平成22年度 神戸みなと知育楽座 Part2
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第1回講演概要 日時 平成22年7月31日(土) 午後2時~3時30分 場所 神戸海洋博物館 ホール 講演題目 「明治の兵庫/神戸の建築」 講演者 足立 裕司 神戸大学大学院工学研究科教授 参加者 97名 講 演 概 要 (文責:NPO近畿みなとの達人) 1 はじめに 講演の標題を「明治の兵庫/神戸の建築」としたのは、「明治の兵庫」「兵庫・神戸の建築」のいずれも語ることを考えて決めた。 歴史を語る時に、「空間から歴史を見る」ことを心がけている。神戸を理解するためには、神戸成立前の経緯も必要である。それまでは「姫路」が中心であったが、神戸が急速に大きくなってきた。但し歪みも生じていることに留意するべきである。 幕末・明治にかけて兵庫のみなとから新しい神戸のみなとへ移り変わっていったが、これは、兵庫が幕府領、神戸が明治政府による開発と言って良い。兵庫の和田岬の砲台は幕府の作ったものだが、使われていない。兵庫の地区は明治後港としてではなく、工業都市的な発展をしている。神戸では外国人居留地が出来たことが発展の大きな引き金となっている。 一方、鉄道を見ると明治6年神戸停車場が兵庫に出来、殆どの官公庁は兵庫に建てられた。神戸の港が発展するに従い神戸駅の東へ都市が発展していった。兵庫では、工業が興り、例えば鐘紡の綿工場は、神戸の港で陸揚げした綿花を材料に、また、神戸ガス、発電所の立地は、材料である石炭の港での陸揚げなど港との関係が深い。現在は、工場としては三菱、川崎のみとなったが、明治後半まで兵庫地区は工場地帯を形成していた。 神戸駅と居留地を結ぶ道路の必要性が高まり、洋風建築、商店もある「栄町通」と商いの店が並ぶ「元町通り」の整備となった。現在の神戸中心部の大きなレイアウトは、明治時代の終わりに殆どが形成されたと言える。 姫路について言えば、姫路は神戸よりも大きかったが、明治政府に逆らったので、県庁所在地とならなかったと言われている。このようなことから、姫路には西洋建築は建てられていない。 2 神戸の都心を形成する5段階の建築 明治以降の神戸の都心を形成する建築は、次のような5段階に分けて考えられる。即ち、①明治初期の「外国人商館建築」、② 明治32年以降の「商店建築」、③ 明治末~大正期の 「事務所建築」、④ 戦後の「戦後モダニズム建築」、⑤ 震災前から始まる「超高層建築」である。また、明治時代には人工膨張に対応する都市インフラの整備も行われている。 3 外国人商館建築 神戸に於ける西洋建築は、純粋に洋風の建築ではなく、風土や材料に合わせた独特な建築である。これは、お雇い外国人(純粋の建築家ばかりでない)、それに教えを受けた日本人、洋風建築はこうあるだろうという想像などが入り交じったものとなっているとも言える。従って異人館建築は、前例のない・それ以降の発展もない特殊な建築様式と言える。ある意味では、そこに住む外国人が「仮の住まい」と考えていたのであろう。 例えば、旧九鬼邸では、関係した日本人大工が「アーチ」が必要と考えて建築に取り入れている。震災後復元された15番館は、オーソドックスな西洋館ではあるが、簡略化した形式としている。 4 商店建築 明治32年以降は、外国人の居留地以外への進出が可能になり、都市活動の活発化に伴い商店建築が盛んとなった。しかし、この当時の建築物は殆ど現存していない。例えば川崎造船の本社は、当初商店程度の建物であったと言われているが、その後に建て変わっている。このように、この時代の建築物は、全て建て変わったものと思われる。 5 都市インフラの整備 明治期には、神戸の人口増加は著しく、これに対応すべく学校、病院、公園などの都市施設が整備されるようになった。また、人口の急増は上下水道,電気、ガスなどのインフラ施設の整備を必要とした。 水道については、供給力不足から赤痢、チフスなどの伝染病の発生という事態に至った。そこで明治30年から整備が着手され、最初に布引ダムが明治33年に造られ、次いで明治38年に烏原貯水池、大正8年には宝塚に千苅貯水池を設けて対応した。 電気は、明治20年神戸電燈が設立されている。ガスについては、大阪よりも早く明治32年に神戸ガス会社が設立され、燃料とともにガス灯も照明として利用された。 6 事務所建築 明治末から大正期にかけては、業務ソーンに事務所建築が隆盛を極めた。従来の木造からコンクリート造りの事務所が数多く建設された。現在その多くは残っていないが、神戸には豊かな建築作品があり、日本人建築家が活躍している。 戦前、神戸の建築文化はピークにあったと言えるが、その多くは戦災により壊滅した。 7 戦後モダニズム建築・超高層建築 戦後、旧外国人居留地には多くの近代建築が建てられてきた。 また、古い建物の建て替えなどが進み、震災の前から街並みが大きく変貌している。神戸旧居留地と栄町通界隈の近代建築を見ると、震災前からも取り壊されたものがかなりあり、震災により取り壊しが進み、現存するものが少なくなっている。現存するものの代表的なものは、神戸駅近くの旧三菱銀行神戸支店、旧居留地の15番館(震災後再建)、神戸市立博物館、大阪商船三井ビル、神港ビル、鯉川筋より西の日本郵船ビル、神戸住友ビルなどである。 旧居留地界隈には、マンションを始め多くの高層ビルの建造が進んでいる。 残念なことに、震災後は神戸では和風建築が激減している。 8 神戸に於ける特徴ある建築 神戸及びその近郊には、他の都市にないものとして戦前からユニークな個人の邸宅があることが挙げられる。昭和9年塩屋にイギリス人貿易商ジェームスが自宅として建築したジェームス邸、昭和11年建設の住吉の乾邸、御影の高島邸、大正13年建設の芦屋の山邑邸などである。 神戸には、神戸に根を下ろした他民族の建物も多いのが特徴である。昭和10年建造の回教寺院、関帝廟、日本基督教団神戸教会などが挙げられる。 新たに創造されたものとしては、建築家安藤忠雄が北野町のローズガーデンなど多くの建築を手がけている。 また、舞子周辺には、舞子倶楽部(旧武藤山治邸)、舞子ホテル、移情閣(六角堂、孫文記念館)など興味を引く建物を見ることが出来る。 |
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第2回講演概要 日時 平成22年9月11日(土) 午後2時~3時30分 場所 神戸海洋博物館 ホール 講演題目 「神戸 スポーツはじめ物語」 講演者 高木 應光 神戸外国人居留地研究会事務局長 参加者 80名 講 演 概 要 (文責:NPO近畿みなとの達人) 1 近代スポーツの誕生 近代スポーツは、幕末の開港とともに我が国に入ってきた。開港が1868年である神戸、それより10年前に開港した横浜は、周辺に欧米文化を発信してきた。開港が10年遅れているとはいえ、神戸がスポーツの始まりであるものも多い。 1815年ワーテルローにおいてナポレオンに勝利したウエリントンは、「勝利はイートンのグラウンドで準備された」と述べ、スポーツが音楽や美術と同様の認知を受けるようになった。 大英帝国の発展とともに近代スポーツは世界に拡がったが、「スポーツマン」=「ジェントルマン」の時代であった。このように神戸に来た英国人を中心に神戸の近代スポーツは幕を開けたと言える。 2 緑の山:六甲山 日本で最初のゴルフ場は、A.H.グルームが1901年六甲山に開場した4ホールのプライベートゴルフ場である。横浜、長崎の外国人、また遠く香港、上海からも訪れる者も多くなった。1903年に9ホールを有する神戸ゴルフ倶楽部となった。しかし、冬季はクローズされるため、年間を通してプレーしたいとの要望から住吉川河口部に横屋ゴルフ場が建設されその後立ち退きにより、鳴尾ゴルフ場となる。なお、鳴尾ゴルフ場も立ち退きで川西市に移ったが、倶楽部名は鳴尾となっている。世界に「日本アルプス」を紹介したW.ウェストンは、5年間神戸に住んでいたが、六甲山には登っていない。「六甲山」を世界に紹介したのは、H.E.ドーントとその仲間達であった。彼らは禿げ山であった六甲山の植林にも尽力した。その結果、外国人はもとより多くの日本人にも六甲登山が広まった。現在もこの伝統は続いており、再度山、一王山、摩耶山、保久良山、布引などの山筋で早朝登山、毎日登山が行われており、2万回、1万回の登山者も存在する。また、藤木九三は、高山での岩上りの練習場として「ロックガーデン」の命名を行った。 また、冬季には閉鎖されるゴルフ場をスキー場として活用、都市近郊のスキー場として多くの人が楽しんだ。 3 緑(あお)い芝生:東遊園地 神戸に於ける陸上競技は、神戸の外人倶楽部K.R.&A.Cが、1871年生田競馬場で始めた。競馬場は現在の生田神社の東側で、生田の森を避けてコースは一部湾曲していた。 マラソンの発祥も神戸といえる。1972年居留地から摩耶山までの往復14㎞弱の急坂のきついコースであった。本格的な長距離マラソンは、1909年毎日新聞社の主催で、神戸湊川神社から大阪の新淀川を渡った所まで約32㎞のコースで、兵庫・大阪にまたがるコースであった。参加者は、競技終了後大阪の御堂筋をパレード.したという。最近、「大阪マラソン」、「神戸マラソン」と言われているが、この時代に戻って「神戸・大阪(または、大阪・神戸)マラソン」を考えてはどうかと思う。 サッカー、ラグビーも明治初年にK.R.&A.Cが中心となって、東遊園地で始めている。サッカーは、1871年に始めて行われたという記録もある。全国フットボール大会が開催されたのは、1918年からであるが、神戸勢は常に優秀な成績を上げた。ラグビーは少し遅れて1876年にK.R.&A.Cと英艦モデスト号との対戦が始まりであった。ラグビーに関しては、J.エブラハムが日本ラグビー精神に大きな影響を与えた。 日本のテニスの発祥は、1876年横浜の山手公園に始まり、1878年には初のテニスクラブ(現YITC)が出来ている。テニスについては、横浜中心の関東よりも、神戸中心の関西の方が盛んであり、大正期は国際化の時代でもあって、例えばウィンブルドンのデビスカップ出場のための費用捻出は、関西10万円、関東2万円と圧倒していた。その後も世界最大の104面のコートを持つ甲子園倶楽部など各地にテニスコートが出来ており、コート数に置いても関西は関東を上回っていた。 4 光る海:茅渟(ちぬ)の海 穏やかな大阪湾を持つ阪神間は海上スポーツには最適の場所でもあった。K.R.&A.Cは、ボート、ヨット、カヌーなどを楽しむために1870年に創設され、ボートハウスは、初め京橋に、次いで小野浜にそして敏馬(みるめ)に建設され、水上スポーツを楽しんだ。E.W.スレードが我が国にクロール泳法を披露した。ところで、我が国初めての学校プールは大阪茨木中学に1913年造られた。当時の生徒であった川端康成。大宅壮一も工事に従事している。KR&ACから茨木中学へクロールが伝わり、高石勝男が生まれ、「水泳日本」へと向かうことになる。 5 赤レンガの会館:YMCA会館 バスケットボールは、米国YMCAで冬季の室内スポーツとして1891年考案された。初期のバスケットボールは、YMCAのネットワークで全米に広まり、更に海を渡って日本にやってきた。神戸YMCAは1886年に全国四番目のYMCAとして発足したが、長らく独自の活動拠点である会館・体育館を持たなかった。そこで京都YMCA会館などの建築に携わったW.M.ヴォーリズに体育館付き会館の設計を依頼した。ヴォーリズは、バスケットボールが出来る空間を確保するため種々の検討を加えて、赤レンガの会館が完成した。 W.M.ヴォーリズは、メンソレータムで有名な近江兄弟社の社長であったが、多くのYMCA会館・体育館の設計に携わり、バスケットボール普及に大いに貢献している。 6 神戸という街:欧米文化{スポーツも文化も}の窓口 → → 関西一円に 神戸は欧米文化の窓口となり、これが関西一円に広がって行った。 K.R.&A.Cは、英国スポーツと文化のメッカであり、YMCAは、米国スポーツと文化のメッカである。スポーツは普及したが、残念ながらスポーツ文化は普及していない。只ひとつラグビーの「ノーサイド」後のレセプションは僅かな名残を留めている。「屋外スポーツは芝生で」ということから、東遊園地は芝生のグランドを備えていたが、関西へ日本へは広まっていない。 K.R.&A.Cは、1870年創設された日本最古の総合型地域クラブである。クラブとは、「メンバーの、メンバーによる、メンバーのためのクラブ」と言われているが、K.R.&A.Cでは、ボランティア活動も盛んに実施している。A.C.シムは、「関西スポーツの父」、「ボランティアの祖」と言われ、功績碑も建立されているが、1891年の濃尾大地震、1896年の三陸大津波に現地に入って活動を行っている。 7 温故知新 ~ 自然と歴史を今に生かす街づくり ~ 「日本一の夜景」のアンケートでは、1位函館に次いで、2位に神戸ガーデンテラス、また6位に摩耶山掬星台となっており六甲山の恩恵を大きく受けている。「旅(ゆ)きたい街」には、神戸が常にトップ付近にあるが、一方神戸の短所として、「緑が少ない」と指摘されている。このことから、市街地に於けるグランドの芝生化なども考えるべき事柄であろう。 都市をブランド面から見れば、京都の「歴史と伝統」、大阪の「経済力」が挙げられるが、神戸の優位性として、「明治以来のスポーツの歴史・伝統」の観点から、今後「スポーツを核とした企画」が「神戸ブランドの再生」となって欲しいと望んでいる。 |
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第3回講演概要 日時 平成22年12月4日(土) 午後2時~3時30分 場所 神戸海洋博物館 ホール 講演題目 「南蛮船と同時代の西洋帆船」 講演者 杉浦 昭典 神戸商船大学名誉教授 参加者 85名 講 演 概 要 (文責:NPO近畿みなとの達人) 1 はじめに 南蛮船は直接神戸とは関係はなく、又南蛮船が神戸や大阪湾に入 ってきたかは不明であるが、多分来たことはなかっただろう。 南蛮船に興味を持ったのは、2006年神戸市立博物館の企画展で南蛮屏風の展示があった。立派な屏風であり、南蛮船について調べると、辞典の記述も曖昧で、絵も当時の西洋帆船を写したものかも疑わしい。そのようなことから、大学を辞めた後、南蛮船を調べている。 2 南蛮船とは何か 「大辞典」(1935年)では、南蛮船とは、「足利時代(16C後半)から徳川時代初期(17C前半)にかけ、所謂南蛮方面より我が国に渡来せる船を漠然と呼びし名称」と記している。南蛮とは、東南アジアを指し、南方から来た外国船、主にポルトガル船であり、江戸時代にも「南蛮船」と呼ばれ、屏風に数多く描かれている。 3 南蛮屏風に描かれた南蛮船 神戸市立博物館の南蛮屏風は、左右2隻に南蛮船が描かれており、左隻は南方の出港風景、右隻は日本での入港を描いている。左隻の船は4本マスト、右隻の船は3本マストであり、船の艫に船尾回廊(展望台)、船首にはビーフヘッドが描かれて、比較的良く書けてはいるが正確とは言い難い。 大阪南蛮文化館の南蛮屏風は、非常に大きな船を描いている。船首と船尾がほぼ対象的になっており、船尾には船尾回廊をイメージしたものがある。しかし余り上手く書けてはいない。御物のものは、南蛮文化館のものより少し船らしくなっているが、マストや帆はいい加減なものである。サントリー美術館の南蛮屏風では、更に船らしく描かれて、(フォアキャッスル、アフターキャッスルがあり、)船尾回廊が繋がって描かれているが、表現は悪い。大阪城天守閣の南蛮屏風は、船首がせり上がり、ビーフヘッドも描かれ、船尾回廊もよく見える。 南蛮船を描いた南蛮屏風は、全国に60数面あるというが、これらのものと同様で、構造的にはキチンと描かれたものでないと言える。 4 16世紀の西洋帆船 西洋帆船の資料がハッキリするのは16Cであり、15Cには若干の資料はあるが不十分である。コロンブスのサンタマリア号の復元船は、神戸港に展示されているが、種々考証の結果作ったものである。サンタマリア号を描いた1425年のマガラ(スペインの港町)の皿が残っており、当時の船を推定できる。その50年後1475年に書かれた絵があるが、皿とはメインマストの上にトップが描かれるなどの相違がある。復元船は、コロンブスの航海500年を記念して、バルセロナで作られたが、前述の資料やその他の資料を用いて復元している。コロンブスが帰国後書いた書簡集に船のスケッチがあるが、良く現しているとは言い難い。しかし、この形は南蛮屏風に描かれた南蛮船とよく似ている。 この形の船は、船舶技術上はキャラックと呼んでいる。キャラックという言葉は、船を現すアラビア語から来ており、この言葉がスペイン語、フランス語、英語、またはポルトガル語でそれぞれ表現されていった。何故アラビア語かというと、その頃の地中海はムーア人に制圧されていて、アラビア語の船という言葉が他国に広まっていった訳である。 英国ヘンリー8世のキャラックは、1514年に建造され、1536年に改造されている。改造時の絵が残っているが、前、後にキャッスルがあり、大砲を備えている。この当時から船に大砲を備えるようになった。サンタマリアの船形を次第に大型化していったのがキャラックであるが、英国では「キャラック」とは呼ばずに「シップ」と呼んでいた。現在帆船を区別する上で「キャラック」という名称が使われるようになった。 16世紀の帆船を総括すると、前半は大型化されたキャラックであり、後半は船型主流が「ガリオン」で、ガリの戦闘力と機動性を帆船の積載力と航続生に融合して出来た名称である。 1600年頃に描かれた「ベーブルッヘ沖泊地」の図にオランダの帆船が描かれているが、船首が低く船尾に階段状に回廊のあるガリオンの船型である。この形の船が日本にやってきたと思われる。1599年のアムステルダム港に、世界一周からかえった4隻の船が描かれている。4隻中1隻はオランダ船であり(他はポルトガル船)、この時期からオランダが東洋に進出し始めている。ウイリアム・アダムスが日本に漂着した時の船はこの型である。 5 ガリオン ガリ(ガリー)の歴史は遠く古代ギリシャ、ローマ時代に遡る。語源はラテン語のヘルメット、古代戦士のかぶった兜であり、古代ギリシャのガリは船首に人間の目を描く習慣があり、せり上がる船首の形と相俟ってそのまま戦士の顔に見えたことから名付けられた。ガリは戦闘船であり、甲板に出ているのは戦士である。 ガレの戦闘力を持った帆船を作ろうということから、ガリオンが誕生した。ガリオンは国によって名称が微妙に異なり、船型も国情による違いはあるが、基本型はほぼ同じである。 描かれた南蛮船に3本マストと4本マストがあるが、4本マストの最後尾のマストは3本目の補助であり、ガリオンの条件を左右するものではない。チャールス1世のガリオン(1637年)は、3本マストでどっしりとした船体であり、これまでのガリオンから一歩進んだものと言える。神戸市博物館の左隻と右隻の南蛮船はよく似ており同型と見られるが、マストの本数が左隻は4本、右隻は3本と異なっているのは、絵師の不注意であろう。イギリス軍艦のホワイト・ベア(1588年)は、典型的なガリオンである。 南蛮船を船尾形状で区分して「丸型(ラウンド・タック)はキャラック、平型(スクエア・タック)はガリオン」とし、また「大型ガリオンは4本マストが通例」というように辞書などで解説されているがこれは正しくない。丸型船尾の典型は、オランダのフライト型商船で、寸胴の船型であったが、これはオランダは水深が浅く従って喫水も浅くなっている。また、北海・バルト海の貿易船には、デンマークが通行税を取っていた。税の根拠は中央部デッキの幅としていたので、これを狭くするような船型が考えられた。 6 まとめにあたり 南蛮船に関しては色々な辞典などで種々船型の説明があるが、国による言葉の相違であり、全てガリオンであり余計な言葉を加えないで良かろう。まとめとしては、「南蛮船の正体はガリオンである。」ということになる。 1639年徳川幕府はポルトガル船の来航を禁止し、所謂鎖国となったが、ポルトガル船を「ガレオタ」としていた。静岡浅間神社に山田長政が1626年奉納した戦艦の図(元の物は焼失したが、写しがある)は、3本マストのガリオンタイプであるが、帆船でありながらオールが----片弦9本、両弦で18本あり、大砲も片弦8基、船首2基、計18基を備えている。甲板には30人の甲冑武士がおり、帆走とオールによる航海で、戦艦と言ったものであろう。ただ、船首部分を屋形船風に描いてある点は面白い。 英国では船は「シップ」と呼びスペイン船を「ガリオン」と呼ぶが、スペインでは「ナオ」、ポルトガルでは「ナウ」である。従って全て「船」という言葉に落ち着くが、それぞれを「船型」として、混乱しないようにこのように呼称している。これが現実である。 |
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第4回講演概要 日時 平成23年1月22日(土) 午後2時~3時30分 場所 神戸海洋博物館 ホール 講演題目 「地域歴史遺産を災害から守る-新しい地域文化形成にむけて-」 講演者 奥村 弘 神戸大学大学院人文学研究科教授 参加者 75名 講 演 概 要 (文責:NPO近畿みなとの達人) 1 はじめに 現在地域社会が弱くなってきており、この結果災害に対しても弱くなっている。一方、地域歴史遺産(地域文化遺産)という考え方も広まり、阪神淡路大震災がエポックになって、歴史資料の保全活動が全国に広がってきた。歴史資料ネットワークはこのようなことから形成されたが、10年以上になった今あり方も検討されている。 2 地域社会の危機と歴史文化 1886年(明治19年)と2009年の地域の人口を比較すると、江戸末期(全国で3,300万人規模)と同様の人口と思われる時代と現在がほぼ同数かそれ以下になっている。また、震災後も人口の移動は激しく、灘区では人口の過半数が震災後の流入である。このようなことから、地域文化は解体の危機に晒されており、加えて高齢化、コミュニティの解体による記憶継承力の低下が見られる。 3 多発する地震と水害 2000年に入っても地震災害は2年とおかず発生しており、一方100年に1回も無かったというような豪雨災害が発生している。09年の佐用町豪雨でも100年の間浸水の無かった蔵が浸水被害に遭い取り壊され文化遺産が失われている。人口の減少、流動化に伴い歴史を失わせる時代となっている。 4 地域歴史遺産とは 阪神淡路大震災を期に「災害から地域を守る」と「文化遺産を守る」の二つがワンセットとするような考え方が出てきた。04年内閣府の「災害から文化遺産と地域を守る検討委員会」は、「文化遺産は、世界遺産、国宝、重要文化財等の指定されたものだけではなく、未指定の文化遺産も含めて地域の核となるようなもの」と定義している。 世界遺産が、世界史的に歴史を後代に伝え残すべきものとしているように、文化財と歴史遺産とは異なったものである。このような観点から「地域歴史遺産」という言葉が用いられ、地域にとって大事なものという認識が出来るようになった。07年の「文化審議会文化財分科会企画調査会報告」では、「文化財」を「指定などの措置がとられているか否かにかかわらず、歴史上又は芸術上などの価値が高い、 あるいは人々の生活の理解のために必要な全ての文化的所産を指すものである。」としている。 地域歴史遺産とは、「その地域の記憶をその地域において次の世代に引き継ぐ、地域にとってかけがえのないもの」であり、例えば地域自治会の記録などは、その地域にしか残されず、他のものと代え難いものである。 地域歴史遺産の特質としては、① 単に「ある」ものではなく、地域の文化の継承とともに価値を増すもの(例えば、長田区で震災時に活躍した手押しポンプ)、② 地域社会への豊かな感性を育てるもの(神戸の財産区が会館を所有している理由が次第に知られなくなっている)、③ 他者と相互理解深めるもの(自分達の歴史を見る目で、他地域の歴史を知る)などが挙げられる。 5 歴史ネットの活動 具体的に歴史ネットの活動を見ると、次のように初期の段階 第1期 95.2~4月:歴史資料保全情報ネットワークの成立、関係団体との関係強化 第2期 95.4~96.3月:巡回調査、市民講座、震災資料への取り組み等開始 第3期 96.4~02.5月:歴史資料ネットワークと改称、目的活動の明確化 を経て、現在の地域歴史文化の危機の進行の時に至っている。 震災後の事例では、地域歴史遺産に関する情報は市民サイドからは余り無く、博物館の職員の情報が大きかった。また、建物が倒壊していなければ保存は出来るので、残念な例が多くあった。巡回調査は、地域の研究者と一体となっての活動が有効であった。 歴史ネットを契機に始めた「古文書を読む会」などは現在も継続しており、震災後の水害被害の水損資料保全活動にも多くの人が携わるようになった。 6 地域遺産保全活用ネットワークの広がりと課題 各地で災害に関係した地域資産保全のネットワークが拡大しており、被災地を中心に全国で12カ所程度が組織化されるようになってきた。 ここに、文化庁や自治体、大学に次のような役割が求められる。すなわち、① ネットワーク型支援組織のかなめ(緊急活動の支援)、② 市民リーダーを育てる地域遺産保全活用資格の制度化(場としての地域博物館の重要性)、③ 大学の縦型競争激化の中での横断的取り組みなどである。 7 記憶継承の可能性「発見」とそこにおける課題 昭和60年代からは、高齢化、過疎化などによりコミュニティの存続が危機状態になってきた。次代の若い人にもう一度地域の文化の継承を大事なこととして伝えたいという状況になっている。 神戸の場合、古代からみなととしての役割を果たして来ており、江戸時代でも酒蔵が、有馬は古くからの温泉地として長い歴史を積み重ねている。また、村・町レベルでも歴史の積み上げがある。しかし、現在では非歴史的な地域史像から、「モダンな都市神戸」という認識に変わっている。小4で地域学習はあるものの、教科書には地域の歴史が無く「地域の歴史というイメージ」が失われている。 8 記憶を伝える市民の力量増大 阪神淡路大震災の記録は、多くの市民が出来るだけ残したいという気持ちが大きかった。関東大震災との違いはここにある。現在、阪神淡路大震災記念人と防災未来センターにはおよそ17万点、神戸大学付属図書館震災文庫には6万点の民間資料が保存されている。これは、被災地の市民力に負うところが大きい。地域での新たな市民の動きとして、宝塚古文書を読む会、尼崎富松地区・丹波棚原地区の地域歴史文化への取り組みなどが継続して続いている。 今までの活動から地域歴史像に関して次のように考察できる。 まず、神戸では、地域の歴史のある部分だけが切り取られ、過去→現在→未来のつながりが貧困である。多様で重層的な地域のイメージの一元化が必要である。神戸市の自己分析としては、1925年の「神戸市民歴史読本」に日本全体から説き始め、神戸も「また同じ」と論じている。その後、平清盛は歴史史観からは認められないが、神戸の発展の歴史には切り離せない存在として、神戸市の歴史を評価している。 次に、「村」の再発見が重要な事項として考えられる。江戸末期には全国に8万余の町村があり、ほぼ70戸、300~400人がユニットであった。1889年の市町村制実施、1953年の大合併、平成の大合併を経て、現在2,000町村を切っているが、元のユニットは、公的ではないが私的に残っている。震災後の「村」の再発見の事例としては、西宮市瓦林岡本家(上瓦林村文書)、東灘区森北町藤本家(森村と大正期区画整理資料)、長田区駒ヶ林町八尾家(兵庫運河資料)など地域の歴史遺産として重要な発見があった。 9 おわりに コソボ紛争においては、博物館、教会、寺院などが攻撃目標となっている。地域の歴史、文化を抹消しようという地域文化遺産の破壊である。 地域文化は地域社会の再生に必須のものであり、これを支持し、自ら活動する市民が求められる。そのためには、地域文化関係者の共同した持続的・継続的活動が必要である。「防災から減災へ、災害に対する抵抗力」といわれるが、加えて、豊かな地域歴史文化なくして災害文化の形成はなく、これからも緊急時の地域歴史遺産保全の意識形成が重要となってくる。 |
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第5回講演概要 日時 平成23年2月19日(土) 午後2時~3時30分 場所 神戸海洋博物館 ホール 講演題目 「平清盛と福原・大輪田泊」 講演者 高橋 昌明 神戸大学名誉教授 参加者 160名 講 演 概 要 (文責:NPO近畿みなとの達人) 1 はじめに 平清盛の時代は今から840年ばかり前のことである。神戸市は、神戸は新しい街だということをとくに強調し、古い歴史のことには関心がないかのように思われる時期があった。しかし戦前でも、清盛は「大悪人」には違いないが、神戸にとっては神戸港の恩人であると、評価されていた歴史がある。 2 宋人が福原にやってきた それまで政治の実権を握っていた清盛は、1168年に大病を患い、出家して静海(じょうかい)と名乗り、1169年春から摂津福原に住むようになった。以後記録では1180年まで20回ほどしか上洛した形跡がない。上洛の折は嫡男重盛に譲った六波羅ではなく、妻時子の西八条邸を使っている。福原には後白河法皇も、1177年までに8回訪れている。 記録によれば1170年宋人が福原に来て、これに後白河法皇が会っている。中国の王朝は南宋で、北の遊牧民族の国家(金)と対決していた。中国側の資料によれば、1169年に日本が明州(現寧波市)の船頭に託して贈物を送ってきたとある。この進物は平家からのもので、宋人の福原来訪はその返礼と考えられる。当時外国船は博多で貿易をさせ、瀬戸内海には入らせなかった。この時、宋人が中国船で直接大輪田泊に来港したかどうかはわからないが、以後、大輪田泊が舶来品の入手地となり、宋船が大輪田泊に停泊していたという確かな史料もある。 3 承安の外交 承安二年(1172年)明州の長官(沿海制置使)から、法皇・清盛に贈物が届き、送文の宛先は「日本国王」、「太政大臣」とあった。貴族たちは宋の皇帝からの直接の土産でなく、地方官からのもので、「国王に賜ふ」というのは、無礼であるから返牒(返事)を出してはならぬと主張。しかし、宋は高度な中央集権国家であり、沿海制置使名だといっても、一地方官の独断専行ではありえない。皇帝の指示によるものだったと考えねばならない。 清盛は、貴族の反対を尻目に返牒を出し、「剣一腰」を贈物にした。沿海制置使は海賊取締を任とする役人で、その使であることから、宋側の姿勢は、日本の要求する貿易に応えるためには、航海の安全が確保されねばならず、それには日本近海・瀬戸内海の海賊除去が不可欠、というものだったと思われる。清盛は、祖父正盛・父忠盛以来瀬戸内海の海賊平定に実績をもっており、剣の贈与は海賊対策の要求に応じる意志を示したものと解しうる。 4 ポートアイランドを築く 大輪田泊は、人や船の往来が頻繁になったが、東南からの風に弱い。宋からの貿易船は秋に来港、初夏に離港のパターンで、その長期間の繋船に問題があった。 清盛は、1173年田口成良(阿波民部)を奉行とし平家の私力で、波よけ風よけのための新島を築き始めた。建設にあたっては波が常に荒く、沈めた石が度々波にさらわれ、工事は困難を極めたが、1175年に完成を見た。築造の方法として、廃船に石を積みそのまま沈める工法を用いたようだ。また、石蔵(石垣)に用いる石に経文を書いたことから「経が島」と言われている。 貿易品としては宋銭が大量に輸入された。日本では古代に銭が鋳造されたが、平安中期には流通しなくなっていた。平家の時代以降銭の流通が再開するが、それは宋銭に頼るものであった。一方主な輸出品は、硫黄と木材であった。硫黄は、対西夏・対金(宋を西と北から圧迫していた)戦用の黒色火薬の原料となった。また当時中国は産業の発展により自然の収奪が進み、森林がどんどん消滅、木材は貴重になっていた。木材は宋船の帰り荷で、船のバラストの役割も持っていた。のちの15世紀には材木の産地として阿波、土佐が有力だった。港の改修に当たった田口成良は、阿波を本拠とする海の武士団の長であり、木材の交易・漕運によって富を築いた海商の一面ももっていたのではないか。 1169年以降年二回、晩春と初冬に大輪田泊の浜で、有名・無名の千人の僧が『法華経』を転読する「千僧供養」の儀式が行われるようになった、法華経の提婆達多品(だいだだったぼん)には、悪竜教化を説く部分があり、千僧供養には海の神をなだめ、海路の平安を実現する願いがあったと判断できよう。また『法華経』の一部である観音経も航海の安全を保証するくだりがある。後白河法皇自身も千僧の一人として参加したことがある。 5 大輪田泊の大改修 1176年には後白河の后建春門院(清盛の義理の妹、高倉天皇の母)の死により、平家と後白河法皇との暗闘が顕在化。翌1177年6月に「鹿ヶ谷」事件が起こった。後白河法皇の頻繁な福原行幸もこの年に終わっている。1179年11月清盛は軍事クーデタをおこし国家権力を全面的に掌握した。 翌12月16日清盛は東宮言仁(皇太子、のちの安徳天皇)に本朝未到来の『太平御覧』(百科事典のようなもの)を贈っている。古く藤原道長が自らの孫である皇太子(のちの後朱雀天皇)に中国の漢詩集『文選』と『白氏文集』を贈った例があり、清盛は意図的にこれをまねたのである。と同時に『太平御覧』は東アジア規模の知識の宝庫であるから、やがて即位するわが孫にそれを贈呈することは、文学を重んじた過去の天皇とはひと味違う、新時代にふさわしい「東アジアに関心が開かれた天皇に育って欲しい」という、清盛の願いがこめられていたはずである。 1180年2月20日清盛は国家権力の力による大輪田泊の改修を要求した。以前の改修は平家の私力によるものであったが、このたびは国の事業であることを認めさせることを狙っている。そのための人夫は、攝津・河内・和泉および山陽・南海道諸国では強制雇用で調達、東海・西海道諸国からは、朝廷への貢納物を運上して来た船の船頭や水夫を使役しようとした。 6 東アジアに向かって開かれた海の都 大輪田泊の改修を要求した2月20日の翌日、高倉天皇が譲位し安徳天皇が即位した。いわゆる福原遷都の僅か100日前である。だからこの改修が安徳帝のための未来の新都構想と無関係の事業だったとは考え難い。つまり安徳帝に引き継がれるべきインフラ整備を、遷都前に、その意図を秘匿しつつ国家に担わせようとするものであっただろう。遷都にかんしては、中国に王朝が替われば都も替わるという政治思想がある。日本では奈良時代末期に天武系の皇統が絶え、天智系天皇として即位した桓武が新都建設にまい進した。そして以下の事実によって、平氏系新王朝(高倉─安徳とつながる)のための新都構想が、すでに清盛の脳裏に形を整えつつあった、と考えることが可能である。 安元の大火(1177)で焼けた大内裏の八省院(大極殿・小安殿)は、天皇即位の儀式の舞台であるが、その再建は遅々として進んでいなかった。造営は意図的にサボタージュされていたようで、それは、清盛が平安京での安徳の即位ではなく、新都での即位式を考えていたからであろう。そして清盛が大輪田泊改修の申請にあたり、その負担国から、八省院再建担当国であることを理由に、播磨・備前(清盛の後継者と盟友が知行していた国)をはずしたのは、その経済力を来たるべき遷都の造営のため温存しようとしたからであろう。 この年(1180年)の6月2日平家一門は、安徳天皇・高倉上皇・後白河法皇を奉じて福原に向かい(福原遷都)、和田の地(現兵庫区・長田区一帯)に新都(和田京)の造営が計画された。この都は、改修なった大輪田泊を京域内に取り込む形で構想された。「平安京に代わる新都、東アジア全体に関心を寄せる天皇と面目を一新した国際貿易港大輪田泊、それらが藤原道長に擬せられる外祖父と精強な軍団によって支えられる王権」、これこそ清盛が夢見た幻の新王朝(平氏系王朝)であった。しかし狭い神戸の地には正規の都城を造成する土地の余裕が無く、反対の声も多く、和田京は完全なペーパープランに終わった。そこで清盛は、和田の北方、平家一門の集住地である福原一帯に居座り、新内裏と親平家の貴族の邸宅をつくって、それをなしくずしに新都にしようとした。 7 おわりに 福原遷都後、源頼朝の挙兵、木曾義仲の挙兵が相次ぎ福原京の構想は中途挫折し、僅か半年で平安京に帰る事態になった。翌年閏2月清盛も死に、平家滅亡へと歴史は移って行く(髙橋昌明)。 |
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神戸みなとの知育楽座PART2 スペシャル ~みなと神戸の歴史を語るリレー講演~ 講 演 概 要 日時 平成23年3月5日 午後2時~4時 場所 神戸海洋博物館ホール 参加者 125名 1 古代における兵庫・大阪のみなと 古市 晃 神戸大学地域連携センター准教授 2 近世の船による国内物流 大国 正美 神戸深江生活文化資料館館長 3 神戸開港とみなと・まちの発展 楠本 利夫 芦屋大学客員教授 4 国際コンテナ戦略港湾「阪神港」としての神戸港の展開 山縣 延文 国土交通省神戸港湾事務所長 1 古代における兵庫・大阪のみなと 古市 晃 神戸大学地域連携センター准教授 講演概要 (文責 NPO法人近畿みなとの達人) 1 はじめに 講演者は、「なにわのみなと」を研究していたが、当初は兵庫のみなとが浪速のみなとと関係があるとは考えていなかった。しかし、研究を進めてみると大きな関係があることが分かった。 「六甲山」は、「武庫(むこ)の山」と呼ばれた。山側からながめれば大阪と神戸は非常に近く、古代は両市は一体であった。一体化を示す歌として、「住吉 の 得名津に 立ちて 見わたせば 武庫の泊りゆ 出づる船人」(高市黒人―万葉集)で、「住吉」、「得名津」は、大阪であり、そこから武庫川・猪名川あたりと思える“武庫の泊り」から出る船が見える、と非常に近いことを表している。 2 大阪湾岸のミナトの一体性 古墳時代の大和朝廷は、倭王権が大和政権に移ろうとしている時代であったが、このころは、大阪が大きな港であった。それ以前の5、6世紀は、大阪の住吉・難波が港であり、住吉・難波に都があったこともこれを証している。5世紀には外交使節は住吉で上陸していたが、6世紀には難波の津(今の中之島あたり)が取って代わった。難波には、外交使節を迎えるための「飾船」が存在した。外交使節は瀬戸内海を通って大阪に入ったが、6世紀の敏達天皇の時高句麗の使いが間違って敦賀にやってきた。この時「飾船」を陸揚げして敦賀まで運んだとの記録がある。このことから、外交に関する窓口は難波であったことを証明している。 神功皇后が九州から帰還の際、船が進まなくなって広田、生田、長田(何れも兵庫)の三神と住吉の神を祭ったとの記載がある。四社が、セットとなって航海の安全の祈願対象となったようである。このように兵庫の港は大阪と関係が深かったことが伺われる。 新羅、新羅以外の外交使節に対しても先ず兵庫の敏売(みぬめ)浦で給酒儀礼を行い、歓迎の大宴会は難波で行った。 3 武庫ミナトの独自性 兵庫の港は大阪の付属ではなく、独自性を持っていた。あえて一口で言えば木材でないかといえる。港は海岸にあるが、河口を遡って物資が輸送される。兵庫の港、すなわち武庫の港は、武庫川・猪名川に夾まれたところであり、これらの川の上流、現在の猪名川、能勢は、古代は有数の上質木材の産地であった。良質材は建築に使用されるが、下って奈良時代は大和では木材は使用し尽くされ、平城宮では、近江から木津川を使って木材を運んでいる。古代に武庫、猪名の木材に目を付けたのは、住吉神社の神官であったようだ。古い住吉神社神代記に書かれているが、住吉神社は猪名に大きな力を持っていた。 神崎は、もとは神の前、「かみのさき」から出た地名である。ここに住吉神社は神様を祭っていたようで、神前審神浜(かみさきさには)と記録にある。住吉神社の造営は、為奈山(坂根山)からの木材を使用しており、これは全て自身の物と言っていた。 奈良時代に東大寺建立等で有名な行基が、猪名・武庫の木材に目を付けたようで、猪名川・武庫川に木材を切り出す揚津院(やないづ)を造り、武庫の港に出した。 5世紀には猪名には、猪名部という大工の集団がいた。新羅の使いがこの地に来た時に不注意で倭王朝の船を燃やしてしまった。そこで代わりに船を造る大工を置いて帰った。船大工がこの地に居着いたのも、木材と港の関係が深いことを示している。 4 倭王権と淀川、武庫水門 5世紀の倭王朝の港は住吉であったが、これは、西摂津を押さえている豪族である凡河内氏(おおしこうちうじ)との関係もあった。凡河内氏は、九州の胸方神(むなかた)を祭っていたが、この氏が弾圧される事件が5世紀後半から6世紀にかけて起こった。このようにして、武庫の支配権が凡河内氏から倭王権直轄に移っていった。 最後に倭王権が確立するのは、6世紀の前半継体天皇の時代である。継体天皇は、淀川の支配に力を注ぎ、現在の寝屋川の万田に王宮を置いた。淀川を押さえることは、その西の支配権を奪って、初めて難波地域を支配できることとなる。 初めて難波に施設が出来たのは、難波の館(むろずみ)という迎賓館である。このようにして、倭王権は難波、武庫を支配するに至った。 2 近世の船による国内物流 大国 正美 神戸深江生活文化史料館館長 講演概要 (文責 NPO法人近畿みなとの達人) 1 はじめに 神戸は開港するまで寒村であったと思われているが、全く誤りでその前から発展していた町である。古代から千年隔てた近世の話をするが、先ず近世について認識しておきたい。 中世は、地方に有力武士が割拠し兵農が未分離の状態であった。近世では、兵農分離が進み都市には専業の武士が集住し、江戸は大名の妻などが在府して100万人の住む世界最大の都市となった。大坂は、江戸を支える天下の台所として、消費物資の集積場となった。蔵屋敷は中之島にあるが、大坂は河が埋まりやすく兵庫で廻船から渡海船に積み替え、兵庫は中継地であった。 兵庫津の日本史上での役割は廻船の船籍地、北前船の出港地のほか、浜本陣は、全国でただ一つの大名の宿泊宿だけでなく国産物資の一手引き受け場所でもあった。 2 近世前期の兵庫津の海運業 天下の台所である大坂に荷物を集め江戸に送るという構造は、1660年代にほぼ確立した。その直後の天和―貞享年間(1681-88)の神戸から尼崎にかけての船の数の資料があるが、これを見れば、兵庫、尼崎が圧倒的に多い。兵庫は廻船が23隻と少なく、廻船から積み替えて大坂の河川に入って行く上荷船、渡海船が多い。兵庫の渡海船は、西国、北国の廻船から積み替える関係から、尼崎、西宮の物より大きい。 少し下って享保19年(1734年)の記録では、兵庫津は、殆どが渡海船となり、廻船は、兵庫のとなりの二茶屋で94隻、神戸村44隻、西宮44隻などと比し僅か9隻となっている。このことは、兵庫津は大きな船から小さな船に積み替えて、天下の台所大坂を支える積み替え港となっていることが分かる。 3 近世中期の渡海船と尼崎藩の姿勢 1680年から幕末までの兵庫津の船の種類について、輸送本体に携わる「輸送」、付随的に輸送を助ける「輸送関連」、その他「漁業・漁業関連」の3つに分類整理した。1728年の記録と1734年の記録を見ると上荷船が無くなり渡海船に代わっている。その後渡海船も幕末に少し上向くものの次第に減り、兵庫津は1700年前半を堺に規模が縮小していったことが伺われる。一方、輸送関連の船は幕末にかけて増加しており、兵庫の津の構造変化が見られる。 大坂には大坂の河川の輸送に力のある大坂上荷船・茶屋仲間という集団があった。これが、兵庫津などと激しい営業争いを行っていた。大坂上荷船・茶屋仲間は、大坂の陣で徳川に協力し、町の発展にも貢献した由緒を持っている。従って大坂の河の中に特権を持っており、兵庫津や尼崎の船との対立があった。尼崎藩では貞享2年(1685年)に、「大坂市内の川中で、兵庫・尼崎と大坂側の紛争は兵庫・尼崎に理があっても処分される」という体系的な海洋法というべきものを定めている。これまでは、尼崎藩は、「譜代であるから幕府と対立することを避けようとしていた」と解釈されていた。しかし尼崎藩は兵庫から中之島の蔵屋敷までの輸送賃をいくらにせよというようなことも決めていた。従って、尼崎藩は幕府追随ではなく、大坂川中まで兵庫津の船が入り込み輸送することを前提としており、いわば、「トラブルは起こすな」と言うことで決めたものと理解される。 4 大坂上荷船・茶屋仲間と兵庫津・尼崎の積み荷争論 兵庫の上荷船は40~100石、大坂のそれは、20~30石の規模であり、大きな船の方が有利なことは言うまでもない。元禄期(1600年代末~1700年代始)は高度成長の時代であり荷物も多くなってきた。このような荷物を大きな上荷船で運ばれると大坂の経済的な利益が奪われることになる。この時期兵庫側と大坂側で紛争が起き、裁判が行われている。何れも兵庫側の敗訴になっているが、実際にはこの判決は守られていなかった。大坂上荷船は、安治川河口の芦分に番船を配置して、余所から入ってこないように、また入る場合は通行料を取る体制とした。 元禄末~宝永元年(1704年)神戸・二茶屋の木材船を尼崎港に強制入港させここで積み替える手段を要求した。しかし尼崎藩は消極的でこれを却下している。尼崎藩に船が入らなくなり、尼崎の渡海船が衰退始めた。そこで尼崎藩は、宝永元年ころ尼崎港への強制入港と尼崎の築地に市場を立て、本格的な保護施策を開始した。これが、京都・伏見の物価高騰を招き各地から撤回の嘆願が始まった。 結局大坂町奉行も従来通りの兵庫から船と孵りも積み荷を認めた。別の判決では大阪町奉 行は、「大坂の川船にわがまま・おごりがある」としている。大坂の上荷船・茶船に運ばせばスムーズに行くと考えたのが、独占により値をつり上げたりの行為が目立つようになったからである。このように、何処の船が入っても良いようになり、大坂の上荷船は衰退をしていった。また、幕府の新たな上納銀が払えない状態ともなってきた。村や在郷町も消費者になり始め、大坂へ運ぶより手前で売った方が早く利益が上がることなどで大坂に流入する物資も減少していった。 5 近世後期の兵庫津の海運の変化 近世後期になると従来の輸送船ではなく運ぶことが目的でなく商売が目的の海の商社と いうべき北前船が出てきた。樽廻船、檜垣廻船は江戸と大坂を結ぶ輸送専門業者であったが、北前船は各地で商品の売買をしながら運航する船であった。北前船は寄港地で商売をする方式で、寄港地が大きな消費地になってきたことによって成り立ちだした。このような売買しながらの航海では最終港では始と積み荷は大きく違ってくる。 このような売買を主体とする船が多くなったことから、兵庫の津は江戸初期と役割が変わってきた。すなわち江戸後期になると、兵庫津は大坂のために荷物を集める中継の港から、むしろ大坂に荷物を集めにくくする拠点に変化していった。幕府の有力な旗本である川路聖謨が、幕末の兵庫津を見て「大坂よりはるかに船が多い」と日記に記している。かように兵庫津の幕末における位置づけができる。 6 描かれた兵庫津の町並み 近世において描かれた兵庫津を紹介する。 花熊城の図:江戸前期の花熊城を描いたもので、 同じころ兵庫津を描いた屏風図、その詳細。 1680年の地図に花熊城を書いている。 町の屋根には石が置かれていて、板葺きである。 大坂全盛の元禄年間と宝永年間(1760年頃)の兵庫津の絵地図を比較すれば、 町が大きく発展している。兵庫津は1769年尼崎藩の領地から幕府直轄になった。 中国行程記は、毛利藩の参勤交代時に兵庫津を描いたものであるが、蔵、寺などが読み取れ、町屋が稠密で、大きな道路もあり繁栄が伺われる。 3 神戸開港とみなと・まちの発展 楠本 利夫 芦屋大学客員教授 講演概要 (文責 NPO法人近畿みなとの達人) 1 国際都市神戸・神戸の都市魅力 神戸は魅力あふれる街である。神戸は、函館とと もに「住みたい街」「訪れたい街」のトップクラスに ランクされている。 神戸の魅力の第一は、神戸が人口155万人の大都 市でありながら、豊かな自然環境と山と海に恵まれ、 静謐な住宅都市としての魅力を持つことである。第 二は、神戸は、美しい町並みと国際色あふれる文化を持ち、おしゃれでファッショナブルな 観光都市としての魅力である。私は、神戸は「瀬戸内の貴婦人」ともいうべき街であると考 えている。ハーバーランド、メリケンパーク、旧居留地等は神戸を代表する神戸らしいで観 光スポットである。 神戸は古い歴史を持つ町である。その神戸が今日の国際都市として発展してきた原点は、1868年1月1日(慶応3年12月7日)の開港である。神戸開港により、世界中からビジネスチャンスを求めて外国人貿易商が来航して外国人居留地に商館を構え、各国は領事館を開設した。神戸開港の翌年にスエズ運河が開通し、極東と欧州の海上距離が4分の1短縮され、東西の物流と人流が活発となり、神戸はわが国の世界への窓口となった。神戸開港とともに、日本国内からも人々が神戸に移住してきた。城下町ではなかった神戸には、人々の言動を制約する暗黙のルール、重苦しさがなかった。神戸では城下町の城に当たるものが居留地であり港であった。神戸の人たちには、古いしがらみのない新天地で、進取の気風と、国際色豊な新しい文化が根付かせた。 2 神戸開港と外国人居留地・雑居地 幕府が朝廷の勅許を得ることなく締結した「安政五か国条約」で兵庫開港が取り決められた。開港場の外国人居留地は、和田岬から駒ガ林の海岸沿い一帯が候補となった。当時兵庫は、兵庫津(ひょうごのつ)として、海上交通の中心であり、西国街道の宿場町として人口2万人を擁し、殷賑を極めていた。兵庫の住民は開港による変革を嫌がった。兵庫から湊川を渡り東の神戸村に広がる砂浜、畑地が居留地建設の適地があった。条約で取り決められた「兵庫」に替わって「神戸」が開港した。 1868年1月1日、神戸開港式は新装成った「運上所」で行われた。兵庫奉行・柴田剛中が、各国公使に神戸開港・大坂開市を告げた。神戸沖には、英国12隻、米国5隻、フランス1隻、合計18隻の外国艦隊が停泊し、わが国が条約どおり神戸を開港するよう無言の圧力をかけていた。正午に艦隊が発した21発の礼砲が神戸の背山に轟き、おりしも「いヽじゃないか、いヽじゃないか」と踊り狂っていた住民を驚かせた。 米国と英国はこの日、神戸領事館を開設した。米国は、海岸通りの神戸村庄屋の生島四郎大夫の屋敷に領事館を開設した。現在の郵船ビルがある区画である。英国は、旧海軍操練所の建物に領事館を開設した。海軍操練所は幕末に勝海舟が将軍家茂に建言して建設した海軍士官養成のための施設、いわば海軍士官学校、機関学校である。 英国艦隊シルビア号の測量士官パーマー少尉が描いた2枚のスケッチが、「絵入ロンドン新聞」(1868年3月28日号)に掲載された。一枚は、布引の山から居留地と神戸沖を描いたもので、18隻の外国艦隊が整然と停泊している姿が描かれている。もう一枚は、海からの居留地、神戸の町を描いたものであり、居留地が神戸の背山を背景に描かれている。 幕府は日本人と外国人の衝突を避けるため、外国人を居留地に閉じこめておきたかった。居留地は生田川と鯉川、北は西国街道、南は海岸線に挟まれた区画であった。 これに先立ち、将軍慶喜の再三の要請にもかかわらず、朝廷は兵庫開港等を取り決めた安政条約の勅許をなかなか下ろさなかった。勅許がおりたのは、幕府が世界中に約束した開港予定日の半年前であった。幕府は、柴田剛中を兵庫奉行に任命し、突貫工事で居留地を建設させた。柴田は工事を生島四郎大夫に請け負わせた。 開港日になっても居留地はまだ完成していなかった。住むところがない外国人は「居留地外への居住」を認めるよう、伊藤俊介(博文)知事に陳情した。知事は、日本人と外国人の混住出来る区域である「雑居地」(生田川~宇治川間)を認めた。 外国人は、神戸で自分たちだけのコミュニティを作り生活を楽しんだ。明治の初めに造られた外国人のクラブである、神戸外国倶楽部、神戸レガッタ&アスレティック・クラブ(KR&AC)は現在まで続いている。 清国は日本と条約を結んでいなかったため、中国人は居留地の借地権競売に応札することができなかった。中国人は、鯉川を隔てて西側の居留地外に土地を取得して集住した。後の南京街である。 神戸の住民は、居留地の外国人から洋風文化を吸収した。元町通の市田写真館、北長狭通の西洋料理店・外国亭など、居留地の外にも西洋風の立派な店が建設された。 3 神戸のまちの発展 開港したころの神戸の東西の通りは、「元町通」と「海岸通」だけであった。明治6(1873)年11月「栄町通」が完成した。「栄町通」は、幅約15㍍、延長約1キロのビジネス街として計画され、居留地と当時の神戸の中心であった神戸駅・湊川神社周辺を結んだ。神戸駅は明治7(1874)年に開業した。栄町通は、銀行、保険会社、船会社、郵便局等が立地し、神戸を代表するビジネス街、神戸経済の中心となった。 兵庫と神戸の間を南北に流れる天井川の湊川は、川床が6㍍以上あり、兵庫と神戸の交通を妨げていた。湊川の松並木は、和田岬、布引の滝等とともに神戸を代表する観光地であった。湊川の氾濫が付近の住民を困らせた。湊川は明治34(1901)年に付け替えられ、かつての河川敷に新開地が作られ、新開地は神戸を代表する歓楽街となった。 明治32(1899)年、居留地は日本側に返還された。外国人はそのまま居留地でビジネスを続けた。居留地に進出する日本企業もあった。返還直後の居留地の図面を見ると、居留地の西北、現在の元町駅の場所が三宮駅となっている。もともと、三宮駅の場所は現在の元町駅がある場所に建設されたためである。昭和に入り国鉄の高架に伴い、三宮駅は、現在の場所に移された。ところが、旧三宮駅周辺には県庁があり、その南の栄町には銀行、商社、船会社が軒と連ねていたため、元の三宮駅の跡地に元町駅を開設した。 神戸には、オリエンタルホテル、トアホテルなど立派なホテルが建設された。トアホテルは昭和25年に惜しくも失火で焼失した。 貿易で発展した神戸には、三井・三菱を凌ぐ商社「鈴木商店」があった。鈴木商店は大正7年の米騒動で本社が焼き打ちにあい焼失し、後に会社は倒産してしまった。鈴木商店本社があった場所は、かつての三越デパートの道路を隔てて西南である。鈴木商店焼き打ちの巻き添えとなり三越の南にあった神戸新聞本社も焼失した。 4 神戸のみなとの整備~世界への窓口・神戸~ 開港時の神戸の港湾施設は極めて貧弱であった。明治6(1873)年、英国人マーシャル港長が神戸港計画を神田考平兵庫県知事に提出した。この計画は採用されなかったけれども、後の神戸港修築計画に生かされた。 神戸の官民が外国貿易用の桟橋を建設した。明治9(1876)年、政府は鉄道桟橋を建設し、民営の小野浜外国桟橋(現在の第2突堤基部)が明治17(1884)年に竣工した。 神戸港は2度の本格的な修築工事で近代的な港湾として整備された。まず、第一期修築工事(明治40~大正11年)で、新港1突~4突西までが完成し、続いて、第二期修築工事(大正8年~昭和12年)で、新港4突東~5突、6突、中突堤、兵庫突堤1~2突、メリケン波止場等が完成した。神戸港はわが国を代表する港湾となった。 第二次大戦の末期、神戸は3度の大空襲を受け、神戸港と神戸の街は壊滅的な被害を受けた。 戦後、神戸市が神戸港の港湾管理者になった。昭和30年代半ばには、すでに、戦前の水準を超える港湾施設が整備されていた。わが国の高度経済成長により、貿易貨物量が飛躍的に増大し、神戸港は慢性的な船混み、施設不足に悩まされた。大規模な港湾施設の建設が喫緊の課題となり、摩耶埠頭、ポートアイランドが計画された。ポートアイランドは、当初、全島を「自由港」とする構想もあった。神戸市は、進展しつつあった海上輸送革命に対応した「コンテナ埠頭」を建設するため、昭和41(1966)年にポートアイランド建設に着手した。ポートアイランドは、外郭にコンテナ埠頭等港湾施設を配置し、埠頭背後には、流通施設、業務施設、ホテル、住宅等を配置して、従来の埋立地とは全く発想が異なる「海上都市」として計画された。わが国始めての海上都市であったため、形状、土地利用、資金計画、収支計画に試行錯誤を繰り返し知恵を絞った。神戸市は外債を発行により埋め立て資金を調達した。コンテナ埠頭は阪神外貿埠頭公団が建設した。コンテナ埠頭を先行的に整備した結果、神戸は1980年代初頭、世界第3位のコンテナ取扱量を誇る港になった。埋立土砂は、市街地背後の山を削って調達し、跡地にはニュータウンを建設した。山から海までの土砂運搬には、神戸の地形に合わせて、河川敷道路、地下トンネルのベルトコンベヤ、空中ベルトコンベヤ等が工夫された。海上はプッシャーバージで土砂を運んだ。一隻三鳥の神戸方式の開発は、内外の注目を集めた。 1981年3月ポートアイランドが完成し、神戸市は完成記念にポートピア81博覧会を開催した。国内有名企業の参加、外国32か国・地域の参加で、博覧会は空前の成功をおさめた。ポートアイランドには、国際会議場や国際展示場が建設され、神戸はわが国屈指のコンベンション都市となった。ポートアイランドに続いて、神戸市は、六甲アイランド、ポートアイランド二期の建設を進めた。 5 阪神淡路大震災を乗り越えて 平成7(1995)年の阪神淡路大震災により神戸は街も港も壊滅してしまった。戦災に続く2度目の災禍である。多くの歴史的建物も被災した。居留地時代の建物で唯一残っていた「十五番館」も倒壊したが、その後関係者の努力で見事に復旧した。 神戸は震災を乗り越え、新たな発展、飛躍を目指している。その一つが医療産業都市づくりである。ポートアイランド二期には、医療関係の研究機関と内外の医療関係企業が集積しつつある。ポートアイランドのコンテナ埠頭は、水深が12㍍しかない。船舶の大型化に合わせて、ポートアイランド二期、六甲アイランドに新たに大水深バースが建設された。ポートアイランドの古いコンテナバースは、新たに「大学街」に変身した。 2006年、神戸空港が誕生した。空港は神戸をさらに発展させるためのきわめて重要な都市装置である。空港は、空港だけの収支でみるのではなく、神戸全体の発展のための戦略基地と位置付け、長期的視野で育てていかなければならない。戦災、震災を乗り越えた神戸は今、新たな発展の方向を目指している。 4 国際コンテナ戦略港湾「阪神港」としての神戸港の展開 山縣 延文 近畿地方整備局神戸港湾事務所長 講演概要 (文責 NPO法人近畿みなとの達人) 1 神戸 港の開発・整備 前の講演と重なる部分もあるかもしれないが、神戸港の発祥と近代港湾の整備について紹介する。 神戸港の発祥は、平清盛が福原京とともに約40haの人工島経ヶ島であるといえる。 時代は下り、神戸開港(1868年)当初に港湾整備として、メリケン波止場、国産波止場が始まり、生田川、旧湊川の付け替え、居留地、雑居地の整備が行われた。また、鉄道の建設、道路、街路も整備された。神戸港第一期修築計画が始まり、第一次世界大戦による港運業の活況を受け、大正8年(1919年)第二期修築工事を開始、昭和12年(1927年)に完成した。 戦後 、敗戦により停止されていた港湾施設が逐次解除され、新たな外貿港湾施設新港第7・第8の突堤の整備に着手した。昭和34年(1959年)最初のコンテナ埠頭として、摩耶埠頭の整備に着手、昭和42年(1967年)に竣工した。その後、神戸港は埋め立てにより山を削り海上都市を作る方式で、ポートアイランド、六甲アイランドが整備されコンテナリゼーションへ対応してきた。 2 阪神・淡路大震災からの復興 平成7年(1995年)1月に発生した阪神・淡路大震災は、死者5,000名を超える大きな被害をもたらしたが、港湾施設でも被害総額5.630億円にのぼる被害を生じた。岸壁は、沈下、傾斜、背後に段差・亀裂の発生、防波堤では、沈下、臨港応通施設では、橋脚の座屈亀裂、落橋の発生、荷役施設では、クレーンの損傷、崩壊の発生があり、また、液状化が発生した。 港湾施設が事実上閉鎖されたため、自動車、電器産業など部品供給が途絶え操業停止、海外の生産拠点への部品供給ストップなど国内各種産業の広範囲に亘る生産拠点に大きな影響が生じた。 震災直後の港は、陸上交通の途絶などに代わり、緊急物資の海上搬入、人員・市民の足となる海上交通の拠点として役立った。櫛形の突堤は震災により大きな被害を受けており、又、施設も老朽化していることから、従前の姿に復旧することなく、間の海面部分を埋立てここを震災によって生じた瓦礫の処分地とすることとした。また、六甲アイランドの南地区にも瓦礫の処分場として利用した。 港湾施設の復旧は、 ① 港湾機能の早期回復、② 港湾施設の耐震性の強化、③ 市街地復興との連携、④ 国際拠点港湾としての復興 という復興の基本方針に従い進めた。施設ごとの復旧スケジュールを定め、6ヶ月、1年、2年それぞれ以内の本格復旧をめざした。また、震災寺に利用の出来る岸壁として、耐震強化岸壁の配置を決めて、整備することとした。 2年余りで港湾施設は旧に復したが、神戸港の取扱貨物量(外貿・内貿)は持ち直しているものの、震災前には復していない。外貿コンテナ貨物は、震災後落ち込んだが、それ以降は徐々に回復している。2008年のリーマンショックにより、2009年は、大きく減少したが、最近は持ち直している。なお、神戸港に置いて積み替えるコンテナのうちトランシップ貨物の割合は、2001年の18.9%から急激に落ち込んでおり、多港へ移っていることが伺える。 世界各地域の港湾に於けるコンテナ取扱貨物量の推移を見れば、アジア地域の港湾の伸びが目覚ましく、我が国でも扱い量は増加しているものの、釜山、上海、香港、高雄、シンガポールなど各港は飛躍的に増大している。日本発着のコンテナ貨物のうち、アジア主要港で積み替えられ輸送される貨物が増大しており、日本の港湾のフィーダー化が進んでいる。また、スケールメリットによるコスト低減のため、コンテナ船の大型化が進んでおり、我が国の岸壁では対応出来ない恐れが大きくなってきた。 3 国際競争力強化に向けて 平成17年(2006年)7月神戸港、大阪港は、「指定特定重要港湾」いわゆる「スーパー中枢港湾」に指定され、その取り組みを推進している。世界トップクラスのコスト・スピード・サービスの実現を目標にし、具体的に港湾コストを従来の約3割低減、リードタイムを従来2日を1日程度に短縮することとしている。神戸港では大阪港とともに ① 広域連携強化の支援、② 24時間フルオープン化への支援、③ 船舶の大型化への対応、④ 民間ターミナルオペレーターへの無利子貸し付・行政財産の貸与 を進めている。 平成21年(2010年)8月神戸港は大阪港とが一体となる「阪神港」が、国際競争のあるコンテナの拠点港湾を目指す「国際コンテナ戦略港湾」に京浜港とともに指定された。阪神港の範囲は、人口6,000万人、GDP234兆円、京浜港の範囲は、それぞれ6,700万人、285兆円であり、東西2箇所に戦略港が必要とされた。 戦略港湾阪神港の目指すべき姿として、① 西日本の産業と国際物流を支えるゲートポートとして、機能拡大(基幹航路の維持・拡大)、② 釜山港等東アジア主要港湾と対峙出来る港湾サービスを確保し、国内ハブ機能再構築、③ 基幹航路の拡大に向けた取扱貨物量を確保、東アジアの国際ハブポートとしての機能 としている。主な戦略は、① 民の視点から阪神港のコンテナーターミナル全体を一元的に経営する港湾経営主体の確立、② 集荷機能強化(阪神港でのみ可能な定期内港フィーダー網の再構築)、③産業の立地促進による創荷 である。 神戸港の国際競争力強化に向けた取り組みは、① 大型コンテナ船対応の大規模コンテナーターミナルの整備、② インフラ公共化等公設民営化、「民」への直接貸付拡大、③ 荷役スピード向上のための荷役機器の導入、④ 内航、鉄道、トラックフィーダーの強化・育成、⑤ 24時間化及び情報化のさらなる推進、⑥ 「港湾経営主体」による港湾の戦略的経営 などである。 平成23年度に計画している具体施策としては、① コンテナ船の大型化への対応するための大水深岸壁、航路等整備継続、② 大型で高能率のガントリークレーンの導入、③ 港湾経営会社の設立支援等、④ 阪神港を核とした内航フィーダー輸送網の構築 などである。また、国際戦略港湾及び港湾民営化の法的位置づけをするため、「港湾法」、「特定外貿埠頭に関する法律」の一部改正を図っている。 |
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