神戸みなと知育楽座


平成21年度 神戸みなと知育楽座

テーマ「神戸のみなと・まち・歴史をもっと知ろう!」
 

 
第1回講演概要

  日時 平成21年6月20日(土) 午後2時~3時30分
  場所 神戸海洋博物館 ホール

  テーマ  「海から神戸の歴史を見直そう」

  講演者 神木 哲男 神戸外国人居留地研究会 会長
               (神戸大学名誉教授)

  参加者   110名

講演概要      (文責:NPO近畿みなとの達人)
 1 はじめに:
   神戸は港と非常に深い関係があり、古くから流通、海運、貿易の拠点で、海港都市であった。
神戸は、これまで海港都市として成長しており、今後も発展が期待されている。この様な観点から、海から見直してみる。

2 平清盛のベイエリア開発と海上帝国:
   菅原道真の遣隋使廃止から、中国との交流は途絶えていたが、清盛が、宋との貿易を開始し、宋船を瀬戸内海に入れるようになった。
 宋貿易の中心大輪田の泊は、東からの波に遮蔽するものがないので、人工島(経ノ島)を港背後の塩槌山を崩し海を埋め立てて作った。動員人数5万人、面積約30~50平方メートルの規模であった。
 日宋間の貿易は隆盛を極めたが、主な輸出入品は次の通りである。
 輸入品は、香料、顔料、絹織物、陶磁器、経典、書籍、文房具、貨幣などである。貨幣は、古くは国内で生産していたが、当時は生産していない。商業の発展により貨幣が必要となり、輸入するようになった。
 輸出品は、大和絵屏風、扇子、真珠、砂金、刀剣、漆器、水銀、硫黄などである。
 大輪田泊の整備とともに1180年、清盛は福原遷都を強行した。
 国家の意思決定を行う政治機能、輸出入品の生産と消費を行う経済機能、貿易・情報の窓口としての大輪田泊=海港機能 の3つを一体化した「海港政治経済センター」の建設を目指した。 しかし、半年で都は京都へ戻ることとなり、1181年、清盛は熱病のため死去した。
 これらのことは、「平家物語」に詳しく述べられている。

 3 北前船の隆盛:
   時代がかなり下り、江戸期に入ると檜垣廻船、樽廻船などが出てきた。上方から江戸への航路として、樽廻船は灘目の酒を樽に詰めて江戸に下った。いわゆる「下り酒」である。
 日本を東から西に回る「西回り」航路は、酒田→北陸→山陰→下関→瀬戸内海→大阪の経路であり、「東廻り」は、津軽海峡→三陸沖→江戸 という航路であった。
 18世紀中頃から、北前船が広く活躍している。「北前」とは、瀬戸内海から見て日本海海域を指した言葉であり、「北前船」とは、兵庫・大阪と日本海を結んで北海道まで航海し、各地の港で積み込んだ商品を売り、買いして行く「買い積み船」であり、頼まれた商品を運ぶ運送業者ではない。
 北前船の航路と時期は、3月下旬~4月上旬に兵庫・大阪を出航ー瀬戸内海各港を経由ー下関ー日本海各港を経てー6月中旬に北海道に到着する。 途中瀬戸内海各港で相場情報を得ている。
 帰りは、7月下旬に北海道を出航ー行きと逆の経路で、兵庫・大阪に10月下旬~11月中旬に帰着する。
 北前船の積荷は、北海道へ向かう「下り荷」は、米・酒・そうめん・油などの食料品、木綿・木綿古手・足袋などの衣料品、たばこ・塩・陶磁器・畳表・紙、蝋・鉄、筵などであった。これらを途中の寄港地で売りまた新たにその地域の商品を購入して行く。木綿古手は大阪から東北への荷であり、東北では木綿などの衣料が不足していたため、古着を刺し子に作り直して使用した。
 北海道からの「上り荷」は、身欠きニシン・数の子・ニシンしめ粕・昆布・アワビなどであった。北海道の昆布は、大阪・京都で昆布出汁(だし)として用いられ、上方の昆布、江戸の炒り子という出汁の文化が出来上がった。

 4 高田屋嘉兵衛:
   ロシアとの交流を始めた高田屋嘉兵衛は、神戸にとっても記憶に残すべき人物である。
 高田屋嘉兵衛は、淡路島の出身で、1795年兵庫で回船業を営んでいた堺屋喜兵衛絵お世話で樽廻船の水主となり、1795年北前船の廻船問屋泉屋伊兵衛の沖船頭に昇格した。翌年1500石積の「辰悦丸」を建造、独立して高田屋を称し蝦夷交易に乗り出した。
 1799年幕府の要請で、クナシリ・エトロフ航路の開発に成功した。1806年幕府より蝦夷地産物売捌方に任命され、蝦夷産物の独占に成功した。
 1812年クナシリ島沖で海軍大尉リコルドの率いるロシア軍艦ディアナ号に拿捕され、カムチャッカに連行されたが、翌年送還された。自身が連行される以前に日本側に捕らわれていた艦長ゴロウニンの釈放に尽力し釈放を実現して、日ロの友好の発端となった。
 嘉兵衛がカムチャッカから二人の弟宛に出した書状には、日本のために行動する様子が語られており。また、同行する仲間や郷里の親族への労りが見事にしたためられている。

 5 居留地:
   幕末に我が国は外国との条約を締結し、開国、開港へ向かった。その経過は次のようである。
     1854年(安政元年)=日米和親条約締結、下田・函館 開港
     1858年(安政5年)=日米修好通商条約締結
     1859年(安政6年)=函館・神奈川(横浜)・長崎開港、貿易開始 
 今年横浜港は、「開港150周年」で、イベントが行われている。
     1868年(慶應3年)=兵庫(神戸)・大阪開港  昨年神戸港は「開港140年」であった。
 神戸の外国人居留地は、イギリスの土木技師W.J.ハートの設計で、全126区画を計画した。
 現在も当時のままの区画が残っているまれな例である。居留地の東は、現在の市役所・東公園で、西は鯉川筋、北は現在の花時計ー大丸を結ぶ通り、南は現在の海岸通りである。
 居留地の場所は、それまで人家の余り無かったところで、外国人はこの居留地にのみ住まわせ、居留地以外に住むことを禁じていた。外国人には土地を持たさない方針で、ある程度経過後は、日本人との了解のもとに土地、家屋の借り受けを認めるようになった。これらが異人館の始まりである。
 中国人は条約対象外であったので、居留地の周辺、今の中華街に店舗、住居を構えた。
 神戸外国人居留地の評判は非常に良く、外字新聞に「日本におけるすべての開港場の中でもっ
とも活況を呈している。神戸は、東洋における居留地としてもっともよく設計されている。」と述べている。
 居留地での貿易では、我が国からは、茶・生糸・マッチの輸出などであった。
 居留地は、1899年(明治32年)に返還されたが、これ以後も貿易の中心地として今に至っている。

 6 おわりに:
   神戸は多文化共生の街であり、海、みなとから街を見た歴史を大切に伝承して行かねばならない。



 
第2回講演概要

  日時  平成21年8月8日(土) 午後2時~3時30分
  場所  神戸海洋博物館 ホール

  テーマ  「こうべと華僑―その交流史」

  講演者 安井 三吉 神戸華僑歴史博物館研究室長
                  (孫文記念館長)
  参加者   104名

・講演概要      (文責:NPO近畿みなとの達人)
 1 神戸華僑の今:
   開港以来の歴史を積み重ねてきた神戸における華僑関係の施設・建造物としては、中華義莊(墓地:長田区滝谷町)、関帝廟(海外中国人の絆の象徴で世界の何処にでもある:中央区中山手通)、中華会館(1893年建設:現在はトア・ロード)、神戸中華同文学校(1899年創立、今年で110年目)、そしてよく知られている南京町などがある。

 2 「華僑」という言葉:
   歴史上、海外中国人は華民、華人、唐人などと呼ばれていた。清末に「華僑」という言葉が出てきた。これは、「華」+「僑居」(仮住まい)から出来た言葉で、1880年代から使われ出した。
従来、中華=世界であったものが、外国の存在を認め、外交の必要性を感じだした時期である。1870年代になって領事の派遣が始まっている。
 この時代の華僑は、海外に出ている中国人として母国に対する思いは深く、その心情は「落葉帰根」・「衣錦還郷」という言葉で表されている。


 3 戦前の神戸華僑
   日本の華僑社会では、貿易商など「華商」が主力で、出身地などから三幇(三江,福建、広東)が中心であった。単純労働者(華工)は入国が制限され、東南アジアなどと比べて少なかった。
 在日中国人の数は、ピークの1930年で、全国30,836人、兵庫6,780人(22.0%)だった。
 華商として有名なのは貿易や海運などで活躍した呉錦堂である。現在ただ一つ残る商館の面影を残すのは旧新瑞興(内海岸通)ぐらいだ。商館は、住居・事務所・倉庫の三つの機能を持つ建物であった。華僑の有力な職業として、服仕立て、理髪、料理がよく知られるが、これを三把刀(菜刀:料理、剃刀:理髪、剪刀:仕立て)と称した。又、呉服の行商も認められていた。

 4 「競存」と敵対―光と影
   「光」の部分としては、孫文との交流がある。孫文は、1895年広州蜂起に失敗、神戸に亡命した。その後、1913年春、準国賓として神戸、呉錦堂の別荘「松海別荘」を訪問した。その夏、今度は亡命者として神戸に来ている。1924年「大アジア主義」の講演会を神戸商業会議所の主催で実施、多くの参加者を得た。
 孫文を支援したのは、呉錦堂、王敬祥,楊寿彭など華僑の人々の他、三上豊夷(海運)、松方幸次郎(造船)、瀧川儀作(マッチ)など日本人も含まれる。
 「影」の部分としては、一連の戦争の時代である。1931年の柳条湖事件は満洲事変、15年戦争の発端となり、1937年盧溝橋事件から日中全面戦争(支那事変)、そして1941年のアジア太平洋戦争と進んで行った。
 この間、台湾は日清戦争後日本の植民地となり、その住民はほとんどが日本国籍となった。また、強制連行、スパイ容疑による検挙など悲しい出来事が生じた。

 5 戦後の神戸華僑
   1945年の終戦とともに、台湾出身者は中国国籍を回復し、それとともに華僑となった。このような人々を「新華僑」と呼び、大陸出身者は「老華僑」と呼ばれた。1972年の日中国交回復、中国の改革開放政策により中国を出る人が多くなって来ている。
 日中国交回復は同時に台湾との断交をもたらすなど、国際政治による影響も大きくなっている。中国での「文革」により帰国が困難になったこと、日本社会の「国際化」の進展などにより、進学、就職、結婚などさまざまな面で華僑社会にも変化が現れている。
 現在中国政府は、「華僑」と「華人」という区別を行っている。すなわち、海外定住者で中国国籍のある者を「華僑」、中国国籍のない者(帰化した者など)を「華人」としているが、国によって国籍法も異なり、複雑である。
 この様なことを背景として、在外中国人の心情は「落葉帰根」といった故郷回帰から、その土地に生まれその土地で活躍するスタイル「落地生根」に変わってきている。
 2007年現在の我が国の外国人滞在者は、全体で2,152,973人、その内中国人は、韓国・朝鮮人を上回る606,889人で一番多く、28.2%となっている(2007年にトップとなった。)。出身地別では、東北(遼寧、吉林、黒竜江)、上海、山東、福建などが多い。府県別では、首都圏、愛知、大阪が多く、兵庫県は、23,456人で全体の.3.9%で7番目である。
 6 これからの神戸と華僑
   世界の中の神戸華僑としては、① 中国(台湾)との関係、 ② 老華僑・新華僑の問題、③ 華僑・華人の問題、④ 神戸市民(兵庫県民)との関係 など様々な「関係」のなかでの発展を期している。
 神戸港は対全国比という点では、輸出入ともに比重が落ちてきているが、対中国貿易は、取り扱い輸出総額の20.2%、輸入総額の30.2%と大きな割合を占めている。この数字は、神戸は中国との関係を大事にしなければならないことを示唆している。
 孫文を絆とする日中の共生を支えているのは、第二次世界大戦前は、「華僑」-「行政」-「経済界」の三角形の関係であったが、第二次世界大戦後は、「華僑」-「行政」-「経済界」に、「市民」、「学術界」を加えた五角形の関係となってきている。これは「神戸モデル」といってよいだろう。重視すべきであろう。


 
第3回講演概要

  日時  平成21年9月12日(土) 午後2時~3時30分
  場所  神戸海洋博物館 ホール

  テーマ  「神戸発世界行き―神戸海外移住者案内」

  講演者 楠本 利夫 日伯協会常任理事
                  (芦屋大学教授)
  参加者   100名

・講演概要      (文責:NPO近畿みなとの達人)
 1 はじめに:
   神戸は海外移民と非常に関係深い都市であり、明治41年の代回ブラジル移民船笠戸丸は、神戸港から出港している。また、昭和3年には、我が国初の「神戸移民収容所」が神戸に開設されている。
 神戸市民は、移住者を「移民さん」と呼び、あたたかく迎え、送り出した。
 その神戸でも、移住の話しは、10年前まで余り語られることはなかった。それは、日本政府が移民政策の失敗を隠したかったからであった。

 2 組織的移民の始まりーハワイ移住:
   日本人の海外移住は、ハワイ移住から始まる。1867年幕府は、ハワイ王国と「日本ハワイ臨時親善協定」を締結、ハワイの領事が「渡航印章」(旅券)を受け、集団渡航者を募集した。明治政府は渡航に反対し、「印章」を無効にした。しかし、153人は、サイオト丸で横浜を出航、ハワイでサトウキビ農場で働くようになった。
 その後ハワイ王国は日本人移民の導入を強化し、明治19年に「日本ハワイ渡航条約」を締結して移民しやすい条件設定を行った。しかし、明治31年ハワイ王国は米国に併合され、ハワイ移民は消滅した。
 アメリカ本土への移民は、明治2年戊辰戦争に敗れた会津藩士約40人が、永住目的でカリフォルニア州サクラメント近郊に移住したことに始まる。
 北米委移民は、日露戦争後に本格化したが、明治41年「渡航移民制限に関する日米紳士協定」、大正14年米国「移民制限法」(排日移民法)などにより制限を受け、北米移民から南米移民へ転換するようになった。


 3 ブラジル移民
   ブラジルでは、明治21年 (1888年)奴隷制度が廃止され、翌年共和制が発足して、欧州系移民を中心に受け入れ始めた。明治25年日本人、中国人の移民導入を決め28年「日伯修好通商条約」が締結された。
 第1回のブラジル移民は、明治41年4月移住者781人を乗せた「笠戸丸」の神戸港出航から始まる。移住者は、沖縄、鹿児島、熊本出身が全体の74%で、全国から神戸に集まった。移住者の内読み書きの出来るもの68%と驚異的な高水準であった。
 当時の神戸港は笠戸丸のような大型船を係留する岸壁がなかったため、前日から沖がかりの本船に乗船して出航を待った。笠戸丸は、シンガポール、ケープタウンに寄港し52日をかけてブラジルサントスに6月18日に到着した。この日を「日本移民の日」として、1998年「日本移民上陸記念碑」が建立されている。
 ブラジルの新聞記者は、日本人移民を絶賛し、「こんなに秩序正しく清潔な人たちが移民で入国したことは、未だかってなかった。今後のサンパウロ州の富の開発は、彼らに負うところが大きいだろうし、その期待を裏切ることはあるまい。」と言っている。
 しかし、この年はブラジルはコーヒー不作で、各耕地のコーヒーの結実が少なく、採取賃が唯一の収入である入植者は大きな打撃を受けた。このため「移民争議」が各地で起こり、入植者で耕地を逃げ出す者も出てきた。
 大正11年欧州系移民が勤勉な日本人移民制限を諮るため、黄色人種の移民を制限する法案がブラジル国会に提案された。昭和9年には、日本人移民に不利益な条件となるような「移民二分制限法」の規定が定められた。翌10年甲南高校・甲南病院創始者で当時川崎造船社長であった平生釟三郎は、経済使節団を率いて渡航し、日伯貿易の拡大を図ることにより、ブラジル社会の対日感情を好転させる大きな働きを行った。
 現在海外日系人は260万人を数えるが、ブラジルは第一位で54%、140万人、二位のアメリカ39%、100万人とこの両国で93%を占めている。海外移住者数は、戦前78万、戦後26万の計104万とされているが、その内24万人はブラジルである。
 昭和3年神戸に開業した「国立神戸移民収容所」は、大きな役割を果たしてきた。
 戦前最後の移民船「ぶえのすあいれす丸」は、昭和16年6月神戸を出航している。

 4 戦後海外移住の再開
   昭和27年4月講和条約が発効し、移民も再開されるようになった。戦後最初の移民船は、アマゾン移民54人、養子に行く戦災孤児、移民に嫁ぐ花嫁を乗せて、同年12月28日午後4時に神戸港を出港した。
 昭和3年に出来た「国立神戸移民収容所」も「神戸移住あっせん所」(後、神戸移住センター)として、健康診断、チフス・コレラ・種痘などの予防接種はもとより、語学研修、渡航先国の情報提供、など移住者の宿泊・研修機関として大きな役割を果たした。
 昭和30年代には未だ多くの移住者が神戸から出航したが、40年代になり次第に移住者も減ってきた。移住センターも昭和46年閉鎖に至り、その後様々な施設として使用されたが、2002年神戸移住資料室となり、更に今年9月「市立海外移住と文化の交流センター」と衣替えを済ませた。

5 神戸海外移住者顕彰事業
   海外移住は国策として展開されてきたが、政府は現地の事情を必ずしも正しく把握していたとは言えなかった。そのため苦しんだのは移住者であり、移住者の悲惨な実態に対して後ろめたさから、神戸では移住の話しはタブー視されていた。移住は市民による国際協力と考え、1999年市民運動「神戸海外移住者顕彰事業」を始めた。顕彰事業は、① 移民船乗船記念碑、② 海外日系人会館、③ 「移住坂」 の3つであり、記念碑は、2001年完成し、メリケンパークに設置された。記念碑建設のための資金集めでは、内外の市民から大きな反響があり、ブラジル日系団体から積極的な協力を得られた。

6 (映画)神戸と移民 昭和32年神戸市作成の映像発見
   最近、昭和32年に神戸市が作成した移民に関する記録映像が市民運動の家庭で発見された。内容は、各地から集まった移住者の移民収容所における生活、研修状況、市民との交流、出航直前の市内観光など移住者の様子と当時の神戸を偲ばせる映像が約20分にまとめられている。

7 エピソード数々
   この他、「昭和30年代前半の、神戸港『三大見送り』とは?」(答えは、移民船出航、捕鯨船出航、関西汽船別府航路の3つである。)や「笠戸丸で渡航した二人の少年のその後」など興味ある講演もあったが、概要に掲載するにはあまりに膨大であるため省かせていただきました。



 
第4回講演概要

  日時  平成21年11月14日(土) 午後2時~3時30分
  場所  神戸海洋博物館 ホール

  テーマ  「コーヒーの旅~歴史からカップまで」

  講演者 楠 正暢 UCCコーヒー館館長

  参加者   90名

・講演概要      (文責:NPO近畿みなとの達人)
 1 コーヒーの種類あれこれ~コーヒーの分類:
   コーヒーの分類を考える時、色々な要素がある。産地国、産地エリア、品種、精製加工方法、焙煎度、抽出方法、ブレンドなどにより分けられる。業界では、コーヒーの種類をレギュラーコーヒー、インスタントコーヒー、缶コーヒーの3種に分けており、量的にはそれぞれ35%,40%,25%のシェアーであろうと思える。
 コーヒーは、コーヒーの豆を使用するが、花は2~3日しか咲かないのでめったに見れない。

2 コーヒーの生産国、原産国
   コーヒーの原産地はエチオピアであるが、現在コーヒーを生産している国(地域)は、北緯25度から南緯25度の間にある。コーヒーの木は、アラビカ種、カネフォーラ種ロブスタの2品種があり、アラビカは、品質は良いが少し木自体が病弱なところがあるのに対し、ロブスタは、丈夫だが品質に劣る品種である。当然ながらこのことは価格に反映される。

 3 コーヒーはいつから飲まれていたか?
   コーヒーは10世紀以前にエチオピアにおいて遊牧戦士がおかゆ、スープとして食用としていた。アラビア半島(イエメン)を経て、トルコに渡り(トルココーヒー)次第にヨーロッパ全域に広がっていった。

4 飲用場所・飲用方法・生産地の移り変わり
   初めエチオピアの遊牧戦士に呑まれていたコーヒーは、イエメンでも生産が始まり12~15世紀にはアラビア半島でイスラム教の修行僧が門外不出の秘薬として飲用した。イエメンの港町モカがコーヒーの名称になっている。この頃13~14世紀に焙煎が始まった。
 16世紀にはトルコにおいて煮詰めて上澄みを呑むトルココーヒーが飲用されたが、塩や香辛料を入れてカップから皿に移して飲む習慣であった。イスタンプールでは1554年初めての喫茶店が誕生した。

 その後17世紀には、コーヒーはヨーロッパ全土に広がったが、イエメンだけでは需要に追いつかないので、各国は暖かい植民地での生産に乗り出した。生産地としてセイロン、インドが開発されたが、オランダがいち早く成功した。この頃には砂糖を入れて飲み始めている。アメリカにコーヒーが伝わったのは、1668年である。イギリスは17世紀にはコーヒーを飲んでいたが、オランダとのコーヒー争いに敗れ、お茶(緑茶、この頃紅茶は未だ出来ていなかった)を飲むようになった。 18世紀には、生産地はインドネシアに拡がり、更に1720年カリブ海~中南米、1727年ブラジルへ渡った。飲用方法では、こし袋の入ったポットの発明から、19世紀には透過式ポット、サイフォン、エスプレッソマシンが発明されている
 19世紀後半インドネシアでさび病が発生、大きな痛手を負ったが、コンゴで病害に強いカネフォーラ種ロブスタが発見され、生産地も拡大した。

5 アメリカンコーヒーは何故うすい?
   アメリカはイギリスの植民地であったためお茶を飲用する国柄であった。ところがイギリスは「茶条例」によりアメリカに圧力をかけてきた。その結果、1773年イギリスを象徴するお茶をボストン湾に投げ捨てる「ボストン茶会事件=Boston Tea Party事件」が発生した。また、1776年独立に向かったため従来のお茶からコーヒーを飲用するスタイルに変わった。1720年頃にはブラジルでコーヒーが生産されていたため、入手は容易であった。アメリカでそれまで飲用していたお茶は、本来薄い飲み物であったため、アメリカのコーヒーも薄くなったのではないかと言われている。

6 日本でのコーヒーの歴史
   我が国では鎖国時代ではあったが、1700年代長崎においてコーヒーを飲んでいたのではないかと考えられている。1700年ごろには既にインドネシアにおいてコーヒーの生産が行われており、オランダ人を通じて入ってきていたようである。飲んだ感想は「苦い」ということであったが、これは日本人が牛乳を飲む習慣がなかったため余計に苦く感じたのであろう。19世紀中頃には「珈琲」という当て字が使われており、また、コーヒーに関する文書も存在している。
 一般的に飲まれ出したのは、明治に入ってからで1869年には早くも新聞宣伝が行われている。神戸では1878年放香堂が読売新聞に「飲用、購入可」の宣伝をしているが、これは、喫茶店ではなく店頭に置いてサービスしたものと思われる。明治20年頃には上野に可否茶店が出来たが3~4年で姿を消した。1897年になるとミルクホールが出現、1900年前後にダイヤモンド珈琲店、ウーロン亭、メゾン鴻の巣、カフェプランタンなどが、1913年にはカフェパウリスタが開店した。
 戦争に入り、コーヒーの輸入は全くなくなり、大豆やドングリから作った代用コーヒーの時代となった。コーヒー輸入が再開されるのは1950年であり、以後喫茶店のブームが興ってきた。

7 喫茶店の変遷 (カフェー~喫茶店~カフェ)
   戦前のカフェーが風俗化したため1950年輸入再開後は「喫茶店」の名が一般的となり、純喫茶の名前のほか名曲喫茶、ジャズ喫茶などが現れ喫茶店ブームの到来となった。1970年代は、脱サラの喫茶店経営がブームとなり、70年代後半から80年代にはインベーダーゲームを備えたゲーム喫茶全盛の時代となった。1982年には全国の喫茶店数は16万軒となったが、これを境に減少傾向が始まった。現在の喫茶点数は全国で8万軒である。静寂を求める愛好家の喫茶店離れなどゲームが喫茶店減少の引き金になったとも言える。
 減少の大きな理由は、増えすぎて淘汰されたこともあり、また昭和40年代に店を開いた人の高齢化、店の老朽化なども挙げられる。更に携帯電話の普及は待ち合わせ場所としての喫茶店の機能を奪うこととなった。
 現在「カフェ」の名称が増えるとともに、セルフコーヒーチェーンが多くの店舗を拡大している。
 今後の「喫茶店」は、その存在意義とTPOを見極めた個性ある店舗づくりが求められるであろう。

8 コーヒーの美味しさとは?美味しいコーヒーをたてるには?
   コーヒーの味を決めるファクターとキーワードは次のように表される。
  ①コーヒーの量      少ない(薄い、あっさり)←→多い(濃い、コク、苦味)
  ②粉の粗さ    粗い(ソフト、薄い、あっさり)←→細かい(苦い、濃い、エグ味)
  ③抽出時間    短い(ソフト、薄い、あっさり)←→長い(苦い、濃い、エグ味)
  ④抽出温度    低い(コク、マイルド、抽出不足)←→高い(酸味、エグ味、苦味)
  ⑤水質      軟水(抽出効率高い)←――→硬水(抽出効率低い)
  ⑥コーヒーの鮮度   古い(まずい、酸化、劣化)←→新しい(おいしい、かおり)
  ⑦コーヒーの種類の違い ストレート(特徴ある、偏り)←→ブレンド(調和、癖のない、味の創造)
  その他 ⑧器具の違い  ⑨雰囲気(場所、気温、誰と?カップ・・・) ⑩体調、気分

   美味しいコーヒーを入れるには、次を参考に。
  コーヒーの量は少ないより多めに・・どちらかというと濃いものを作り、濃ければお湯で薄めれば良い、少し粗めの粉を少し多めに使い、抽出時間は短く、温度は高いより少し低いのが良く(90度くらい・・・沸いたものを別のポットに移すと5度程度下がる。)水質では硬水は駄目、アルカリ水は可、鮮度は新しいものを。

9 コーヒーと健康の関係
   コーヒーはカフェイン、クロロゲン酸を多く含み、厚労省が食品の中で肝臓癌に効果ありとただ一つ認めており、その他痴呆などにも効果があるとされている。一般的に言われているコーヒーの健康効果を12挙げる。
① 覚醒効果  ② リラックス効果  ③ 抗ガン効果  ④ 肝機能障害の予防効果
⑤ 抗菌作用効果 ⑥ 糖尿病の予防効果 ⑦ 血液循環を良くする効果 ⑧ 消化効果  ⑨ 利尿効果
⑩ 老化抑制効果  ⑪ 痴呆予防効果  ⑫ ダイエット効果
 一日3~4杯を出来ればブラックでどうぞ!



 
第5回講演概要

  日時  平成22年1月16日(土) 午後2時~3時30分
  場所  神戸海洋博物館 ホール

  テーマ  「災害緊急時における小型船艇の活用」

  講演者 諏訪 禎男 日本マリーナビーチ協会兵庫県支部長

  参加者   70名

・講演概要      (文責:NPO近畿みなとの達人)
 1 はじめに 講演者の災害体験:
   阪神間では昭和9年頃からヨットがあり、講演者の父は神戸の外国人の船を預かっていた。その関係で講演者は3才頃からヨットに親しんだ。
  昭和36年の第2室戸台風では、西宮も高潮被害を受けたまたま西宮に係留していた森重久弥のヨットが護岸に打ち上げられ、岸から船へとロープを渡して救出した。
  1979年イギリスにおいて300隻が参加する大規模なヨットレースが行われたが、レース中悪天候になり15名の犠牲者を生んだ。この時英仏両国は大規模な救援活動を行った。この後、「レースを中止出来なかったか?」という世論に対して、救援責任者は「この経験を生かしてレースを続けるべし」と述べて、被災を教訓とした前向きな姿勢があり、大きな感銘を受けた。
  15年前の阪神淡路大震災時に、報道関係者から「道路が寸断されており、地上からの映像が撮れないが、船で人員を運んでくれないか?」との要請があった。これを受けて大阪市内から、神戸、西宮と関係者の輸送に協力した。大阪市内から神戸市内まで僅か20分で移動できた。小型艇は着岸出来る岸壁が限られ、各方面に協力を求めた。この結果通常では考えられないような「感謝状」を頂いた。この経験を生かせて、災害後立ち上がりの3日間が大切であるが、大きな船は直ぐには稼働できないが小型船は機動的に動けることが出来るのでマリーナビーチ協会の兵庫県支部が起点となりシステムを考えることとした。

 2 小型船の航行及び係留か初等の現状と動向調査
   神戸市東部から大阪・大和川までの小型船の航行と係留箇所などの現状を調べることとした。調査する項目は、① 運河、河川等を小型船航行する時の障害施設、② 橋桁下クリアランス、水門幅、水深、開閉時間など、③ 運河などの現在の利用状況、④ 係留可能な船着き場、護岸、梯子など、⑤ 船着き場の現在利用状況など、⑥ 大型船、小型船の遡上限界 などを主として水上から調査を行い、周辺事情を知るためにも陸上からも現地調査を実施した。
 河川には多くの橋が架かっているが、道路との一部としての橋は認識されているが、下を船が通行する場合には障害が多い。橋桁下のクリアランス、水深などを調べることは重要と思えた。係留可能な船着き場は、その背後に病院など緊急輸送を求める施設があることも考えなければならない。
 兵庫県では、武庫川は殆ど上流に進めないし、大阪の大和川は河口部から水深が浅く小型船でも遡れないことが分かった。神崎川では相当上流まで進むことが出来、この川では防災船着き場が設けられている。また、安治川、木津川を遡っての大阪市内でも小型船ならばかなり上流まで行けることが分かった。
 兵庫県側は港が機能しており、岸壁があるものの大型船を対象としたもので係留には適するところが少なかった。一部には小型船が着けるような配慮が必要でないかと感じた。従って、神戸では、兵庫運河を中心に調べた。 以上の調査に基づき、遡上限界の確認、河川ごとに船着き場、施設、それらの概要が分かるような資料をまとめ、活用できるよう整備した。

 3 実証実験
  実際に災害が生じた時に支障なく行動できるかを確認するため実証実験を実施した。被災の少ない和歌山、阪南、淡路、播磨の各地から大型艇で西宮又は大阪市内に集まり、小型艇への積み替えなどをした後、尼崎・神戸、大阪市内へとの移動を想定した。参加は、和歌山マリーナ、いずみさの関空マリーナ、播磨マリーナ、明石マリンポート、淡路のサントピアマリーナ、新西宮ヨットハーバーなど大阪湾岸のマリーナが協力した。
 この計画は、従来の調査等を参考にして航行時間、使用船、操船担当などを細かく決め、対策要員と緊急物資の輸送を想定して行った。
 実証実験は、平成19年12月と20年3月の二度に亘って実施し、十分な成果が得られたと評価している。

 4 防災訓練への参加
  日本マリーナビーチ協会としては、従来から防災訓練に、人員・物資輸送の部門で参加をしている。国土交通省が実施する総合防災訓練では、平成18年の堺泉北港での訓練には4艇が、19年の芦屋浜での訓練には2艇が、参加した。堺泉北港での訓練では、国の移動式の浮体防災基地に着岸、陸上を受け持つトラック協会の貨物車へ救援物資を積み込む訓練を行っている。
 また、兵庫県独自で実施する防災訓練にも、海上との関わりがある時には参画して協力をしている。

 5 ネットワーク構築の必要性
   災害は広域的に発生し、また支援も各方面から行われている。阪神淡路大震災時には、岡山から救援物資の積み卸しについて連絡があり、西宮で行うことで対応した。この様に、県単位ではなく広域的な協力体制が必要である。また、使用する船についても所有者の理解が必要である。
 一方災害対策の中心となるのは県などの地方公共団体であり、その連携が必要である。更に、周辺府県にまたがる支援のネットワーク構築が求められる。

 6 ネットワーク構築に向けて
   ネットワーク構築に向けて先ずマリーナ毎の協力できる船艇の登録方法を考え、マニュアル作り尾実施した。災害直後に船艇を運航するには、その水域を熟知した操船者が必要であり、船の所有者が操船するより専門家が行うことが望まれる。この様な条件の下でも所有者は船を提供することに非常に協力的であり、同意を得て登録への方向で進んでいる。
 現在各地で兵庫県の例を元に日本マリーナビーチ協会の指導によりネットワークづくりが進んでいる。
 地方公共団体との連携については、一年前の平成21年1月「災害応急対策に関する協定」を兵庫県とマリーナビーチ協会兵庫県支部とで締結した。大規模地震災害時に、必要により知事が要請すれば、
① 傷病者、医師等の輸送、② 生活必需品の輸送、③ 応急対策に必要なし機材の輸送 の業務を実施し、費用の負担についても規定を設けている。
 今後この様な協定が各地で結ばれることに期待している。

 7 おわりに
  国土交通省、兵庫県、大阪府、神戸市などは、防災対策をそれぞれ実施しているが、阪神淡路大震災を体験したものが、再度何処かで災害が起こった場合、自身の経験を生かして活動しなければと考えている。



 
第6回講演概要

  日時  平成22年2月20日(土) 午後2時~3時30分
  場所  神戸海洋博物館 ホール

  テーマ  「神戸のみなとを活かしたまちづくり」

  講演者 村上 和子 NPO神戸グランドアンカー理事長
                     (みなとまちづくりマイスター)

  参加者   75名

・講演概要      (文責:NPO近畿みなとの達人)
 1 はじめに:街づくりへの関わりへの契機
  講演者はテレビ局に勤務し、メディア人としてテレビ 現場、ラジオ番組、新聞、雑誌で活動していた。その間に、各地のまちづくりに数多くかかわり情報、産業、教育、くらし、農業と食の観点から色々な活動を進めてきた。しかし、2000年頃から世界だけでなく、日本の社会も何か変、と強く思うようになった。そして自分の人生は自分でデザインしたいとフリーに。これまで神戸に関しては、長年にわたる活動で「洋菓子神戸」を全国区に周知させた実績を持っているが、阪神・淡路大震災後、神戸の街は「オシャレな街」の評価から、被災した「気の毒な街」のイメージに変わり、神戸在住者も元気が無くなっていた。この様な時に、行政でもできない市民目線の行動で、何とか神戸の街を、次世代に輝く街にしていかなくてはと
一念発起。一人の力でできないことでも、行政や市域を巻き込んで活動を展開していきたいと、NPO法人を立ち上げた。これからの「神戸らしさ」の売りは、何といっても自然に恵まれた海、美しい港。世界の船乗りたちから「世界の3大美港のひとつ」と称せられたことをもある神戸港の存在を、市民は忘れてしまっている。これからは、物流輸送の港湾、客船が入出港する港だけでなく、人が港に親しみ交流する、人でにぎわう港の創出を目指していこう。国内外の来訪者からは、美しい神戸港、特に海から眺める景観の素晴らしさを感じてもらえ、「みなと神戸」を体感してもらえる街づくりを目指そうと思った。

 2  「ソフト」を生かすには「ハード」が必要
   「ソフト」を生かすには「ハード」が必要
 まちの産業、イメージ、文化などは、「ソフト」だけではなく拠点となる「ハード」を持たないと、情報発信が十分出来ない。スーパースターにたよるイベントはその時だけの瞬間的なもの、むしろ「後の祭り」が地元に負担として降りかかってくるのが常。地域の人がそこで継続的に行動し情報発信を行うことが「地域らしさ」の発信につながっていく。そこで、「みなとを活かした」21世紀の神戸を考えていこうと、さっそく各方面に働きかけた。結果、様々な行政機関からも協力を得ることができた。これは、単に提案し議論するだけでの
まちづくり構想ではなく、それを実現に向け自ら行動する、強い意志と姿勢を評価されたのであろう。この様な経緯を経て、神戸市や多くの人たちの理解と協力により、波止場町に文化交流施設「波止場町TEN×TEN」という拠点を生み出すことができた。主宰するNPO法人を「神戸グランドアンカー」としたのは、拠点となる神戸のみなとに自分たちも「錨」を降ろして活動を展開していこうとする強い気持ちの表れででもある。

 3 神戸波止場町「TEN×TEN」開設
「TEN×TEN」は、メリケンパークとハーバーランドの間にある遊休倉庫「神戸国産上屋1号・2号」を活用。約2600㎡の場所に多ジャンルの、現代における「もの創り作家」の活動拠点を提供しようと考えた。「TEN×TEN」は、10×10=100人のもの創り作家の、「展示、展開、発展、天の恵み」などを意識し命名された。現在60のブースを1年契約で使って貰っているが絵画、アクセサリー、造形、家具、ファッション作家など、神戸に限らず全国の20~80歳代まで、異業種の作家・匠・達人が「アトリエ、工房、ギャラリー、教室、販売」活動の拠点として活動。2月23日に開設から、丸4年の歳月を重ねた。

 4 文化の裾野を広げる取り組み
 「TEN×TEN」では、「作家直伝もの創塾」や講演講座「神戸みなと塾」さらに、みなと周辺の活性化に今年で7回目になる「みなとの絵大賞~写生大会」などを実施。1昨年からの公募展「ガラス絵大賞」は全国展開ができ、国内唯一の「ガラス絵MUSEUM」を今1月に開設。春からは「美術研究所」を新設し、人材育成や、文化の発展に更に力をいれていく。

5 みなとの活性化
 「TEN×TEN」は、震災まで国産波止場のあった神戸港の、歴史的にも意味のある場所に位置している。
しかし高速道路にはさまれ外から
分かりにくく、開設当初は不法駐車やゴミの捨て場と化していたきらいがあり周辺整備ができていなかった。その後、周辺住民や事業所などの協力で、「明るくなった。きれいになった。女性の一人歩きができるところになった」と徐々にではあるが、やっと評されるまでになってきた。平成22年度には「神戸の港の拠点となる交流施設」として、国土交通省「みなとオアシス」に認定される予定。当法人は設立以来「マリンポートツーリズム」という新しいツーリズムの概念を提案している。世界で6番目の長さを誇る海岸線をもつ日本列島の、恵まれた自然にふれながら土地の人と出会い観光や交流の旅をする。日本にはみなとまちとして繁栄し、発展してきたところが数多くある。その土地ならではの歴史や文化の輝きをたどる「マリンポートツーリズム」を、21世紀の世界を結ぶ「観光のキーワード」として海辺、港、歴史ある街と連携し「地域の元気を港から創出する」活動にも力を入れていきたい。

 6 まとめ~TEN×TENを中心にNPO法人の活動を(スライドで紹介)
  写真順に:「TEN×TEN外観」「作家ブース」
 「神戸みなと塾」「もの創り塾」「ガラス絵教室」
 「壁面ホール コンサート」「みなと写生会」
 「みなとの絵大賞~表彰式」「小・中学生用副教材 制作」