神戸みなと知育楽座

平成30年度 神戸みなと知育楽座 Part10

テーマ「神戸のみなと・まち・歴史をもっと知ろう!」
神戸開港150年記念~150年を彩る人々(その2)~
 

第1回講演概要

  日  時  平成30年5月19日(土) 午後2時~3時30分

  場  所  神戸海洋博物館 ホール

  講演題目  「湊川神社初代宮司・折田年秀が見た居留地時代の神戸」

  講演者   芦屋大学元教授
                楠本 利夫 講師

     参加者   100名

 講 演 概 要  (編集責任:NPO近畿みなとの達人)

  はじめに
 神戸三大神社のうち、生田神社、長田神社は、「延喜式神名帳」(927年)の官社一覧にも載っている伝統ある神社であり、神功皇后の「三韓外征」(201年)の帰途、神戸沖で船が進まなくなり、神占により神を祀った故事に由来している(日本書紀)。
 楠木正成を主祭神とする湊川神社は、明治5年創建であるので、他の2神社より歴史は格段に新しい。正成は後醍醐天皇の討幕に大きな役割を果たし、天皇親政の建武新政を実現した武将であり、湊川神社は、天皇親政の明治政府を象徴する神社である。
 湊川神社初代宮司の折田年秀(要蔵、1825~1897)は元薩摩藩士である。折田は、藩校造士館を経て江戸昌平黌で蘭学を学び、薩英戦争では砲台築造・大砲鋳造主事を務めた。
 湊川神社初代宮司の折田が残した克明な日記(明治6.3.13~明治30.9.9)を、湊川神社が『折田年秀日記』(全3巻)として翻刻した。『折田日記』は湊川神社という定点から居留地時代の神戸を観測し、政府の近代化政策、鉄道開通、西南戦争、欧米人宣教師によるキリスト教布教活動、日清戦争などを記録した第一級の史料である。
 折田が生きた時代は、明治政府が幕府から引きついた不平等条約時代のであり、不平等条約撤廃は、日本が世界の一等国入りするために解決しておかなければならない最重要の外交課題であった。

1 湊川の合戦
 楠木正成は、湊川の合戦で足利尊氏の大軍と兵庫湊川で戦い、敗れて自害した武将である。正成は、1331年に後醍醐天皇に笠置山に召されて、突然歴史の表舞台に登場し、5年後の1336年に湊川で自害した。
 湊川合戦の遠因は後醍醐天皇の権力への執念であるといえる。
 1318年、即位した後醍醐天皇は、鎌倉幕府を倒して、天皇親政を実現することに執念を燃やした。
 1331年、2度目の討幕計画に失敗した天皇は笠置山に籠り、河内の土豪・楠木正成を召した。正成は、赤坂城・千早城で挙兵し、幕府の大軍をひきつけて戦った。天皇は幕府に捕らえられ、1332年に隠岐へ配流された。
 1333年、天皇は隠岐を脱出した。これに呼応して、足利尊氏、新田義貞も幕府に叛いて鎌倉幕府を滅ぼした。
 1334年、後醍醐天皇は念願の天皇親政を開始した(建武新政)。けれども、新政は天皇の専制政治と公家の稚拙な政治であったため、武家は論功行賞に不満を持ち、民衆は二条河原の落書にあるように、政治・社会の混乱を風刺した。
 1335年、諏訪頼重が北条時行を擁し信濃で挙兵(「中先代の乱」)した。尊氏は乱制圧のため、天皇に征夷大将軍任命を要請したが拒否された。乱鎮圧後、尊氏は天皇の上洛命令を無視し鎌倉に居座った。義貞が天皇の命を受け尊氏追討に向かったが箱根竹之下で破れ敗れ京に敗走した。
 1336年、尊氏が入京し、天皇は比叡山へ逃れた。奥州から北畠顕家が大軍を率いて駆け付け、義貞、正成らと尊氏を京から追い出し(京洛の合戦)、後醍醐天皇は環御した。
尊氏は、京から逃げる途中、丹波篠村八幡宮から天下の武士に兵庫への集結を呼びかけた。兵庫で援軍を得た尊氏は、再び京を目指したが、顕家、義貞、正成らにより、打出西宮浜合戦、豊島河原合戦等で破れて九州に逃れた(2月)。芦屋打出にはこの戦いを記念した「大楠公戦跡碑」がある。尊氏は九州へ逃れる途中、鞆の浦で光厳上皇に要請していた院宣を受け取り、念願の官軍になった。
 尊氏は九州で菊地氏を破って勢力増強し、海路、京を目指した。正成は、天下の状況を冷静に判断し、「天下の武士の心は尊氏についている」として、後醍醐に2度、勝利のための秘策を上奏したが、公家の猛反対で容れられず、敗北を覚悟した正成は、櫻井の宿で、息子正行に。自分の死後は後醍醐天皇を守るように伝えて別れを告げ、湊川へ赴いた。
 湊川の合戦で敗れた正成は自害し、後醍醐天皇は比叡山へ逃れた、6月、尊氏は入京し、光明天皇が践祚した。10月、後醍醐天皇は、尊氏の要請に応じて、光明天皇に天皇の証である三種の神器を渡し、吉野へ移った(南北朝時代の幕開け)。尊氏は幕府を開いた。
 正成の死後、墓は荒れ放題で訪ねる人はなかった。
 1692年、水戸光圀が正成の墓が荒れていることを嘆き、自費で墓を整備して「嗚呼忠臣楠子の墓」と揮毫した碑を建立した。その後、墓には、シーボルト、頼山陽、松尾芭蕉、貝原益軒、司馬江漢らも参詣した。幕末には、西国街道に近い墓は、勤王の志士たちが京に上るときに必ず参詣する名所となり、七卿落ちの公家たち、吉田松陰、勝海舟、坂本龍馬も参詣した。(右:幕末の楠公墓)

2 湊川神社創建
 元治元(1864)年2月9日、島津久光が、護良親王、正成らの霊を祭る神社の摂津湊川創建を朝廷に建議し認められた。起草したのは折田年秀である。薩摩藩大阪藩邸では下準備にとりかかったが、久光が突如鹿児島に帰郷したため作業を中断した。
 慶応3年11月8日(1867.12.3)、尾張藩元藩主の徳川慶勝が、正成を祀る神社の京都創建を、近衛家を通じて朝廷に建議し、認められた。11月21日(1867.12.21)、朝廷は近衛忠煕を通じて尾張藩に具体案を要請し、尾張藩は場所を神楽岡の尾張藩邸地と報告した。正成を祀る神社の京都創建が内定した。
 ところが、2週間後の12月9日(1868.1.3)に王政復古の大号令が出され、さらに、慶応4年1月3日(1868.1.27)に鳥羽伏見の戦いに端を発した戊辰戦争のため、神社創建は中断した。
 慶応3年12月7日(1868.1.1)、神戸は開港した。
 開港約1か月後の慶応4年1月11日(1868.2.4)、三宮神社前を東進中の備前藩の隊列を横切ろうとしたフランス水兵と藩兵の軽微な接触に端を発し、沖に停泊中の外国艦隊(米・英・仏計18隻)から陸戦隊が上陸し備前藩と交戦した(「神戸事件」)。外国軍は居留地を占拠し、東西に関門を設けて日本人の通行を制限し、維新政府に恫喝的書状を送った。両軍に死者は出ていない。維新政府は、勅使・東久世通禧を神戸に派遣した。東久世は神戸運上所で6か国公使と会見し、天皇親政の国書を手渡して日本側の政権交代を告げ、衝突事件の日本側の責任を認め、責任者の処刑を約束した。備前藩小隊長瀧善三郎が、外国側と日本側立会いの下、兵庫永福寺で切腹した。
 事件処理後、東久世は、新設の行政組織である兵庫鎮台(後、兵庫裁判所、兵庫県)総督として神戸にとどまった。
 3月22日(1868.4.14)、兵庫裁判所役人6人が連名で、東久世を通じて、維新政府に正成を祀る神社の湊川創建を建言し認められた。朝廷と雄藩の混成部隊である維新政府は、戊辰戦争で大混乱していた。そこへ、神戸事件処理という大手柄を立てた東久世経由の請願である。建立費用はすべて地元で調達するというこの請願はすぐに承認された。建言を起草したのは元薩摩藩士の岩下片平である。
 政府は兵庫県に神社創建を委任した。県は予定地に高札を立て寄附と勤労奉仕を募った。全国から続々と寄付が寄せられ、寄付金総額は、2万4千両に達した。摂津・播磨だけで6千両であった。地元住民も勤労奉仕で湊川から土砂を運んで神社予定地に投入した。創建費は寄付と勤労奉仕でまかなった。朝廷が下賜した営繕費3千両は手つかずであった。政府は湊川神社のために「別格官幣社」という社格を新設した。(右:創建直後の湊川神社)
 明治5年1月、社殿に着工し、5月上旬に完成した。5月24日に鎮座祭、25日に楠公祭が行われた。7月、明治天皇が九州・四国行幸の帰途、湊川神社へ行幸する予定で神戸に立ち寄ったが、暴風のため、行幸は当日になって中止された。
 
3 折田の猟官運動
 折田年秀は、湊川神社初代宮司という名誉あるポストを狙い、積極的な猟官運動を展開した。折田日記から折田の猟官運動を見てみよう。
 明治6年3月13日午前6時、折田は旅装を整えて神社を参拝し、備前法光ノ短刀を奉納して開運祈念をした。「此度之東上、実に、浮沈之決着スル処」と決意を日記に書いている。折田は、腰に大小刀を帯び、毛布1枚を持って、三邦丸で鹿児島を出発した。神戸で湊川神社を参詣した後、船で横浜へ向かった。横浜から東京へは汽車である。東京で、まず旧知の大蔵大丞・渋沢栄一を訪ねて今回の上京趣旨を説明し協力を依頼した。武蔵国出身の渋沢は、幕末に一橋慶喜に重用されていた。渋沢は、折田が文久4年に島津久光に随行して幕閣に摂海防衛を建言したときの折田の弁舌と博識に一目置いていた。
 折田は、同郷の松方正義宅を訪問し投宿した。東京では、連日薩摩人脈を頼り支援を要請した。
 4月6日、大蔵省租税権頭(ごんのかみ)の松方から折田に「大蔵省八等出仕」内定の旨連絡があった。湊川神社初代宮司ポストを狙っていた折田は、大蔵省出仕を受けるべきかを、同郷の後輩である参議西郷隆盛に相談した。折田は西郷の2歳年長である。西郷は「まず八等出仕を受け、後のことはそれから考えればどうか」と助言した。折田は「折田要蔵 八等出仕申附候事 明治六年四月八日 大蔵省」の辞令を受け取った。給料50円は、当時の巡査の月給が4円であるのでかなりの高給であった。それでも折田は宮司になれるかどうか不安であり、精神安定剤を服用したことを、日記に書いている。
 薩摩勢と渋沢の全面的の応援を受け、折田は、ついに、念願の湊川神社宮司に任命された。5月2日、折田は教部省で「大蔵八等出仕 折田年秀 任湊川神社宮司兼補第講義 教部省大丞従五位三島通庸奉 明治六年五月二日」の辞令を受けた。
 8月1日、折田は東京を発ち、15日、神社に着任した。東京からの赴任旅費は43円50銭である(巡査初任給4円)。
 実は、湊川神社初代宮司にはもう一人の候補者がいた。富岡鉄斉である。兵庫県令神田孝平が鉄斎を初代宮司に推薦していた。兵庫県が神社創建を政府からに一任されていたので、神田県令は学者の鉄斎を推薦していたのである。
 6月15日、鉄斎は湊川神社権禰宜の辞令を受け取り、即刻、依願免官を申請した。ちなみに、鉄斎は、明治9年に大和石上神社小宮司となり、後に官幣大社大鳥神社宮司に任命されている。(右:折田年秀)
 折田就任の約3か月後の9月10日、遣外使節団として欧米を訪問していた岩倉具視が、帰途、湊川神社を訪問参拝した。岩倉は9日に、米国船ゴルティエン号で長崎から瀬戸内海を経て神戸着いた。神戸の宿は『回覧記』に記載はない。岩倉は、前泊地の長崎では行在所に宿泊しているので、神戸での宿舎は弁天浜専崎弥五平邸と考える。専崎邸は、明治19年に明治天皇御用邸として宮内省が買い上げた。
 岩倉が湊川神社を参拝したとき、折田は外出中であった。折田は、「日記」に「当朝、諸寺の僧侶会議(略)。晩5時帰社」「当日、岩倉公参拝之由也」と書いている。

4 折田のキリシタン布教活動監視
 折田の宮司時代は「不平等条約時代」であった。幕府が米国と結んだ日米修好通商条約では、米国側に領事裁判権がった。治外法権である。領事裁判権は、我が国で訴追されたアメリカ人は、日本の裁判所ではなく、アメリカの領事がアメリカの法で裁くという制度である。条約協議の段階で、幕府役人は、ハリス総領事がこの条項を条約に盛り込むことを提示したとき、全く抵抗せず、面倒なことに巻き込まれなくてよい、と考えて受け入れた。
 幕府は続いて、オランダ、ロシア、イギリス、フランスと同内容の条約を結んだ(安政五か国条約)。領事裁判権を盛り込んだ条約は、日本が世界の一等国になるための大きな障害であり、明治政府の最大の外交課題は条約改正であった。
 神戸は西日本におけるキリスト教布教活動の拠点であった。維新政府は、幕府のキリスト教禁教政策を承継し、当初、キリスト教禁教政策をとり、明治元年3月、政府は切支丹禁教の高札建立を全国に通達した。安政条約では、外国人に信教の自由を保証していた。外国人居留地では、明治3年の復活祭に仏神父が居留地37番の天主堂完成ミサを行った。明治3年3月、アメリカン・ボード宣教師のグリーンが来日し、神戸に布教の拠点を設置した。続いて、ギューリック、ベリー、デイヴィス、アッキンソンら宣教師が来神した。キリスト教布教は教育・医療との一体的に進められることが多かった。
 明治6年2月、政府は、キリスト教禁教高札を撤去した。建前上は、布教は黙認である。背景は、岩倉具視が、条約改正調査と視察のため訪問中の欧米諸国から、日本の禁教政策に外国側が不快感を示し、フランスでは、信教の自由を認めていないことを抗議された。岩倉は、条約改訂のためにはキリスト教禁止政策をやめる必要があると、日本政府に報告した。禁教高札は撤去されたけれども、それはあくまでも建前であった。
 8月、折田が湊川神社初代宮司に就任した。神戸では、外国人宣教師が、外国人居留地だけでなく、日本人と外国人が混住する内外人雑居地にも教会を設立し活発な布教活動を展開していた。
 米国人宣教師が元町5丁目の借家で布教活動を展開していた。通りに面した表側にはキリスト教関係書店とし、裏は講義所とし、当初、「真理の話」と大書した赤提灯を吊っていた。
 元三田藩主九鬼隆義が布教活動を物心両面で支援していた。九鬼隆義は、夫人と子供を連れて、日曜ごとに馬車で講義に出席していた。夫人の真っ白い洋装が人目を引いた。
 折田は、兵庫の商人の妻を密偵として講義に参加させ、明治7.1に「洋教捜索之次第」を、教部省に報告した。

5 折田と西南戦争
 湊川神社創建の2年後、明治7年5月11日、官営鉄道・神戸大阪間鉄道が開通した。明治10年2月5日、神戸京都間鉄道開通式が天皇臨御のもと華々しく開催された。10日後の2月15日、西郷隆盛が鹿児島で挙兵した(西南戦争)。天皇は東京還御の日程を延期し、戦況の見通しがつくまで京都に滞在することとされた。
 政府は、神戸に大本営と兵站本部の運輸局を開設した。運輸局は、専崎弥五平邸(現ハーバーランド)に、設置された。開通したばかりの鉄道は軍事輸送に使われ、兵員、資材が続々と神戸に到着し、船で前線へ送られていった。岩崎彌太郎、光村彌兵衛の船が政府に調達され、ピストン運航で九州へ兵員、資材を運んだ。神戸が前線への兵站基地になった。薩摩出身の折田は、前線の様子が気になっていた。折田は日記に戦地へ向かう軍勢、軍艦を克明に記録している。
 日がたつにつれ、折田は鹿児島の状況がますます心配になり、ついに、鹿児島を訪問することとした。長崎経由で、8月31日に鹿児島に到着した折田は、焼失した鹿児島の町と、友人たちの死に慟哭し、「嗚呼、天ノ大罰下ル、誠ニ、可恐ナリ」と日記に書いた。折田の滞在中も、西郷軍2千人月城山に籠っていて、市内で激戦が展開されていた。政府軍は市内に放火し、城山に総攻撃をかけた。9月17日、折田は、貫効丸で神戸へ向かい、18日に帰神した。24日、西郷の自刃で戦争は終結した。
 明治11年5月14日、大久保利通が暗殺された。5月17日、折田は日記に「大久保利通ハ非凡之英材、(略)然レトモ性沈黙、強豪信義ノ親愛ニ薄ク、(略)余、会テ忠告スル(略)然レトモ敢テ聴カス(略)」「(略)余、平生、人ニ語テ云ク、大久保ハ病床ニ死セスト、果シテ、今日ノ暴挙ニ遭遇スル、豈偶然ニ非ラス、恩義ニ背キ、親愛ヲ失フ、天ノ報復、(略)可恐ニ非スヤ」と書いた。折田は大久保より5歳年長であった。

6 折田と湊川神社における「神儒仏耶合同追悼会」
 明治21年9月23日、湊川神社で「神儒仏耶合同追悼会」が執り行われた。目的は、神道・仏教・儒教・キリスト教の融和と、兵庫と神戸の融和で、兵庫の藤田積中と神戸の関戸由義を追悼する式典である。当時、兵庫と神戸は川床6㍍以上の天井川・湊川が分断していたため、お互いに交流はなく、仲が悪かった。翌明治22年の神戸市発足を控え、兵庫と神戸の融和が喫緊の課題であり、兵庫と神戸の功労者がそれぞれ顕彰対象に選ばれた。兵庫の 藤田積中は、勤王功労者、産業功労者、文化功労者で、新聞「湊川滴余」発行で知られ、神戸の関戸由義は、栄町通、諏訪山開発等都市開発、産業振興に貢献した。
 神儒仏耶の宗教合同式典とした背景は、明治16~17年頃、神戸では在来宗教とキリスト教が、互いに排斥しあい、活発な宣伝活動を展開していた。仏教徒は、神仏分離・仏教排斥・廃仏毀釈政策に反発し、キリスト教徒は信者や布教活動への偏見と布教活動への妨害に神経をとがらせていた。(右:祭典広告)
 東京では井上馨外務卿が精力的な条約改正運動を始めていた。神儒仏耶合同追悼会は、東京で展開されていた条約改正交渉を、神戸からも支援するという意味で、外国向けの演出の側面もあった。
 式典で、最初に壇上に上がった米国人宣教師アッキンソン(1842~1908、明治6年来神、神戸に35年間滞在、日本語堪能。修法が原墓地に眠る)が、90分の長演説をし、死人を神と崇めるのは野蛮な宗教であるとして、強烈に仏教を批判した。アッキンソン演説を聞いた「仏教の鼓舞者」目賀田栄が、憤然と式壇に登場し、演説は「我田引水の詭弁である上、死者を侮辱し、国体を誹謗したものなり」と追及した。怒りが収まらない目賀田は、兵庫県にアッキンソンを告訴するよう要請した。
 事件2日後の9月25日、「神戸又新日報」はこの事件を報道した。同紙では、折田は式典開始の挨拶をした後、病気のため会場を退出したことになっている。折田日記では、折田が事件翌日早朝、新聞社を訪問したと記録している。折田は、湊川神社で起きたこの混乱に当惑し、自身が不在である間の出来事として新聞社に工作した可能性も否定できない。

7 福沢諭吉の湊川神社夜間参拝
 明治22年9月17日午後4時、福沢諭吉が横浜から薩摩丸で神戸に到着した。諭吉夫妻、長男一太郎夫妻、令息令嬢、孫、使用人8人等総勢20名である。波止場で次男の捨次郎が出迎えた。捨次郎は、慶応義塾卒業。米国MITで鉄道工学を修めて帰国し、このとき、山陽鉄道(神戸本社)の技師をしていた。山陽鉄道の社長中上川彦次郎は諭吉の甥である。山陽鉄道は、現在の山陽本線である。
 諭吉一行は、西村旅館に投宿した。西村旅館は明治10年頃に創業された神戸を代表する名門旅館である。
 夕食後、諭吉は、湊川神社に参拝した。船で神戸に到着したのは午後4時である。荷物を開梱し、休憩、入浴、夕食後の参拝であるので、参拝時間は夜8時ごろと推定される。通常、神社には夜は参拝しない。
 実は、諭吉には白昼参拝しにくい事情があった。諭吉が『学問のすすめ』(明治7年3月)で、赤穂浪士討入と楠公精神を揶揄していたことに神社側は猛反発したからである。
 諭吉の楠公批判は、通称「楠公権助論」として知られている。それは、「忠臣義士の打ち死」と「権助が、主人の一両の金を失い、ふんどしで首をつる」行為は、「その死をもって文明を益することなきに至っては、正しく同様」であるとし、「無目的な忠臣の死」は文明に益するところなく、政府に対する人民の権利主張・権利拡大とは無縁のものであり、「人民の権利を主張し、正理を唱って政府に迫」った価値ある死は「佐倉宗五郎のみ」というものである。
 折田は、諭吉とは会っていないし、『折田日記』にも、諭吉参拝の記載はない。

おわりに
 湊川神社は、政策的に創建された神社であり、神話に由来する他の神社とはまったく異なる経歴を持っている。
 筆者は、湊川神社は神戸の宝であり、神戸近現代史と日本の歴史の語り部であると考えている。
 湊川神社が現代に伝えるものは、正成の生き方、品格と行動(智・仁・勇)に象徴される日本人の美徳である。阪神大震災の後、神戸では略奪も暴動も起きなかったことが、世界中の人々を驚かせた。ハーバード大学マイケル・サンデル教授は、米国ではハリケーンのときなど、便乗値上げ、スーパー強奪等が頻発するが、神戸のあの震災に接したとき、日本人が見せた礼節と他人への思いやりは特筆に値すると、白熱教室で講義した。
 湊川神社は、幕府と天皇の関係、天皇親政の明治政府の意味を現代の我々に伝え、同時に、湊川神社が第二次大戦中に軍部により戦意高揚に使われた負の歴史も伝えている。神社は歴史の証人でもある。湊川神社は、神戸への集客施設としても極めて重要である。




第2回講演概要

     日  時   平成30年7月7日(土) 午後2時~3時30分

    場  所   神戸海洋博物館 ホール

   講演題目  「川崎正蔵~
            神戸に初めて近代造船所を開設・発展
                       その背景・人脈を探る~」

   講演者   日本船舶海洋工学会「海友フォーラム」前会長・元川崎造船㈱
                 岡本 洋 講師

   参加者   50名


 講 演 概 要    (編集責任:NPO近畿みなとの達人)

  はじめに
 講演者の自己紹介をすると、造船現役50年、川重退職後現在まで20年間海事研究を行っている。川重では船舶性能中心に設計・研究開発を行い、40万トンタンカー、大型コンテナ船、フェリー「サンフラワー」、大型LNG船などに携わった。この間、戦後の川重をトップグループとする日本造船はそれまでの世界をリードした英国造船を抜き1961年(昭和36年)年世界一となり世界の造船建造量の50%を建造していた。
 川崎重工は東京築地において1878年(明治11年)起業し、同年川崎神戸造船所設立、その後官営神戸造船所の払い下げを受けた。1896年(明治29年)神戸東川崎町に(株)川崎造船所創立し、社長は松方幸次郎、 川崎正蔵は顧問であった。1897年(明治30年) 一番船である貨客船「伊予丸」が進水した。
 会社はその後、川崎汽船(株)、川崎車両((株)、川崎航空機(株)、川崎製鉄(株)等を設立して発展した。
 川崎重工は現在、海=造船:神戸、坂出、中国・南通、中国・大連、陸=車両・機械:兵庫、明石、その他、空=航空機:岐阜、明石、その他に工場を有し、本社は東京、神戸に置いている。 連結売上:1.57兆円、営業利益:559億円、連結従業員:3.58万人であり、売上比率は、船舶 6.0 車両 9.0 航空機 20.9 ガスタービン・機械 16.9 プラント・環境 7.9 モーターサイクル&エンジン 21.0 精密機械 12.6、その他 5.4%の構成である。

1 川崎正蔵の生い立ち
 川崎正蔵は、幕末の鹿児島に生まれた。1836(天保7年)~1912(大正1)。鹿児島は武士7分・町人3分という武士の世界で、(1826年には、人口5.8万の内、商人は僅か5千人)正蔵は少年時代は困窮の極であったが、その中で将来を嘱望されて華道・書・国学を学び、腕白だが器量大であった。
 薩摩藩・町衆から認められる役目を断り、あえて貿易・商業の道を目指した。15才で、浜崎太平次の海運問屋山木屋に就職、17才に長崎支店、22才で独立・商店を開設、29才で大坂に開店した。海運業事業者として、大阪・下関・長崎へ行き、米・俵者などを取引に携わった。
(右:晩年の川崎正蔵)

2 浜崎太平次の薫陶
 川崎正蔵が師事した浜崎太平次(8代目)は、海運業と薩摩藩の琉球貿易に携わっていた。浜崎は、三井・鴻池と並ぶ豪商で、薩摩藩お抱えとして琉球との密貿易に従事していたが、持ち船36隻、自前の2千坪の造船所を指宿に持ち
日本全国に支店網(函館。新潟・大坂・長崎・宮崎・甑島、鹿児島、指宿、那覇)を持つほか、外国のアモイにも支店を有した。(右:浜崎太平治の像) 
 この当時薩摩藩は財政的に困窮しており累積500万両の借財を抱えていた。この対策として家老・調所笑左衛門は太平次と組み密貿易により対応、太平次は薩摩藩の金策を一手に引き受け剛腕解決と蓄財を行った。太平次は西郷、大久保ら後の明治の元勲となる志士を通じて資金を献金、支援、交流し、藩主とも密接な交流を行った。太平次は守銭奴に堕さず、広い視野を持っていた。ところが島津斉彬が、抜け荷を幕府に暴露、藩主となった。その後も太平次と薩摩藩の蜜月は継続した。
 正蔵は、鹿児島時代に琉球貿易の乗船とビジネス、造船所活動、広範な海運・造船・貿易を見聞し、OJTによる太平治の薫陶を受けた。また、長崎時代には、海外情報を得るとともに、幕府、雄藩エリートの身近な活躍を見て、刺激と自己研鑽の時であった。

3 造船所の起業に向けて
 正蔵は、太平治に仕えた時代は研鑽と資金準備の時代であったが、次いで大坂に小商店開設し海運業等にも乗り出した。独立後は、佐藤会社に就職し、大蔵省琉球調査団に加わり、これが海運転機の始まりであった。
 次いで明治6年大蔵省駅逓頭・前島密の推薦により、日本郵政便蒸気船会社副頭取就任したが、この会社は各藩から新政府所有となった船舶所有の日本最大の船舶会社であったが、程なく解散した。明治8年には全国御米回漕方に命じられた。また、大阪に琉球砂糖取扱店開店した。明治2年には四国沖で持ち船が遭難、天草・牛深で持ち船座礁等の海難があり、造船所開設の思いが次第に高まった。
 造船所の開設は1878年(明治11年)4月の東京・川崎築地造船所が最初で、東京築地南飯田町9番地に420坪の官有地借り受け始めた。技師長として安井定保を月給200円という高給で雇い入れた。同年兵庫に兵庫造船所分所を開設、1878年(明治14年)4月神戸東出町に川崎兵庫造船所開設、東京と神戸に二か所の造船所経営を始めた。また、個人経営の川崎造船所を神戸東川崎町の官営兵庫造船所を借り受けて始めた。  
 これらを統合して1896年(明治29年)10月15日(株)川崎造船所を設立した。

4 神戸造船所と近代化~第1ドックの建設
 神戸造船所の発展に向けて競争力ある近代化造船所としての至上命題が第1ドックの建設であった。工事は軟弱地盤のため難工事で調査に4年をかけ、工事は6年間を要した。この第1ドックの建設は川崎正蔵の情熱・執念ともいうべきものであった
 第1ドックの工事責任者は、山崎鉉次郎〈1862~1917〉で東大〈工部大学〉卒、新進気鋭の土木技師を正蔵がヘッドハンティングして工事を彼に任せたものである。山崎は、「軟弱地盤に於いてもドック建設は可能」と当時革命的技術論を標榜してこれを実践した。
 第1ドック 建造時1902〈M35〉年11月 内法 130x15.7x5.5m 入渠最大船舶6千GT
       拡張後1959(S34)年12月    161x23.48x6.58       1万GT
の規模である。(右:第1ドック)
 1896年(明治29年)年株式会社組織とした時、初代社長は松方孝次郎が務めたが、 当時30歳で会社発展に松方の貢献は大きかった。(右:松方幸次郎) 
1911年(明治44年) 4月金剛型戦艦3番艦「榛名」(全長214.6m 排水量26,330ton)受注したが、このため、ドイツ設計の大型ガントリークレーンを発注した。
(右:ガントリークレーン)

ま と め
川崎正蔵は、川崎造船所の起業し、発展させたが文化活動にも熱心で。また、その企業精神についても注目される。
川崎造船所は、松方孝次郎社長の積極経営により、三菱と並ぶ造船所となった。しかし、昭和恐慌による川崎財閥は破綻し、再建への道を進んだ。また、昭和戦時に向けて・空母等艦船建造で発展し、戦後復興で大手造船所として発展してきた。
川崎正蔵の文化活動としては、美術収集家として評価される。神戸布引の広大な川崎邸に日本最初の美術館として2百数十点収蔵庫、展示館として長春閣を作っている。美術に関しては高い鑑識眼を有していた。
 川崎正蔵の残したものとしては、「国家社会の発展・繁栄のために」近代造船所の開設130にわたる事業分野拡充し、ものづくりを通じて高い技能、技術を培ってきた。これはGrobal kawasakiの実現につながる。また、神戸商船学校〈現神戸大学海事科学部〉を設立している。
 戦後半世紀、日本造船はゼロより復興、半世紀の間世界のトップの座をキープした。しかし、21世紀に入り、韓国・次いで中国にキャッチアップされた。川重は国内造船所とは別に中国に合弁造船2箇所を設けて健闘している。将来の進展を期待したい。



 

第3回講演概要

  日  時   平成30年8月25日(土) 午後2時~3時30分


    場  所   神戸海洋博物館 ホール

   講演題目  「二楽荘と神戸大港都構想論
                 ~大谷光瑞がめざした神戸への思い~

  講 演 者  龍谷大学 龍谷ミュージアム 学芸員 
                和田 秀寿 講師


  参 加 者  110名


 
講 演 概 要
      本講演において講演者あから配布頂いたレジュメは、
      まとまった形で整理されているので、以下にこれを転記して
      講演概要に代える。(事務局:NPO法人近畿みなとの達人)

 1.大谷光瑞の事蹟
大谷光瑞とは
 大谷光瑞(鏡如宗主)は、浄土真宗本願寺派本願寺(西本願寺)明如宗主の長男として、明治9年(1876)誕生した。天資英邁にして気宇広大、28歳で西本願寺第22世の法灯を継いだ鏡如宗主は、本願寺教団の強化に尽力してきた人物である。特に、インド・中央アジア等への仏蹟調査(大谷探検隊)を主宰し、多くの成果を上げた。さらに、本願寺教団内における組織的強化、国内外の伝道展開をめざした宗主の施策は、近代本願寺教団の発展に大きな影響を与えてきた。中でも、明治44年(1911)に盛儀の中に厳修された、宗祖親鸞聖人650回大遠忌法要は意義深いものであった。そして、宗門以外にも光瑞師の活動領域は広く多彩であった。生徒数300余名の中学校を設立し生徒の育成をはかり、私設の気象観測所を設け気象産業に貢献、マスクメロンの栽培など園芸発展に寄与した。さらに、国内外に建設した別荘の設計にも自ら関与した。また、梵語経典の収集と翻訳を推進させ講演、執筆に努め、中国古陶磁窯の発掘と研究を進め、アジア諸地域の農事開発(ゴム・コーヒー・香料植物・養蚕・織物・バラ)に先覚的に従事した。


 2.二楽荘の全貌
 二楽荘とは
 今から約100年前、大阪湾を見下ろす六甲山山麓(現兵庫県神戸市東灘区)に忽然と姿を現した建物が別邸二楽荘である。その建築は、壮大かつ華麗なもので、建築当初から「建築界の異彩」や「天王台の大観」などと新聞紙面の見出しとなり、建築家・建築史家である伊東忠太も現地を訪れ、「本邦無二の珍建築」と評したほどである。二楽荘の総敷地面積は24万6000坪とも言われ、東京ドームの約17個分に相当する広大な別邸で、山麓を階段状に削り出し、その平坦面に各施設が建てられた。山麓の下段には、洋館風事務所と教育施設「武庫中学」、中段には二楽荘を象徴する二楽荘本館、上段の山頂には光瑞の書斎でもある白亜殿「含秀居」、測候所、図書館兼宿舎の「巣鶴楼」、周囲には園芸施設などが配置された。そして、各施設をつなぐために、日本初と言われる蒸気駆動によるケーブルカーも設置された。二楽荘の「二楽」とは「山を楽しみ、水を楽しむ」、「山水を楽しみ、育英を楽しむ」という意味があったという。まさに名に恥じない別邸であった。

(1)須磨月見山別邸から二楽荘へ
 かつて、須磨の海浜附近にあった大谷家の別邸(海浜附近)を、山側(月見山別邸)に移す折に、光瑞は自らも避暑地や別荘地としては、海岸より山手の方が優良で、その理由として海岸の白砂浜では日中照り返し強く、朝夕には風があるので暑苦しいが、山地になると山や谷から風が吹き爽快であると指摘していた。二楽荘への選地条件もその内容が加味されていた。光瑞から提示された場所選定の条件は以下の通りである。
一、気候の最優勝な土地(須磨に匹敵するか劣らない所)
一、特殊の地形(南方に海岸を控える場所)を完備する地形
一、交通(京都から)至便な土地
一、天災の被害(地震、暴風雨は無論主に雷災)を避けられる土地
一、清良な水が最も豊富な所

(2)二楽荘本館の特徴

 二楽荘を象徴する本館が明治42年(1909)9月に竣工する。その本館の外見は、インドのアクバル皇帝時代の建物やインド近世建築の傑作といわれたタージマハル(墓廟)を模したとされ、赤いスレート屋根の西隅にはドームがそびえ、木造二階建・地下一階となっている。驚くのは、この建物の部材が、神戸沖で沈没した廃船部材を利用していることである。その巧妙な利用の仕方は、技師たちを驚かすとともに、光瑞の意匠を凝らした思いと費用節減の考えが伝わってくるようである。本館内部の構造は豪華で、一階には、「英国室」・「支那室」・「アラビア室」・「英国封建時代室」・純洋式の浴室と便所・事務室、二階には「印度室」・「エジプト室」・廻廊式書庫・洋式客室・門主寝室、地下には料理室などがあり、建築様式や家具・調度類で各国の雰囲気をかもし出している。また、この本館の各国の部屋には大谷探検隊の収集品も展示されていた。

(3)二楽荘の各施設と事業内容

 中学校の開校
 光瑞は、学生の育成を行うため二楽荘内に「武庫中学」(「武庫仏教中学」に改名)を明治44年(1911)5月に開校した。この中学は、全国から試験によって選抜された14歳前後の学生を中心に、生活面での援助(自費生・半給費生・給費生)も考慮された全寮制であった。そして、その運営の多くを生徒の手に委ね、外交部・経理部・風紀部・出版部・会計部などを作り自主的な活動を行っていた。その集団を「策進団」と称していた。教育方針は、苦楽共享の精神で協同作業を重視し、礼節を重んじ勝敗を第二に置くとことを第一義とした。また、自治思想の涵養を目的に、寄宿舎では、規則などはすべて生徒自身に任せた放任主義の形態を採用していた。学業では教科書、ノート、暗記本位の学習をせず、理解力を養成し実地応用の活力を引き出すために、学年末試験などをやめ、日々の学業への取り組み姿勢を常に評価した。学科として重視したものは、仏教はもちろんで、漢文・英語も重視し、宗教家としての要素は第二とした。このことは、宗門僧侶の養成機関にとどまらず、生徒が卒業後、国内外に出ても恥じないような多方面にわたる能力を持つ人材を養成していたことが考えられる。


 私設「六甲山気象観測所」について
 二楽荘の最高所(標高370メートル)には、六甲山測候所が設置されていた。その所長には元神戸測候所長の中川源三郎が就任した。光瑞は以前より地理学や気象学、そして測量学に精通し、その力量は大谷探検隊の行動にも活かされた。六甲山測候所では、地上における気象観測の延長として、高い山での気象観測(高層気象観測)を行うことでより天気予報の精度を追求した。そして、その予報は、一般の利便をはかるため山上から、夜間の照明(光達距離約20㎞)によって、晴れは白燈、曇りは緑燈、雨又は雪は赤燈を照らし翌日の天候を知らせた。また、気象機器なしでも気象の研究ができるように、全国の天気図を実費で毎日頒布していた。この頃の天気予報の伝達手段は、掲示板、信号旗、新聞、電報によるもので、六甲山測候所が実施した予報の伝達手段は、広範囲に速報する点において画期的なものであり、阪神間の酒造業、寒天業などの天候に左右される生産業者はもちろん村民にも有益なものであったと言える。

 マスクメロンの栽培

 二楽荘には大谷探検隊などが諸外国から収集した花卉や樹木が、一時期何百種類もあったと言われている。植物などを栽培する温室の一部は、マスクメロン専用の温室であった。その主任研究員が千原清であった。全国的な園芸雑誌や関西を中心とする農業雑誌や新聞には論評や視察報告、栽培方法など二楽荘産マスクメロンに関する多くの情報が掲載された。さらに阪神間では園芸家を中心にマスクメロン研究会も発足した。しかし、栽培設備が高額なため園芸家においても栽培数は少なく、ましてマスクメロンの単価が高価なため、一般的にはほとんど普及していなかったのが現状であった。この園芸事業も光瑞自らの嗜好のために運営されたものではなく、研究成果を園芸関係の研究会や品評会などで公表する中で、農業技術の発展と普及を目的としたものであったと考えられる。

 博物館機能としての二楽荘
二楽荘では、期間限定の一般公開が実施された。その最大の目玉になったのが、二楽荘本館で展観された「中亜探険発掘物展観」であった。「英国室」の障壁画、「アラビア室」の障壁天井・新疆の古銭、「支那室」や「印度室」の仏陀釈迦千仏断片・経石片・銅鼓の展示には、身動きが取れないほどの盛況で、中には中央アジアから発掘されたミイラも展示されていた。また、二楽荘本館では、大正2年(1913)4月1日から10日まで一般公募による写真展が開催されていた。
キーワード:大谷探検隊将来品の調査研究と展示・ミイラ・アトラクション・写真展

(4)宗主辞任とその後の二楽荘

  大正時代初め、西本願寺等の負債問題が表面化し、光瑞は大正3年(1914)西本願寺管長、西本願寺住職の職を辞するに至った。そして、二楽荘の諸事業も廃止となり、二楽荘で調査研究されていた多くの資料も分散する。二楽荘が機能したのは、竣工からわずか6年間のことであった。その後、二楽荘は、実業家である久原房之助(後の立憲政友会総裁)の所有となるが、昭和6年(1931)の六甲山の山火事の延焼で付属施設の大半を全焼し、翌昭和7年10月18日午前3時頃、二楽荘本館から火の手が上がり、数時間で本館は全焼してしまった。そして、数奇な運命をたどった二楽荘は、人びとの記憶から失われていくことになる。
キーワード:大谷家負債問題・甲南大学・久原房之介・山火災


 3.大谷光瑞の「神戸大港都構想論」
 大谷光瑞は、自ら関わった地域の地形・自然・歴史・産業・鉄道・観光・施設などを詳細に調べ上げ、その地域の将来性と発展策について論考した。二楽荘の位置した阪神間において昭和5年(1930)に「阪神大築港論」・「京阪神経済都市確立論」、昭和18年「神戸大港都建設論」を提唱した。また、終焉の地・別府では昭和22年に「別府観光都市建設論」を展開した。さらに、中国においては、昭和14年に政治、港湾の整備、水利、鉄道整備、農業などの将来計画「興亜計画論」を提示し、広くアジアの将来性を展望した。
 昭和5年4月21日 新造「龍田丸」応接室にて、第7代神戸市長黒瀬弘志等との神戸市の発展策について海図を指示して言及した。
 昭和17年5月、第9代神戸市長野田文一郎が提唱した「神戸大港都建設計画」の委員会の顧問として参画し、光瑞は12月暮れに秘書を通じて「神戸大港都構想論」を提出した。
①鳴尾付近に水陸併用の空港の設置
②灘区と神戸有馬電気鉄道唐櫃付近にトンネルを穿ち、これを有馬、宝塚に結びつけ神戸−宝塚間 25分の地下電車の敷設
③神戸−大久保間の高速電車を急速に実現させ市内には地下高速の環状線を敷設
④板宿、明石間を自動車線路
⑤垂水町と岩屋町間に海底トンネル
⑥布引に生れる弾丸列車の新駅
⑦布引から加納町を結ぶ海岸道路を建設
⑧上下水道を全市に敷












 4.おわりに −都市論構築の原点−
 大谷光瑞の都市論は机上の理論に終わることなく、学術的見地や実地経験から展開したものであった。規模は小さいながらも、この二楽荘は、計画から実現に至った光瑞の都市論構築の原点であったと思われる。そして、光瑞の頭の中には、二楽荘の建築段階から、神戸という土地の地理、経済、観光、貿易などの多くの要素を総合した都市の将来展望が、萌芽していたものと考えられる。









第4回講演概要


    日   時   平成30年9月22日(土) 午後2時~3時30分

    場   所   神戸海洋博物館 ホール

    講演題目  「初代兵庫県知事伊藤博文
               ~県政150年の始動~」

    講演者   国際日本文化研究センター教授
                瀧井 一博 講師

    参加者   105 名



講 演 概 要 (講演者未チェック 編集責任;NPO法人近畿みなとの達人)

はじめに
 講演者は、もともと福岡の出身で、海には縁のある少年時代を過ごした。神戸にも勤務したが住まいは山の中で、京都に移っても大江山という山の中で過ごしており、今日の潮風を吸いながらの講演は快適である。
 本日話す伊藤博文は、初代内閣総理大臣、兵庫県の初代知事であり海、港と縁のある人である。伊藤は山口県光市に生まれたがここは山村であり、生まれて以来山奥で暮らして来た。このような伊藤は、萩の下っ端の武士に奉公することになったが、萩は海に面して開けた土地であり、神戸と似たところがある。当時の伊藤少年は、山から海へ来て、「海の向こうには何があるだろう?」と世界を見たいという衝動に突き動かされていたのではないだろうか
 伊藤は、長州藩が派遣したイギリスへの留学生、所謂「長州ファイブ」の一人であり、チャンスがあれば海外へ、世界を見たいと思っていたようである。実際政治家になってもよく外国に行っている。人生は旅の連続と言っており、学問のやり方について、「例えばラクダという動物を研究するならば、ドイツ人は図書館の書架に行って調べ、フランス人は動物園に行くが、イギリス人はラクダの生息地に行って調べる」と英国人の素晴らしさを感じている。この姿勢で憲法を作る時に、ヨーロッパに行って各国の状況を調べて実践している。

1 伊藤博文のイメージと実像
 伊藤のイメージは必ずしも良いものではない。例えば司馬遼太郎は、「坂の上の雲」で、「伊藤は進歩の信仰者という以外にさほどの思想がなかった」、「伊藤が一国の政治のかじとりとして優れた業績をのこしえたのは、・・・そういう思想性がなかったからによる。」と書いており、「翔ぶが如く」では、「伊藤には、政治家としての哲学性が、西郷や木戸ほどには無かった。その分だけ伊藤は、魅力というほどのものを、同時代人にはむろんのこと、後世にも感じさせるところが薄い。」と書いている。この、司馬のイメージが一般的に共有されているようである。従って、思想がなく権力にしがみつくと取られ、また、国際的には日帝主義のシンボルとして 晩年韓国を日本の保護国にした思想がなく権力にしがみつくと取られている。国際的には晩年韓国を日本の保護国にしたことから、日帝主義のシンボルとして見られている。韓国との関係については、独立運動家安重根の伊藤射殺という結果となった。
 しかし、伊藤の政治哲学である「国を治めるのは人民である」などから、新渡戸稲造への書簡で、「君朝鮮人はえらいよ、この国の歴史を見ても、その進歩したことは、日本より遥以上であつた時代もある。この民族にしてこれしきの国を自ら経営出来ない理由はない。才能においては決してお互に劣ることはないのだ。然るに今日の有様になつたのは、人民が悪いのぢやなくて、政治が悪かつたのだ。国さへ治まれば、人民は量に於ても質に於ても不足はない。」と政治の責任を追及している。(前ページ:伊藤博文写真)
伊藤は、韓国の植民地化に反対をしているが、伊藤の死後韓国は日本に併合され、韓国ではその元を作った人物としてが、極悪人として描かれている。しかし、哲学性、思想性、今日性のある人物であると講演者は確信している。

2 伊藤と兵庫開港
 伊藤の政治の出発点は、兵庫で切って落とされた。
 慶応3年12月7日神戸開港の日、これを祝するため長崎に立ち寄ったイギリス軍艦ロドニー号に乗って伊藤は兵庫に到着した。(下:ロドニー号模型:神戸海洋博物館)
 長崎では、坂本龍馬などとも交流、イギリス商人グラバーと武器購入等の武器取引などを行っていた。この間に、大政奉還があり新政府が成立、兵庫に来ることとなった。
 明治元年1月12日再び下関より神戸に戻ったが、前日に三宮神社の前あたりで岡山藩の行列にフランス人が切りつけられる神戸事件が起こった。事件は岡山藩藩士の切腹により収まったが、この処理が外国庶務係として新政府の役職での最初の仕事であった。翌2月15日フランス兵と土佐藩士の間にいざこざが生じる堺事件が勃発した。この時も最終的には土佐藩士の切腹で収まったが、伊藤は両者の間の調整に働いた。
 同じく2月30日各国の公使(イギリス公使は事故のため不参加)の天皇謁見に通訳として帯同された。京都は外国人が入ることが禁止されており、これが最初のこととなった。伊藤は持ち前の英語力で活躍したが、長崎で英語力を磨き、外国人とも交流して役目を見事にこなしていた。このため「伊藤在り」と評判が立ったのであろう。
 同じく明治元年4月19日横浜への異動を命じられるが、辞退し、神戸開港場管轄外国事務の総てを委任される。神戸と大阪はともに開港場であり、税金の取り立てに不都合などが生じたため、両市の関係をどうするかが問題となっていたが、明治元年閏4月28日木戸孝允に、「大阪開港なれば、神戸鎖港候てしかるべし」と書き送っており、神戸鎖港も考えていたようである。

3 初代兵庫県知事として
 前述の大阪との関係で、兵庫県の成立については伊藤のかかわりははっきりしていないが、兵庫県の公館には、伊藤の運動が残っており、「兵庫は大阪の支配から逃れた」と記載されている。明治元年5月23日新たに出来た兵庫県知事に就任した。知事としての期間は明治2年4月10日までのわずか1年半であった。このようにして兵庫は港を閉ざすことにはならなかった。
 知事に就任した年の8月伊藤は旧知のヨゼフ・ヒコと再会するが、この人物は後述するが、その後の伊藤の活動に大きな影響を与えた人物である。姫路藩主酒井忠邦は、「廃藩置県」の考えを打ち出し、伊藤もこれに同意して、これからの新政府がどうあるべきかを「国是項目」として朝廷に差し出した。兵庫の地から中央政府に物申す形で、内容は非常に急進的であった。保守派・守旧派からは反対の声が高く、中には、「伊藤をたたき斬る」というものまで出て、身の危険を感じていた。兵庫の地で行った業績は伊藤の後の人生、出世のきっかけとなった
 知事辞任後本格的に中央政府に移った。中央政府では、岩倉具視が率いる海外視察団に参加し、事務方として勤めた。この海外視察や兵庫における経験、実績が後に総理大臣になる時に役に立っている。神戸の町並みを見下ろす大倉山公園に伊藤の銅像の台座が残っている。(前ページ:伊藤が湊川神社に寄進した灯篭)銅像は戦争中に撤収され、溶かされて武器となった。伊藤は知事時代湊川神社の創建に力を貸し、制限された所にあった楠木正成の像を人目に触れる場所に移した。伊藤の像も最初は湊川神社にあったが、日比谷の焼き討ち事件のあった1905年に日ロ講和条約に怒る人々により引きずりおろされた。(上:銅像を引き下ろす絵) 日露戦争については司馬の「坂の上の雲」にも描かれているが、賠償金なしの屈辱的な講和条約として書かれている。事件後、新しい銅像を建てようという運動がおこり、大倉喜八郎が作り大倉の別荘に置かれた。この像が前述の戦時中接収されて溶かされたものである。 (右下:大倉山に立つ伊藤の銅像)

4 立憲政治家・伊藤の原点

 ジョゼフ・ヒコ(浜田彦蔵・アメリカ・彦蔵)については若干述べたが、この人物は伊藤が明治憲法を作る際に大きな影響を与えた人物である。ジョゼフ・ヒコは、漁師であったが、幕末に遭難、漂流して、アメリカ人の船長に拾われアメリカに渡り、教育を受けた。幕末に日本に戻ったが、幕府は外国に行った者は帰国排除しており、そこで長崎に潜伏して、通訳、ビジネスをしていた。長崎で伊藤は知り合いになっている。ヒコの自伝によれば、ある日伊藤と木戸孝允が訪ねて来て、アメリカはどんな国かを教えて欲しいということでアメリカの政治の仕組みを教えたという。伊藤はヒコのレクチャーからインスピレーションを得たようである。慶應4年(明治元年)1月5日木戸宛便りに、戊辰戦争に嘆き、「米国独立の時に当っては、我日本の形勢と違い、人々は兵力なくとも、人心を一致させて強敵を打倒し、各人が国を独立させるとの思いを凝固させて、今日の繁栄を築いたのです。しかるに我が国は、万世一系の天子を戴きながら、・・・国を盛り立てる機会を失うようでは、実に心得なき者ではないでしょうか。夷狄と呼ぶアメリカ人に対して、顔向けができないではありませんか。」と日本人同士が争っている状況を憤っている。伊藤は、徳川に対する長州藩の態度に反省を求め、「私を去りて公平に帰する」を説き、長州人と徳川家との宥和を求めていた。
 さらにヒコによれば8月4日、夕食中に伊藤が入ってきたので、話のついでに、たまたま「私は1850年に離れたきり、今まで一度も自分の生まれたところを見たことがないのだが、今、生まれ故郷へ安全に行けないものだろうか」と話した。「勿論行けるとも」と伊藤は言った。そればかりでなく、「オーファン号を使って、乗って行ってもらうことにしよう」と言った。このオーファン号は、伊藤が数カ月前に政府用に買入れた小蒸気船であった。
 伊藤が中心となって作成した明治憲法について考えたい。明治憲法は讃えるわけではないが、「国民の権利を抑圧して、天皇に巨大な権力を与えた。」とよく言われ、非常によくない憲法・悪い憲法と戦後されてきた。しかし、当時作られたほかの国の憲法に比べても、グローバルなものと言える。伊藤は憲法を作るにあたり細心の注意を払い、作るからには国際的に認められるものでなければならないとしていた。憲法は天皇の権力を抑制するものと考えていた。今の21世紀の考えとのギャップはあるものの、1880年代に作られたものから、現在は進んでいる筈なので、当時の人々に対するものとしては最善のものであったのでなかろうか。 
 伊藤は日本人として初めてホワイトハウスに招待され、入った人物で、リンカーン大統領と執務室で会っている。伊藤は、アメリカ初代ワシントン、ドイツを統一したビスマルクに例えられるが、講演者は、「日本のリンカーン」と思っている。下の身分からの出身で、学問・知識を愛したこと、暗殺に倒れたことなど多くの共通点を有している。リンカーンは、丸太小屋から教育受けずに、好奇心から独学で勉強した。伊藤も貧農の子が養子に行き侍となり持ち前の好奇心、向学心に支えられ、英語の能力を自分の才能で開花させ、日本の総理大臣となった。ともに学問を愛したが、伊藤は読書家で国際関係の本も読んでいた。 共に知識を愛する人であった。リンカーンは南北戦争後、伊藤は維新後、国民の心を一つにすることを目指して、国民を基礎とした国づくりを進めている。
 伊藤はヒコからのレクチャーで日本を独立後のアメリカのように考えていたのではないだろうか。

5 むすびに代えて~伊藤博文の遺産~
 伊藤の政治姿勢の出発点は、兵庫において記した国是項目(兵庫版)にある。この中に「博愛の心に基き、人命を重じ、万民を視るに上下の別を以て軽重すべからず。人々をして自在自由の権を得せしむべし。」
「全国の人民をして世界万国の学術に達せしめ、天然の知識拡充せしむべし」と、人々を平等に見るべきで、士農工商を固定してはいけない。自由に別の身分に行ける社会を作ることを求め、自らも農民の出身で、幕末のどさくさにまぎれ政治家になったが、生まれながらは平等が肝心であり、人々の才能をつぶしてしまうことを恐れ、自由に身を保してゆくことが大事としている。知識の拡充からは、知識を持った国民は自由に活動できるようにすべきとしている。
 後に憲法できた時も同様に、皇族・家族を集めてこれからの世の中がどうなるかを教えている場面(1889.2.27の各親王殿下及び貴族に対する演説)で次のように言っている。「人民の学力、智識を進歩さして文化に誘導さして参りますと、人民も己れの国家何物である、己れの政治何物である、他国の政治何物である、他国の国力何物である、他国の兵力何物であると云うことを、学問をする結果に就て知って来るので、其れが知って来る様になれば知って来るに就て支配をしなければなりませぬ。若し其の支配の仕方が善く無いと云うと、其の人民は是非善悪の見分けを付けることの出来る人民で有るから、黙って居れと言って一国は治まるもので無い。」伊藤の追い求めたものは、国民の調和であり、藩閥を越えて、天皇のもとでひとつの国家のとの思いであった。このように、よその国の政治がどうなっているか国民が、知れば、都合の良いことばかりではなく、知識を蓄えた国民に対して「うるさい、黙れは通じない」と言っている。伊藤は、憲法に従い国民も政治に参加し、一緒に政治を行う、そのような国つくりを通じて、藩閥を超えて天皇のもとに統一した国民のための国家の建設を目指した。
 後に明治33年(1900年)に自分も政党を作るが、政党政治に対しては、「殊更に今の政党の如く源平や、新田足利の争うたが如き争いをすると云うことは、此文明の政治、憲法政治の下に於て其仕方方法が過ぎると思う。政党なるものはもー少し軽く見なければならぬ。余り政党者流も自ら見ることが重も過ぎるし、他より之を見る者も亦た重も過ぎて居る。政見の異同は到底多数の国民であるから免れぬけれども、今のような政党と云うものの観念が強過ぎて来ると、遂に源平の争を見たようなことになって、誠に国家の為めに望ましからぬことと考へる。」と仇討の政治をやっていると批判している。政党とは話し合いのための道具、憲法政治とは話し合いによる妥協と譲歩の政治とその発言は一貫している。
 憲法は、戦後変わり、明治憲法は否定された。ところが議会政治の状況はどうか?明治憲法の時から変わったか?をつらつら考え、今の憲法の在り方、議会政治のあり方を考える時、伊藤の考えを遺産として良いのではないか?そして、その遺産の元は兵庫論にある。









第5回講演概要
    日   時   平成30年10月20日(土) 午後2時~3時30分

    場   所   神戸海洋博物館 ホール

    講演題目  「兵庫の生んだ最後の沖縄県知事 島田 叡(あきら)
                ~沖縄と兵庫のきづな~」

    講演者   島田 叡氏事績顕彰期成会会長
                 嘉数 昇明 講師

    参加者   145名



講 演 概 要 (編集責任 NPO法人近畿みなとの達人)
 
はじめに
 終戦直後の摩文仁の丘は、一木一草もない荒涼たる、全体が砂漠のような状態であったが(右下写真) 今は緑が戻っている。戦争は全ての自然と人命を奪い、人の住めない状態にした。沖縄の山野にはおびただしい人が眠っており、収容されない遺骨が残っている。
 1951年(昭和26年)、戦争の傷跡の生々しい戦後6年目、生き残った旧県庁職員が中心となって、宮古、八重山も含め広く沖縄県民に呼びかけて寄せられた浄財によって、戦没された最後の官選知事島田叡氏、警察部長荒井退造氏をはじめ469柱の旧県庁職員の慰霊塔および終焉の碑が建立された。公募によって、「島守の塔」と命名された。
 その除幕式は、丁度、殉職者の七年忌に当り、島田叡氏夫人美喜子さんがはるばる参列された(最初にして最後の訪問となった。)。

〈写真下 左:起工式の鍬入れ、右:除幕式、前中央和服、島田美喜子様〉















「沖縄を守った知事」TV上映記録
 戦後70年を経て島田叡知事の足跡を偲ぶ映像が、2015年サンテレビ放映された。その映像を見ておおよそ感じてほしい。
〈上映記録を見つつ〉
 戦後73年を経っても「島田叡」という人物の存在は、多くの人に慕われ、尊敬されている。このような人はなかなか出ない。兵庫出身の縁で、沖縄の日本復帰の年、1972年(昭和47年)兵庫・沖縄両県の知事が調印し、「友愛県」の提携を結んでいる。兵庫の若者たちの提案で、沖縄の若者への激励プレゼントとして、テニスの沢松選手も参加した兵庫県民の街頭募金と兵庫県からの3億円余りの予算によって、「兵庫・沖縄友愛スポーツセンター」が奥武山運動公園に建設された。
 今でこそ、各学校に体育館があるが、当時はなかった。室内競技は、クーラー設備の整ったこのセンターで行うことができ、離島、北部からの遠征試合の際、宿泊でき、本県のスポーツ振興に大きく寄与し、感謝された。現在、跡地に記念碑がたっている。
 更に、島田さんの母校、旧神戸二中・現在県立兵庫高校の島田叡顕彰会から、野球の名選手であった島田さんにちなみ、沖縄高野連に高校野球の優勝校に与えられる優勝カップ「島田杯」が贈られ、沖縄の高校球児の“はるかなる甲子園”を目指す大きな励ましとなり、全国制覇への道につながった。甲子園は兵庫県にあり、沖縄からの出場校は兵庫県民のあたたかい応援をいただいている。

沖縄への赴任決意
 島田知事が、沖縄に赴任の内示受諾を決断したのは、大変な勇断であった。(小磯良平氏による島田知事肖像;右)
前の知事である泉知事は、1944年(昭和19年)に本土出張して戻って来なかった。1944年10月10日に米軍による無差別空襲があり、那覇は焼け野原になったが、その時知事は那覇不在の状況であった。当時知事は国が任命するいわゆる「官選知事」である。泉は後に愛媛県知事に横すべりしている。沖縄行きは、何人かに打診があったが、戦況はサイパン・テニアンは陥落、次は沖縄の状況で、誰も引き受ける人はいなかった。 島田氏にお願いがあったが、断ろうとすれば断れる。しかし、島田氏は「家族に悪いが、相談すれば駄目と言われる。死にたくはないが、国民は赤紙一枚で死地に赴いているのに、公職にあるものが誰かに行って死んでとはよう言えん。そんな卑怯なことはできない。」とOKをした。島田知事の座右の銘は、「断」で「断じて行えば鬼神もこれを避く」の気持ちで、大きな決断をなし、単身赴任をした。
 島田知事は全国の知事の中でも各地方勤務を歴任し、本省経験はない、珍しい存在であった。島田氏は、「本県には本県の事情があります」と本省の命を聞かない場合もあり、住民県側の立場に立つ本物の地方自治を実践する異色の役人であった。

食料の調達
 島田知事が沖縄に赴任してすぐに取り組んだことは、住民の食料の確保であった。制空権・制海権は米軍に全て握られ、食料は非常に乏しい状態であった。守備軍32軍では、「軍は半年、食糧大丈夫だが民間のことは知らぬ。」という状態で、知事としては自らが命懸けで台湾に飛び、当時、日本統治の台湾の要路と交渉し、450トンの台湾米の確保に成功し、徴用され船不足の中で何とか手配して、米潜水艦の支配する海を奇跡的に那覇港へ届けた。更にその船を名護湾へ回航し、北部住民と那覇はじめ中南部からの疎開者へ届けた。空襲下の必至の陸揚げ作戦を行ったが、「台湾米は届かなかった」という風説もあった。戦後、知事の必死の努力の証言記録が伝えられ、真実を語るものとなった。

南部撤退・県庁解散
 1945年(昭和20年)3月26日、米軍は那覇の沖合、慶良間諸島に上陸、艦砲を設置し、本島に向い嵐のような射撃を始めた。そして、4月1日に本島中部海岸に上陸、3日間で島を南北に分断したが、日本軍は何の抵抗もできなかった。沖縄には、最初、関東軍の精鋭が来たが、大本営は台湾に移駐させてしまった。その後は中学生、女学生、一般住民が飛行場作り、壕堀りに動員された。沖縄戦の状況では、米軍はガソリンの入った缶を壕に放り込み、人が出てきたら火焔放射機を一斉に浴びせる作戦であった。
 32軍は、首里城の地下壕に司令部があり、首里目前まで迫った米軍に対し、牛島司令官は、首里を放棄して南部撤退を決断した(5月22日)。それに対し、知事はこれ以上進むと南部で軍民混在し、県民の被害が拡大するから、首里で戦線を終わらせてほしい。南部撤退は愚策と言ったが、軍の考えは米軍の本土決戦を遅らせるための“捨て石作戦”であった。軍は壕の民間人を追い出し、赤子が泣けば、敵に知られると親に口を塞ぐことを強制した事例が多かった。
 那覇市の東、首里と向かい合う真地地域にある県庁警察部壕で、4月27日、敵前、砲弾飛び交う中、最後の緊急市長村長警察署長合同会議を開催し、南下する避難民受け入れを協議した。畑にあるものは共有とし、夜間、米軍の攻撃の無い時に農作物をとることにした。
 5月25日荒井警察部長、内務省に「60万県民只暗黒なる壕内に生く…」と現状報告の最後の打電。島田知事以下県庁警察部職員、雨中、泥まみれの中、南部へ撤退。6月5日~7日、海軍沖縄根拠地隊大田司令官、島田・荒井の意を体し、不朽の電文「沖縄県民欺く戦へり…」を海軍次官宛打電。
 6月7日、島田知事、糸満轟の壕にて県庁と警察部隊を解散。ここに68年に亘る県と警察部の歴史に幕。ここに沖縄県消滅。随行した県警察部職員に「今後は自重自愛するように」(生きろというメッセージを伝達)。6月23日、牛島司令官、長参謀長、司令部壕で自決。沖縄戦の組織的戦闘止む。6月26日、島田知事、荒井警察部長、軍医部壕を夜間出る。以後、公式の消息不明。

島田知事の最後・その終焉の地を求めて
 住民の安全誘導のため、沢山の県庁職員が亡くなっている。糸満の轟の壕から摩文仁へ移動、現島守の塔終焉の碑の脇にある軍医部壕を荒井部長に共に出たその終焉の行方を追った。
 平成25、26両年にわたり、島田さんの母校兵庫高校OB武陽会と島田知事の終焉の地を突き止めんと捜索したが、付近はジャングルになっており、特定するには至らなかった。有力な手掛かりとして当時、東京三鷹で魚屋を営む山本(兵曹)さんからフジテレビの番組を見て「自分は島田さんに会った」と名乗り出があった。山本氏によれば、摩文仁の海岸沿いの壕で民間人3人に会い、「上の方に知事がいる」と聞いたので、上り尋ねて行ったら「島田です」と名刺をもらったという。また、飯盒の黒砂糖を頂き、感謝してそこを辞した。数日後、米艦から流れ着いた箱の中の粉で団子を作り、もう一度訪ねたら、民間人から「島田さんは亡くなった」と言われた。枕元には銃が残っていた。山本さんはその後米軍の捕虜となった時、島田知事の名刺を含む持参物全てを没収され、証拠立てるものを失ったという。我々は山本氏とフジテレビスタッフの残した手書きの略図をもとに兵庫高校OBと2ヶ年にわたり捜したが、場所は特定できなかった。この捜索は継続事項“ING”である。その後、兵庫県との交流のきずなも継続して発展させるべきものと考えている。

兵庫と沖縄の交流
 戦後、島田知事の縁での兵庫-沖縄両県の交流の展開されたものとしては、1964年の「島田杯」の贈呈、1972年以降の兵庫・沖縄青年友愛キャンプの夏・冬実施があるなどがある。

 戦後70年(島田氏没後70年)記念島田氏顕彰事業としては、
① 島田氏母校同窓会武陽会との合同捜索活動
② 武陽会と城岳同窓会の二中同士の連携協定、
③ 第27代沖縄県知事島田叡氏顕彰碑建立(平成27年6月26日)
④ 第27代沖縄県知事島田叡顕彰事業記念誌の発刊
⑤ 野球資料館への「島田コーナー」の設置
⑥ 「最後までのベストを尽くせ」との島田精神を後世に伝えるため、小・中学校の野球大会の「島田杯」創設・贈呈。
⑦ 島田、荒井両氏を顕彰する「島守忌」俳句大会を創設し、県知事賞作品を慰霊の日の島守の塔慰霊祭の際、吟唱する。

・現在、兵庫県から多くの中・高校生が修学旅行で沖縄を訪れ、島田さんの母校の後輩達が毎年訪問。
・神戸三宮人・街づくり協議会が毎年市内養護施設の子供たちを沖縄へ案内し、島守の塔を参拝し、美ら海水族館を見学、文集を発刊している。
・兵庫県には戦前から沖縄出身者が兵庫県民として在住し、活躍している。

兵庫の皆様から寄せられたご好意・恩義に報いたい。今後ともこの友好のきずなを大事にしたいと思い、親戚づきあいをよろしくとお願いしたい。






第6回講演概要
    日   時   平成30年11月24日(土) 午後2時~3時30分

    場   所   神戸海洋博物館 ホール

    講演題目  「神戸ものづくりはじめ物語:紙から船まで
            ~ウォーリッシュ兄弟・キルビー・ハンター~」

    講演者   神戸外国人居留地研究会会長
                 神木 哲男 講師

    参加者 95名



講 演 概 要 (講演者未チェック 編集責任 NPO法人近畿みなとの達人)
 
1 は じ め に
 幕末には外国から色々な技術が入り、これを上手く取り入れていた。江戸時代には庶民はぎりぎりの生活をしていたと思う向きが多いが、実際はそうではなかった。その土台の元に外国の技術を取り入れていったといえる。

2 江戸時代の産業技術
 徳川260年の間はまれに見る平和な時代であった。そんな中で、① 寺子屋教育の普及により、読み書きソロバンができ、識字率が向上した。② 農民の勤労意欲が向上し、農業生産性が向上、農業が発展した。③ 農業、土木、建築、造船などの産業技術も発展した。
 明治になってからは、後進の有利性(Advantage of Backwardness)から新しい技術をどんどん取り入れ、日本化していった。

3 開国・開港
 開国・開港までの経緯を整理すれば、① 嘉永6 年6月3日(1853年7月8日):アメリカ東インド艦隊司令長官ペリー Matthew Galbraith Perryが 来航。② 嘉永7年3月 3日(1854年3月31日):日米和親条約締結、これにより箱館・下田開港。③  安政5年6月19日(1858年6月19日):日米修好通商条約締結、(安政5ヵ国条約)。④ 安政6年6月 2日(1859年7月 1日) :箱館・神奈川(横浜)・長崎開港。⑤ 慶應3年12月7日(1868年1月1日):神戸開港・大阪開市。
となっている。

4 開港後に来神した外国人
 神戸開港後に神戸に来た外国人は、① お雇い外国人、②冒険商人、③日本の観察者 に分けることができる。
 お雇い外国人としては、明治3年8月着工、7年5月開通した鉄道建設に従事した工部省鉄道寮所属のチャールス・シェパード、ジョン・グレー、サミュエル・スタンフォードがいた。また、兵庫県(範多龍太郎)が雇用して(明治17年10月10日~20年9月30日)、精米機械運転技術を指導している。
 冒険商人( Merchant Adventurer)としては、製紙に携わったT. ウォルシュとJ. ウォルシュ、造船に携わったE.C. キルビー、E.H. ハンターがいた。
日本の観察者として、日本を海外に紹介 したのは、L. ハーンとW.モラエスである。
 以下にこれらのうち「ものづくり」に関係した外国人を紹介する。

5 日本の鉄道
 嘉永6(1853)年7月、ロシア・プチャーチンが長崎に来航、船内で長崎奉行所の役人に鉄道模型を見せ(前ページ写真)、アルコールを燃料に全長15センチほどの蒸気機関車を走らせた。嘉永7(1854)年、ペリー、再来日時に大型の蒸気機関車の模型を幕府に献上した。蒸気機関車(長さ2.4m)、客車(長さ3.2m)、
線路の幅(約50ch)で、横浜村の広場で走らせ、幕府役人・河田八之助が客車の屋根に乗り、時速20マイル(約32km)で走った。安政2(1855)年、佐賀藩の田中久重(からくり儀右衛門・芝浦製作所の創設者)らの手によって、全長約27cmのアルコール燃料で動く模型蒸気機関車の製作に成功、日本人が作製した最初の機関車である。
 慶應3(1867)年、アメリカ公使館員ポートマンは、江戸幕府中・小笠原長行から「江戸横浜間鉄道敷許」を受け、新政府にその履行を迫ったが、拒否された。明治3(1870)年、技術・資金絵援助する国として新政府はイギリスを選定し、エドモンド・モレルが建設技師長に着任、井上勝が鉄道頭に就任、建設に当たることとなった。明治3年3月、新橋・横浜間着工、明治5年9月、開通した。大阪・神戸間は明治3年7月、着工、明治7年5月開通した(上絵図)。大阪・神戸間の開通に時間がかかったのは、間にある川が天上川でありトンネルを掘削する必要があったからである。いずれも1067mmの狭軌を採用(標準軌は1435mm)している。

6 トレビシック兄弟 Trevithick
〈蒸気機関車〉
 蒸気機関車の起源は、1802年、リチャード・ トレビシックが高圧蒸気機関を台車に乗せたものを制
作し、これが世界最初の蒸気機関車とされている。ジョージ・スチーブンソン (George Stephenson
1781年~1848年)は、1814年に石炭輸送のための蒸気機関車を設計、走行に成功した。彼が採用した「1435mm」のゲージは標準軌として世界で採用された。
トレッビシック兄弟の兄:リチャード・フランシス・トレビシックRichard Francis Trevithick(1845~1913年) 弟:フランシス・ヘンリ-・トレビシック Francis Henry Trevithick (1850~1931年)
 兄は、イギリス・アルゼンチン・セイロン(スリランカ)などの鉄道に関係し、1888(明治21)年3月から1905(明治38)年まで17年間、御雇い外国人として日本に滞在、神戸には来ていないが、官営鉄道神戸工場に汽車監察方を勤める。1893(明治26)年、初の国産蒸気機関車を完成し、1905(明治38)年3月、帰国した。
 弟は、 御雇い外国人として来日、主として官営鉄道・ 新橋工場の汽車監察方として活動した。日本女性と結婚、二男二女をもうけ、明治30 年、退職、帰国している。
国産蒸気機関車の製造は、部品の調達から(1)パーツ全体を輸入したもの、(2)材料をイングランドより輸入し神戸工場で加工したもの(ヨークシャー製の鉄、ジーメンス・マーチン製の鋼、その他銅など)、(3)国内で材料を調達し製作したもの の3つに分けられる。蒸気機関車の製作は、明治25(1892)年10月製造開始、明治26年5月26日完成した(221号)。そのあと明治27年6月1日に137号(上写真:これは神戸で作られた。)、明治35年5月1日、885号が製造された。860型 の機関車は、明治26(1893)年~大正7(1918)年、京阪神間で使用、大正7年に国鉄の車籍から削除され、その後樺太鉄道庁に入線、昭和3(1928)年廃車された。なお、上述のように神戸でも蒸気機関車は製造されている。

7 ウォルシュ兄弟
 神戸の洋紙製造を手がけたウォルシュ兄弟は、兄 トーマス・ウォルシュ( Thomas Walsh 1827(文政10)年~1900(明治33)年)、弟 ジョン・ウォルシュ (Jhon Walsh 1829(文政12)年~1897(明治30)年)の二人である。兄弟は、アメリカ・ニューヨーク州ヨンカーズ(Yonkers)でアイルランド移民の子として生まれた。長男・リチャード Richard、次男・トーマスThomas、三男・ジョン Jhon、四男ロバート Robertの4兄弟である。上海を経て安政6(1859)年、兄弟は、長崎に来航、居留地12番館にウォルシュ商会を開設、安政6(1859)年~元治2(1865)年の間、ジョンはアメリカ合衆国初代長崎領事を務めている。兄弟は、横浜にも商社を開設した。横浜居留地1番にジョージ・ホールと共に、ウォルシュ・ホール商会を創設(通称アメリカ一番=亜米一)し、生糸・茶・樟脳などを扱った。
 洋紙の製造工程では、木綿襤褸を原料としていたが、原料から植物繊維(パルプ)を抽出する工程から、抄紙工程(パルプから紙を製造する工程)に分かれる。紙の需要増大と原料ボロ布の不足から1870年代は原料転換期となり木材パルプの工業化が始まった。抄紙工程で多量の水を必要とすることから、工場の立地は、河川・水路沿いに建設されることになる。
 日本の洋紙製造の始めは、明治7(1874)年に有恒社(旧広島藩主淺野長勲の創設、東京府日本橋区蛎殻町)である。明治8年、渋沢栄一による抄紙会社(東京・王子村、後の王子製紙)が明治6年設立され、認可を受けて、ウォルシュ・ホール商会によるアメリカからの機械輸入、据え付け、横浜の鹿島岩蔵(鹿島建設の創始者)を推薦、工場建設に当たらせた。大阪では、明治8年蓬莱社(後藤象二郎による設立)製紙部が、大阪府北区玉江町に工場を建設された。
 神戸への進出は神戸開港と同時にウォルシュ商会が、明治元(1868)年、居留地第1回競売で居留地2番(527坪)を得て、ウォルシュ商会(ウオルス Walsh &Co.)を開業した。日本で木綿のボロを買い付け、欧米に輸出した。藍染めされた木綿ボロから高価な藍を抜くため染物業者が使用した石灰と水を含んだものを輸出したが、インド洋付近で発熱・発火により焼失した。明治9年から木綿襤褸をパルプ状(植物繊維の主要成分セルロースを純粋な形で取り出したもの)にする技術革新を行い輸出した。
明治5(1872)年、英米人に呼びかけ、英貨5ポンドを資本金としたイギリスの法律による株式会社を設立、社名をThe Japan Paper Making Company, Lmited 英国倫敦日本製紙会社とした。ウォルシュ兄弟が資本金5万ポンドの半額を出資し、明治7(1874)年、雑居地外の海岸沿いの菟原郡小野浜新田の土地を借り受けることを申請したが、許可を得られず、明治8(1875)年1月、神戸区三宮町1丁目の民有地2319坪を借用期限25カ年、地代坪当たり4銭で借り受け、工場建設を計画した。明治9(1876)年3月、工場の建設を王子製紙の建設を手がけた横浜の鹿島岩蔵(鹿島建設創業者)に依頼したが、完成段階で大幅な資金不足が発生し、他の出資者が手を引き、ウォルシュ兄弟で経営を引き受けることとなった。明治10(1877)年7月、社名をKobe Paper Mill 神戸製紙所と改めた。機械は、ジョン・ウォルシュが渡米して発注し、アメリカの抄紙機械を輸入・据付を行った。
岩崎弥太郎は、土佐開成館長崎出張所の主任として武器買い付け、土佐物産の売り込みを行っており、 長崎12番館のウォルシュ商会と取引関係を結んでいた。 横浜・神戸でもその関係は続き、弥太郎の弟・弥之助が明治5(1872)年、アメリカ留学に際してウォルシュの援助を受け、明治11年5月、岩崎弥之助か  ら神戸製紙所・ウォルシュ商会の資金として13万円を借用し、その担保として神戸製紙所の設備を提供している。 
〈神戸製紙所の活動〉
神戸製紙所は、明治12(1879)年、上質紙の製造を開始したが、生田川の付け替えにより水路から距離が できたので、用水は明治21年まで井戸水に依存していた。
 幕臣小野寺正敬〈1848年生まれ〉は、1870~74年アメリカ留学をし、明治8年、王子製紙入社、明治12年12月、神戸製紙所技士長(明治27年まで)を勤め、明治27年東京板紙会社入社した。明治13(1880)年、王子製紙の呼びかけで東京日本橋浜町に東西製紙業界の首脳が集まり、ウォルシュの提案で製紙所連合会を結成した。これは、近代工業分野で最初の同業者団体で、後の日本製紙連合会となる。参加社は、王子製紙・有恒社・神戸製紙所などである。日清戦争の新聞各社の報道合戦、雑誌・図書の発行部数の増加が、製紙会社に飛躍的発展をもたらし、製紙工業の興隆期となった。(右:当時の製紙工場)
明治30(1897)年8月、弟ジョンが急死(小野浜外国人墓地に埋葬)、兄トーマス(70歳)は事業を整理、帰国を決意した。岩崎久弥は、兄弟の持ち分を買い取り、明治31(1898)年1月、合資会社神戸製紙所を設立、明治35(1902)年5月、高砂に新工場建設して移転、明治37(1904)年、三菱製紙所に、大正6(1917)年、三菱製紙株式会社となった。 
兄トーマスは、事業譲渡後、スイスに移住し、1900(明治33)年、死去している。

8 日本における造船業の発展
造船業の役割は、船の新造、船体・機関・船具の修理や改造、船底部の清掃などで、19世紀の後半は、船の材質は、木造から鉄そして鋼と変わり、動力は、帆から蒸気機関に変わって行った。作業過程は、木造帆船では、木工作業中心、蒸気機関では機械工場で、鉄鋼船では鉄鋼作業中心と変わり、ドックの必要性増大してきた。
日本の在来造船業は、木工を中心として鍛冶を伴う和船造船業の幅広い展開をしていた。造船所は、瀬戸内沿岸(室津・尾道・鞆)にあり、兵庫の造船業は、船大工町にあった。また、日本海沿岸の北前船の船主が多い地域の境港・敦賀・小浜・加賀橋立・新潟・酒田・秋田も造船業が発展した。
 幕末維新期の造船業としては、長崎製鉄所が、安政4(1857)年8月、オランダから11名の技術者・職工が長崎製鉄所建設のため招聘され、文久元(1861)年に完成、艦船の修理を行った。安政6(1859)年には、イギリス人船大工2名が渡来、造船業を営んだ。
横浜では、安政7(1860)年2月頃、オランダ人船大工J.フライ、イギリス人船大工H.クックが造船業を
営み、フライのもとに大工頭幸兵衛、クックのもとに大工頭和助が登用され、日本人船大工が働いた。・横須賀製鉄所は、慶應元(1865)年、フランスの技師・ヴェルニーを招き建設された、ここは、後に海軍省所管・横須賀海軍工廠となった。
兵庫における造船業は、明治元(1868)年、イギリス人ヴィグナルが、神戸に兵庫鉄工所・Hiogo Iron Works を開業し、阿波藩の注文で小汽船を建造した。明治元(1868)年、大聖寺藩(加賀藩の支藩)で長崎製鉄所にいた杉山徳三郎を招いて小製鉄所を開業し、琵琶湖用の小汽船を建造、翌明治2年、加賀藩と共同、プロシャ人W.ハイスを招いて、神戸の工場を拡充して、加州製鉄所として、船体の修理、小汽船の機関製造を行った。また、アメリカ人ミュアヘッド、フィッセルのストロム商会と提携、ヴァルカン鉄工所・Vulcan Iron Works を開き、無事丸・芙蓉丸を建造、阪神間や瀬戸内海の連絡航路に就航させた。廃藩後、明治政府に引き継がれ、工部省兵庫製作所となった。明治3(1870)年には、大阪の造船業者・兵庫屋がドイツ人セーガンを招き、小汽船を建造した。ここは、のちの藤永田造船となった。

9 E.C. キルビー Edward Charles Kirby
 E.C.キルビーは、1836年6月23日、イギリスのウースター州スタウアブリッジで生まれた。家は代々
牧師で父はケンブリッジ大学卒業、牧師でグラマースクールの校長を兼ねていた。家族は当時大流行したチフスで死去、孤児となり自らもチフスのために難聴となりハンディを背負うことになった。父の死後、
教会孤児院に引き取られた。1855年頃、オーストラリアに渡り、金の採掘や牧畜などに携わり、1860年頃、上海に渡り、のち寧波で倉庫業・船具の販売を始めた。1865(慶應元)年、横浜に来て、フランスなど列強の海軍と契約を結び食料品を納入する、製パン技術の導入、マッチの輸入、食肉の処理(屠殺)などにも携わった。
 明治元(1868)年、来神(32歳)、居留地13,14,23,24番(現在の市立博物館)を手に入れ、キルビー商会
を設立、大阪・川口居留地にも事務所を構え、機械類・雑貨・薬種の輸入を行った。小野浜鉄工所を作り、機械類・船舶の製造を始めた。明治4(1881)年、熊本藩の依頼により木造蒸気船「舞鶴」完成した。このころ、来日外国人の需要に応じるため市内海岸通り「柴六」の酒造蔵を借り、牛の解体をはじめたが、近隣の反対にあって廃業した。明治6(1873)年、イギリス人2人(R.ハーガン、J.テイラー)と共同で、小野浜造船所(ディレクトリーでは神戸鉄工所)を設立、明治13(1880)年までに2人が手を引き, キルビー商会単独の所有となった。明治8(1875)年前後、横浜で日本人従業員の妹・中川満起と結婚、明治10年11月に長女メアリー(日本名いし子)生まれた。
明治16(1883)年12月10日、横浜で急死(47歳)したが、自殺の疑いがもたれている。(右写真:キルビーとハンター)

〈小野浜造船所(神戸鉄工所)時代〉
① 小野浜造船所の建設
 明治6(1873)年時点の外国人経営の造船所は、バルカン鉄工所(外国人6名)、生田鉄工所(同4名)、兵庫鉄工所(同2名)、W.K. ボアードの造船・建築業(同3名)〔明 治6年ディレクトリーによる〕であった。
1873年5月17日、契約成立。資本金2万ドル の会社が設立された。資本持ち分:キルビー=6分の4、 ロバート・ハーガン=6分の1、ジョン・テイラー=6分の1、で、営業は、機械製造・修理、鋳造・鍛造、造船であった。明治13年までにキルビー商会単独の所有となった。
② 琵琶湖鉄道連絡用汽船・第1太湖丸、第2太湖丸の建造
 長浜-大津間鉄道連絡用汽船として総トン数500トン・鉄製汽船を建造した。
③ 軍艦・大和の建造
 明治16年2月、鉄骨木皮軍艦「大和」の受注した。建造費59万8500円、排水量1172トン、速力13ノット(時速約24kkm) 、建造期間:明治16年2月~17年9月、職工数約800名、香港上海銀行の融資を受けた。横須賀海軍工廠に次ぎ国内第2の規模に成長、キルビーは大和建造中に急死、横浜外国人墓地に埋葬された。
④ 海軍省による買収
 次のようなキルビーの死と海軍省による買収の記録が残り、明治17年1月22日、海軍省による買収締結された。
 『神戸港小野濱ニアル英國人「イ・シー、キルビー」氏所有製造所諸機械其他買入方伺大和艦製造ノ儀ハ曽テ伺濟ノ上神戸港小野濱製造所持主英國人「キルビー」請負ヲ命ジ當省ニ於テ定約ヲ濟該工業着手央ニ候処請負主「キルビー」儀客歳十二月十日卒然死去シ保證人ニ於テ定約ヲ履行シ右工業ヲ果シ得サル旨申出候』

10 E.H. ハンター  Edward Hazlett Hunter
 E.H.ハンター(右写真)は、1843年、イギリス・ロンドンデリーで生まれ、少年時代にオーストラリアに渡り、その後香港・上海に渡った。慶応元(1865)年、横浜に上陸(22歳)し、キルビー(29歳)と知り合う。明治元(1868)年、開港と同時にキルビーと共に来神、キルビー商会に勤めた。小野浜鉄工所に最初から関係し、鉄工所最初の注文船・肥後藩の木造汽船「舞鶴丸(総トン数171.5トン)」の建造の工事監督を務め、和歌山神前出身の秋月清十郎と完成させた。明治元から2年ころ、キルビー商会の取引先の薬種問屋・平野屋常助商店(西区江之子島)の娘・あい(愛子:前頁写真)と知り合い結婚、長男リチャード(範多龍太郎)、娘〔範多藤子〕、次男ハンス(範多範三郎)、三男エドワード(範多英徳)を設けた。明治6(1873)年、30歳でキルビー商会を辞し秋山と共同で企業を起こす計画を立てるも、秋月の病気により断念する。明治7(1874)年、居留地29番を借り入れ、ハンター商会を設立、貿易を始めた。明治14(1881)年4月1日、大阪鉄工所創設、明治20(1887)年、日本初の機械精米所を創設、明治28(1895)年、大阪鉄工所社主を引退、長男・龍太郎に譲る。明治42(1909)年、勲五等旭日双光章を受け、大正 6(1917)年6月2日、神戸で死去、74歳、神戸外国人墓地に眠る。
〈大阪鉄鉱時代のハンター〉
明治12(1879)年、大阪財界の有力者で材木商・門田三郎兵衛の協力を得て、大阪安治川口(此花区)に大阪鉄工所を設立、造船業に乗り出した。明治14(1881)年、木造汽船・六甲丸を建造、明治16(1883)年、ボイラー・機関とも自社製作による木造汽船・鎮西丸(総トン数 515 トン)を建造した。木造乾ドックをイギリス人技師・G .F. コードル Codor の設計と指導によって、明治16(1883)年完成、これにより船の修理、船底の付着物の除去が可能となった。
〈松方デフレ政策〉
明治17(1884)年、鉄工所の事業と設備を門田三郎兵衛に譲渡し、居留地29番のハンター商会で貿易に専念、茶・米の輸出を行う。多角経営を実行し、長男・範多(平野)龍太郎による機械精米の事業のため、兵庫出在家町に精米所を設立、イギリスから精米機械を輸入、精米の大量生産と行い、輸出を目論んだ。 イギリス人J.C.ウィルキンソンを招き、精米機械の運転を担当させ、年間1万トン以上の 米を輸出した。 この米はロンドンの穀物市場で標準米とされ、価格形成の先導的役割を果たした。また、米松の輸入、シャム(現タイ)よりチーク材を日本ではじめて輸入をした。
〈大阪鉄工所の再経営〉
門田三郎兵衛が、大阪鉄工所の経営に行き詰まり、ハンターに経営を委たく、明治17(1884)年12月、
再び大阪鉄工所の経営を行うこととなった。技術者に外国人を採用せず、工部省工部大学校出身の日本人技師を造船部門・造機部門に積極的に採用し、日本人技師との間に強い信頼関係を作った。
〈大阪商戦会社の設立〉
明治17(1884)年5月、瀬戸内海の海運業者の合同、出資により設立,所有船舶93隻、 9835トンで瀬戸
内海定期航路を開始した。淀川丸、木造汽船、総トン数391トン、明治19年、完成した。最初の鉄船・共立丸の建造、明治21年5月進水、総トン数148トン、名古屋・熱田 ・四日市間に就航、球磨川丸、総トン数550トンの鉄船、明治23年完成した。琵琶湖湖上運行の第三太湖丸・第四太湖丸も完成させた。
〈範多龍太郎へ移譲〉
明治28(1895)年、アメリカ留学から帰った龍太郎に大阪鉄工所社主の地位を譲り、大正3(1914)年、株式会社大阪鉄工所に改組、社長に範多龍太郎が就任した。昭和11(1936)年、日立製作所の傘下に入り、昭和18(1943)年、日立造船株式会社に社名を変更した。
〈北野町に大邸宅を建築〉
神戸を安住の地と定めて生涯の晩年を送ることを決心
し、北野村の大庄屋・藤田清左衛門から3000坪の土地を譲り受け、日本家屋を建築、また、北野にあったドイツ人の住宅を敷地内に移築した。・大正6(1917)年6月2日、死去、74歳 であり、外国人墓地に埋葬、妻・愛子と共に眠っている。(ハンター邸:右写真) 
子供の名前にからも分かるように日本に帰化し、自宅で
は子供に日本語しか話させなかったという。