神戸みなと知育楽座

平成23年度 神戸みなと知育楽座 Part3

テーマ「神戸のみなと・まち・歴史をもっと知ろう!」
 

第1回講演概要

  日  時  平成23年6月18日(土) 午後2時~3時30分

  場  所  神戸海洋博物館 ホール

  講演題目  「神戸の海の安全と安心の確保」

  講演者   大島啓太郎  第五管区海上保安本部長

     参加者   95名

 講 演 概 要  (文責:NPO近畿みなとの達人)


1 はじめに
 海上保安庁はあまり一般に知られていない役所であり、その役割を広く理解して頂きたい。
 海上保安庁の任務は、海の安全と治安の確保であり、①海の警察(刑事、公安、交通)、②海の消防(海難救助、船舶消火、防災対策)、③海の国土地理院(海図の作成、海洋調査)、④海の環境保全(海洋汚染防止)を行っている。勢力は、巡視船艇等432隻、航空機 72機、職員約12,600人である。
 いわば、海上における危機管理を主たる任務とする総合的な行政官庁で、我が国で唯一、最
大の海上実行勢力(船艇、航空機)を有する行政組織である。

2 警察、海上自衛隊等との違い
 海上保安庁と同じような業務を行う組織との違いを見てみたい。
 陸上においては、警察業務(治安・安全維持)は都道府県警察が、消防防災業務(安全維持)は、自治体消防が、測量、環境保全等は国土地理院と環境省が担当している。海上においてはこれらの業務は、海上保安庁が担当している。このほか、国防の業務は陸上・航空・海上自衛隊が担当している。
 海上保安庁の巡視船と自衛隊の護衛艦の装備での大きな違いは、業務の目的から乗員、速力、特に搭載する装備にある。
 主な危機管理官庁予算を比較すれば、防衛予算(人件費も入っているが)は、4兆7,426億、警察予算は3兆6,594億、消防予算は、1兆9,457億に比して海上保安庁予算は1,858億円である。
 海上保安庁の活動範囲である、海そして船には、次のような特性がある。
 ・ 人類が生存できないー恒常的な生活の場ではない。
 ・ 気象、海象に依存するー風浪、波浪、船のコースも変わる。
 ・ 船上での動揺―ピッチング、ローリング、ヨーリング、ヒービング、船酔い。
 ・ 船内生活の制限―ネット接続困難、水の節約、食事が楽しみ。
 ・ 寄港、補給の必要―大型船は1週間から2週間の航海、水、食料、燃料の補給。

3 海上保安庁の組織
 海上保安庁は、東京に長官、次長、警備救難監のもとに5部、管区本部としては11の本部とその下に海上保安部、海上保安所暑、航空基地、海上交通センターなどがあり、そのほか海上保安大学校、海上保安学校がある。
 管区本部は1から11まであり、日本を囲む海を分担している。神戸に本拠を置く第五管区海上保安本部の担当水域は、大阪湾、播磨灘と三重県から高知県の沖合いの海域である。
 日本の領土は、北は択捉島、東は南鳥島、南は沖ノ鳥島、西は与那国島で約38万平方キロであるが、領海(領海基線=最低低潮線を原則=から12海里)は、約43万平方キロ、排他的経済水域(領海基線から200海里で公海の一部:EEZ)は、約405万平方キロで世界6位の広大な面積である。
 2008年7月1日に「領海等における外国船舶の航行に関する法律」が施行されたが、この法律は、我が国の領海及び内水における外国船舶の航行の秩序を維持するとともにその不審な行動を抑止し、領海等の安全を確保することを目的としている。外国船舶は、日本の領海等において、停留、びょう泊、係留、はいかい等の行為や日本の港への出入りを目的としない内水(瀬戸内海等)の航行が禁止されている。これらの船舶の取り締まりも大切な業務である。

4 巡視船艇と航空機
 巡視船艇の概要は、つぎのようである。
 1 巡視船
  ・ 大型巡視船(PL、PLH):1,000~5,000トン、約30~70
   名乗組 み、外洋における海難救助、警備に従事、ヘリ
   搭載型・ヘリ 甲板装備型、通常型の3タイプあり、35ミリ
   (40ミリ)機関砲、20ミリ機関砲搭載
  ・ 中型巡視船(PM):350トン、25名、沿岸から外洋にお
   ける海 難救助、取締、警備に従事、20ミリ機関砲搭載
  ・ 小型巡視船(PS):180トン、16名、沿岸における海難
   救助、 取締、警備に従事、20ミリ機関砲搭載
  ・ 消防船(FL):110トン、10名、沿岸における消防、海
   難救助、警備に従事
 2 巡視艇
  ・ PC:35メートル、10名乗組み、沿岸、海峡等の海難救助、取締  、警備、交通規制に従事
  ・ CL:20メートル、5名乗組み、沿岸、港内の海難救助、取締、警備、交通規制に従事
 3 特殊警備救難艇:港内業務に従事
 4 測量船:海の測量に従事
 5 灯台見回り船:灯台等の保守管理に従事
 6 その他:航路標識測定船、設標船、」教育業務船
  航空機は、固定翼機として、ジェット機、双発プロペラ機、単発    プロペラ機、回転翼機を有しているが、いずれも武装はしていない。海上保安庁の航空機勢力は、航空運送事業者の比して大手航空会社についで5位、航空機使用事業のどの会社よりも多くの機材を有している。
  回転翼機は、救助などにも使用するため、吊り上げ救助装置 、サーチライト、貨物機外吊り下げ装置、機外拡声装置、赤外線捜索監視装置、U/VHFホーマー、テレビ伝送装置、拡声装置、見張窓を装備している。固定翼機には、航空用高性能監視レーダー(一部機材)、赤外線捜索監視装置、標識投下装置、物件投下口、U/VHFホーマー、衛星系電話装置、見張窓を装備している。

5 海上保安官と「海猿」
 海上保安庁には約12,600人の職員がいるが、24時間365日常に危機管理体制が原則であり、30分以内に参集できる範囲を超える場合は申請などが必要である。陸員は、管区本部、保安部海上交通センター等に勤務する。職員の中には約500名の中国語、韓国語、ロシア語の話せる国際捜査官がいる。船艇職員は一人で何役も兼ねて、船務と海難救助・取締・警備などの業務を班編成、部署配置で実施する。
 特殊な職として、「海猿」と名づけられた潜水士、起動救難士、特殊救助隊員があり、海難事故の中でも、危険物積載船の火災や爆発、転覆した船内からの生存者救出などの高度な救助技術を有する海上保安官があり、漫画、映画、TVドラマで紹介されて有名になった。

6 第五管区海上保安本部の特徴
 第五管区海上保安本部の管轄区域は、近畿圏(京都府と兵庫県日本海側を除く)で、担当水域は前述のように大阪湾と和歌山県・高知県の沖合い約1,200キロであり、この区域を選定52隻、航空機5機、職員約1,200名でカバーしている。
 担当水域には、明石海峡・鳴門海峡・友が島水道と潮岬・室戸岬・足摺岬の3つの岬があり、海上交通が非常に輻輳している。AIS(船舶自動識別装置)は、国際公海に従事する300総トン以上の全ての船舶、全ての旅客船、国際公海に従事辞しない500総トン以上の貨物船に搭載を義務付けられているが、AIS搭載船の航跡を見れば輻輳は明らかである。また、多くのフェリー航路と国際航路があり海上交通の安全が求められている。
 大阪湾、播磨灘は、のり、わかめの養殖が盛んであり、また、2月末から4月にかけてのイカナゴ漁では最盛期には1日に約230隻の漁船が操業するなど、付近海域が輻輳する。このため、漁業活動状況等の情報提供など安全対策を行っている。
 大阪湾及びその周辺海域はマリンレジャー活動が盛んであるが、プレジャーボートの海難も多く発生している。平成21年は、発生海難のうち50%近くがプレジャーボートであった。
 このほか、臨海部の危険施設、関西空港のあることや密輸・密航事件の発生などさまざまな問題に対応している。

7 東日本大震災への対応
 東日本大震災に対して、海上保安庁は巡視船艇等40隻、航空機14機(所管する第二管区海上保安本部以外からの派遣巡視船艇21隻、航空機11機)で対応してきた。活動内容は、次のようである。
 ① 捜索・救助等:要救助者の捜索救助、防災活動、漂流船の生存者の確認等
 ② 潜水士による捜索
 ③ 輸送路の確保:原発周辺海域の監視警戒、緊急輸送路の確保、航行安全の確保
 ④ 被災者への物資輸送・現場支援
 第五管区海上保安本部では、地震発生の3月11日から6月18日までに、人員延べ約6,500名、巡視船艇延べ166隻、航空機延べ138機を派遣している。巡視船は、福島県沖合いから岩手県沖合いにいて、行方不明者の捜索、漂流船舶等の生存者確認、漂流遺体の揚収等を行い、航空機は、行方不明者の捜索、孤立者等の吊り上げ救助、緊急物資輸送に携わった。救助状況は、人命救助:122人、船舶救助:1隻、遺体揚収:22人、物資輸送::約2トンである。

8 おわりに
 海上保安庁の業務に市民の皆様のご理解とご支援をお願いしたい。



第2回講演概要

     日  時   平成23年8月27日(土) 午後2時~3時30分

    場  所   神戸海洋博物館 ホール

   講演題目  「コンテナーターミナルの仕組み~暮らしを支える港~」

   講演者   片桐 正彦 神戸港埠頭株式会社相談役

   参加者   110名


 講 演 概 要  (文責;NPO法人近畿みなとの達人)


1 「20世紀の偉大な発明:コンテナ」
 20世紀の発明には、原子力、コンピューター、など数多くあるが、物流に関しては、コンテナは偉大な発明と言える。世界に広範囲に物が運べるようになったのは、世界規格のコンテナがあるためで、ものと言うよりビジネスモデルの開発と言える。
 コンテナ輸送の実現者:コンテナ輸送のシステムを実現したのは、アメリカ人のマルコム・マクリーンである。彼は陸上トラック輸送を行っていたが、港で積み荷の積み替え等無駄が多く直接車或いは積荷を船に積み込めないかと考え、コンテナー輸送システムを生み出した。そして、1950年代に世界で最初のコンテナ輸送専門会社シーランドを創設した。
 コンテナは大量の荷物を一度に運べ、積み卸しが簡単な何でも入る魔法の箱といえる。
 コンテナの大きさ:広さは畳18畳、2部屋分である。大きさは、1963年にISOが規格を統一、基本は、幅8ft、長さは20ftまたは40ft(6m、12m)、高さは当初8ftであったが、容量を大きくするために徐々に大型化し9ft6inまであり、最大重量は、20ftで約20~30t,40ftで約24~30tと規定している。長さも、現在では、45ftや53ftという長大コンテナが出現しているが、我が国では公道を走行できない。
 コンテナの種類:ドライ、オープントップ、フラットラック、タンク、リーファーがあり、長さ40ft以内に収まれば、ほとんど全ての貨物に対応可能である。ドライは、通常の箱型で、タンクは、ワインやジュースを納める。リーファーは、冷凍・冷蔵用で、エアコンと同じように船やトレーラーから電源を取っている。
 貿易量・貿易額の構成:貿易額では、海上コンテナ、海上非コンテナ(バラ貨物)、航空がほぼ三分の一ずつであるが、重量では、非コンテナが90%近くを占め、海上コンテナは12%である。バラ貨物は、鉄鉱石、石炭、穀物(大豆やトウモロコシ)と値段の割に量の多いものが占めている。
 輸入品のコンテナ利用率:主な輸入品では、柑橘類、コーヒー、コピー機、自動車部品などでは利用率が100%近くになっている。ワインも同様ではあるが、11月はボージョレヌーボーの関係から航空の割合が高まっている。
 在来船とコンテナ船、荷役作業の違い:在来船は船にクレーンを有して、自分で荷物を積み卸しするが、コンテナ船にはコンテナを誘導するガイドがあり、自身ではクレーンを持たず、岸壁にあるガントリークレーンで荷役を行う。コンテナでは岸壁背後にコンテナを置く広いヤードが必要である。リーファーでは、電源を持つステーションがある。
 船上で荷役を行う作業員を「ギャング」と呼ばれるが、従来型の船では1ギャングが15名前後であるが、コンテナではクレーン操作員を含め9名程度でガントリークレーン1台当たり1時間に30~40個を扱い、従来型に比べ荷役効率は40倍前後になる。
 コンテナ輸送のメリット、デメリット:メリットとしては、① 輸送中の水漏れなどの事故が少なく、梱包材料を殆ど必要としないので、低コストで、環境に優しい。② 輸送機関同士での積み替えが迅速化・簡便化できるため、時間と費用の両面で従来手法に比べ圧倒的に有利。③ 貨物をコンテナに入れたまま保管でき、屋根付き倉庫等が不要。④ 扉をシールすることで輸送中のセキュリティ(荷物の盗難、不要な開閉)が向上。
 一方デメリットとしては、① コンテナ自身の重量(3t~5t)を運ぶエネルギー消費が無駄。② 空コンテナが無ければ荷物が運べない。逆に運んだ後は空コンテナの回送が必要。
が挙げられる。安全面では、全てのコンテナには固有のコードがあり、これによりコンテナが何処にあるかが判定できる。空コンテナの取扱いは、輸出入のバランスを取れるよう、船会社が工夫するところである。
 コンテナ輸送と航空輸送の比較:大きな違いは一度に運べる貨物量と運賃である。量の点ではコンテナは、航空機の1,400倍であるが、運賃は日本から北米で、コンテナ約40円/Kgで航空の約400円/Kgで十分の一ではあり、航空機も宅配便より安い運賃である。勿論、時間的には航空機が日本北米間でコンテナの24倍と大きな違いがある。
 コンテナターミナルの荷役機械:ガントリークレーンが、コンテナの積み卸しをするが、通常のもので重量850トン、アーム部の高さ40mである。ちなみにお値段は10億円程度である。しかし、8千~1万個の船では届かない部分があり更に大きなクレーンが整備されている。
 コンテナは独自で動けないためヤード内でも荷役機械を必要とする。トランステナーは8列のコンテナを処理する。小さな港で使われるストラドルキャリアは、1列のコンテナを処理する。このほかトレーラーのコンテナシャーシも荷役機械である。
 トランステナーは、最近はゴムタイヤのRTGが主流となっている。RTGは、車輪を90度回転させることで、横方向への動きもできる。
 コンテナターミナルの仕組み:コンテナ郵送はビジネスモデルと言ったが、その中心はコンピュータによるシステム構成にある。ヤード内で情報が流れ、コンテナの中身、何処へ行くか、税関通関システムとの連携が進められる。ゲートでは事前情報と入ってきた情報を突き合わせ、それに応じてコンテナを何処に置くか等の指示を行う。昔はこれを手作業で行っていたが、コンピューターの導入で業務が大きく改善され、それとともに取扱量が増大した。
 コンテナ置き場の仕組み:コンテナは、幅は、船のガイドに沿って積み込むため8ftと統一されているが、高さは異なる。従って置き場では高さの異なるものが一緒に置かれている。トレーラー上部には、振動などでずれないようにロックレバーがありコンテナを固定する。コンテナには上下8箇所にロックピンを固定する穴があり上部の穴はクレーンに対応して機能する。
 リーファーコンテナの置き場にはコンテナ用電源が用意されている。勿論相手国のヤードにも用意されており、海外の電圧に合わせて200もしくは400Vを使用している。
 ターミナルでの作業:コンテナフレートステーション(CFS)は、ヤード内にあり荷物の仕分けなどを行う。輸出の場合、コンテナは、トレーラーに曳かれてゲートをくぐりクレーンで船内に運ばれるが、ハッチより下はガイドに導かれ、ハッチより上にはガイドがないのでワイヤー、鉄棒で固定されるが、この作業には人力が必要である。ハッチより上の高さは10階建ての建物に相当するが、我が国のクレーン操作は優秀で最大時間当たり45個を処理する。
 輸入の場合は、下ろした荷物を消費地である行き先を指示して、陸上を運ばれる。
 コンテナの世界での動き:コンテナ貨物の取扱量は2008年までのここ10年間で全世界では、ほぼ3倍となっているが、伸びの大きいのはアジアで3.6倍、日本はようやく1.8倍である。
2008年における国別での取扱量は、1位の中国が1.3億TEU、アメリカがその三分の一、ついでシンガポール、日本となってはいるが、日本、韓国、ドイツ、マレーシアは、1,800~1,500TEUとその違いは少ない。北米航路(輸出)における各国のシェアを見れば中国の伸びが著しく三分の二を占めている。日本は5%に満たない。中国は世界の生産地として一人勝ちの感がある。
 主要コンテナ船運航会社・コンテナターミナルオペレータ:コンテナ船の隻数から見ると、1位は、デンマークのマースク・ライン2位はスイスのメディタリアン・シッピングなど3位まではヨーロッパの会社で、アメリカの会社は現在では1社も残っていない。日本郵船は10位で残りは独社を除いて台湾、中国などアジアの会社である。日本の2社も15~16位と我が国は小粒ながら活躍しているといえる。
 コンテナターナルは寡占化が進んでいるが、取扱量の多いところは、船会社の子会社やターミナル専用会社として、世界中にコンテナターミナルを保有している。
 主要港のコンテナ取扱量:1980年には神戸港は4位であったが、日本の各港は後退し経済成長が著しい中国にはボリューム的に太刀打ちできなくなり2011年上期の速報では、中国の独占状態となっている。僅か7位にLA/LB(ロサンジェルス・ロングビーチ)と近接する2港からなる港が入っている。
 日本における地域別で実績を見れば1980年は神戸港が四分の一あったのが、2008年は12%と大きく落ち込んでいる。この分地域的には伊勢湾、西日本が増え、西日本の増加は釜山向きの貨物である。西日本の港湾の釜山フィーダー化が進んでいる。

2 「コンテナターミナルの変遷」
 外貌埠頭公団から戦略コンテナ港湾へ:我が国に最初のコンテナ船が入ったのは1966年の神戸港である。コンテナリゼーションの進展に港湾施設が不足していること、整備には多額の費用がかかることから民間の資金も導入して阪神・京浜外貌埠頭公団が設立された。公団が一体的に整備をして船社又は港運会社に貸付専用で使用する形態であった。中国、韓国などアジア諸港の急速な発展、地方の港湾整備による国際化の進展でこの方式が立ちゆかなくなり、岸壁は国が整備し、背後を港湾管理者や公社が整備する方式に転換した。更に、国際競争力のあるコンテナターミナルを目指して、2002年に「スーパー中枢港湾政策」そして2009年からは「国際コンテナ戦略港湾計画」が始まった。
 港湾コスト:我が国は港湾コストが高いと言われているが、港湾コストの国際比較を見れば、我が国は高雄(台湾)、釜山の50%増しである。香港は我が国の2倍以上であるが貨物需要が十分あり、この額でやっていける。
 輸入対応型ターミナル:コンテナ貨物は1994年に輸入量が輸出量を上回り、輸入対応型コンテナターミナルが必要となってきた。輸入貨物は荷揚げ後暫く滞留する上、通関手続きに時間を要するので広いヤードが必要となる。従来奥行き200~300mであったものが、350~500m必要となってきた。船舶も大型化してきており、岸壁の水深も次第に深いものが必要となってきた。
 手続き時間の短縮:輸入貨物の入港から引取りまでの所要時間は現在2~3日かかるが、これを手続きの簡素化・電子化の推進により24時間以内に短縮する方向で進めている。
 ターミナルの対応:輸送コストの低減を目指し、船舶の大型化が進み1万数千個を運ぶものも出てきた。大水深のターミナルが必要になり、従来1バース単位で貸していたものを連続バーストする方向となってきている。神戸港では、ポートアイランドⅡ期地区において大水深かつ連続バースの整備が進んでいる。このようにすれば、岸壁の共同利用や内航フィーダー船の直付けなどの対策も進む。また、ゲートも24時間開き使いやすい港を目指した努力が続けられている。
 株式会社化と経営統合:欧米基幹航路の年間寄港回数も減少傾向にあり、これらを打開するために「戦略港湾」による「選択と集中」が進められており、その中で阪神港と京浜港が国際コンテナ戦略港湾に認定された。この政策に基づき埠頭公社の民営化も現在進められている。神戸港と大阪港の両埠頭会社の経営一体化が予定されている。
 従来神戸港は、基幹航路・輸出、大阪港は輸入が中心であったので、両者一体となればバランスの取れた港となることが期待されている。

3 「コンテナターミナルを巡る最近の動き」
 セキュリティ対策:9.11の米国のテロ事件以降港湾のセキュリティ対策の必要性が言われだした。コンテナーターミナルには本来通関、犯罪防止などから外から入れないようになっていた。これを更に強化して、従来はゲートを通るドライバーは顔写真で判定していたのが、不十分であると言うことから生体認証出来るカードを採用することとなっている。また、制限区域への人の出入りを確実かつ円滑に管理する「出入管理システム」が導入され、国がこのシステムの一環として発行する、全国共通の身分証明書PS(Port Security)を使用することとなっている。
 放射性物質がコンテナに入っているか否かをトレーラーに積載したまま検知出来るチェック施設も設置が始まっている。現在横浜港に試験的に整備されているが、神戸港は未設置であり今後の課題である。
 物流効率化・サービス向上:IT化、情報化、荷役の自動化などが進められており、輸出入、港湾手続き等に係る窓口の完全一元化など効率化、サービス向上に努めている。神戸港ではターミナルの混雑状況が携帯で分かるリアルタイムでの映像を提供している。
 港湾におけるCO2削減の動き:排ガス規制はロスアンゼルス港が最も厳しく① 港内トラックの排ガス量の8割削減、② 荷役機械の電動化、③ 入港時船舶の速度規制、④ 低硫黄重油の利用促進、⑤ 陸上からの電力供給義務化 などが要請されている。
 コンテナに約作業においては、停泊中の船舶がCO2排出量の四分の一を占めている。このことから陸上給電は必要であるが未だ国際基準がない状態である。陸上給電については、大阪港で社会実験を行っている。
 船舶の環境対策としては、省エネルギー型エンジンの使用、荷役作業中の陸上からの電力供給によるエンジン停止、自然エネルギーの活用などを実施しており、港湾では、荷役機械の電動化、背後地への輸送におけるモーダルシフトが進められている。

 おわりに:コンテナに対するトリビア
1 コンテナターミナル内の主要な荷役機械の中から従来から100%電動式なのは?
 (答)ガントリークレーン:レール上を車輪で移動
2 コンテナターミナルの中で一番電気の消費量の多いのは何か?
 (答)リーファーコンテナ:ターミナル電気消費量の60%に及ぶ。
3 コンテナシャーシにはエンジンもハンドルも無いが、車両として登録されている?
 (答)登録されている。:香港などでは2カ国の登録をしているものもある。
4 衣類をハンガーに掛けたままでコンテナで運ぶことは可能?
 (答)可能:コンテナは水平を保って積み下ろし、陸上を運ぶので可能。
5 神戸港がコンテナ取扱量世界ランキング最高位は何位?
 (答)1位:1973-78年で瞬間的に1位になっている。
6 海上コンテナは航空機でも輸送出来る?
 (答)物理的には海上コンテナを航空機に積めるが、コンテナの重量が無駄でありコスト面から使用は困難。航空コンテナはアルミ製など軽量化に留意している。
7 コンテナ船はどこまで大きくなるのか?
 (答)分からない:現在建造中で18,000TEUコンテナ船(2013年就航予定)はあるが、くぐれない橋梁、クレーン能力、ターミナル処理能力など問題も多い。2万、2.5万まで行くか??



第3回講演概要

  日  時   平成23年10月8日(土) 午後2時~3時30分

    場  所   神戸海洋博物館 ホール

   講演題目  「船の安全と海の環境を守る
                             ~知って納得 船の安全豆知識~


   講演者   仲田 光男 神戸運輸監理部 海上安全環境部長

   参加者   100名


 講 演 概 要  (文責;NPO法人近畿みなとの達人)


1 トン数測度
 トン数とは:総トン数300トンの漁船、総トン数10万トンのタンカーというように呼ばれるが、この場合トン数とは、船の容積を表す。15世紀初め、イギリスでは船に積める酒樽の数で船の税金を決めていた。酒樽を船がいくつ積めるかを検数員が樽を叩きながら測った。この音「タンタン」が訛って「トン」になったと言われている。
 トン数測度の歴史:その後、17世紀初め、イギリスで100立方ft(約2.8㎥)=1トンとする規則が出現した。同じ頃、日本でも「石」を使っているが、容量では180lだが、船の場合10立方尺(280l)である。また、船は国際航海をすることから、国際基準が必要となり、現在、1982年に発効した国際条約により、国際トン数=K1×V (K1:係数)と定められている。
 船舶測度官の業務:総トン数は、船舶の個性及び同一性の識別、税金や手数料の算定、安全基準・乗組員の基準などに適応される重要な基準であり、トン数の測度は重要な業務である。また、トン数測度が終了した船舶には船舶原簿への登録と船舶国籍証書が交付され、日本国旗掲揚が可能となる。
 トン数測度の実際:船舶の容積は、先ず図面に基づき断面で切って計算により行う。容積を求めるときには、シンプソンの積分第1法則を用いる。(計算方法の説明は略)現場では、メジャーなどで実際に計測を行う。計測に当たっては、メジャー、水糸、水準器、チョーク、下げ振りなどの「七つ道具」を用意する。
 国旗掲揚に関する規定:明治32年制定された「船舶法」に、日本船舶は国旗を掲げるよう定められた。日本国籍証書が無いと国旗は掲げられず、違反するとかなり重い罰則がある。
 船名の「丸」の由来:日本の船名には「丸」の付くものが多いが、その由来は、①「麿」がなまったもの、②本丸など城の構造物の「丸」からとった、③問屋のことを「問丸」といったこと、などの説があるがいずれも決定的ではない。明治期に制定された船舶法取扱手続きに「船舶ノ名称ニハ成ルベク其ノ末尾ニ丸ヲ附セシムベシ」という規定あり、明治以降、商船の船名に丸がつく大きな理由である。

2 船舶検査
 船は何故転覆しないか:自動車運搬船などは喫水が高く安定が悪いように見えるが、船は傾いた時に、浮心が動いて傾きを戻そうとする復元力が生じるように、重心の位置と船底の形状を十分に考えて造られている。浮心は排除した水と関係がある。
 船の安全性:(1)船が転覆しないように復元性を確保するほか、貨物を積みすぎで事故が起きないように、満水喫水線の表示を行っている。喫水は淡水の場合と海水の場合とで異なるため両者を表示している。(2)他船と衝突しないように航海計器を設備しており、火災の対応のために防火構造、消防設備を備えている。(3)遭難した時のため救命艇、救助船のレーダーに位置を表示するレーダートランスポンダなどを備えている。
 環境保全:(1)船舶から油を排出しないように、ビルジ等排出設備、水バラスト等排出防止設備などを備えている。(2)大気汚染防止のためには、NOxについては、将来的に80%が削減される予定。SOxについては、良質の燃料を使用することにより漸次硫黄分濃度を少なくしている。
 保安対策:9.11以降保安対策が強化され、①船舶への出入管理、②船舶警報通報装置の設置、③貨物の取扱管理、④船舶内外の監視などが義務づけられている。
 船舶検査官の業務:日本籍船の構造や設備について、船の用途・航行海域に応じて、安全基準、環境基準、保安体制に適合しているかを検査するのが船舶検査官である。合格した船舶には証書を交付する。
  新たに国際的な導入が予定されている規則:(1)CO2対策は、陸上では京都議定書によるが、船舶の場合は今年5月国際会議で排出規制が決まり、新造船には現在の排出量から、船の建造年次に応じて、順次規制を強化する方向で進められている。2025年以降は30%以上の効率改善が要求されている。(2)プランクトンなどが水とともに移動し、自然環境に影響を与える。水生生物の越境移動を防止するため、バラスト水管理条約が結ばれ、バラスト水をフィルターに通したり殺菌したりする水処理装置を設備することになっている。バラスト水を必要としないノンバラスト船も検討されている。
  船舶検査の時期:船底検査を含む詳細な定期検査は5年であるが、その間船底検査を含む簡易な第一種中間検査、船舶の現状を確認する最も簡易な第二種中間検査など国際航海かそれ以外か、旅客船か非旅客船かにより1年またはそれ以上の中間検査が実施される。第一回定期検査では、対象となる船において、各部分を綿密に検査する。例えば、溶接部分では洗剤を塗り泡が出ないことを確認したりする。
 自衛艦と船舶検査:自衛艦は、船舶検査は自衛隊法により「海上自衛隊の使用する船舶については適用しない」と規定されているので、受検する必要はない。ただし、陸上自衛隊であれば検査は必要となるが、その具体的な事例は承知していない。
 モールス信号の使用:船が遭難した時にモールス信号が使用されていたが、1993年以降、衛星通信技術やデジタル通信技術を利用した新しい遭難・安全通信システム(GMDSS)に移行している。遭難した場合には、イーパブのスイッチをONにして、レーダートランスポンダ、双方向無線電話を救命筏に持ち込み救助を待つ。

3 運航労務監理
 船の乗員数:長さ300mを超える外国航路の船の乗員は23人程度で、内訳は、船長、航海士(3)、甲板部員(3)、機関長、機関士(3)、機関部員(3)、事務部員(3)であるが、船では4時間交替で運航している。以前は自動化により船員を減らしていたが、最近は、自動化ではなく、乗組員を多く乗せる方向にある。499トンの内航船では、船長、機関長、航海士(2)と3,4人で運航している。
 運航労務管理官の業務:船員の労働環境整備や適切な船舶の運航管理から航行の安全確保するために、①船員労務関係、②海技資格関係、③運航管理関係に対する監査が行われている。JR事故の教訓から、事業者自らが安全を高める、運輸安全マネジメント制度が始まった。運航労務監理官は、上記3つの保安監査を行うほか、運輸事業者が安全管理体制をとっているかを確認する運輸安全マネジメント評価を行う。保安監査は、実際に乗船して、書類関係を審査し、救命設備などの整備状況及び正常に機能するかなどをチェックする。安全マネジメントではインタビューにより会社の安全対策などを聞いている。

4 ポートステートコントロール
 世界は海でつながっている:船は世界中を航海していることから、国際的な船の基準が必要である。国際基準を決めるのは国際海事機関(IMO)であり、安全関係の「海上人命安全条約」、環境関係の「海洋汚染防止条約」、船員関係の「船員の訓練及び資格証明並びに当直の基準に関する国際条約」等の条約がある。条約を守ることは締結国の義務であり、船舶の後部に掲げられる旗が船籍国を示しており、当該旗国政府が船舶に対する条約の適用確認をして、証書を交付する。
  サブスタンダード船の排除:実際には条約の基準を満足しないまま航行する船がある。1978年には、リベリア籍船「アモコカディス号」がフランス沖で座礁、大きな油汚染事故を起こしている。条約を守らない船を「サブスタンダード船」と呼ぶが、これらの船を排除するため、寄港国が船に立入り、基準を満足しているかを確認し、満足しない場合には補修(是正)を命じることとなった。この制度をポートステートコントロール(PSC)と言い1982年に欧・北太平洋地域、1993年アジア・太平洋地域で始まった。PSCの対応のため、1997年、外国船舶監督官の制度が創設された。
 外国船舶監督官の業務:PSCを実施する外国船舶監督官の業務は、外国船の入港情報→検査対象船の決定→訪船しての検査→レポート・命令書交付→(船側の欠陥是正)→再訪船・是正確認→レポート交付→(出港)のようになる。

5 神戸運輸監理部の執行体制
  神戸運輸監理部では、(1)日本籍船に対して、①船舶測度官が、トン数制度の実施と船舶登録、②船舶検査官が、安全・環境保全・保安に係る船舶検査、③運航労務管理官が、船員労務、運航管理等に係る監査 を、(2)外国船籍船に対しては、外国船舶監督官が、PSCを実施している。このうち警察権を持つのは、船員法に規定された船員労務官(運航労務監理官)である。

6 日本海運・造船の現状 その他
 我が国外航商船隊:我が国外航商船隊のうち日本籍船は、1970年には1,500隻であったが、1990年には500隻を切り現在は100隻に過ぎない。総隻数は殆ど変わっていないので、日本籍船が大幅に減少、残りは外国用船で、日本の船会社が運航している船は、外国船籍ばかりと言える。外航船の日本人船員数も同様に、1974年の57千人から1990年は1万人、2009年には2,400人と20分の1に減っている。これには人件費や円高などの要素があるものの、危機的状況とも言える。



 世界の新造船建造量:新造船建造量は、我が国はオイルショック時2,000万トン近くあったものが、急激に減少その後持ち直して現在は当時まで戻っている。韓国は1980年まで殆ど建造していなかったが、急激に増加し既に我が国は追い越されている。中国は2000年から急激な伸びを示し現在では建造量で世界のトップに立っている。造船業の従業員数は、1974年の27.4万人が2005年は、7.1万人と4分の1となった。建造量が1974年当時と変わらないので、生産性が大きく向上したと言えるが、我が国の海運・造船は厳しい状況に置かれている。

  海賊対策:インド洋から紅海にはいるソマリア沖  
に船舶を狙う多くの海賊が出没している。2010年の世界の海賊発生件数は445件でその内ソマリア沖は219件である。海賊は高速ボートを使い、大型武器も持っている。我が国は海上自衛鑑2隻が通行船舶の前後を航行、哨戒へりで警戒を実施している。国土交通省は、船会社から航行船舶の情報を聞いて防衛省に連絡している。ソマリアは、無政府状態の国なので、根本的な解決には、国の秩序に回復に待たねばならないのが現状である。




 神戸みなとの知育楽座part3スペシャル「大阪湾ナイトクルーズ」概要

     日  時  平成23年10月25日(火) 午後4時45分~7時00分

   参加者   100名


 明石海峡大橋に沈む夕陽と大阪湾沿岸の港湾・空港施設、エネルギー関連施設、生産関連施設、コンビナートの夜景を楽しもうと「大阪湾ナイトクルーズ」を実施しました、
 大阪湾沿岸には、大規模な港湾・空港施設のほか、エネルギー関連、製造関連、石油コンビナートなど様々な施設が立地しています。今回は、明石海峡大橋に沈む夕陽を眺めたあと、沿岸の夜景を楽しもうというものです。
 平成23年10月25日(火)午後4時30分に神戸空港の海上アクセスターミナルに参加者100名(内大阪大学工業会団体参加44名)が集合、神戸空港―関西空港を往復するベイシャトルと同型の船に乗船、明石海峡―関西空港―阪南・堺泉北(沿岸)―大阪(沿岸)-尼崎・西宮・芦屋(沿岸)を経て神戸空港に帰るルートで海上から陸地を眺めました。
 天気予報では「雨、前線通過により風に注意」ということで天候に心配しましたが、幸い雨は降らず、明石海峡に沈む夕陽(この日の神戸の日没時間は17時14分)も雲の間に垣間見ることが出来ました。しかし風の影響で波が少し荒く快適な航海とは言えませんでしたが、船酔いはそれ程出ずに幸いでした。2時間少しで大阪湾の北半分を巡るという計画のため、残念ながら岸に近付く航海が出来ず、また、視界も十分でなかったため、施設の灯りが明確に確認出来ませんでした。しかし、大阪府、大阪市、神戸港振興協会のご厚意により、各港の詳細なパンフレットを頂きましたので、これらの情報と船中での説明があり参加者に十分楽しんで頂きました。
 資料を提供頂いた関係者初め関係各位に感謝致します。

 
 
 

第4回講演概要

    日   時   平成23年12月10日(土) 午後2時~3時30分

    場   所   神戸海洋博物館 ホール

    講演題目  「神戸のみなとを活用したイベントの計画」

    講演者   森田 潔 一般社団法人神戸港振興協会 振興部長

    参加者   100名


講 演 概 要 (文責;NPO法人近畿みなとの達人)


1 艀荷役で賑わう神戸港
 神戸港は1868年1月1日(慶応3年12月7日)に開港し、国際貿易を行う場として使われてきた。四方を海で囲まれた島国日本は、国土も狭く天然資源にも恵まれていなので、外国から燃料や原材料を輸入して、高度な技術で製品化をして付加価値の高い商品を輸出する加工貿易で成長を続けてきた。神戸港は、外国貿易船が必ず寄港する港として認知され、港内は船で満杯で、常に空きバースが無く、港内に設置されたブイやドルフィンに係留したり、沖合に錨を下ろして艀荷役をしなければならない状況が長く続いていた。櫛形の突堤に設けられた公共上屋は輸出入貨物で溢れかえっていた。
公共岸壁と公共上屋の関係は、船の横にある上屋を使用すれば効率的であるが、貨物が異なり停泊時間も異なるため、バースの割り当ては困難であった。その結果、自らの貨物の保管先である倉庫から離れた場所に船が着くケースが多くなったり、岸壁に空きがないため沖合の錨泊やブイ係留になるため、一度艀に積み替えて保管場所に一番近い物揚場まで海上輸送し陸揚げをするシステムとなった。経費的にも艀の使用が安いことは勿論である。
市街地に隣接した港湾施設は、常に港湾労働者と揚げ積みの貨物で賑わい活気に満ちていた。また、人力に頼る荷役は時間がかかり、船の停泊時間も1~2週間と長かった。従って乗組員が上陸する機会も多く、土産物屋、酒場が繁昌した。また、神戸にはキリスト教会も多く参拝する乗組員も多くいた。

2 コンテナ船時代の到来
 1967年9月17日三菱重工神戸造船所で改造を終えたアメリカ・マトソン社のコンテナ船「ハワイアン・プランター」(1万4千トン/464本積み)が、摩耶埠頭第3突堤Nバースに着岸、翌18日にアメリカに向かって出港した。これをきっかけにコンテナ化は瞬く間に進展し、在来貨物船は減少してきた。コンテナ化の流れは世界の物流形態にも急速な変化をもたらし、在来船を駆逐したため、海面を埋め尽くし
ていた艀の需要は激減した。
 在来の人力による作業は効率が悪く船も長期停泊していたが、ガントリークレーンでは、50tを超える貨物を僅か45秒で揚げ積み出来るため、着岸後半日程度で出港してしまうようになり、乗組員は全く上陸出来なくなった。メリケン波止場から発着していた沖がかり船へ乗務員を送迎する通船の利用者は激減し、かつての賑わいを見せていた船客待合所の利用も減り、元町・三宮へ出掛ける外国人船員も今では殆ど見られなくなった。

3 定期客船の興隆
 人流の面から見ると、1967年の1年間の船舶乗降人員は、外国航路の乗船者数は、56,485人(内日本人42,299人)、上陸者59,343人(内日本人40,907人)であった。また、中突堤は内国航路の発着地として賑わい、この年約248万人が神戸港で乗下船している。コンテナ化の進展により余った艀は順次買い上げによる焼却処分され、ピーク時(1969年)2,130隻(45万5千総トン)から現在は101隻(5万総トン)に減っている。現在、艀はコンテナに積めない貨物、例えば車両などには必要である。
1978年頃まで、中国や豪州との定期客船、北米西岸との定期貨客船があり、内航では次のような航路に多くの客船やフェリーボートが就航して、港は乗降客で大変な賑わいを見せていた。
(関西汽船)小豆島・高松・別府・沖縄、(共同汽船)津名・洲本、(阪急汽船)鳴門・徳島、(加藤汽船)小豆島・高松、(大島運輸)奄美・徳之島・沖縄。以下フェリー航路(阪九フェリー)小倉、(四国中央フェリー)川之江・新居浜、(ダイヤモンドフェリー)松山・大分、(関西汽船・共同汽船・共正汽船)徳島、(三宝海運・愛媛阪神フェリー)今治、(関西汽船・加藤汽船)高松、(日本海運・四国フェリー)高松、(室戸汽船)甲の浦・土佐清水、(日本カーフェリー、関西汽船)日向(宮崎)、(淡路フェリー)大磯
 このように、港は賑わいの活況を呈していたため、突堤や岸壁でのイベントという発想は生まれなかった。

4 新たな土地の創生と活用
 1985年頃になるとコンテナ化は更に進展して、新港突堤や兵庫突堤、摩耶埠頭においても空きバースが目立つようになり、逆にポートアイランドのコンテナバースには、常時コンテナ船が何隻も並ぶようになった。艀の減少もあり、中突堤の東側と西側の国産波止場前の埋立による公園緑地の造成が決定され、1987年4月29日に15.6㌶のメリケンパークが神戸港海港120年の記念行事として誕生し、ウォーターフロントでのイベント事業の展開が盛んになることとなった。
 コンテナ化という物流革新が港に空間をもたらしたこととなるが、コンテナバースを整備するために1966年に造成を開始したポートアイランドに1976年神戸港の港の見える公園として初めてポートアランド北公園が造成され、1978年この公園に「みなとの異人館」が移設オープンした。

5 それまでのイベント
 以前には港に関わる行事と言えば、神戸市民の年に一度の楽しみの「みなと祭」程度で、昭和の初期から行われていたが、開催目的は、「愛港観念の徹底を計り、以て我が神戸市の繁栄を企画する。」にあった。ミス神戸や花のプリンセスが、民族衣装を着て花電車や花自動車で市内をパレード、懐古行列、漁船による海上提灯行列が行われた。しかし、港に広い場所がなかったため実施場所は殆どが街中であった。
 神戸港では殆ど市民向けのイベントは実施されてなかったが、実際には主なものとして次のような物があった。
・ 「海の記念日」の協賛事業として、「神戸港撮影会及び海の写真 コンクール」が、神戸市と神戸港振興協会
   の共催でミスさくら、水着の女王、ミス関西テレビをモデルにメリ ケン波止場、第4突堤で撮影会を実施、大丸など市内デパートで入賞作品展示会を開催。
・ 1960年大丸で「ミナト・コウベ展」を開催、港のジオラマ、船舶模型、海外港の写真パネルを展示、6万人の
   見学者があった。
・ 同年「日本丸」、「海王丸」の建造30周年記念帆走の見学、但し対象は関係者であった。
・ 1961年「海の記念日」に港湾労働者とその家族対象に「慰安演芸大会」を開催、海上保安部・水上警察・神
   戸市港湾局対抗」カッターレース、写真コンクール、海の女王選定、海上パレードを実施。
・ この後、海の女王、海上パレードなどは行われている。
・ 1965年「神戸ポートタワー納涼の集い」を開催、同年「港繁栄祈願祭」をメリケン波止場先端で開催。
・ 1967年神戸開港百年祭を開催、姉妹港提携式、港繁栄安全祈願祭、摩耶大橋電飾、国際行列、懐古行
   列、市章山永久電飾、国際シンポジウムの実施などを行っている。
・ 1970年「EXPO‘70」開催、4月10日完成の神戸ポートターミナルに約50隻の外国客船が寄港。この年第1回
   「神戸まつり」が開催され、第1回「クイーン神戸」も選出された。」
・ 1973年神戸港の3Kイメージ払拭のため「C.C.G作戦(クリーン、カラー、グリーン)」を展開、港湾の特別清掃、公
   共施設の明るい色への塗り替え、フラワーポットの設置などを実施。

6 港に於ける市民向けイベントの展開
 1977年から神戸港振興協会は、要員を補強し、ポートセールスと市民向けのイベントを展開する体制を作り上げた。手始めに市民と港を結び付ける事業として、1978年須磨ヨットハーバ・南ハーバーの完成に伴い、神戸市民ヨット教室を開催した。続いて「ミナト神戸っ子の会」を組織して毎月1回以上の港の行事を行うこととした。11~18歳をスターボード会員、19~30歳をポートサイド会員と呼んでそれぞれ150名、合計300名を募集し、各種イベントに取り組むこととした。行事としては、内外クルーズ客船の見学会やフェリーボートの体験航海、進水式や港湾施設の見学会、コンテナ船や帆船・練習船の見学会、神戸市港務艇による神戸港見学会を実施し、船の絵をあしらったコースターやステッカーなどを作成した。これらを次第に一般市民を対象とした港の行事として広げて行き、更に新たな行事を用意して現在にいたっている。
 神戸海洋博物館(前身の神戸国際港湾博物館を含め)様々な企画展や特別展を実施している。1979年に始めた「ボトルシップ展」は現在も続いており、「神戸港を結ぶ世界の船会社カレンダー展」、「栄光の練習帆船展」、「神戸港と豪華客船展」などもさんちか、大丸百貨店、そごう百貨店などを含めて開催してきた。港湾業界向けには1985年から「神戸港フォークリフト荷役技能向上大会」を続けている。
 1982年に始まった初代練習帆船「日本丸」の誘致では、振興協会は誘致推進会の事務局となり、100万人の署名を集めるとともに、各種の展示を行ったが、誘致運動は接戦の結果残念ながら横浜港に決定した。

7 最近のイベント
 (1980年頃からの各種行事について写真により説明があったが、主な項目を記す。)
・ 「ミナト神戸っ子の会」の凧揚げ。神戸まつりでの「碇神
   輿」。カッター教室。商船大学進徳丸での合宿訓練。
・ メリケンフェスタ:ステージ、ヘリによる遊覧飛行。
・ 神戸まつり:ヨットレース、港繁栄安全祈願祭、港のパレ
   ード、おまつりパレード
・ 日本丸誘致
・ 神戸港ボート天国:各クラスヨット、ウインドサーフィン、
   カヌー、
・ 進水式見学会、三菱しんせんサマースクール、
・ 咸臨丸:入港歓迎、体験航海、船内見学会、
・ クルーズ客船:歓迎、交流サッカー、見学会
・ 震災復興イベント:市民クルーズ
    など、など

8 むすび
 来年のNHKの大河ドラマは「平清盛」で神戸が注目されており、神戸としても色々なイベントも既に始めている。これを機に神戸への興味が高まれば幸いである。また、神戸開港150年も2017年ではあるが、予め予算を準備して大きなイベントとなることを期待している。



第5回講演概要

    日   時   平成24年2月4日(土) 午後2時~3時30分

    場   所   神戸海洋博物館 ホール

    講演題目  「まちを津波、高潮から守る」

    講演者   水谷雅裕 国土交通省 近畿地方整備局
                   神戸港湾空港技術調査事務所長

    参加者   95名



講 演 概 要 (文責;NPO法人近畿みなとの達人)

1 はじめに
  「地震」と「震災」の言葉の違いであるが、『「兵庫県南部地震」によって「阪神淡路大震災」が発生した、「東北地方太平洋沖地震」によって「東日本大震災」が発生した。』のように用いる。地震の名称は気象庁が、災害の名称は内閣が付けることになっている
 東日本大震災の以前で大きな被害を起こしたものとしては、2004年の『スマトラ島地震津波(M9.0)で、高さ10mに達する津波が数回インド洋沿岸に押し寄せた。この時は、東北から関東、また、近畿でも津波が観測された。

2 東日本大震災における被害状況―津波防災施設の役割
 東日本大震災では、津波高さが防波堤や防潮堤等の設計が威力を大きく上回り、背後地の施設に甚大な被害を与えた。被災形態を見ると海から押し寄せた「押し波」のほかに陸から帰る「引き波」が被災要員と考えられるものがあった。
 釜石港では漸く完成したばかりの湾口防波堤が被災した。被災メカニズムは、① 防波堤が津波を堰き止め、ケーソン前後で大きな水位差を生じ、② ケーソンに大きな水平力が働くと共に目地部に強い流れを生じ、③ ケーソンが押されたりマウンドが洗掘されケーソンが滑落したであった。このため、背後の陸地が広範囲に浸水した。防波堤があったことにより、港内の津波の流速が5割低減され、防潮堤を越える時間を6分遅らせ、遡上高さを20.2mから10.0mと5割低減している。建物では6階建てに避難しなければならないものが、3階建ての建物へ避難すれば良かったことになった。
 避難所でのアンケート調査によれば、地震直後に直ぐ避難しなかった人が4割有り、避難しなかった理由としては、① 家族、同僚の安否確認、② 防波堤、防潮堤を越える津波は来ないと思った、③ 地震の片づけ、④ 津波のことは考えず が挙げられている。
 震災直後は、港に自動車はじめ様々な物が引き込まれているので、先ず航路の啓開を行い、その後救援物資の輸送を始めた。東北地方の太平洋側では精油所、油槽所が被災し、タンカーの入港も不可能だったので、日本海側の港湾に海上輸送をした後陸上輸送に頼った。配合飼料も同様に日本海側の港から陸上輸送を行った。
 災害支援については決まりがあり、近畿地方整備局でも現地に人員を派遣、また船舶も派遣して海上漂流物の回収を実施した。

3 津波について
 津波という言葉の語源は、「津」とは、「港」のことであり、「津」の中で発生する波と思われていたことによる。津波は、沖合では水深が深いので波長も長く、波高も低いため陸からは津波とは見えないが、岸に近づくと水深が浅くなり、波長が短く、波高が高くなって、あたかも目の前の「津」で発生したように解されていた。
 津波の発生原因は、① 地震による海底面の隆起・沈降、② 火山噴火、③ 沿岸の山(崖)崩れ、④ 海底の地滑り、⑤ 隕石の落下 などであるが、地震によるものが9割を占めている。
 海底地震による津波は、海洋の重いプレートが軽い陸のプレートに潜り込んでいるが、ある時にバランスが崩れ海底が隆起、沈降してその変動が海面に伝わり、波源域を形成それが廻りに広がって行く。明治三陸地震津波は大きな地震ではなかったが津波は大きく、被害も大きかった。このような地震は、津波地震、「ぬるぬる地震」と呼ばれ、ゆったりと揺れるのが特徴である。ゆっくり揺れる地震を海岸で感じたら、津波に注意する必要がある。
 火山噴火による津波としては、1883年インドネシアのクラカトア火山噴火による津波で、35mの津波高さを生じた。海底地滑りによる津波では、1998年のパプアニューギニア地震津波が大きな被害をもたらしたが、地震に伴った海底地滑りなどが複合して津波を誘発したものと考えられている。1792年の雲仙普賢岳の眉山の崩壊は島原で20mを越える津波を生じた。
 風波と津波の違いであるが、周期が風波は長くても20秒程度で、津波は十数分から1時間程度になることもある。天気予報での波の高さというのは風波を言い、波の峯と谷の差で表すが、津波の波高は元の水面からの高さである。津波は水の粒子の運動が底まであり、動く水の範囲は深く、量も多く、パワーも大きいと言える。
 津波の速さは水深4,000mで約700㎞とジェット旅客機並みであるが、岸に近づくほど遅くなる。従って岸に近づくに連れ後の並みが追いついてくる様相となり、波が高くなり最終的には談波上で陸上を襲う。また、津波は護岸などの壁に当たって反射し増幅されて大きくなる。中央防災会議の予測では反射も考慮し、陸に近くなった時の高さで表示している。また、波(津波も波)は、回折、屈折に寄り変形するので津波の波高も変わってくる。
 気象庁でいう津波や高潮の高さは、験潮所での津波の無いときの海面からの津波の高さである。高潮の場合、台風予測により数時間前には予測可能であり、防護体制派整えられる。津波の場合は,いつ地震が発生するか分からず、地震発生後数分で来週するので防護体制を整えられない。従って、住民の迅速な避難と構造物による津波の威力低減、到達時間の遅延が対策となる。

4 ハードウェア対策
 津波対策は高潮対策としても機能するが、先ず海水を陸地に入れないものとして、堤防、水門、陸閘がある。 離岸堤、砂浜、緩やかな傾斜の防護堤防なども津波に対して効果がある。陸閘は、コンクリートの壁に囲まれていても車が出入り出来るように設置されているが、水門と共に人力による操作は余り期待できず、東日本大震災でも殆ど閉められていなかった。このようなことから、地震、津波、高潮に関する情報を収集し、水門や陸閘を一元的に遠隔操作できる「津波・高潮防災ステーション
」が東京、大阪などで整備されている。
陸地に押し寄せた海水から逃げるためには、津波避難所の確保(整備)、避難路の設置が必要である。小高いところの無い場合には高い建物を避難所とし、普段は集会所として用いている。避難タワーを設置しているところもある。
陸地の手前で津波を低減するものとして、防波堤、堤防などがあるが、湾口で防護する津波防波堤は、① 湾口を狭め津波流入を低減、② 開口部で生じる渦により津波エネルギーを低減、③ 湾の共振周期を変え高さを低減 することにより、津波高および浸水域の低減と避難可能時間の増加を図っている。

5 ソフトウェア対策
 津波対策には、ハードだけでなくフトも重要である。現在言われている高地移転もそのひとつで、北海道南西沖地震で被災したところでは、防潮堤、盛土などの整備と集団移転を行っている。
情報の伝達も極めて重要で、防災行政無線が整備されている。しかし肝心なのは、「自らの意志で逃げることの重要性」ということであり、お互いがお互いに信用して、「私のことは私でするので貴方は貴方で逃げて下さいとして、いかに逃げるかが重要となる。10年前の日本海中部地震津波の例では、取りあえず高台に逃げた人は助かり、浜辺の船を心配して見に行った人は避難が遅れ被災している。
 警報についても限界、問題がある。警報が出たが被害が出ない場合も多く、「オオカミ少年効果」が心配される。それでも先ず逃げることを優先すべきである。津波警報は、地震の波形を計測し、断層運動を推定、海底変動を推定、海面変動を推定、津波の波源モデルを設定、津波を推定しているが、推定が多いので、特にM8以上の地震では津波を過小評価することが多い。東日本大震災を踏まえ、新技術が実用化されるまで、M8以上の地震の津波は予想高さを発表しないこととしている。
 想定を越える高潮・津波が来襲した時は、防潮堤や防波堤等の防護施設のみによって人命の損失を完全に防ぐことは残念ながら出来ないので、事前にチェックして適切な避難を可能ならしめるために、何処まで浸水してどの方向に逃げればよいかを判断するためのハザードマップの整備が急がれる。
 新設だけでなく既設も含めて防護施設の性能設計や性能照査を行えば、幾つかのレベルの津波などに対する浸水深などが分かるようになるので、その結果をハザードマップなどに反映させることが出来るようになる。それと土覆う字に、海岸における防護施設の現状を把握し、必要な補修などを行うことも重要である。
 東日本大震災の教訓として、停電による情報入手の困難もあり、① 初期の低い津波予報で安心した。② 津波棒は施設を過信した。③ 逃げる場所が確保できていなかった。④ 津波情報システムの限界 などが挙げられる。

6 西日本沖太平洋地震津波(仮称)
東海・東南海・南海地震は過去個々にまた同時に発生しており、これらの同時発生時の予測は既に行われている。昨年の東日本大震災・大津波を受け手再検討が実施されており、24年3月には結果が公表される予定である。平成15年の中央防災会議の想定津波では、紀伊半島など太平洋側では大きな津波高さであるが、大阪湾は入口が狭いので余り大きな津波高とはなっていない。
 津波の解析は、発生域と波源が分からねば正確なものではない。3連動による津波も、大阪湾では高潮を受けやすい地形なので、堤防の沈下などがなければ大丈夫であろうとの見解であったが、過信は禁物である。過去の津波の計測記録や計算値から各自治体が防災計画で設定していた津波高からは、大阪湾では防護できるとの見通しであった。
 平成23年12月の中央防災会議の中間とりまとめでは、震源域を東も西も広がると想定している。過去の経験では会わなかったような揺れが少ないが津波が大きい「ゆるゆる地震」、沖合地滑りなどにも気を付けなければならない。
 津波とは関係しないが、上町断層による地震被害も想定されている。
 
7 港湾部局における防災への取り組み
 港湾では災害後の輸送機能確保を目指して耐震岸壁の整備を進めている。コンテナバースなどが被災すると経済活動に重大な影響を与えることは、阪神大震災で経験済みである。
 港湾部局では三大港湾に浮体式防災基地を用意して降り、大阪湾では通常はユニバーサルポートの船着場として利用し、被害が生じた時は防災拠点に曳航する。堺泉北港には基幹的広域防災拠点の整備が進んでおり、船舶はもとより陸上輸送の拠点、ヘリの離着陸場、自衛隊等救援機関の基地ともなる。緊急テントが立ち並ぶようになるので、普段は建物のない公園として使われる。
 全国の港湾部局ではGPS波浪計を整備しているが、津波も観測できることから警報に役立った。通常の通信手段では情報が得られず陸上の検潮所が機能しない時に、衛星通信で情報を得られるので役に立っている。本来は安全管理屋設計の指針波を計測するために設置されたものが、津波観測に用いられた。GPS波浪計は、超音波で波を計測するもので、波の高さ、周期がリアルタイムでナウファス情報網一環として検索できる。
 港湾部局に所属する海面清掃船は、近畿では、近畿では大阪湾・紀伊水道で活躍しているが、東日本大震災でも各地の船が車、コンテナ、流木、ゴミの回収に活動した。一般にゴミは潮目に集まることから、如何に有効に回収するかが問題である。潮の流れを観測するために、垂水、堺、和歌山などに海洋短波レーダーを整備している。この観測結果から油などの広がりを予測している。このレーダーは面的に観測できるので、津波の挙動を把握するのにも利用できる可能性が高まっている。将来の津波警報システムの一環として、海面観測手段のGPS波浪計と海洋短波レーダーを併せて、点から面の観測が期待される。
 被災状況を正確克つ迅速に把握するため災害対策用ヘリコプターも整備されている。また、いざという時、まごつかないように防災訓練を実施することも重要である。近畿地方整備局では毎年訓練を実施しているが、昨年は台風の来襲と重なり取り止めた。防波堤など防護施設が被災した時、サイドの災害に対処しておき必要がある。この設計に当たっては、東日本大災害の被災を参考に設計に当たりねばり強い構造となるように考えている。和歌山港では、可動式の津波防波堤を整備しようとしている。構造的には太目の杭に一回り細い杭を入れ、津波が来襲する時は中野杭が浮上する仕掛けとしたものである。
 2月半ばに津波対策の協議会が開催され、また、3月には中央防災会議の想定が出される予定である。

8 高潮について
 高潮は、周期の長い波であり、過去ジェーン台風、第2室戸台風など近畿地方に大きな被害をもたらした。尼崎は地下水の汲み上げから地盤沈下を生じ、海面よりひくり陸地が多くなった。このため港の入口に二重の扉を持つ閘門が建設されている。2004年の18号台風により神戸では海岸通りが浸水する被害があった。3連動津波ではこれと同じような状況が考えられるが、それ以上浸水することもあり注意しなければならない。この道路冠水の原因は、海の水位が高くなって雨水が海に排出できなくなったためである。現在逆流防止弁を設置した対策を講じている。
 高潮は、気圧低下による海面の吸い上げと風による吹き寄せ効果が重なって生じる。実際には天文潮位に高潮偏差が加わるので、満潮時には小異の絶対量が大きくなる。吸い上げは1ヘクトパスカルの気圧差で2㎝水位が上がる。
 高潮対策は、防潮堤の整備と水門などの設置であるが、水門の操作は人力では限界があるのでセンターからリモートコントロールすることは前述のとおりである。高潮の予測は、最近の港湾空港技術研究所の研究の結果かなり正確になってきている。高潮予報は気象庁の所管なので、この研究結果は港湾の内部で活用している。いずれにせよ、高潮の来襲には十分な時間的余裕があるので対策は立てやすいといえる。」

9 結びにかえて
 港湾空港技術研究所では、津波の挙動を大型の津波発生水路で実験している。人がどれ位の波高で流されるかの実験では、成人男性で50~60㎝、女性で30㎝と判定され、浅いからと言って油断は出来ない。また、同じ波高の通常の波とで津波とを比べれば、津波が陸上奥までに被害を及ぼすことが確認された。従って、通常の波とは異なることを十分認識しておく必要がある。



   神戸みなとの知育楽座PART3+1
   ~ 講 演 概 要

    日   時   平成24年3月17日(土) 午後2時~3時30分

    場   所   神戸海洋博物館 ホール

    講演題目  「神戸税関の業務
                           ~市民生活に深くかかわる神戸税関~」

    講演者   宇賀 実 神戸税関 監視部長

    参加者   60名


講 演 概 要 (文責;NPO法人近畿みなとの達人)
1 税関の基本的使命
  税関には大きく次の3つの重要な使命がある。① 爆発物などのテロ物資や不正薬物、銃器等著しく社会に悪影響を及ぼす物品(社会悪物品)から国民を守ること。 ② 適正かつ公平な関税等の賦課徴収。 ③ 貨物のセキュリティ対策の強化と物流の円滑化の両立。 の3つである。

2 神戸税関の歴史
 神戸運上所:神戸税関は、1868年1月1日に神戸港の開港と同時に「兵庫運上所」の名称で誕生した。以来、明治、大正、昭和、平成と四代にわたり、我が国の繁栄をかけた貿易秩序を守って、今年で144年を迎えた。「運上所」とは、物の出入りを監督する役所で、外交事務や関税を取り仕切るだけではなく、幕府の外務、そのほか港の行政、さらには船の製造や修理の監督まで行う総合的な役所であった。
 神戸開港前夜:1854年ペリーは幕府と日米和親条約を結び、その後下田に赴任した総領事ハリスは、1857年日米修好通商条約と付属貿易章程に調印した。付属貿易章程は、輸出入の通関手続き、船舶の入出港手続きなど貿易関連を取り纏めたもので税関にとっては大事なものであった。兵庫開港は当初1863年1月の約束であったが、京都に近いということから朝廷が反対し、これに対して列強は流通の中心地大阪に近く利権をねらい圧力をかけた。幕府はイギリス公使オールコックのアドバイスから開港期日を10年延期すべく遣欧使節団を派遣し交渉の結果兵庫開港は1868年1月と決まった。開港1年前には、徳川慶喜将軍自ら朝廷に参内開港の勅許を求めて座り込みをして、ようやく開港の勅許を得た。
 神戸港の開港:勅許を得た幕府は、遣欧使節と函館奉行を経験した外国通の柴田日向守剛中(しばたたけなか)兵庫奉行及び外国人居留地御用取扱に任命した。開港当日には、居留地はまだ整地中で、運上所と付属の倉庫3棟は完成、波止場3箇所もほぼ完成、居留地周辺に外国公館が建設中であった。開港式典は、大政奉還の後であったため幕府の幹部、朝廷の代表も出ず、日本側代表は兵庫奉行柴田剛中と語学の達者な森山多吉郎二人のみであった。海上にはイギリス艦隊12隻、アメリカ艦隊6隻と幕府の軍艦3隻が整列し,正午には外国艦隊から祝砲が撃たれ幕府軍艦が応砲した。
 兵庫港は兵庫の津と呼ばれ、波静かに水深く、船舶の出入り、停泊に安全な錨地で奈良時代から良港であった。諸外国は兵庫港の開港を望んだが、実際に開港したのは東に隣接する神戸港であった。これは、当時の日本人の外国人に対する排外思想を考慮し、また、兵庫は人家が多く居留地に適する土地が少なかったためと言われている。外国側も居留地の設置について十分な土地のある神戸が有利と判断したようである。神戸の港も兵庫に劣らず天然の良港でイギリス公使オールコックも「投錨に絶好の港」と評価している。
 開港直後の神戸港:兵庫運上所は、神戸村の東部旧生田川口に建てられたものでモダンな和洋折衷の建築で、窓に張られたガラスから「ビードロ屋敷」などと呼ばれた。1階136坪、2階120坪の広壮な建築物であった。兵庫開港の2日後王政復古の大号令が発せられ、政権の後ろ盾を失うが柴田剛中は、兵庫に留まり、居留地の造成、開港地の整備に努めた。しかし鳥羽伏見の戦い、徳川慶喜の江戸への敗走から、兵庫脱出を決意し、イギリス鑑に乗船して江戸へ向かった。主人のいなくなった運上所は臨時の外国公館となった。
剛中の兵庫脱出の翌日、備前池田藩とフランス水兵の諍いに端を発する「神戸事件」が起こり、外国公使団は居留地保護の名目から居留地周辺を含めて占領、停泊中の各藩の軍艦6隻を拿捕、京都の新政府に抗議文を送った。新政府は、当時外国関係に神経を使っており、兵庫に親政を通告する予定の勅使の任務に神戸事件の処理の任務を加えた。勅使は公家としてただ一人外国人と接した経験のある東久世通禧(ひがしくぜ みちとみ)を派遣し、天皇親政の詔、天皇のご命令を運上所で6カ国の公使に伝え、各国は混乱の収拾を期待し、天皇親政を歓迎した。また、神戸の警備を薩長が責任を持つということで事件は落ち着いた。東久世は、その後兵庫鎮台総督として兵庫・神戸の内外の事務を統率した。天皇が諸外国に出した初の国書の舞台は、神戸、しかも神戸税関の前身運上所であった。
 時代別に見た貿易の変遷(草創期):草創期の神戸港の貿易は、交易の大中心地大阪が近くにあったことと横浜港の後背地関東地方が倒幕軍を迎えて不穏な情勢が続いていたことなどから極めて順調な増加傾向を示している。輸出額は1868年から1870年で3.2倍に、輸入は2.7倍と増加し、この間輸入超過が進んでいる。
 輸出品目は、当初は国内の需要向けに生産した余剰の商品を輸出用に転用していたが、次第に外国市場向けに生産する方式に転じている。品目では開港初年は「茶」、「生糸」、「蚕卵紙(さんらんし)」、「玉糸」、「煎海鼠(いりこ)」などで、翌年には「樟脳」、「板昆布」、「乾しアワビ」、「雑貨」、「銅」が加わっている。ほぼ、農産物と海産物である。「蚕卵紙」は、蚕の蛾に卵を産み付けさせた和紙で、非常に高価であったが、ヨーロッパに蚕の病気が発生していたため、この時期だけ重要輸出品となった。1971年頃から「陶器」、「漆器」、「日傘」、「扇」など家内工業品が顔を出している。
 この時期の特徴は「茶」の急増であるが、全国輸出額の3分の1近くを占め、神戸港全輸出額の4~6割を占めている。「茶」は神戸港第1 位の輸出品で、明治25年頃まで輸出品の首位を占めている。各国の商社は茶の買い付けに走り回り、中でもグルームは、焙じ作業所を設けている。作業所は、買い付けた茶を長い船旅に耐えられるようにするため「火入れ」をして湿気を取る一番茶の時期から8月までの季節操業である。作業所では熱気にむせる倉の中で多くの女性が働くいわば女工哀史のような作業を行っていた。
 草創期の輸入品は完成品が圧倒的に多い、いわゆる開発途上国型の貿易構造となっている。次第に半製品の輸入に移行し、初年度の「繰綿」、「小銃・付属品」、「ブランケット」、「小間物」、「小巾金巾」から翌年は「砂糖」、「豆油」、「大豆」、「木綿糸」などが追加されている。
 時代別に見た貿易の変遷(発展期):貿易の本格化により運上所は窮屈になり、拡張工事を実施し、明治6年完成した。明治はじめの貿易は、居留地貿易・商館貿易といわれるもので、居留地の外国商館と日本の輸出入商が取引を行う形態であった。しかし、民間貿易が発展するに従い民間貿易が本格化し神戸は順調に発展していった。横浜は輸出、神戸は輸入と現在と反対の特徴があった。
 1873年頃から神戸港周辺に紡績、マッチ、造船などの諸工業の立地によって貿易発展の兆しが見え始めた。明治後期には、輸入の増加が著しく、全国シェアも輸出約3割、輸入約5割に達している。1894年の日清戦争で海運界が目覚しく延び、1900年の金融恐慌で貿易の停滞が起きるが、日露戦争で輸入が増加、翌年には再度の金融恐慌などを経ながら発展してきた。
 貿易品目としては、発展途上国型の構造が大きく変化し、明治10年代はマッチなどの雑貨品が輸出振興策から主要輸出品となった。明治20年代には、「花むしろ」、「紙製品」「麦棹真田(ばっかんさなだ)」などが、「茶」、「コメ」に次ぐようになった。明治30年代には輸出税が全廃となり輸出が伸び、「綿織糸」、「綿布」、「ブラシ」、「サンゴ」などが増加した。輸入も完成品から半完成品に移り、明治20年代には「鉄製品」、「繰綿」、「熟皮(なめしがわ)」「油粕」、「亜鉛」、「染料」が加わった。明治30年代は、「繰綿」、「羊毛」、「麻」などの原料品と「機械類」が大きく伸びている。明治40年代は金融恐慌から輸入は減少するが、「綿花」、生ゴム」、「パルプ」、「麻」、「羊毛」など原料品と機械類が再び増加している。
 時代別に見た貿易の変遷(黄金期): 大正及び昭和前期の神戸港の貿易は、不景気で不振となるが、その後、軍需景気と関東大震災で大きく飛躍する。1914年の第一次世界大戦の勃発で、不振に陥った神戸港の貿易は、開戦3年目の1916年から増加に転じる。その後、毎年記録を更新するが、戦争が終結すると、世界的な経済恐慌の影響を受け、コメ、綿花、生糸などが大暴落し、神戸港の貿易も打撃を受けた。この貿易不振は、全国的に昭和の初期まで尾を引くが、この間、神戸港のみ貿易が激増するという変則的な現象が現れている。それは、1923年の関東大震災の影響で、横浜港が壊滅的な被害を受け、独占されていた生糸の貿易が神戸港に移り、そのうえ絹織物の輸出も旺盛となってきたためである。加えて関東方面への復興資材の輸入が神戸港に殺到した。1927年大恐慌が起こり、貿易商社の倒産、銀行の休業も相次いだ。神戸港は恐慌の影響のほか、横浜港の復興に伴って、貿易量は著しく減少した。また1929年、ニューヨークの株価暴落が引き金となった世界恐慌のために、アメリカ向けの輸出も減少し、1930年極度の不振が続く。しかし、この状況は1931年の満州事変による軍需景気で払しょくされてゆき、1932年から増加に転じている。1933年には、輸出が特に増加し、輸入額をオーバーしている。この年、実に46年ぶりに輸出超過を記録した。その後も好調に推移し、1937年は輸出額で11億円、輸入額も11億円、総額22億円と戦前の最高額を記録した。その後、1938年阪神間大水害、第二次世界大戦勃発、太平洋戦争突入に伴ない、貿易額は落ち込んでゆく。戦局が激化し始めた1943年は貿易総額は、12億円、この期間の末には外国貿易はほとんど途絶状態となった。
 この時期の輸出品目では、大正初期は、「綿織糸」、「メリヤス肌着」、「麦稈真田(ばっかんさなだ)」、「花むしろ」、「帽子」などの軽工業品が中心であるが、第一次世界大戦中は、欧州向けに軍需品及び食料品が増加した。また「澱粉」、「ヤシ油」、「亜鉛」、「小麦粉」、「ゴムタイヤ」、「手袋」、「セルロイド」、「除虫菊」、「毛糸」などと品目の種類が増加している。また、この頃から輸出貿易の構造が変化し、明治の後期から常に最高額を占めていた「綿織糸」及び「銅」などの半製品が急速に減少して、「綿織物」、「絹織物」、「メリヤス肌着」などの繊維製品が急増している。また、横浜港の機能低下の期間には、振替港として、「絹織物」、「メリヤス肌着」、「陶磁器」、「貝製のボタン」、「ブラシ」、「玩具」、「花むしろ」、「麻真田(あささなだ)」、「薄荷脳(はっかのう)」などの輸出が増加している。昭和初期は、繊維製品、雑貨品などが軒並み減少し、最も不振の1931年には大口の「生糸」や「綿織物」は最高時の半分近くまで減少した。しかし、満州事変後は、全品目そろって増加に転じた。
1941年の太平洋戦争突入によって、「綿織物」、「生糸」、「雑貨」などは減少するが、「機械類」、「食料品」などは、中国、満州及び南方地域に向かって輸出されたため、逆に増加している。昭和18年から昭和20年の輸出は、ほとんどが、南方開発のための物資であった。大正から昭和にかけた神戸港貿易の黄金時代で注目されるのは「綿織物」の増加と「鉄製品」、「機械類」が主要品目になっていくところである。特に「綿織物」は他の品目を引き離し、以来、神戸港の代表的な輸出品目となった。、「鉄製品」、「機械類」は、満州事変を転機として、軽工業から重化学工業へと舵を切る様子が反映されている。ほとんどがアメリカ向けに輸出をけん引した「生糸」の伸び悩みが世相を映している。
 輸入品を見ると、大正期は、貿易構造が変化して「綿花」を筆頭に「コメ」、「油粕」、「鉄類」、「硫酸アンモニア」、「羊毛」、「毛織物」、「羅紗(らしゃ)」、「染料」、「リン鉱石」、「パルプ」、「生ゴム」などであり、それまでの「金巾」、「更紗」、「なめし皮」、「綿織糸」などは姿を消してゆく。第一次世界大戦によって、欧米諸国からの輸入品は減少し、代わってアジア地域から「生ゴム」、「羊毛」、「麻類」、「砂糖」などが増えている。第一次大戦の終息後は、国内産業も沈滞したため、原料品は減少する。関東大震災後は「コメ」、「衣類」などの生活必需品や土木建築用の材料の輸入が神戸港に殺到している。
大正期の輸入品で注目されるのは、「生ゴム」、「綿花」及び「羊毛」の大幅な増加である。この時期、神戸港周辺にゴム工業が発達したこと、国内繊維産業が伸びたことを表している。昭和に入ると、1927年の金融恐慌に影響で、原料品などの主要品目はそろって減少した。輸入額の4割を占めていた綿花も、大正末期の半分以下から3分の1まで激減した。満州事変以降、日中戦争が始まる頃までは「綿花」、「生ゴム」、「羊毛」を中心に増加するが、第二次世界大戦前には減少をはじめ、中でも「鉄類」、「鉛」などの軍需品は、各国の国防力の増強から目立って減少した。自給に頼らざるを得なくなる状況が分かる。1941年太平洋戦争に入ると、中国大陸、南方占領地仕出し品目のみとなり、1943~45年の戦時体制下では主として「生ゴム」、「麻」、「石油」などの軍需物資と満州からの「大豆」、「豆かす」がほとんどとなった。
時代別に見た貿易の変遷(安定期):1947年8月に制限付きで民間輸出貿易が再開されるまでは、GHQと日本の貿易庁の仲介によって貿易が行われ、民間の輸入は1950年からであった。神戸港の復興は目覚しく、戦後4年間、毎年輸出が4~9倍、輸入も2~5倍のペースで伸びた。戦後は食料など生活必需品を必要としたため、アメリカの援助物資を中心に輸入が激増し、著しい輸入超過となった。
戦後は密輸の形態も変わり規模も大きく、集団的、暴力的となった。朝鮮、台湾、沖縄などの旧外地が一挙に外国になり、物資不足とインフレによる内外物価の差が大きかったことも原因であった。密輸手段は、「船ぐるみ」、「海中投棄」から「買出し」という手段も加わり、1952・3年に始まった時計の密輸入は1959~60年まで続いた。1959年以来貿易の自由化が進み、密輸の形態も変わり金地金の密輸入が始まった。
1954年には欧米諸国の景気回復、輸入制限の緩和により貿易額は増加する。この年から神戸は輸出超過を続ける「輸出港」となってきた。1963年に初めて貿易総額で1兆円を超え、1961年には輸出だけで1兆円を超えた。
輸出品目では、貿易再開当初は、綿織物を中心とした繊維製品が殆どを占め、そのあと、鉄鋼、船舶、繊維機械が続く。主要輸出品であった生糸はナイロンの進出で衰退し始めた。1956年頃から履物、通信・電気機器、合成繊維織物、真珠、合成プラステック、ゴムタイヤ、ミシンなどが顔を出した。1965年以降綿織物が合成繊維に首位を譲り、合成プラステックやミシンの増加が目立つ。
輸入は戦後の食糧難を反映して、小麦、コメ、砂糖などが主要品目の中に多く見られるが、復興とともに綿花、生ゴム、パルプなどの原料品が台頭してきた。
 時代別に見た貿易の変遷(激動期):1985年プラザ合意の後、円高の進行に伴い、生産工場をASEANや中国に移転するなど企業の直接投資が増加する。その後輸出の拡大や内需拡大策によりいわゆる「バブル経済」が膨らみ、バブル崩壊、輸出主導型好景気があり、リーマンショックもあり現在に至っている。海外では1980年後半から90年代にかけてASEANや中国では、毎年10%前後の経済成長が続くが、1997年の通貨危機でアジア経済も深刻な打撃を受けた。国内では、成田空港が1978年、関西空港が1994年開港し、阪神淡路大震災は1995年1月であった。
 1973年から2000年代前半の貿易の推移を見れば、阪神淡路大震災による壊滅的な被害によって輸出入額とも激減したことが見られる。その後10年を経過して漸く震災前の状況に戻っている。この30年余りの間、神戸港は貿易額こそ増加しているが、全国シェアは縮小傾向が続いている。この原因としては、近隣のアジア諸国を含め神戸港以外の港湾設備、港湾技術の上昇、流通のスピードや鮮度を追求する目的で成田や関空の利用が増えたこと、震災により振り替えた港で貿易が定着したことなどが揚げられる。
 平成22年の貿易額では、神戸税関関内の輸出総額は約10兆円(シェア約14.3%、全国4位)、輸入総額約7兆1千億円(シェア11.8%、全国4位)、貿易総額約17兆1円億円(シェア13.7%、全国5位)となっている。神戸港は輸出貿易額が輸入貿易額を大きく上回る輸出港としての色合いが強い。
 神戸税関の輸出入額のうち、コンテナ貨物が占める割合は、輸出85.3%、輸入90.4%とかなり高く、全国に先駆けてコンテナ輸送に必要な設備を整備してきた神戸港を象徴している。全国の2010年の外国貿易船の入港数を見ると、神戸港は輸出、輸入額が過去最高を記録した2006年に最高の8,287隻、その後少しずつ減少して2009年には7,448隻、2010年は少し戻し7,507隻である。

3 神戸税関の管轄区域
神戸税関は、兵庫県と山口県を除く中国4県及び四国4県の計9県を管轄し、海岸線の総延長は約7,100kmと全国税関トップとである。特に瀬戸内沿岸と神戸港を中心に28の開港と、小規模ながら5つの税関空港が設置されている。こうした開港などの行政需要等に応えるため、神戸港内に本関を含め4の官署、支署地区に31の官署を設置している。

4 税関における徴収税額の推移
全国税関の税収総額は、平成22年度で4兆9,702億円で、我が国の国税収入の約11.6%を占めている。税目の内訳としては、消費税及び地方消費税が3兆1,239億円でトップである。

5 税関における不正薬物の摘発状況
 最近10年間の不正薬物の摘発状況を見ると平成22年は全体としての摘発量は減少しているが覚醒剤は、平成20年以降300キロ以上の摘発が続いている。我が国で乱用されている不正薬物のほとんどは海外から持ち込まれるため、水際で阻止することが極めて重要である。税関では懸命に取締に当
たっている。

6 神戸税関における主な密輸入摘発事例
  神戸税関は管轄地域が広いことに加え、太平洋・瀬戸内海・日本海と3つの海域を抱えている。不正薬物(特に覚醒剤)の密輸事犯のリスクも非常に高いと言える。最近は航空旅客による密輸のほか、地方港、地方空港が狙われている。
 平成22年7月に岡山空港で約3キロの覚醒剤の密輸入事犯を摘発している。ドバイからインチョン経由で降り立った航空旅客のスーツケース内に二重底を設け、巧妙に隠匿していた。

7 大型X線検査装置について
  大型X線検査装置は、コンテナで輸出入される貨物やコンテナ自体を利用した密輸事犯に対応するため、平成12年度に横浜港へ初めて導入して以来、これまでに全国16ヶ所(13港)に配備されている。これまでコンテナ貨物の全量取出検査は、コンテナ1本あたり約2時間程度を要していたが、この装置の導入により、大型X線検査装置のみの検査の場合は1本あたり、約10分程度で検査をすることが可能となり、検査時間が大幅に短縮された。神戸港においては、ポートアイランド、六甲アイラントに1台ずつ配備されて、効率的な貨物検査を実施している。