開業から2年後の昭和41年から「全国有名駅弁とうまいもの大会」を始めた。駅弁の需要は行楽シーズン、旅行シーズンが高く、駅弁業界も多忙であるが、特に東北、北海道などの雪国では1~2月には地元では商売にならない。一方百貨店もお歳暮、お正月が終わると1~2月には企画がない状態であった。両者のニーズが合致してこの時期に「全国有名駅弁とうまいもの大会」が始まった。それ以降現在も続いているが、京王百貨店の駅弁大会はいわば駅弁の甲子園と見られている。
 淡路屋の大会での成績は、富山の鱒寿司や蟹めしなどと対抗し、抜きつ抜かれつの成績であった。 昭和53,56,58,60,61,62年の各年は肉めしが第5位となり、63年には4位となった。それ以降は下がってきたが、大会では発表されるのは5位までなので5位以内に入らないと意味がないことになる。平成7年は6位だったのでもう少し頑張ろうと努力し、平成9年に肉めしが5位となった。講演者にも常連客が出来、同業者にも知り合いが増え、駅弁の面白さが分かってきた。
 この頃に狂牛病が発生して牛肉が避けられるようになり、明石大橋開通を記念して蛸壺の形を容器に蛸めしを入れた「ひっぱりだこ飯」を開発した。新しい容器は、軽く、割れなく見た目にも良いものと開発した。その結果、平成12年にはこの「ひっぱりだこ飯」が、ランクインし、4位に入った。
 講演者はこの後に小樽の従業員が20人くらいの駅弁屋に出向して、仕入れ、盛り付け、調理、開発、販売と全般に携わりよい勉強が出来たと思っている。また、経理、経営にもタッチして有益な経験をした。この経験が現在の仕事のベースになっていると言える。

4 最近の駅弁の傾向
 昔の駅弁は、肉めし、鳥めし、貝めし、豚めしなどと直接的、直球のような名称であり、四角い経木の箱に入れられていた。最近は変わった形の容器が使われ出し、おいしいのは当たり前で、ひねったネーミングと変わった容器のものが多くなってきた。駄洒落系のネーミングは古参の社員の発想が多く、若い社員は容器に知恵を絞るという構造が見られる。
 品質管理の点からは、昔は製品を山積みしている状態もあったが、食に関するルールが厳しくなったとこから、品質管理が強化され製造、過熱、搬送を一貫して管理し、保存温度も徹底している。賞味期限についても、特にJRの基準は厳しく食の安全を確保している。このような管理が「駅弁マーク」に繋がると思われる。工場の衛生管理も徹底しており、例えば工場への入室手順でも目以外は出さない上着・帽子を着用し、埃除去の為のローラー掛け(右上写真)を行い、最後にエアシャワーを浴びるなどリスクを減らす為の最大限の努力を行っている。
駅弁の企画としては、最近新聞にも報道されたが高校生とコラボして「神戸旅行記」(左写真)を企画した。2013年夏頃から神戸商業高校から話があり進めているもので、高校生の企画から半年をかけて、試作、プレゼンテーション、試食、ネーミング、パケッジと共同で進めてきたものである。いわば、高校生の知恵が実現化されたものである。外箱は本をイメージしたものである。
また、最近の傾向としては、材料で「冠」の付くような弁当が多くなっている。例えば「但馬牛のすき焼き弁当」、「○○鳥の弁当」などで、地元の名物、名産を用いて付加価値を付けている。淡路屋でも関西らしいものをと考えている。
 駅弁のできるまで(フィルムによる説明)材料、産地(蛸は明石蛸-明石の魚の棚で入手)、調理,出汁(だし)、味付け、具材、・・・について説明があった。
 空港で売る弁当を「空弁(そらべん)」と呼んでいるが、この他にも「道弁(道の駅)」、「速弁(はやべん:高速道路)」などもある。やはり需要は駅弁が多い。空弁は淡路屋でも、神戸空港、伊丹空港、関西空港で販売しているが、飛行機の機内で弁当を食べる習慣が無いうえ、機内が狭いので食べ難く、また食べ難い雰囲気があるようだ。夕方の新幹線では社内で弁当を食べない人がおかしいと感じられる雰囲気で、駅弁には根強い人気がある。

5 神戸の駅弁
 淡路屋で販売している駅弁の写真を紹介、名前当てをクイズ形式で実施した。一部を紹介する。
 「あっちっちすきやき弁当」:(右写真)ヤンキースのイチローの好物。短時間で加熱できるようになっている。この加熱装置は「弁当は暖めて食べる」との意識から淡路屋が開発したが、特許は取らず全国で利用している。同じように加熱して食べるものに、「神戸あっちっちステーキ弁当」、「あっちっち明石焼たこめし」がある。
 「ドクターイエロー弁当」:新幹線の軌道調査などに使われる車両の形の容器を用いた弁当で、子供たちに人気が高い。
 「官兵衛の築城弁当」:NHKの大河ドラマに目をつけ、お城の形の容器に入り、容器は持ち帰れるようになっている。
 「リラックマオムライス弁当」:人気キャラクター リラックマを掛け紙にしたオムライス。
 
おわりに
 駅弁は旅行の楽しみの大きな部分でもあり、地方の名産品を食べ、また車内で弁当を味わうことが喜びのひとつではないかと感じている。この旅行者の楽しみを増すように弁当製造販売に携わるものが努力してゆかなければならないと思っている。




第6回講演概要

    日   時   平成26年3月8日(土) 午後2時~3時30分

    場   所   神戸クリスタルタワー3Fクリスタルホール

    講演題目  「神戸スイーツのおいしい秘密」

    講演者   佐野靖男 兵庫県洋菓子協会 副会長

    参加者   95名


講 演 概 要 (文責;NPO法人近畿みなとの達人)
はじめに
 講演者の会社は「シェフの夢」をフランス語にした「レーブドゥシェフ」と言い、28才で独立して開業し、以来32年間に亘り垂水で店を持っている。
(レーブドゥシェフを紹介したテレビ番組によりその概要を説明。)
 神戸ではパン食の文化は早くから始まり、また発展しているが、このような環境で神戸の洋菓子文化が育まれた。講演者の実家は板宿で和菓子屋を営んでいたが、幼い頃からフランスパンを知り、既にパンでは有名なドンクもあり、パン食に馴染んでいた。このような経験から洋菓子~スイーツ~の道に進んだ。

1 神戸の洋菓子文化に育まれて
 神戸には外国人居留地があり、外国人も多く住んでおり、洋菓子文化も早くから発展している。スイーツも神戸ブランドとして取り上げられている。神戸には、中華料理、洋食の店も多く、神戸の人は口が肥えていて、洋菓子界でも競争は激しく、この中で売り上げも伸ばしていかなければならない。
 講演者も洋菓子の全国の協会に代表として参加しているが、関東にも神戸ブランドの洋菓子屋が店を出し、客も多い。やはり神戸は洋菓子の発祥地で、消費量も多く、したがって、研究開発して新しいものを出さなければならない土壌にある。洋菓子業界には兵庫県、神戸市も理解が深く様々な面で大事にして貰っている。イベントにも洋菓子が使用され、神戸マラソンにもスイーツを提供している。
 昔はスイーツとは言わず、洋菓子、ケーキと呼称していたが、最近はスイーツ、などの言葉が用いられて、またパテシエという言葉も多く使われている。パテシエは、洋菓子職人のことであり、ここに師匠と弟子の関係が成り立ってくる。洋菓子製造の技術を伝承するため、弟子を育てることが必要になる。また、神戸で修行したいというものも多く、最近北海道から弟子入りしたものがいた。勿論試験はしたが、旅費を使いはるばる来てくれたことは嬉しく、合格を喜んだが、その志に感じて合格とした面もある。
講演者は東京で勉強したが、当時は製菓学校が東京にしかなかったためである。学校を卒業後銀座の高級店で修行し、チーフになれと言われ、また、賞も貰ったが、神戸が好きで、洋菓子の盛んな神戸に戻りたく、帰って店を出した。(写真左)
 

2 競争と共育の事業
 一般に「競争」と言う字はスポーツと同じで競い合うことを言うが、ここでは「教育」ではなく「共育」すなわち共に育つと言う字を使っている。兵庫県の洋菓子業界では、「自他共栄」の精神から、共に伸びようとしている。そのため、それぞれの店はシェフ同士が友情関係にあり、レシピの交換、技術の交換をし合っている。これは自然とそうなったものである。講演者も全国的に情報交換を行っており、全国組織パテシェリージャポンに加入している。講演者も役職が上になるに従って全体のレベルアップを考え、留学制度を作った。小さな店では留学も困難であるが、各方面の力を借り始めることができた。現在フランスの菓子店と提携してそこで働く体制が出来、講演者の店でも15~6人を派遣し学ばせている。洋菓子は日本には後になってから入ってきたものであるが、日本人の繊細で真面目なことから今や本場を凌ぐ状況である。まさに日本は洋菓子の発祥地と言えるかも知れない。
 講演者は店を出す前にヨーロッパを見たが、あちらで働こうとは思わなかった。実家が和菓子屋であったことから、当時は嫌であったが12時間も餡を炊き、練ることをしていたので手先が器用になっていた。中学時代は美術部で絵にも才能があったと思っているが、和菓子における色合いの追求などで勉強になったと思っている。ヨーロッパで日本人の味覚が繊細であることも分かり、和菓子技術と手先の器用さから洋菓子作りへと進んだ。菓子作りに当たっては、日本人に合った甘みはあっても切れの良いものを作ることで、自身で探りながら菓子作りに励んだ。東京を去るときに「君は頑張るのは分かっているが、体に気をつけろ」と激励された。商品開発が好きで激戦区の垂水で競争している。情熱も人一倍持っているが、次第に人が大事と知り、また教育も大切であると思うようになった。
 
3 技術革新と商品開発について
 現在デパートに多くの菓子屋が店を出しているが、洋菓子の協会でも東京など他の地区から来た講師の講習会をよく開いている。講習会などを通じて技術革新が容易にでき業界全体で技術を磨き、高めることを行っている。他業種からは「甘い体質」と言われるが、技術は企業秘密ではないと思っており、これも外から入った文化であるからだろうと思われる。
 和菓子も洋菓子も伝統は大切だが、洋菓子は洋食と同じで「後発有利」で、新しい店が有利で客が付く傾向にある。これは、日本人の新らしもの好きから来ているようだが、そのため技術革新がなければ客に飽きられる。したがって、業界で初めてのこともやらなければならない。講演者の店での例を少し挙げると、喉の渇かないアイス、「シェフのアイス」(右上写真)は、寒天、澱粉を使いクリームを乳化、安定させ、砂糖は白ザラメ糖を用いている。アイスクリームをロールケーキのように巻いた「ロールアイスクリーム」(写真左)も当初はできないと思っていたものがスタッフの努力で蒸し焼きにする事により完成され、好評を博しTVでも紹介された。また、とろける生チョコを上質なクーベルチュールでコーティングした「夢のデュエット」は、「全国菓子博覧会2013」で厚生労働大臣賞を受賞した。
 全国のメーカー、菓子店からの見学も多いが、大手メーカーでは菓子をPH(ペーハー)や硬さなど化学的に調べている。おいしさと言うのは感性であるから化学では判定できないと言い、感性を磨くことを勧めている。おいしいものといえば、神戸の土壌が良かったと思っているが、講演者もこの感性を磨くために努力しよく食べたが、最近は体に気を付けて節制している。

4 兵庫県洋菓子協会の役割
 講演者は、兵庫県洋菓子技術専門校の副校長として指導しているが、この専門校では働きながら学んでいる苦学生が18時から22時の間勉強している。この専門学校の学生達に洋菓子の技術を伝えたいと努力している。
 毎年5月神戸大丸の「洋菓子フェスタ」で兵庫県洋菓子協会は、コンテストを実施している。講演者も昔四六時中、技術を磨いてコンテストに臨んだが、いわばオリンピックと同じ気持ちである。コンテストにより技術の高まりが判定され、競争によって成長してゆく。できたものの美しさ、おいしさを競うと共に戦う心を伝えたいと思っている。
 菓子作りには才能も大切である。近畿2府4県プラス岡山県を範囲とした西日本大会が毎年秋に開催されるが、沖縄から来た20才の職人が優勝した。彼は才能がある上に努力をしており、ほかの者には、才能のない者はもっと努力をして、もっと早くから相談に来い、と言っている。残念ながらなかなか相談に来ないのが現状である。「情熱は不可能を可能にする」と思い、このことを伝えたいと思っているが、情熱を伝える苦労をしている。
 NHKの取材で「師匠と弟子」について語ったが、「師匠と弟子の絆」は大切である。講演者も若い頃努力をし、その後30人くらいを独立させたが、最近は残念ながら独立するものが減ってきた。折角入ってきたからにはシェフになってほしいと思っている。
業界に入って来る子は、TVなどでのパテシェ人気もあり、洋菓子の仕事の志望者は多くなっているが、どの業界もそうであるが、我慢が足りず、苦労している。

5 師匠と弟子の関係を築く
 神戸の洋菓子界には100年を越える伝統を持つユーハイム、ゴンチャロフ、フロイントリーフなど創業者が外国人で神戸に住み着き脈々と文化の継承を行っている会社も多い。その様な風土の中で先生と生徒の関係ではなく、師匠と弟子の関係は重要である。
 講演者が苦しかった経験で、腕もあり、仕事も速く3人前働く職人であったが、陰で悪口を言う者がいた。許せないのでクビにしようとしたが、次のようなことを悟った。それを言葉で言えば「苦手な社員を片思いのように愛する」で表され、自分が折れれば良いと考えた。そこで彼の持病の薬や好きなものなどをプレゼントするなど気持ちを和ませることはじめたところ、次第に心の氷が融けてきた。そのあとは活躍して独立し、結婚式にも呼ばれ嬉しい思いをした。また、レスリングの選手をしており頑丈な体の職人がいたが、雪の日に六甲山ホテルにウエディングケーキを運ばなければならないことになった。彼は大型トラックのあとをついて見事に仕事をしあげた。昔はこんな猛者もいた。
 現在は弟子もクールな者が多く、どのように育てるかも色々考えた。そのひとつとして一緒にスポーツを観戦することであった。スポーツ観戦は若者を誘いやすく、緊張がほぐれる。試合を見るだけでなくプレーを仕事にたとえて話をするようにしている。直接仕事でしかるのでなく、プレーも仕事も同じと思わせ反省を求めるようにしている。以前独立寸前なのに、仕事のやり方で初歩的なミスをするので、きつく叱ったこともあったが、本人はよく理解してくれて独立後も良く手伝ってくれている。
 独立する時は不安感から萎縮する者が多い。独立するには多額の費用を要するが、中古の機械や
道具ではなく新しいものを揃える努力が必要である。中古のものは故障も多く、また、少しうまくいかなかった場合に早くに諦めてしまうことにもつながる。
 いずれにしても怠けていると駄目であり、夢ばかり追うことでなく「今やっていることの延長線上に未来がある」と言い聞かせている。しかし、最近は多少ましになったが、辞めたいと言われるとショックである。若者には叱ることも大事であるが、本人を指して叱るのでなく。やった仕事を指して叱る方が、効果が上がると、この方法をとるようにしている。人を育てることは難しく皆に当てはまる答えは無いだろうと思っている。
 
6 おわりにかえて~仕事と人生 
 以前「仕事と思うな、人生と思え!」と標語を工場に掲げた事もあった。標語はやっていけないこと、やらなければならないことを表すもので、良く標語を書いている。例えば「有言実行即実行」なども作った。
 若い人には、仕事には三つの報酬があると説いている。先ず①お金を得られると言う報酬、次いで②自分を高めるという報酬、そして③生きがいを得ると言う報酬 である。特に仕事を生きがいと思えば喜びが倍増される。このことは、専門学校の入学式でも言うことにしている。自分は腕に財産を持って帰ってやろう、と考えることが必要である。 講演者は今の仕事を天職と思っており、技術を継承し、伝承してゆくために努力したいと思っている。