神戸みなと知育楽座

平成24年度 神戸みなと知育楽座 Part4

テーマ「神戸のみなと・まち・歴史をもっと知ろう!」
 

第1回講演概要

  日  時  平成24年6月16日(土) 午後2時~3時30分

  場  所  神戸海洋博物館 ホール

  講演題目  「神功皇后伝承と古代の神戸・阪神地域」

  講演者   坂江 渉 神戸大学地域連携センター 准教授

     参加者   140名

 講 演 概 要  
 本講演では、講演者のご了解を得て、用意されたレジュメで講演概要とします。
 (編集責任 NPO法人近畿みなとの達人)


はじめに
▼今日の話―『古事記』『日本書紀』にみえる神功皇后伝承にスポットをあて、その背景にある儀礼・祭祀の実態や、古代の大阪湾や神戸・阪神間地域の特徴を探る。
▼神功皇后
仲哀天皇の皇后。応神天皇の母。「気長足姫尊」(紀)「息長帯比売命」(記)「大帯日売命」(風土記)とも呼称される。記紀によると3世紀代の人とされる(摂政69 年。100 歳で死去)。実在性は疑わしい。→神功皇后の「三韓征討」説話に着目。

一、神功皇后伝承にゆかりのある神戸・阪神間地域
▼江戸時代の『摂津名所図会』巻7
  □「武庫郡の武庫山」
「武庫郡の西北にあり。・・・一名六甲山といふ。・・・諺に曰く、当山をむかし、仲哀天皇の先后の大仲姫の二王子の麛阪・忍熊(かごさかおしくま)、父の帝、崩じ給うて後、神功皇后を悪んで兵を起こし、三韓よりの帰陣を、こヽに待ちて屯(たむろ)す。その時、皇后早くこれを暁(さと)り給ひて、武内宿祢を遣わし、軍計をめぐらし、麛阪王、及び五人の逆臣を誅して、此峯に埋む。その兜首、六頭を以て六甲山と号す」(適宜句読点を付した。以下同じ)
  □「武庫郡の御前浜」
「神功皇后、摂津国海浜の北岸、広田郷に到る。今、広田明神と号くるはこれなり。また海浜を号して、御前浜といひ、御前澳(おき)といふ」
  □「莵原郡の打出浜」
「打出村の浜をいふなるべし。伝え云ふ、・・・嫡后腹の麛阪・忍熊の二王子、軍船を此浜に集めて、皇后の御船を覆し、みなごろしにせんと謀り、その諸軍の打ち出るにより、打出浜・打出宿とも号けたり。和歌の名所、打出浜は近江国なり」
▼戦前の「みなとの祭」の懐古行列(1933 年11 月~)
  □「征韓」「源平」「大楠公」「兵庫津」「開港」「日英同盟」等の扮装で市内を行列
戦前期までの神戸・阪神間の人々にとって、神功皇后は馴染みのある「人物」だった。

二、古代にまで遡る神功皇后伝承との結びつき
▼『摂津国風土記』逸文(万葉集注釈、巻3)
  □「美奴売(みぬめ)(敏売)松原」「神前松原」
「摂津国風土記に云く、美奴売松原。今、美奴売と称ふは神の名なり。その神は、本、能勢郡の美奴売山に居り。昔、息長帯比売の天皇、筑紫国に幸きし時、諸の神祇を川辺郡の内の神前松原に集へて、福を求礼(ね)ぎたまふ。時に、此の神もまた同じく来たり集まりて、『吾もまた護り祐けむ』といふ。仍りて諭して、「吾が住める山に須義の木あり。宜しく伐り採りて吾が為に船に造れ。すなわち此の船に乗りて行幸せば、まさに幸福あらむ」と。天皇、乃ち神の教えのままに、命じて船を作らしむ。此の神の船、遂に新羅を討つ。・・・還り来る時、此の神をこの浦に祠ひ祭り、併せて船を留めて神に献る。また此の地を名付けて美奴売と曰ふ」
▼『日本書紀』神功皇后摂政元年2 月条
  □「務古水門(むこのみなと)」「広田国」「活田長峡(いくたのながを)国」「長田国」
「皇后の船、直ちに難波を指す。時に皇后の船、海中に廻りて進むこと能わず。更に務古水門に還り卜す。是に天照大神、おしえまつりて曰く、『我が荒魂を皇后に近づくべからず。まさに御心を広田国に居らしむべと』と。即ち山背根子の女、葉山媛を以て祭らしめる。また稚日女尊、おしえまつりて曰く、『吾は活田の長峡国に居らむとす』と。よりて海上五十狭茅(いさち)を以て祭らしむ。また事代主尊、おしえまつりて曰く、『吾をば御心の長田国に祠れ』と。すなわち葉山媛の弟(いろど)、長媛を以て祭らしむ。また表筒男・中筒男・底筒男の三神、おしえまつりて曰く、『吾が和魂(ぎみたをま)に大津の渟名倉(ぬなくら)の長峡(ながを)に居さしむべし。すなわち因りて往来ふ船を看(み)む』と。是に神の教えのままに鎮め坐す。すなわち平らかに海を度ること得る」(原漢文、以下同じ)
  □「播磨の赤石」(明石)「莵餓野」(灘区都賀川or 大阪梅田の兎我野)
「新羅を伐ちし明くる年の春二月、皇后、群卿と百寮を領いて、穴戸の豊浦宮に移る。すなわち天皇の喪(もがり)を収めて、海路より京に向かふ。時に麛坂王・忍熊王、天皇崩じ、また皇后西を伐ち、併せて皇子新たに生まると聞いて、密かに謀りて曰く・・・。すなわち天皇の為に陵を作ると詐り、播磨の赤石に詣でて、山陵を赤石に興す。よりて船を編みて淡路島にわたし、その島の石を運びて造る。すなわち人毎に兵を取らしめて皇后を待つ。・ ・・時に麛坂王・忍熊王、共に莵餓野(とがの)に出でて、祈ひ狩りして曰く・・・」(cf)『古事記』中巻・仲哀天皇段では「斗賀野」
                ↓
▼このような神功皇后伝承と神戸・阪神間地域との結びつきはどのような事実(儀礼・祭祀なと)にもとづいて作り上げられたのか。あるいは神功皇后伝承とはなにか。

三、神功皇后伝承の背景にあるもの(1) ―従軍巫女と住吉大神と神戸―
▼記紀にみえる神功皇后の「三韓征討」説話の構成・・・2 つの異質なものの合成譚
  ①前半:<皇后→航路上の各地で祈りと託宣を繰り返す話>
                        外征時の軍船に実際に乗船し、各地で外征の勝利と安全を祈願した「従軍巫女」の存在を
                        投影させたもの。その巫女像は住吉大社との関わりの深さ(岡田精司)。
                        推古・皇極・持統の3 女帝モデル説(直木孝次郎)。
  ②後半:<巫女的な母とその幼児→帰国譚>
                        単なる帰国譚ではなく、数々の抵抗と困難を排しながら難波をめざす。
                        やがて幼児の地位の安定化=応神天皇としての即位が図られる話(皇后は摂政の地位を
                        69 年も)。河内系王朝(大王家)の始祖伝承。難波津近くの浜辺で神霊(幼童神)を迎え入
                        れる即位儀式の中身を反映したもの
          という見方。
                ↓(①に関連して)
▼古代の神戸・阪神間地域の特性の一つ
  □住吉大社との関わりが深い土地であることは確か
 ・ 「莵原住吉神社」・・・現在の東灘区の本住吉神社の前身(JR 摂津住吉駅の近く)。
 ・ 住吉神とのつながりは西隣の播磨国(東播地域)においても強い。
                ↓(しかし)
  □「住吉神」に直接関連しない所での皇后による「祈祷」「託宣」譚の多さをどうみるか・「務古水門」「神前松原」「美奴売松原」などでの「卜」「神寄せ」の話
                ↓
▼神戸・阪神間地域のもう一つの特性
  □「猪名浦」「務古水門」「敏売浦」(大輪田泊?)という著名なミナトが連続し、それを拠点とする「海人」系氏族が点在していた事実。
           (cf)海人たちによるミナトの管理・運営

  □神戸・阪神間の居住氏族・・・政権中枢部に「大夫」層を送り込むような有力氏族は不在
           (cf)6 ~ 70m 規模の前期古墳「西求女塚古墳」「処女塚古墳」「東求女塚古墳」
                ↓(しかし)
  □古代国家にとって重要な基盤となる「海人(あま)」(海部)勢力の点在
 ・ 「武庫の海の庭良くあらしいざりする海人の釣り舟波の上ゆ見ゆ」(15-3609)
 ・ 「須磨の海人」や「須磨人(すまと)」:「塩焼き」(製塩)、作業衣(塩焼き衣(きぬ))<巻3-413、巻6-947、
    巻17-3932 など)
 ・ 尼崎の地名表記―「海士崎」(鎌倉時代)
 ・ 播磨国の垂水の海神社、淡路国の「野島海人」(北淡町)・・・
                ↓
▼漁労、製塩、清水の献上等のほか王権への軍事奉仕
  □『続日本紀』神護景雲三年(769)6 月癸夘条「摂津国菟原郡人正八位下倉人水守等十八人賜姓大和連。播磨国明石郡人外従八位下海直溝長等十九人大和赤石連」
  □大和連氏
 ・ 各地の海部を対外的に軍事編成する時、総指揮官的な地位にあった倭直(大和国造)氏に系譜的につな
    がる海人系氏族  (cf)4 世紀以降・・・金官加耶や百済との国際交流
                ↓
▼神功皇后の「三韓征討」時に、しばしばここで「卜占」「祈祷」がおこなわたという話の前提には、ここのミナトに入港した軍船の「従軍巫女」が、臨時の神祭りをおこなうことにより、当地の海人たちの外征への協力や動員編成をスムーズにさせる狙いがあったのではないか。

四、神功皇后伝承の背景にあるもの(2)―大阪湾の海辺の信仰と「河内」と「務古」―
▼神功皇后の「三韓征討」説話の後半をめぐって
  □<巫女的な母の帰国とその幼児(後の応神天皇)の即位譚>
 ・ その本質は、難波津近くで「幼童神」(日の御子)を迎え入れる即位儀式(八十島祭)の中身を反映した、
    河内王朝の始祖伝承が入り込んでいるという見方(岡田精司)。
  □『古事記』中巻・仲哀天皇段
「・・・是を以て、新羅国は御馬甘(みうまかい)と定め、百済国は渡(わたり)の屯家と定む。かくしてその御杖を以て、新羅の国主の門に衝き立て、すなわち墨江の大神の荒御魂を以て、国守の神として祭り鎮めて、還り渡る。故にその政が未だおわらぬ間、その懐妊(はらめ)めるを産む時に臨みて、すなわち御腹を鎮めむとして、石を取りて御裳(みも)の腰に纏き、竺紫国に渡るに、その御子はあれ坐しき。故にその御子を生みし地を号けて宇美といふ・・・。
是に息長帯日売命、倭に還り上る時、人の心を疑ふに因りて、一つの喪船(もふね)を具へて、御子をその喪船に載せて、先ず『御子は既に崩じぬ』と言ひ漏らす。かく上り幸し時、香坂(かくざき)王・忍熊王、聞きて待ち取らむと思ひて、斗賀野に進み出て、うけひ狩をなす。かくして香坂王、歴木(くぬぎ)にのぼり坐して見るに、大きなる怒り猪、出でて、その歴木を掘りて、すなわちその香坂王を咋ひ食べりき。その弟の忍熊王、その態(わざ)を畏れずして、喪船に赴きて、空船(からふね)を攻めむとす。しかしてその喪船より軍を下ろして相戦ふ。この時、忍熊王は難波の吉師部の祖、伊佐比宿祢を以て将軍となし、太子の御方は、丸迩(わに)臣の祖、難波根子建振熊(たけふるくま)の命を以て将軍となす。故に、追い退けて山代(やましろ)に到る時、還り立ちて、おのおの退かずして相戦ふ。かくして建振熊の命、権(はか)りて云ふ・・・」
▼「空船」をどう訓んだのか―「カラフネ」「ムナシフネ」という説のほかに
  □「ウツボブネ」(靫・宇津保・空穂+船)=聖なる空洞の船、密閉された容器状の船。
  □柳田国男・・・「うつぼ舟の話」「桃太郎の誕生」→日本列島各地では、幼童の姿をかりた神が、聖なる空洞の容器(舟・果実)に籠もって来臨するという信仰が存在
                ↓
▼古代の大阪湾沿岸の歴史的な自然環境の特質の一つ・・・多くのモノがやって来る所。
  □やって来たもの(流れついたもの)
①西国や大陸諸国からの人の到来→瀬戸内海の最終ターミナルとしての「難波」。
②動物の定期的な到来→ウミガメの定期的な上陸・産卵(夏場のみ)
③モノの漂着→ゴミとしてではなく神霊として迎え入れる風:西宮戎神社=漂着物信仰
                ↓
▼このような大阪湾の自然環境にもとづくと、王朝の始祖王を「ウツボブネ」で迎え入れるという信仰や祭祀・儀礼ができたとしても不思議ではない。
                ↓(それにしても)
▼その信仰・儀礼の中心地はなぜ難波津近くでなければならないのか。
               (cf)「日の御子」(ヒルメ・ヒルコ)信仰の広がり
  □古代国家の形成や大王家の歴史を「一系統の王統」の発展とみるのではなく、複数の王朝の交替があったとみる見方=王朝交替論
 ・ 三輪王朝(3 ~ 4 世紀)→河内王朝(5 世紀)→継体王朝(6 世紀)
  □ 2 番目の河内王朝
 ・ 最初の三輪王朝とも別物として存在し、海洋支配を踏まえつつ、地域的には、旧淀川の東岸(左岸)地域=「河内」(かわうち・かわち)を拠点に成立。
              (cf)記紀の応神天皇はその始祖王的な存在。
 ・ そのうち上町台地を中心とする「難波」地域は、王朝直属の玄関口のミナトの所在地であるとともに宗教的聖地→「八十島祭」という即位儀礼。
                ↓(一方、河内王朝側からみた)
▼神戸・阪神間地域の位置づけ
 ・ 大陸諸国に向かおうとする軍船を支える「海人」勢力の居住地。古くから一定の支配力が及んでいたことは
    明らか。しかし「点的支配」。
 ・ 空間的・領域的支配が進み出すのは、6 世紀初頭の継体朝以降(=準直轄領化へ)
 ・ その後「津の国(つのくに)」という呼び名→さらに「摂津国」へ
▼「津の国」より以前の呼び名
 ・ 旧淀川の西側、すなわち淀川を境にして、その「向こう側」にあるという意味で、「ムコのクニ」と呼ばれてい
    た可能性(直木孝次郎)
 ・ 六甲山も「ロッコウサン」ではなく、「むこのやま」。
 ・ 現在の灘区の都賀川・・・江戸時代の資料には「六甲(高)谷川」=むこだにかわ。

    参考文献:省略しました。






第2回講演概要

     日  時   平成24年8月25日(土) 午後2時~3時30分

    場  所   神戸海洋博物館 ホール

   講演題目  「神戸、みなとと義経の逆落し~一の谷の合戦秘話~」

   講演者   梅村信雄 兵庫歴史研究会 元会長

   参加者   195名


 講 演 概 要  (文責;NPO法人近畿みなとの達人)


はじめに
 源平一の谷の合戦の逆落としは、従来須磨あたりと考えられているが、諸資料を見ればむしろもっと東であることが示されており、この観点から一の谷の合戦を見ることとする。

1 須磨一の谷以外にも一の谷があった
 一の谷の合戦の屏風絵を見ると、須磨海岸で一の谷合戦が行われたように描かれているが、平家の軍船の停泊などは頷けないところがある。釋圓信の『兵庫築島伝』によれば、「須磨仮屋戸は遠浅なり、一の谷は荒磯なり・・」とあって、須磨と板宿の沖は停泊困難と見受けられる。一の谷の合戦当時は須磨の沖は強い西風が吹いていたため、遠浅の須磨・板宿で錨を入れた船は大きな横波を受け、転覆または座礁の危険に晒される。講演者の伊勢湾台風遭遇の体験から、船は横波を受けると錨が海底を滑るとあって、それを立証するため台風通過後に座礁した数多くの船を紹介した。したがって一の谷の合戦では、平家の船は須磨では停泊していなかったと考えられる。また、同書によれば和田岬にある湊川の河口を一の谷と呼び、一の谷を荒磯と呼んで船の停泊が困難な海域としていたが、平清盛は時忠卿の助言に従い、荒波を避ける島を築き大輪田泊を造った。合戦当時、平家の総大将宗盛と安徳天皇はこの大輪田泊に籠もり、平家の軍船は大輪田泊周辺を護衛していたと考えるべきである。

2 摂津と播磨の国境と一の谷
 摂津と播磨の国境は、須磨の西にある堺川と考えられていたが、実はもっと東であることが、様々な文献から見受けられる。
 『百練抄』では、清盛が播州輪田浜(薬仙寺周辺)で千僧供養をしたとある。『坤元緑』では、「播磨の大輪田泊は、長安の百頃の泊と対岸の荷池の泊と似ている」と記し、『歴代皇紀』では、一の谷合戦を前にして、「福原の南、播磨・室並びに一の谷辺に群居す」と認め、『高倉院厳島御幸記』でも、「福原から国境を越えて播磨の印南野・須磨を通った」とあるし、『太平記』後醍醐天皇遷幸隠岐国事の中では、「湊川を過させ給ふ時、福原の京を御覧ぜられ・・印南野を末に御覧じて須磨浦を過させ給へば」とあって、播磨の印南野の西に須磨浦があると表現している。平家物語『百二十句』には「一の谷のうしろ摂津の国と播磨の国の堺なる鵯越」とある。以上のように摂津と播磨の国境は、鵯越(標取越)より和田岬を結ぶ線上であり、30を越える裏付け資料の存在を語った。

3 兵庫の湖と一の谷
 『源平盛衰記』には、福原遷都に苦情の出た頃の記事に、「湖水満々として遠帆雲の浪に漕ぎまがい」と、福原に湖があった記述がある上、『住吉物語』『住吉物語絵巻』『三十六歌仙巻物』には、菟原住吉の櫛状の岸辺が描かれているが、これは務古水門に住吉の三神を鎮座させた「大津の淳名倉の長峡」の情景であり、「一の谷は口狭くして奥広し」と記された兵庫の湖の情景でもある。
この他「西行物語絵巻」にも菟原住吉の岸辺が描かれ、『一遍上人絵伝』に描かれた舟引きの情景は、『播磨国風土記』に記載される「印南の大津江の舟引き」の再現であり、この里の「荒ぶる神」の存在は菟原住吉を指し、上陸地点を「赤石郡の林の潮(みなと)」と記すため、畿内の西端「赤石櫛淵」は、兵庫にあった湖(一の谷)といえる。なお『一遍上人縁起』と林春斎の『赤石八景の詩並びに序』に記載される兵庫の湖と川は、中国の美しい湖の情景「瀟湘八景」「西湖十景」に酷似していると記載されるため、「一の谷」の「一」は「一番美しくて大きい谷」と言う意味かと思われる。

4 一の谷の陣容と西木戸の所在
 『延慶本平家物語』に、「ここは屈強の城なりとて、城郭を構えて、先陣は生田の森、湊川、福原の都に陣を取り、後陣は室、高砂、明石まで続き、海上には数千艘の舟を浮かべ、浦々島々に充満したり」とあり、平家の陣が、かなり西まであるように思えるが、現在の地名で800年前を論じることは危険である。室は、福原の南と『歴代皇紀』にあり、和田の州と解される。高砂は、「晴るる夜は 住の江かけて高砂や 月にあひ生の 松もみえけり」とあるように、摂津の菟原住吉の松と播磨の高砂の松との相生の松が、月明かりの中で見えるとあるので、現在の兵庫高校の裏の岡ではないかと思われる。明石は『一遍上人絵詞伝直談鈔』に「兵庫は明石にくみする」とあり、これも和田の州であって今の明石市ではない。
 『平家物語』流布本系に、「讃岐国や嶋の磯を出でて、摂津国難波潟におし渡り、西は一の谷を城郭に構へ、東は生田の森を大手の木戸口とぞ定めける」とあるように兵庫にあった一の谷を西の城郭にしている。一方『源平盛衰記』には、「三草山の山口西の城戸口(西木戸)」と記しているように、西木戸の所在は、三草山に登る山口と記しているが、ここに登場する三草山は、兵庫の観光スポット頓田山であり、『延慶本』に「三草の手に向たる越前三位、能登の守の陣の火、湊川より打上て、北岡に立たけるを」と記しているように、「三草山の北岡が山の手の陣」である。これを言い換えれば「山の手の陣の南に三草山がある」と言うことであり、頓田山を当時は三草山と呼び、この三草山の山口、つまり兵庫高校と苅藻川の間に西木戸があったのであって、平家が築いた一の谷城は、生田川と苅藻川の間であった。

5 白川の鷲尾家に残されていた「系図」
 義経が上洛した時、先ず平家の陣容を尋ね、久我通親卿から腹違いの甥久我興延を紹介されている。『平家物語』にはそのような記述のないのは、『平家物語』が書かれた時代は鎌倉の地頭の監視下にあって、義経に協力した二人を記載するわけにはいかなかった。この事実は、門外不出となっていた白川の鷲尾家の系図に書かれ、義経に鵯越の案内と仮城つくりを頼まれたことが記されていたため、義経と鵯越の翁との出会いは鵯越ではなく、都での翁の長男との出会いであり、鵯越から播磨の印南野(山の手の陣)に現れる鹿道を教えられため、義経の戦略は都で出来上がっていたといえる。
つまり、義経は、鹿の通る危険な崖に挑戦する馬達者70騎を集める他、興延に鵯越の鹿道の案内と、奇襲部隊が秘に下る懸崖から平家の目を逸らす、仮城づくりを命じたのであった。

6 一の谷合戦前より、義経が山の手を攻撃することを、源氏も平家も知っていた
 『平家物語』を読んで不思議に思ったのは、総大将の宗盛が「山は一大事の所に有由し、承候へば」と云い、教経を山の手に送ったのは、義経の攻撃目標が山の手である情報を事前に受けていたこと。また、範頼の軍勢が生田川の東岸に集結した時、山の手に平家の火が上がったのを見た源氏の軍勢が、「九郎御曹司既に近づきたまへり。打てや打て」と騒いだのは、源氏も義経の山の手攻撃を事前に知っていたと解釈され、この情報の洩れは合戦に不利と思われた。しかし戦いの結果から見ると、義経の山の手攻撃により、山の手の軍勢の大逃走を誘発させ、これが平家の敗北につながったのを見ると、義経は事前に情報を洩らし、山の手に平家の軍勢を集めて、羽音に驚いて逃げ出した富士川の合戦の二の舞を演じさせる作戦ではなかったかと思われる。また、九条兼実の日記『玉葉』に記載されているように、源氏は弱く、和平を望んでいるような情報を流したのも、義経の仕業ではなかったろうか。これは平家の油断を誘う情報合戦であり、一の谷合戦の前哨戦のように見受けられる。

7 義経の逆落としまでの経路
 義経は三草山の資盛の軍勢を破った後、丹波路を通り、村人が義経一行を案内したとされる小野の樫山を通過(樫村の五郎左衛門の先祖が道案内をしたため、黒印状を賜っている)、丹波路が明石道と湯の山道に分かれる分岐点三木市宿原で軍を二手に分け、土肥次郎に3000騎を与えて山の手攻撃を命じ、義経の影武者として物見を引きつけさせて明石道を辿らせた。一方、義経は700騎を率いて播磨の大地に姿を消したが、山田川の河口三津田には判官神社があり、義経の伝承を残す地として義経一行の通過を物語っている。
ただ、この河口には、「馬止め」と呼ばれる土地があって義経が思案にくれたといわれるが、『平家物語』では一行が道に迷う記事がある。ここから山田へは、距離も近く間違うはずもないのだが、川の途中には物見を置く絶好の場所があるために、これを避け、あえて脇道に挑戦したと考えられる。それを物語るいくつかの資料があって、丹生山の裏道に「義経道」が存在し、道は山田の鷲尾家に向かう他、『平家物語』記載の「白雪皓々として聳え、下れば、青山峨々として岸高し」との表現は、現在も文献通りの情景が残され、義経の隠密行動を語っている。
 合戦の前夜鵯越から平家の本陣を見下ろした情景を『平家物語』では、「あれに見候所は、大物(おおもの)の浜(大輪田泊のこと)、難波浦、昆陽野、打出、あし屋の里と申は、あの辺りにて候也、南は淡路島、西は明石浦汀えつづきて候、火の見候も播摩摂津二ケ国の堺、両国の内には第一の谷にて候間、一の谷と申候なり」と語っているが、これは800年前の地名であり、現在の地名と混同してはならない。これは一の谷城内の地名を伝える文面である。
 鵯越山頂の休息地点において、義経は抜駆けを阻止するために夜回りをして情報漏れを防いでいたが、義経を欺いた熊谷直実は、翁を道案内役に仕立てて抜駆けをする。この熊谷直実と同じく岡崎四郎の軍勢から抜駆け出した平山季重とが、西木戸で「一二の駆け」という先陣争いをするが、後続の岡崎四郎の軍勢も西木戸に飛び込んだため、義経より命じられた山の手を攻撃する陽動作戦が失敗に終わった。これは義経の戦略を遂行する上で、致命的な失態といえる。
 一方、義経は16歳の兄の先導のもとで一の谷の上鉢伏の蟻の戸に至った。そこから平家の陣を見て「戦いは盛り」と判断したが、義経の見たのは高取山の北にある峠で行われている合戦で、多田行綱が峠に布陣する平盛俊を攻撃する陽動作戦であり、この囮作戦が功を奏し、山の手に布陣する平家の軍勢は、そば近にひそむ義経率いる奇襲部隊の存在に全く気づかずにいた。そこで「鵯越の逆落とし」という日本史に輝く壮絶な奇襲攻撃が始まるわけである。『玉葉』に記載された「多田行綱山方より寄す、最前(まっさき)に山の手が落とされる」の文意は、多田行綱の山方に寄せた囮作戦が効を奏し、奇襲部隊の逆落としが成功、義経によって真っ先に山の手が落とされた、という意味である。
その後は、奇襲部隊の上げた煙によって敵味方の判断も出来ないまま、平家の軍勢は大輪田泊に逃げ込んだのであるが、大輪田泊の混乱から身内の同士討ちが始まり、平家は悲惨な終焉を迎えた。
 合戦後、鹿しか下りることの出来ない懸崖と、義経の雄姿を偲びたいと、大勢の平家物語の作者が 逆落としの崖を見に来たが、「群盲象を撫ず」の諺にあるように、作者の表現方法は種々あるが、いずれをとっても見事に崖の表情を的確に表現し、義経の勇気と栄光を伝えている。
平家が滅びた後、義経は鎌倉に追われる身になるが、一時、仁和寺の守覚法親王の所にひそんでいた。この折に、義経の語る戦略を聞いた守覚法親王は、「義経は並の勇士ではない。張良の三略、陳平の六奇の芸を携え、その道を得たる者である」と評価しているが、張良の戦略には「策を帳で巡らし、勝を千里の外に決する」とあるが、義経は都で策を巡らし、大輪田泊で勝利を勝ち取ったのである。
都で山の手攻撃の情報を洩らして山の手に大軍を集結させ、常識では考えられない急坂を下っての奇襲攻撃は、史上特筆すべき戦いではなかったろうか。『史記』に登場する大戦略家に匹敵する戦略を、ここ神戸の地で展開させたのであり、神戸の人々は「義経の逆落とし」を称えるべきかと思う。

おわりに
 義経一行が勇気をもって挑戦した逆落としの崖は、800年の歳月と共に様変わりが激しいが、今なお義経(当時27歳)の雄姿を語り続けている。神戸に残された史上最大の戦いを末永く語り継ぐことが、我々に課せられた使命と思われる。また、義経に重大なる情報を与え、戦いを支えた興延の存在がなければこの合戦自身もなかったであろう。秘話となったこの話も神戸の歴史として留めたい。







第3回講演概要

  日  時   平成24年10月20日(土) 午後2時~3時30分

    場  所   神戸海洋博物館 ホール

   講演題目  「楠公さんと神戸~湊川神社創建秘話~」

   講演者   楠本利夫 芦屋大学 客員教授

   参加者   150名


 講 演 概 要  (文責;NPO法人近畿みなとの達人)
はじめに
 神戸で「なんこうさん」といえば湊川神社、楠木正成である。神戸の三大神社のうち、生田神社、長田神社は、201年に、神功皇后の三韓外征の帰りに長田、生田沖で船が進まなくなり、神のお告げを受けて祭った神社である(日本書紀)。
湊川神社は明治5年の創建である。神戸には、楠町、多聞通(正成の幼名)、菊水町(正成の旗印)等、楠公ゆかりの地名がある。芦屋にも打出の合戦にちなむ町名楠町がある。

湊川の合戦
湊川の合戦(1336年)は、後醍醐天皇方の総大将新田義貞と足利尊氏の戦いで、正成は後醍醐方の一武将である。合戦5年前、後醍醐天皇の2度目の討幕計画が露呈し、後醍醐は笠置山に逃れ、夢のお告げで正成を招集した。正成は後醍醐に呼応して河内赤坂城で挙兵した。後醍醐は鎌倉幕府に捕られ、隠岐に配流された。2年後、後醍醐は隠岐を脱出し、伯耆の名和長年に迎えられ、船上山に籠った。全国の武士が立ち上がり、尊氏は六波羅を滅ぼし、義貞が鎌倉幕府を攻略した。正成は環幸する後醍醐を兵庫で迎え京まで先導護衛した。
  1334年(合戦2年前)、後醍醐は建武新政を開始した。建武新政は、綸旨万能、先例主義打破を目指した後醍醐の専制独裁政治であった。建武新政は、先例を重視する公家の反発を招き、また、恩賞処理停滞で武士の不満も高まった。二条河原の落書がある。1335年関東で北条時行が乱を起こした(中先代の乱)。後醍醐からの鎮圧命令を受けた尊氏は、「征夷大将軍」を求めたが、後醍醐はこれを拒否し、自分の諱(いみな)尊治の一字「尊」を与えた。尊氏はこれを受け、それまでの名前「高氏」を「尊氏」に改名した。
乱平定後、尊氏は、鎌倉で後醍醐に叛いた。後醍醐は、義貞に尊氏討伐命令を出した。義貞は、箱根竹之下の合戦で尊氏軍に敗れ、義貞を追った尊氏は入京した。後醍醐は比叡山に逃がれた。奥州から鎮守府将軍の北畠顕家(親房の息子)が大軍を率いて駆けつけ、尊氏を京都から追い出した。敗れた尊氏は兵庫に退却して援軍を待った。
1336年2月、兵庫で勢力を回復した尊氏は、再び京都へ向け進攻したが、「打出・西宮の合戦」で、迎え撃つ顕家、義貞、正成に敗れ、兵庫から海路九州へ逃れた。湊川の合戦の3月前である。
後醍醐は比叡山から京都へ戻った、この時正成は、後醍醐に、「天下の武士は尊氏についているのでこの戦は負ける。尊氏と和睦すべき。自分が使者に立ってもよい」と建言したが、公家たちの反対で建言は受け入れられなかった。
 尊氏は、武士たちに、自分が天下を取ったら恩賞を与えると約束し、自分が敗れたのは「朝敵」であったためと分析して、西下の途上、光厳上皇に要請した院宣が鞆の浦で届いた。
尊氏も官軍となった。3月、尊氏は、九州多々良浜で後醍醐方の菊地武敏の大軍を破った。勢力を回復した尊氏は、再び京を目指して瀬戸内海を東へ攻め上った。途中、鞆の浦で軍を陸海に分け、海路は尊氏、陸路は弟直義が指揮した。義貞は尊氏を追って西下していたが、途中播磨白幡城で頑強な抵抗に遭い攻めあぐねていた。義貞は尊氏東上の報に接し、赤松城攻撃を中止して撤退し、兵庫で待ち構えることにした。
5月25日早朝尊氏の海上軍の船団2~3千隻が明石を出て兵庫に向かった。先頭の細川定禅は和田岬を迂回して東(生田の森)へ向かい、この陽動作戦に釣られて義貞は軍を東に向けた。尊氏が和田岬に上陸した。正成は会下山に陣を敷いていた。正成に対し、陸上軍の足利直義は正面から、斯波高経は背後から攻撃した。正成はわずか700騎、多勢に無勢で利がないとみた正成は、敵陸上軍の大将直義に狙いを定め、直義を須磨寺近くまで追ったが、惜しくも取り逃がした。6時間の戦闘の後、正成は弟正孝と刺し違えて戦死した。ここに湊川の合戦は終わり、尊氏は入京して室町に幕府を開いた。

後醍醐天皇と尊氏 
湊川合戦時、後醍醐は49歳、正成40歳前後、義貞33歳、尊氏29歳であった。
後醍醐の討幕執念の背景に「両統迭立」があった。両統迭立とは、鎌倉中期に、天皇家が持明院統と大覚寺統に分裂したとき、両統が交互に皇位に就く「天皇交代制」が幕府の裁定で決まった。後醍醐は、両統迭立の廃止を目論み、倒幕を企画した。
この時代の歴史書、太平記(軍記)、梅松論(歴史書・尊氏の立場)、増鏡(歴史書・公家の立場)がある。太平記の著者は「君主は『天の徳』に則り、臣下は『地の道』に則ることが国家安泰の要諦」と暗に後醍醐に批判している。
後醍醐の評価には鎌倉幕府を崩壊させて建武新政をはじめた天皇、綸旨万能の専制君主、法衣をまとい自ら倒幕の密教祈祷を行う「異形の王権」、南北朝時代の幕開けを果たした動乱の立役者など、毀誉褒貶がある。
 尊氏は幕府を開き、後醍醐は吉野へ逃れて3年後、右手に剣、左手に法華経を持ち、尊氏を恨む言葉を残して薨去した。尊氏は後醍醐の怨霊を恐れて、天竜寺を建立した。南北朝時代の始まりである。

楠木 正成
正成(1292?-1336)は、兼好法師(1283-1352)と同時代の人である。正成が歴史に登場したのは戦死前の5年程度にすぎない。正成の生年月日にも諸説ある。
正成の出自として、古代から中世にかけて、貴族・社寺に隷属して警護、清掃、運送等の雑役や陰陽師、雑芸人として、年貢を免除され、奉仕した人々(「散所の民」)の長とする説や、金剛砂を採掘し、奈良や京へ販売する者の長等の諸説ある。正成は河内を中心に商業・流通業を手がけて実力を蓄えた土豪的武士であることは間違いない。
鎌倉末期にはこのような勢力が全国で、幕府、公家、寺社殿と軋轢を生んだ。幕府は彼らを「悪党」と呼び討伐しようとしたが、悪党は神出鬼没で手に負えなかった。悪党の存在は、元寇と共に、鎌倉幕府滅亡の遠因となった。元寇では、御家人たちは元軍を2度とも撃退したが、幕府は武士達に恩賞を与えることができなかったためである。
正成は、臨機応変、奇想天外な戦法で、幕府の大軍を引きつけ翻弄した。偽壁、熱湯・大石・大木投下や、藁人形や偽情報で敵を欺いた。正成の活躍が、全国の武士に倒幕の機運を盛り上げた。
正成の非凡さは、武将としての優秀さだけではない。正成は天下を見通す大局観を持っていた。
尊氏が、打出の合戦(2月)で敗れて九州へ逃げた後、正成は後醍醐に「天下の武士の心はすでに尊氏についており、戦っても勝ち目ない。今は君臣和睦しかない。自分が使者として九州まで行ってもよい」と建言した。けれども、「勝った、勝った」と浮かれている公家の猛反対反対にあい、正成の建言は実現しなかった。
5月に尊氏が九州から攻め上ってきた時、正成は、「天皇はいったん比叡山に逃れて尊氏を入京させる。自分は、淀川を封鎖して補給路を断ち、尊氏を兵糧攻めにして包囲殲滅する」と建言した。けれども、これにも公家が反対し受け入れられなかった。公家は正成に早く兵庫へ行き義貞と合流して戦えと命じた。正成は死を決して勝ち目のない戦いのために湊川へ赴き、途中、桜井で息子正行を、自分が死んだ後も天皇のために戦うよう伝え帰した。これが「桜井の決別」である。
正成の評価は時代とともに劇的に変わっている。鎌倉時代は「悪党」、室町時代は「反尊氏の武将」、江戸時代は「過去の武将の一人」、水戸光圀は「大忠臣」、明治政府は「神号」を付与し湊川神社主祭神に祀り上げた。戦前の軍部は正成を戦意高揚に利用した。正成の銅像は全国に建てられた。皇居外苑(明治37年、住友家が別子銅山の銅で制作。高村光雲のデザイン)や湊川公園(昭和10年神戸新聞が呼びかけて市民からの募金で建立)の像が有名である。

街道沿いの楠公墓
 正成の墓は、湊川の東、西国街道から少し北へ入ったところにあった。文禄年間の秀吉検地で、坂本村の楠公墓域24坪を免租地とした。楠公墓の土地は尼崎藩主の飛び地であった。領内に楠公墓があることを喜んだ藩主青山幸恭は、墓地に塚印として松梅を植栽した。
 1678年「大日本史」編纂に着手した水戸光圀は、家臣を全国に派遣し資料を収集させた。佐々介三郎(講談の助さん)は、坂本村の荒れた楠公墓を見つけ、楠寺の千巌和尚の墓地整備嘆願を光圀に報告した。1692年、墓地の荒廃を嘆いた光圀は、「嗚呼忠臣楠子之墓」と親書した墓碑を建立した。以後、この墓は西国街道を行く旅人が参拝する名所となった。街道沿いの楠公墓には、貝原益軒、松尾芭蕉、シーボルト、七卿落ちの公家達、勝海舟、坂本竜馬らも参詣している。

湊川神社創建
1863年尊攘派公家と長州藩が天皇を大和行幸名目で京都から連れ出し「倒幕の詔」を出させることを企図した。この企ては、直前に、公武合体派公家と会津、薩摩両藩により阻止された(「八一八の政変」)。7人の公家は京都から追放され(「七卿落ち」)、長州へ流される途中、兵庫で楠公墓に参詣して再起を誓った。蛤御門の変の後、公家は太宰府へ再配流された。
1864年、島津久光は、護良親王、楠木正成ら殉国の英雄を祭る神社の建立を朝廷に建言した。朝廷はただちに受け入れ、幕府に土地のあっせんを命じた。けれども、その直後の久光の帰郷、禁門の変、長州征伐等で立ち消えとなった。
1867年11月、尾張藩元藩主徳川慶勝が正成を祭る神社を京都に建立したいと朝廷に請願した。祭祀対象は正成のみで、場所は京都神楽岡辺りであった。
 1868年1月1日、神戸が開港し、2日後、王政復古大号令が出された。1月27、鳥羽伏見の戦いが勃発した。
2月4日、三宮神社前で、備前藩士と外国人の小競り合いが偶発し、軍対同士の衝突へ発展した(「神戸事件」)。神戸沖に停泊していた英、米、仏の軍艦から陸戦隊が上陸し、居留地を占拠し、日本船を拿捕し、東西に関門を設置して通行を制限した。
維新政府は、事件処理のため勅使東久世通禧を神戸に派遣した。東久世は運上所で各国公使と会見してわが国の政権交代を告げ、事件を陳謝して日本側の責任を認め、責任者処分を約束した。
東久世が勅使に選ばれた理由は、東久世が維新政府きっての外国通と見なされていたからである。
東久世は七卿落ち公家の一人である。東久世が太宰府に流されていた時、薩摩藩の手配で長崎へ行き、外国の文物を検分し、外国人と接した経験を持っていた。この経験で、東久世は公家では稀有な外国通とされた。
  事件処理後、東久世は新行政組織である兵庫鎮台(後に「兵庫裁判所」「兵庫県」と改称)総督となった。4月、兵庫裁判所役人が、東久世に楠社の神戸創建を嘆願した。豪商北風正造が資金面で協力することになっていた。東久世は直ちに嘆願を朝廷に取り次いだ。
  先に出されていた尾張藩元藩主徳川慶勝の「楠社京都創建案」は朝廷が承認したものの、明治維新前後のごたごたで棚上げになっていた。東久世は、神戸事件処理で維新政府の外交上の危機を救うという大手柄を立てた功労者である。東久世を通じての兵庫裁判所役人たちの嘆願はあっという間に承認された。東久世経由の兵庫裁判所役人の嘆願だけがすんなりと通った理由は、東久世が神戸事件処理で大手柄を立てたこと、発足したばかりの維新政府は公家と雄藩の混成部隊で組織の体をなしていなかったこと、戊辰戦争で政府内が大混乱していたためである。薩摩の根回しも奏功した。
  4月21日、政府は、正成に神号を付与し楠社神戸創建を決定し、社壇造営料1千両を下賜し、造営費用は「天下の有志の奉仕」によることとした。兵庫県は楠公墓に高札を立て、住民に知らせた。
 維新政府は、天皇中心の神道国家をめざし、全国の神官を任命制にし、全国の神社を皇室との関係を基準に社格で序列化した。湊川神社は維新政府の方針に合致した。神社は、寄付と勤労奉仕で創建されることになった。寄付総額は、2万4000両で、うち、摂津・播磨だけで6千200両あった。後に3000両に増額された朝廷の下賜金は使用せずに残った。
  1月社殿に着工し、5月に建物が完成した。社号は湊川神社となり別格官幣社という社格が創設された。7月に明治天皇の行幸が予定されていたが暴風雨のため直前に中止された。
  明治24年、福沢諭吉が、船で横浜から神戸に来た。諭吉は湊川神社に夜間参拝した。昼間堂々と参拝できなかった理由は、諭吉が著書で「楠公権助論」を主張し、赤穂浪士と楠公精神を揶揄し、それに神社側が猛反発していたためである。 

おわりに
 東日本大震災で、被災者が見せた人間としての尊厳、品格、礼儀正しさ、思いやりに世界中が絶賛した。正成の生き方、行動の品格など日本人が伝統的に持つ美徳である。湊川神社を大切にすることは、日本人が伝統的に持つ生き方、品格、礼節を後世に伝えることにつながる。湊川神社は「神戸の宝」「日本の宝」である。








第4回講演概要

    日   時   平成24年12月8日(土) 午後2時~3時30分

    場   所   神戸海洋博物館 ホール

    講演題目  「幕末動乱の中の神戸居留地~維新の志士と福原遊女~」

    講演者   添田 仁 神戸大学大学院文学研究科 特命講師

    参加者   150名


講 演 概 要 (文責;NPO法人近畿みなとの達人)
はじめにー開港場にさすらう人々― 上海に渡った外国船で働く日本水夫
 講演者の専門は、江戸時代の国際交流史と災害史である。
 1872年(明治5年)上海の日本領事館から長崎県外務局へ「上海に渡った日本人水夫」のことが報告されている。日本人で西洋人に水夫として雇われて渡航してきた者で上海領事館に届け出たのは全体の10分の1もおらず、みな「異形」の風体をしており、外国人や中国人から笑われ、もともとパスポートを持っている者も少なく、また雇われた際の契約も確認しない状態であった。横浜の「太平海郵船問屋」のしきたりで、パスポートはすべて西洋人の船長が預かり、これを担保に金を借り、返済できない際には返却してもらえないこともあったと言う。現在、上海・神戸はおしゃれと思われるが実態はそうでなかった。
 パスポートがないと日本に帰れず、船長の奴隷のような扱いを受けていたようである。開港の明るいイメージと神戸の発展と考えられる中、維新動乱、外国人社会のなかに生活していた名もなき日本人の実像について、同時代の史料から可能な限り明らかにすることで、「みなと神戸」の歴史性の一端を明らかにしてみたい。すなわち、開港によって世界に開かれた「みなと神戸」ではあるが、外国人との付き合い方が分からず、日本人の管理は壬申戸籍が出来たばかりで、パスポート就労ビザの制度も途上と分からないことだらけの状態であった。現在のように、国家的な管理が徹底していない段階で、日本人社会と外国人社会の接点に生きた人びとはどのような生活を送っていたのか、「生存の現場」としての「みなと神戸の」歴史性を語る。

1 外国人居留地で働いていた日本人
 日本人が外国人居留地でどのように働いていたかを知る文書として、兵庫県庁から兵庫大阪英国領事館へ宛てたものがある。各開港場居留の外国人の中には日本人書記を好むの形情あり 居留地の中で日本人が働いていた。神戸の場合、居留地の他に雑居地があり外国人は雑居地に住めるほか北野などの他の地域にも住むことができたことは周知のことである。 
1-1 召使は新撰組
  1868年1月27日(慶応4年)鳥羽・伏見の戦い(戊辰戦争)が始まったが、非常に治安が乱れ特に神戸の住民は暴掠の被害を被った。
  1868年2月27日、英国公使代理・J.F.Lowder(オールコックの友人)から外国事務局(外務省の前身)判事・伊藤博文へ宛てた書簡で次のようなことを述べている。「わたしたちの別当(馬を引く召使い)のうちの一人が薩摩の兵士に襲われ、連れ去られてしまいました。後になって解放されたのですが、連れ去ったその兵士の言い訳というのが、彼がその別当を会津藩の人間だと思ったというのです。(中略)どうか本件について調査の上、何が起こったのかを正確に私に教えてください。私は面倒を起こしたくないので、あなたに内密にお便りする次第です。しかし、外国人に雇われている召使いはどんな場合でも妨害されてはならないと、薩摩の人に申し渡すべきだと考えます。ご承知のように、私は正式に新撰組に属していた男を雇っています。しかし、彼は私の召使ですから、かつては別のところに雇われていたとしても、現在は私の庇護のもとにあるべきであろうと思います。」
 講演者は、英語の新撰組に初めてであったが、アーネスト佐藤も新撰組に言及している。この書簡から、①英国人の召使として新選組が雇われていた。②外国人に雇われている召使については〈日本人が手を出せない領域〉という認識があった。③伊藤博文は新選組(が雇われているのを)の存在を知っていながら、それを黙認していた ことが分かる。
1-2 中国人の妾として生きた少女 
  ここでは、西洋人ではないが中国人の妾となった女の話を述べる。
 福原遊廓は、1868年(慶応4年)3月今の神戸駅からモザイクにかけての辺りで普請に着手、同年5月に開業したが、1871年(明治4年)に現在の新開地に移転した。当初の福原の周辺は船を造る場所で、後に生田川の付け替えを行った有本屋宗七=加納宗七の所有地があった。東西、南北とも100~150mていどの遊廓であった。  
  当初遊女は年期を半分にするという条件を付けても、外国人の元へは行くのを嫌がっていたが、外国人の元へ行き帰ってきた者が「異人は親切で気を遣ってくれる」と言ったことから遊女も通い始めた。
  明治元年発行の「もしほ草」では、「醜女のみがいる」と書いている。「右揚代金、一夜日本人は金一分、西洋人は金二分(1分は今の1.5万円)で、客は、水夫、火焚、黒奴(くろんぼ)、支那人或は日本の日雇人足」ともあり、外国人の方が割高になっていた。ここに黒奴とあるのは外国船に乗ってきた東南アジア系の人びとと推測される。また、様妾(ラシャメン)の存在にも触れている。
  客の中には勿論中国人もいて、郭のガイドブックとも言える「新福原細見之図」の表紙には弁髪の中国人が描かれている。遊廓の建物は、3階建て1階が和風、2階が西洋風という折衷型の建物も描かれている。
  このような遊廓に通った中国人に嫁いだ日本人の話に移る。1870年(明治3年)7月、相生町紀伊国屋新兵衛から兵庫県外務局に出された願書に、娘「つる」の処遇について述べている。つるは、南京人・義懐(英国オルト商会)と一緒に暮らしているが、新兵衛は彼女の両親の病状のこともあり、彼女を戻して欲しいという内容である。しかし翌月、「私の娘のつるは、福原町の長榮楼という遊女屋を借店(登録しておく置屋)にして(雑居地)201番支那人・義(キイ)方に妾奉公に差し出していたところ、不都合なことが発生してしまい御上様にご面倒をおかけしてしまいました。しかし、支那人(義懐)とは示談して、この8月から1年に給金25両、3年の間は抱え入れとして差し出すことで同意いたしました」と示談が成立したことを報告している。
 この願い書などから、つるは福原町の長榮楼に登録された遊女であり、雑居地居住の中国人・義懐に妾奉公に出ていたが、契約ができていなかった義懐からつるを奪い返すのが目的で先の願書を出したものと思われる。つるのように遊女屋に登録しておきながら、遊廓を出て、雑居地の中国人に妾として「レンタル」される者もあったようで、「新福原細見之図」に「長榮楼」のお抱え「房鶴」が「つる」に当たるとも思われる。なお、つるの年俸25両は、現在の250万円位に当たり3年契約である。
  義懐のように、西洋人の使用人におさまらず、通訳、荷物の手配などを行い地位・財力・時間を備えていた中国人もいたことが分かる。
  一方、外国人を手玉にとって金銭をだまし取るなどしたたかに生きる遊女の姿が、「神戸又新日報」に掲載されている。

2 開港場ネットワークのなかの神戸居留地
2-1 国はたよりにならない

  外国人に雇われたものの管理をどうするか、外国人に雇われた人の移動を監視できない新政府は、1879年(明治12年)に条約改定の資料にすべく、各開港場に様々な「障碍」や「習慣」のために実現できていない事案を尋ねている。その回答は次のようである。
〇戸籍調査ノ便宜  (神奈川県)「外国人ニ雇ハレタル内国人ハ、多クハ本籍ノ正確ナラザルモノ多シ、故ニ雇人鑑札渡方或引請人方法等遂ニ行ハレズ、徐々各領事ニ協議シ、隠匿ノ弊ヲ一洗セン事ニ注意セシガ、未ダ其偉効ヲ見ス、且彼等ガ犯罪方等届出ノ有無ニ拘ハラズ、一般雇人ト看做ス可キ司法官ノ指令ニ遵シ、遂ニ今日ニ到リ届出其他ノ手続ヲ実践セサルモノトス」  (大阪府)「今日之ヲ実施シ能ハス」 (兵庫県)「大阪府ニ同シ」
 このように、領事に隠し事の無いように要請するが実践されなかった。一方、外国人側は、「一体自分共ニ而賃銭差出し相対雇入候ものハ政府より御世話ニ不及」(自分が雇った者であるから政府の口出しは無用:グラバー)と反発している。
このように、県も外務省も対抗できない中、出先機関で努力が続けられた。兵庫県外務局が1871年(明治4年)3月長崎県外務局に外国人の妾の管理方法を尋ねている。その内容は、次のようである。
① 外国人の妾は(本来)遊廓に登録してある遊女であって、
    何々港の遊廓、誰々の抱え遊女であるのだが、最近は蒸
    気船が自在に動き回るため、横浜や長崎などから外国人
    に連れられて神戸に来ている者が多い。そのうち(各港に
    登録された)遊女でもないのに勝手に妾として附き添って
  来る者もいると聞いている。
② このような妾が神戸の市中に紛れ住んでおり、そこに外国人が泊まり込んで「隠売女」(遊廓に登録してい     ない非公認の遊女)と同じようなことをしている。さらには、この妾の家に外国人が住みついてしまっている     場合もある。
③ (神戸港だけではなく、横浜・長崎・大阪の3つの港も含めた)4つの港で統一的な対処法を考えるために、
    打ち合わせを行いたい。
    このように、開港場同士がどのようにしているかを尋ね合っている。
2-2 海の世界に精通した人びとのネットワーク
 大阪知事、税関長を勤めた五代友厚が、1868年(明治元年)に担当者をどのように選べばよいかを伊達宗城あてに書簡で送っている。その内容は次のようである。
① 開港場にかかわる実務は、第一に彼我の情意を通じることが重要であり、とくに通訳官には見識の深い
     者を選ばなければ、一言一句のわずかな食い違いが交渉の障害となることもある。ゆえに、大坂・神戸
  の通訳官やその他の役人については、貿易事務に慣れている適任者を長崎から招聘して職務にあたらせ
  ている。
② 長崎は、(江戸時代から)長年西洋人が来航している場所なので、彼らは西洋人との付き合い方に精通
  し、開港場の職掌にも慣れている。
③ (すでに)大坂・神戸に出張して(開港場の)実務を勤めている「長崎表地役人」はもちろん、これから任務
  にあたる者についても、その身分に応じて(長崎を)留守にしていることへの扶助を行ってもらいたい。ここ
  に、「長崎表地役人」とは、外交や貿易など、幕府による港市長崎の機能維持に必要な専門的知識・技術
  を代々蓄積し、その能力を活かした職務を生業として、幕府に仕えた長崎町人のことで、長年外国人との
  付き合い異文化交流の最前線にあり手術の立ち会いなども行い、長崎の利点を生かし、オランダ語・中国
  語の通訳、出島・唐人屋敷の管理・警備、輸入品の目利き、貿易会計の処理などの専門家である。年俸
  は現在額では7千万円と破格の待遇であった。長崎から神戸に派遣された地役人は多く、会計、通訳など
  各般の業務に携わっていた。このように互いに交流することで、場所によって異なる対応を避け、開港場
  担当者間での調整を行っている。その内容としては、灯台の維持費、石炭輸送の税額、外国船売買の手
  数料、陸揚・船積免状、証書手数料、外国人雇用者規則、洋妾規則、居留地の地代など多岐に亘ってい
  る。
  又、実務資料の収集・交換も盛んに行われ、例えば長崎から大阪に礼拝堂の領事の申し立て、地料決定
  の経緯記録書類のようなものも送られている。
  最後に、「赤い靴」の歌で思い出される外国へ連れ出される人への対応について話す。1872年(明治5年)8月上海領事館から長崎県外務課に宛てられた書簡が次のように述べている。
① 長崎の立山で買い取られ、神戸から(海外に)連れ去られようとしていた日本人の幼女について探索し、
  身柄を確保した。
② 長崎の吉田恒次郎が発見し、確保した。
③ 吉田は少女を連れていた?広東婦人アシーという者から、洋銀5ドルを見逃し料として受け取っていた。
④ 長崎で吉田にさらなる褒美を与えれば、今後も熱心な探索を心がけるから、「御国の為」になる。
 このように、外務省でも把握が困難な日本人の海外流出について、長崎を中心とする各地の開港場のネットワークが独自の管理方法を構築し、海外への流出に対する監視や、海外に流出してしまった人びとの送還を実現していた。

おわりに
  かつて神戸は、海を介して無限の世界とつながっていた。そこには、国家的な制度や建前とは無関係に、互いの欲望を織り込み、そして互いの価値観に溶け込む日本人と外国人の姿があった。それは明治維新以後の近代国家の枠組みのなかでも、容易には捉えきれない人びとのネットワークを生み出していた。そのようなネットワークの中継地としての役割を果たしていた神戸には、国籍すら怪しい余所者が集まり、それゆえに多様な人びとが違和感なく溶け込むという独特のコミュニティが現出した。決して歴史的な記録には残らないけれども、そのようなネットワークのなかに生きた人びとの欲望と活力によって、「みなと神戸」は支えられていたのである。
  国際交流の歴史を大局的な視点から追究することはもちろん大事ではあるが、これまで見てきたような「みなと神戸」の歴史的特質をふまえるならば、よりミニマムな「人際交流」の現場として神戸の歴史を捉え直すこと、それが神戸という都市の本来の歴史、そして未来を取り戻す上で大事な作業になるのではないか。










第5回講演概要

    日   時   平成25年2月23日(土) 午後2時~3時30分

    場   所   神戸海洋博物館 ホール

    講演題目  「神戸、みなとを愛した外国人」
                 ~ヒョウゴホテルの美しい経営者メアリー・グリーン~

    講演者   谷口良平 NPO法人神戸外国人居留地研究会 理事

    参加者   150名



講 演 概 要 (文責;NPO法人近畿みなとの達人)
はじめに
 仕事の関係で六甲山開発の歴史を勉強した。六甲山開発の祖はアーサー・グルームである。居留地社会での彼の活動から、居留地そのものについても調べ出した。それは実に新鮮で面白くて、止められなくなった。今日は、居留地研究に填まるきっかけになった、一人の英国女性の足跡をご紹介したい。
 大正7年、英字新聞の「神戸開港50周年記念特別号」で、元外交官のJ.C.ホールが回想文を書いているが、その中に、男性中心社会の中にあって只一人の女性(正しくは母娘3人)のことを次のように回想している。
 「当時の代表的なホテルは、英国人のグリーン夫人が経営するヒョーゴ・ホテルであろう。夫人は豊満な肢
体を誇っていた美しい未亡人で、二人の娘も美人で、港の花ともてはやされていた。一人は(・・・中略・・・)コブデン氏と結婚し、もう一人の娘は旅行中の金持ちのオーストラリア人(正しくは英国人)と結婚した。」
 この美しい未亡人に魅せられた人は多く、司馬遼太郎も『街道をゆく』シリーズで神戸に来た折りに墓参りをしている。(講演者は)夫人の正体を知りたいと調査を始めた。

居留地とホテル
 幕末期、江戸幕府は開港を決意したが、開港すれば外国人が来て日本人との摩擦が生じる。そこで外国人の専住特区と言うべき居留地が全国7開港地に設けられた。そのスタートは港により異なり、神戸の場合は1868年元旦であるが、居留地時代の終わりは全て明治32年7月17日である。開港時点の兵庫地区の人口は2万人、神戸地区は3千人で、居留地は当初駒ヶ林を想定されたが、最終的に神戸村の東側、7.8万坪の砂地一帯に決まった。すなわち兵庫開港が神戸開港にすり替わったと言える。開港当初の写真が現存する。初年に上陸した外国人は2百名。その殆どが帽子を被り髭を蓄えた男性であるが、その中に女性が2人いる。その内の一人がグリーン夫人だと思うが、未だに確定できないでいる。
 ホテルはメリケン波止場の前に建てられた(現在の神戸郵船ビルの位置)が、名称を神戸でなく兵庫としているのは、兵庫が当時のブランドネームであったためである。明治4年開業、39年間存続した。初代グリーン夫人から経営者が数人入れ替わったが、勢いがあったのは夫人の時だけで、後にオリエンタルが神戸を代表するホテルになった。

修法ヶ原の外国人墓地
 修法ヶ原の外国人墓地は戦後改葬されたもので、約2800人が眠っている。墓碑は、母娘3人でなく向かって右に次女フランシスが、左にジェームズ・キャロルが眠っている。キャロル氏は夫人を神戸に誘った人で、夫人より9歳年上。生涯独身で夫人の死後10年に亡くなっている。フランシスを我が子のように愛した。(キャロル氏については後述) グリーン夫人の墓標には明治13年(1881年)3月3日没、43歳とあるが実は45歳で、そのため調査に手こずった。

グリーン夫人の足跡(英国)
出生:グリーン夫人の生きた証を求め英国プレストンに赴いた。英国では当時既に国勢調査を行っており、出生記録には、1835年8月11日生まれと記載されている。同月17日に洗礼を受けた。生家は現存しない。
家族構成・幼少期:1841年の国勢調査に、父は35歳、パブの経営者、母メアリー25歳、兄、本人6歳、弟、妹、住込み従業員の名前がある。最終的に男4人、女5人の長女であった。1851年の調査時には、両親がパブ経営に行き詰まりリバプールへ引越したが、男の子のみを連れ、女の子はプレストンに残され、母方の祖父母の下で育った。ミドルネームの” エリザベス”は祖母の名前である。
結婚・出産:20歳のとき、リバプールで結婚。1855年の結婚証明書があり、夫は船乗りのマシュー・グリーン、39歳。住所を見れば既に同棲していたようである。二人の女の子をもうけた。
1861年の国勢調査では、グリーン夫人25歳、長女エレン、次女フランシス、それに下宿人とある。夫は船乗りだから、家を空けることが多かった。
 プレストンは、現在ロンドンから特急で2時間半、人口18万人、ランカシャー州の州都で産業革命発祥の地である。当時のプレストンは紡績業で繁栄、18~20世紀には「世界の工場」と言われた地域。最盛期には、男だけでなく女性、子供まで長時間労働に従事した。食住の環境が劣悪で子供育たず、平均寿命は短かった。
 リバプールは、現在人口80万で最盛期の半分だが、18世紀に奴隷貿易で巨万の富を得た、イギリス最大の貿易港である。ところが彼女の住んだ所は全く風情が異なり、殺風景である。19-20世紀後半まで、この付近は有名なスラム街であった。1970年代末にサッチャー政権の対策により一掃された跡地である。19世紀中頃、アイルランドで主食のジャガイモの伝染病が発生した。800万人の島民のうち100万人が餓死し、200万人が島を去った。その多くは新大陸を目指したが、渡航費用を工面できない人々が住み着いてスラムが形成された。
 結婚6年目に転機がやってきた。前年、夫は中国へ行くと言って出たきり便りが無く、彼女は英外務省へ捜索願を出した。長崎の英国領事の書いた返事が残っており、「あなたの夫は元気です。ここ長崎で保安官として頑張っています。実は、居留地の治安維持のため保安官職が必要になった。適任者が長崎では見つからず上海まで出張した際、あなたの夫と出会って採用したのです」。この後夫から手紙が届いたようで「娘を連れて長崎に来い」という内容であっただろう。しかし出国まで1年間のタイムラグがある。これは迷いであったか金の工面であったかであろう。

グリーン夫人の足跡(長崎)
夫との再会:彼女は、自分を可愛がってくれた祖母に別れを告げ、数百トンのアジア行き外輪蒸気船に乗って日本に向かった。経路は恐らく地中海ルートで、途中のスエズは鉄道を用いたであろう。片道3ケ月間の船旅の後、1862年長崎へ至り2年ぶりに親子4人が再会した。長崎居留地は未だ未整備で、妙行寺に英国領事館があった。長崎の奉行所は、在住外国人をヒアリングして名簿を作成している。その中に「キリーン」という名があるが、これがグリーン家族。丁度生麦事件の発生直後で、夫は「間もなく戦争になるから、ほとぼりが冷めるまで上海に逃げろ」と言い、彼女は上海に避難したが、薩英戦争は3日間で終了、彼女は胸をなで下ろして再び長崎へ帰ってきた。 
ベルビューホテル:夫は、仕事を変えホテル経営に乗り出した。船とホテルはサービスが似ており、おまけに彼女は居酒屋育ちで、共働きに好都合だった。借金をして大きなホテルを建てた。見晴らしが良く「ベルビューホテル」と名付けた。このホテルは繁盛し、代替わりの後大正9年まで存続した。
娘たちとの離別:娘二人は次第に成長してきて、仕事と育児の両立が困難となってきた。居留地には外国人学校が無く、やむを得ず本国へ送り返すことにした。つまり家族と仕事の内、仕事を優先した。この頃から夫婦の間に亀裂が出来諍いが絶えず、DVに発展、裁判沙汰にまでなった。
  しばらくして、夫マシューは長崎から姿を消した。夫と生き別れになった彼女は、娘の居る英国に帰らずに日本残留を決める。
横浜へ:間もなく神戸が開港。長崎の居留民たちは、今後経済の中心は横浜・神戸に移ると予想した。彼女は明治2年、横浜へ移った。長崎では7年暮らしたことになる。

グリーン夫人の足跡(横浜)
20番館グランドホテル:相性が悪かったのか、横浜には2年間しかいなかった。最初は山下居留地37番の小さなホテルを譲り受けて切り盛りしたが、程なくして20番にホテル建設を目論んだ写真家のF. ベアトから、その経営を委託された。20番館ではかつて殺人事件があり、ホテル建設工事の最中に怪我人が出たり、開業直後に従業員による放火事件も発生するなど、ろくな事が起こらないので、彼女は嫌気がさしていた。
38番館主キャロルとの出会い:キャロル氏は、入港船相手に食料や機材を売る商売で横浜の「勝ち組」であった。神戸開港時には、真っ先にメリケン波止場前の一等地を取得して支店を開設した。そのキャロル氏から「神戸に来ないか?メリケン波止場前にホテルを建てるから」と誘われた。彼女はその誘いに応じて神戸に移ることにした。グランドホテルはその後別人によって経営され、関東大震災で崩壊するまで存続した。

グリーン夫人の足跡(神戸)
ヒョーゴホテル開業:彼女は明治4年9月24日、神戸に上陸、翌10月にホテルをオープンした。
聖アンドリュース・デイの晩餐会:翌11月、スコットランドの聖アンドリュース・デイ祝賀の晩餐会がホテルで開催された。ワイン・料理に配慮し、名物料理を出し、神戸の社交界にデビューを飾った。
京都博覧会:明治5年春、京都で博覧会が開催された。会場は知恩院、建仁寺、西本願寺。主催者は京都人であった。遷都により公家が東京に転居、廃藩置県で藩屋敷が無くなるなど京都の衰退が懸念されたので、いわば町興しのイベントであった。このとき初めて京都の町が外国人に開かれ、円山公園にホテルが建てられた。彼女はその切り盛りを依頼された。
英国領事宛の手紙:博覧会の後、長崎の英国領事宛てに書いた彼女の直筆手紙が現存する。その中に「神戸でやっと落ち着いた。何よりうれしいのは、6年間離ればなれになっていた娘たちがもう直ぐ私のところへ戻ってくる。一日千秋の思いで待っています」と書かれている。
娘たちとの再会:娘との再会を神戸で待ちきれず、上海まで迎えに行った。当時の新聞の乗船客名簿欄にグリーン母娘の名前がある。娘は、16歳と14歳に成長していた。彼女たちが「港の花」と持て囃されたのは、このときからである。
セレブの投宿:ヒョーゴホテルに日本人は宿泊しなかったか? 明治9年11月下旬、地元新聞が掲載するホテル宿泊者名簿欄に「ITO」とある。これだけでは誰かは分からないが、この1週間後に英国公使パークス夫妻が投宿した。奥さんの転地療養が目的で1週間滞在している。パークス夫妻のチェックアウト後直ちに「ITO」もチェックアウト、誰あろう後の総理大臣伊藤博文(当時俊輔)である。
長女エレンの結婚:同じ年、20歳の長女エレンがロイター通信アジア支局長ハリー・ウイリアムズと結婚した。ウイリアムズはふらりと神戸に来てエレンに一目惚れし、電撃結婚となった。
次女フランシスの結婚:翌明治10年4月、19歳の次女フランシスがチャ-ルズ・コブデンと結婚した。コブデンは高名な政治家を伯父に持つ名家の出であったが、本人の評判は余り良くなかった。当時は西南戦争の最中で、神戸は政府物資の拠点港で慌ただしかったが、居留地は無風状態。グリーン夫人は、せめて娘にはレディになって欲しいと願っていたに違いない。「良い所に嫁がせた」とさぞご満悦であったろう。
フランシスの急死:長女エレンは4人の子供をもうけ幸せに暮らした。最期の消息は1914年、ロンドン市内の高級マンションで孫と、孫のための家庭教師と一緒に、悠々自適の生活を送っている。
 一方、次女フランシスは嫁いで横浜にいたが、結婚3年目の明治13年3月31日に亡くなった。弱冠22歳。2月20日に女の子ヘレナを出産したが、産後の肥立ちが悪かったらしい。出産後35日目に夫と赤ん坊と共に横浜から船に乗り、神戸の母の元へ戻ってきて3日後に息絶えた。
 死去前日のホテル宿泊者名簿に、有名なシム氏の名前がある。シム氏は徹夜でフランシスの看病に努めたが命を救えなかった。グリーン夫人は、娘に先立たれ、生後40日の孫娘が残されて茫然自失。フランシスを我が子のように可愛がっていたキャロル氏は、「チャールズにはヘレナを育てさせない。自分が面倒を見る」と宣言、チャールスは単身オーストラリアに去った。この後キャロル氏は宣言どおり、ヘレナの面倒を見た。
死去・追悼記事:その1年後の明治14年3月3日、グリーン夫人は45年の生涯を終えた。死因は分からないが、フランシスを失った絶望から立ち直れなかったものと思われる。いずれにせよ、まだ1歳のヘレナを残しては「死ぬに死ねない」心情であったに違いない。
神戸と同様、横浜でも死亡記事が掲載された。「心温かく寛大、居留民の母のような女性であった」と述べられている。

さいごに~プラス孫娘ヘレナ~
 長崎には「蝶蝶夫人」、伊豆下田には「唐人お吉」の物語があるが、神戸には「グリーン夫人の物語」があることを、今日ご紹介した。
 孫娘ヘレナはその後どんな人生を歩んだか、について。
 グリーン夫人の死後、北野町1丁目にあったキャロル氏の豪邸で育てられた。学齢期に達した6歳の時、英国に帰国するヒュー・マクレガー夫妻に連れられてロンドンへ。ロンドンの寄宿学校への入学を経て、オクスフォード大学に進学。生活費と授業料は全てキャロル氏の遺言によって神戸から送金された。
 23歳の時、後に「エコノミスト」誌編集長になるジャーナリスト、フランシス・ハーストと結婚。ハースト氏は自由主義者であったが女性の社会進出には理解がなく、夫婦仲は冷え込んで後に別居している。
 コブデン一統のリチャード・コブデンが残した屋敷で余生を過ごし、昭和40年(1965年)、85歳で没した。
 日本生まれで、しかも孤児であったから、英本国では肩身の狭い思いであったろうと思われる。
 晩年の写真に見えるネックレスは、一体誰からのプレゼントか? 母の形見か? 母は結婚式の折、祖母からもらったものか? 今そのネックレスの行方を捜している。





第6回講演概要

    日   時   平成25年3月16日(土) 午後2時~3時30分

    場   所   神戸海洋博物館 ホール

    講演題目  「神戸から世界へ みなとと実業家たち」
                           ~鈴木よね、金子直吉、川崎正蔵~」

    講演者   神木哲男 NPO法人神戸外国人居留地研究会 理事長

    参加者   160名


講 演 概 要 (文責;NPO法人近畿みなとの達人)
はじめに
 この講演の主人公でもある鈴木よねさんの銅像(下写真)が灘区の祥龍寺にあるが、講演にあたりここを訪ね「肩書きに何かつけようか」と思ったが、よねさんの「私は直どんの後について行っただけ」と言われているようなので肩書きを入れることを止めた。また、鈴木商店は商業の代表、川崎造船は工業の代表として川崎正蔵を紹介しようと思っていたが、時間の関係から鈴木商店に焦点を当てることとした。ご了解願いたい。
 開港から約30年の明治27,28年に日清戦争が、10年後の37,38年に日露戦争が勃発し、1914~18年には第1次世界大戦が起こっている。我が国は3回の戦争で戦勝国となり経済発展を遂げたが、大正11年(1923年)に関東大震災が起こり、経済的大きなダメージを受けている。
 鈴木商店も日本の経済発展象徴するように急速に力をつけ大きくなってきたが、昭和はじめの金融恐慌の影響もあって昭和2年(1927年)に倒産に至った。最近神戸市内の学校でも鈴木商店について話すことが無く先生も良く知っていない方が多いのが残念であり、改めて鈴木商店は神戸にとって大きな会社であったという認識を深めて欲しいと願っている。

居留地貿易
 1859年に横浜等が開港し外国との貿易が始まったが、神戸は約10年遅れて1868年1月1日に開港して外国人がこの地で職住できる居留地を設けている。明治初めの貿易のやり方は、外国人が居留地以外に自由に出歩けないことから、日本人商人が外国で売れるであろう商品を集めて外国人に売りに行き、国外で売れる商品を外国人は買って輸出を行っていた。このような日本人商人は「売り込み商」と呼ばれた。反対に輸入は外国人が日本で売れると思われるものを輸入し日本人商人はこれを買って国内で売った。これを「引き取り商」と呼ぶ。勿論直接貿易も可能ではあったが、日本商人が貿易のルールに詳しくなかったため、このような「居留地貿易」が主流であった。鈴木商店も売り込み・引取り商からスタートしている。

鈴木商店の成立
 鈴木商店の創設者鈴木岩治郎は武蔵国川越藩の下級武士・鈴木徳治郎の次男として天保12年(1841年)に生まれ、成長後、長崎で菓子職人の修業し、帰途、神戸に立ち寄り江戸に帰ることを断念、大阪の砂糖商・辰巳屋恒七の神戸出張所に雇われた。初めは菓子屋をやるつもりが、病に倒れ宿屋の客引きやったりしていたが辰巳屋に勤めることとなった。菓子職人であるため砂糖の見分けには卓越しており、頭角を現して番頭格に抜擢された。明治7年(1874年)辰巳屋神戸出張所を譲り受け、鈴木商店を設立した。屋号は辰巳屋を現す「カネタツ」としている。
 その後色々なことに手を出し明治15年(1882年)神戸石油商会を設立、明治17年(1884年)神戸貿易会所副頭取に、明治19年(1886年)資力3万円以上の神戸有力八大貿易商のひとりとなり、明治20年(1887年)神戸商業会議所第一期議員に当選している。しかし、明治27年(1894年)享年53歳で急死した。


新生鈴木商店の誕生
 鈴木よねは、嘉永 5年(1852年)播磨国姫路米田町、塗師丹波屋・西田仲右衛門の三女として生まれ、明治10年(1877年)鈴木岩治郎の妻となったが、再婚であった。鈴木岩治郎の突然の死去に鈴木商店を廃業して遺産9万円で2人の遺児を育てるか、年商500万円の会社を存続させるかの岐路に立ったが、実兄・西田仲右衛 門(大阪で両替商を営む)と大阪辰巳屋藤田藤七を後見人と定め、先代の事業を継続することになった。みずから店主となり、ここに、鈴木よね・金子直吉体制が始まった。この時よねは43歳であった。
 金子直吉は、慶應2年(1866年)高知県吾川郡名野川村に生まれ、幼少時に高知に出て家が貧乏なため11歳で長尾砂糖店の丁稚となり3年後質商傍士久万次の店に雇われ、のち番頭となった。明治19年(1886年)神戸に出て鈴木商店に入った。この時21歳であったが、主人岩治郎が厳しく逃げ出したこともあり、よねに連れ戻されたという逸話もある。明治33年(1900年)傍士亀寿の妹・徳子(21歳)と結婚した。新生鈴木商店の発足当初、直吉は樟脳の先物売で失敗し大きな損失を出した。この頃セルロイドが発明され整形に使う樟脳の需要が高まっており台湾樟脳が品薄となると見越して外国商館への先物の販売を契約した。しかし予想外の高騰に損失を生じた。最大の売約先・シモン・ヱバース商会(居留地101番)と折衝し、現物少々と4000ドルで話をまとめ危機を逃れた。以後先物売買の禁止が鈴木商店の大原則となった。 
台湾樟脳との関係は 台湾の初代民政長官・後藤新平の樟脳専売制に協力したことに始まり、独占販売権権を得、樟脳油の65%の販売権を獲得した。以後後藤との関係が功罪ともに深くなった。この頃の主な取引商品は、洋糖(香港・台湾・欧州甜菜糖)、樟脳(クスノキの木片を水蒸気で蒸留して製造、無色透明の板状結晶となる、防虫・防臭剤、セルロイド、火薬の原料)、薄荷(シソ科の多年草、その葉から薄荷油・薄荷脳をつくる)などであった。

合名会社鈴木商店
  明治35年(1902年)鈴木商店は合名会社鈴木商店となり、資本金50万円 代表社員鈴木よね(48万円)、社員金子直吉・柳田富士松(各Ⅰ万円)の会社組織が船出した。外国では、ロンドン・ハンブルグ・ニューヨークに代理店を開設した。
一方、多角経営も展開したが、その内大きな会社は神戸製鋼所の発足である。明治38年(1905年)脇浜に小林清一郎が建設した小林製鋼所は出鋼に失敗、45万円を出資していた鈴木商店が経営することとなった。社名を神戸製鋼所と改称して田宮嘉右衛門を初代支配人として抜擢したが、この人物が以後の発展におおきく寄与した。明治44年(1911年)鈴木商店から分離独立、資本金140万円の株式会社となった。
 流通だけでなくその他の部門にも進出したが、その中には今日でも継続する次のような会社がある。  
東亜煙草・日本セルロイド人造絹糸(→大日本セルロイド)・帝国麦酒  神戸地域:樟脳製造所(3
ヵ所)・薄荷製造所・魚油

総合商社への道
 明治40年代(1910年代初め)輸出入製造販売品目も多様化し、販売樟脳・樟脳油・薄荷・魚油製造輸出販売、米利堅粉・砂糖輸入販売、鋳鉄・鍛鉄・銑鉄、諸機械製造販売を行い、直営工場を6箇所持ち、2支店(門司・上海)、8出張所(東京・大阪・名古屋・小樽・函館・那覇・台南・福州)と体制を整備した。
 外国人が引き上げた日本商業会社(Nippon Trading Society Limited)を資本金50万円で引き受け、船舶部を創設し5000トン級4隻、3000トン級3隻を製造、ロンドン・ハンブルグ・ニューヨークに海外代理店を持ち、外国通信部も持った。また、神戸高商、東京高商などから学卒者を採用し名実ともに鈴木商店は総合商社の道を進んで行った。
 総合商社としての自信の表れを示すものとして金子直吉からロンドン駐在高畑誠一宛の「天下三分の宣言書」といわれる書簡を残している。この中で「三井三菱を圧倒する乎、然らざるも彼等と並んで天下を三分する乎、是鈴木商店全員の理想とする所也。」と言っている。実際大正6年(1917年)の貿易年商額は15億4000万円(内地外国間貿易額12億円、三国間貿易額3億4000万円)で三井物産貿易年商額10億9500万円と三井を追い越している。
 大正6年(1917年)8月アメリカが鉄材輸出禁止令を発布した。同年6月の造船予定数は190隻98万631トン(川崎造船所49隻約27万トン、大阪鉄工所56隻約27万トン、三菱造船所24隻約11万トン)で、船を造れば儲かる時代だが、鉄がなければ建造が出来ないこととなった。11月政府間交渉を行ったが失敗に終わり交渉打ち切りとなった。しかし、金子直吉はアメリカ大使・モリスと会談、この結果第1次契約が成立、鉄材1トン対船舶1重量トンとなった。(後に第2次契約成立で鉄材1トン対船舶2重量トン)金子直吉は日本の造船界を救ったとも言え、契約成立後の宴席の写真が残っている。

米騒動と鈴木商店焼き打ち
 大正7年7月(1918年)富山県新川郡魚津町の主婦による米の県外への汽船積み出しに反対から、米屋・富商襲撃が。始まった。この「米騒動」は全国に広がり、鈴木商店も米の買占めをしているとの噂が広まり、同年8月に焼打ちにあった。実際は鈴木商店は、政府に協力して大量の外米を輸入して安く販売していた。しかし、米の取り扱いが目立ったため誤解の元に被害を蒙った。焼打ちにはめげず直ぐに立ち直り本社を別の場所に立てて最盛期を迎えるに至った。鈴木商店が倒産したことの引き金が焼打ちにあると見る人も多いがこれは間違いである。鈴木商店の焼打ちについては当時の神戸新聞にかなり詳しい記事が掲載されている。
 しかし、大正10年(1921年)頃から鈴木商店は経営、財政状態が悪化に兆しが見えており、関東大震災後の大正12年(1923年)鈴木合名会社と組織変更し、貿易部門を分離、株式会社鈴木商店(社長鈴木よね)とし、鈴木合名会社は持株会社として存続(代表社員鈴木よね)させた。
 この間、鈴木よねは大正4年(1915年)産業振興に尽くした者に与えられる緑綬褒章、大正9年(1920年)に公共的なことに寄与した者に与えられる紺綬褒章を受けている。また、昭和1年(1926年)フランス政府よりレジョン・ド・ヌール勲章を授与されている。

鈴木商店倒産
 第一次世界大戦の終了に伴い戦後不況が起こって、ワシントン軍縮会議による軍艦建造の中止もあって、船価も1トン当たり900円から100円と大幅に暴落し、経済全体が萎みいわゆる戦後恐慌が始まった。関東大震災の被害も500万円あり、この時に手形問題も発生、これも経営の悪化に拍車をかけた。また、鈴木商店は鈴木よね・金子直吉の個人体制で折角採用した学卒者を生かしきれず、他の商社のような組織化が進んでいなかった。財閥系である三井、三菱は機幹銀行を持っていたが、鈴木商店は財閥化しておらず台湾銀行との関係が目立ち、この台湾銀行が破綻したのも大きく影響した。台湾銀行の貸出高5億4000万円のうち3億5700万円が鈴木商店関係であったことは、その影響の大きさが分かろう。
 そして、遂に昭和2年(1927年)4月2日鈴木商店は倒産をした。倒産直前の鈴木商店の関連会社は、週刊東洋経済新報によれば、総数65社=直系会社31社、放資会社34社(関係会社資本金総額約4億9000万円)としている。現在も継続している会社では 、 日商(現双日)、神戸製鋼所、帝国人造絹糸(帝人)、大日本セルロイド、豊年製油、日本金属、帝国石油、太陽曹達(太陽鉱工)、播磨造船所、大正生命、新日本火災海上
と蒼蒼たる会社が挙げられる。

おわりに
 鈴木よねは、87歳で昭和13年(1938年)亡くなってるが、鈴木商店は神戸の大きな誇りであることを認識して欲しい。
 よねの短歌に、「春の日六甲山を訪ねて  頃は良し、花の盛りの昨日今日 明日も来て見ん 山桜かな」を最後に紹介して、鈴木商店を偲びたい。

鈴木岩治郎・鈴木よね・金子直吉の年譜
鈴木岩治郎
 ・1841(天保12)年:武蔵国川越藩(埼玉県)の下級武士・鈴木徳治郎の次男として 生まれる(7月21日)、兄・文治郎のあとを追って、長崎で菓子職人の修業後、帰途、神戸に立ち寄り、江戸に帰ることを断念大阪の砂糖商・辰巳屋恒七の神戸出張所に雇われる
 ・1874(明治 7)年:恒七、病に倒れ、神戸出張所を岩治郎に譲る
 ・1882(明治15)年:神戸石油商会を設立
 ・1884(明治17)年:神戸貿易会所副頭取となる
 ・1886(明治19)年:資力3万円以上の神戸有力八大貿易商のひとりとなる
 ・1887(明治20)年:神戸取引所理事となる
 ・1891(明治24)年:神戸商業会議所第一期議員に当選
 ・1894(明治27)年:死去(6月15日)、享年53歳
鈴木よね
 ・1852(嘉永 5)年:播磨国姫路米田町、塗師丹波屋・西田仲右衛門の三女として生まれる(8月15日)
 ・1877(明治10)年:鈴木岩治郎に嫁す
 ・1878(明治11)年:長男・徳治郎(のち岩治郎と改称)生まれる
 ・1881(明治14)年:次男・米太郎生まれる
 ・1884(明治17)年:三男・岩蔵生まれる
 ・1894(明治27)年:夫・岩治郎死去、長男・岩治郎、家督を相続し、兄・西田仲右衛門を後見人と定め、先代の事業を継続する、みずから店主となる
 ・1902(明治35)年:鈴木商店を合名会社(出資額50万円)とし、代表社員となる(出資額48万円)、金子・柳田(各1万円)
 ・1915(大正 4)年:緑綬褒賞を受ける
 ・1920(大正 9)年:紺綬褒章を受ける
 ・1923(大正12)年:鈴木合名会社、組織変更、貿易部門を分離、株式会社鈴木商店(社長鈴木 よね)とし、鈴木合名会社は持株会社として存続(代表社員 鈴木よね)
 ・1926(昭和 1)年:フランス政府よりレジョン・ド・ヌール勲章を受ける
 ・1938(昭和13)年:死去(5月6日)、享年87歳
 
金子直吉
 ・1866(慶應 2)年:6月13日、高知県吾川郡名野川村に、父甚七、母タミの長男として生まれる
 ・1871(明治 4)年:高知に移り住む
 ・1877(明治10)年:長尾砂糖店の丁稚となる    
 ・1880(明治13)年:質商傍士久万次の店に雇われ、のち番頭となる(質屋を廃業、砂糖商となる)
 ・1886(明治19)年:神戸に出て鈴木商店に雇われる
 ・1894(明治27)年:岩治郎急逝。よね(43歳)、経営存続を決定、よね=大番頭金子直吉体制で再出発
 ・1896(明治29)年:台湾樟脳の旗売り=先物売りで失敗、のち台湾の開発に専心
 ・1900(明治33)年:傍士亀寿の妹・徳子(21歳)と結婚
 ・1901(明治34)年:長男・文蔵生まれる
 ・1902(明治35)年:鈴木商店、合名会社(代表・鈴木よね、資本金50万円)となり、責任社員となる
 ・1905(明治38)年:次男・武蔵生まれる(西田幾多郎の女婿となり、文学博士・東京大学教授)
 ・1911(明治44)年:三男猪一生まれる
 ・1917(大正 6)年:ロンドン駐在高畑誠一宛に「天下三分の宣言書」を発する
 ・1918(大正 7)年:日米船鉄交換契約を実現に導く、米騒動起こり、鈴木商店焼き打ちにあう(8月12日)
 ・1921(大正10)年:この頃より、鈴木の経営・財政状態悪化
 ・1927(昭和 2)年:鈴木倒産(4月2日) 
 ・1935(昭和10)年:鈴木商店旧部下たちが、醵金し、武庫郡御影町掛田(東灘区御影中町)に家を購入、金子に提供、 
 ・1944(昭和19)年:死去(2月27日午前2時20分、享年79歳)、妻・徳子死去(10月、享年66歳)