![]() |
|
|
||
令和7年度 神戸みなと知育楽座 Part14
|
||
第1回講演概要![]() 日 時 令和7年8月30日(土) 午後2時~3時30分 場 所 神戸海洋博物館 ホール 講演題目 「兵庫が生んだ世界的登山家 加藤文太郎」 講演者 神戸外国人居留地研究会会長 神木 哲男 講師 参加者 70名 講 演 概 要 (編集責任:NPO近畿みなとの達人) (1) 六甲山は近代登山発祥の地 1874年に3人の外国人パーティがピッケルやナーゲルを用いた近代登山を日本で初めて行ったのが六甲山です。(英国人鉱山技師ウイリアム・ガーランド、教師ロバート・ウイリアム・アトキンソン、外交官アーネスト・サトウの三人) 彼らの登山はそれまで日本中で行われていた、山をご神体として信仰し山頂を訪れる「信仰登山」とは違い、現在のようなスポーツやレジャー的要素を伴ったものでした。以来、日本で現在のような登山が広まっていきました。 (2) 加藤文太郎年譜 浜坂に生まれ神戸で就職した、加藤文太郎は神戸市内の街歩きからはじめ、六甲全山縦走へと、登山を始めていきます。 0才 兵庫県美方郡浜坂町(現新温泉町)に生まれる。(明治38年、1905年) 18才 神戸の三菱内燃機製作所に製図修業生として入社。(大正8年、1919年) 設計課員として仕事をしながら兵庫県立工業学校(夜間部)を卒業後、神戸工業高等専修学校電気科を卒業する。 18才 六甲全山縦走、登山を始める。(大正12年、1923年) 31才 北鎌尾根で遭難するまで、全国各地の山を登る。(昭和11年、1936年) 単独行登山を始めますが、昭和2年8月までは夏山しか登っていません。 その後、日本アルプスの多くの峰に積雪期の登頂を果たし、単独登攀の加藤として有名になっていきます。 遺稿集「単独行」に次の記述があります。 劔沢の小屋にいるパーティーに、今晩泊めてくださいませんか、一緒に劔を登りたいと伝えたが、「知らない人がいることは不愉快、案内者を連れぬ人は小屋は使えない、案内者も雇うお金が惜しいなら山に登らないがいいでしょう」 と言われました。小屋は雪崩に遭い、6人は死亡した。 (3) 新田次郎が描いた「孤高の人」 加藤文太郎の奥様の希望で、実名となっている。 小説では、バディに誘われて仕方なく、最初で最後のパーティーで挑んだ登山であり、バディが足を引っ張ったと書かれている。 事実は、バディの吉田富久は実力があり、信頼でき、加藤とパーティー登山の経験もあり、北鎌尾根山行には加藤文太郎から吉田富久を誘っている。 (4) 加藤文太郎と「単独行」 ・会社に勤務し、その合間に休暇を取って登山をしているため、他人と協力して時間調整することが極めて困難だった。 ・案内人を雇うためのお金を充分に用意できなかった。 ・彼の脚力についてこれる同行者は少ない。 ・好んで単独行を実行したとは考えられない。 (5) 聴講者からの質問 ・植村直己さんも兵庫県の日本海側の出身だと思います。 登山家に向いている風土、地域性があるかもしれませんね。 ・世界的登山家というご紹介がありましたが、海外の登山経験はなかったのではないでしょうか? おっしゃるとおり、海外の経験はありませんが、著書「単独行」に、お金を貯めて将来は海外を目指したいと記述があり、加藤文太郎が生きていれば必ずそうなったと確信しています。 ![]() ![]() |
||
|
第2回講演概要 ![]() 日 時 令和7年12月6日(土) 午後2時~3時30分 場 所 神戸海洋博物館 ホール 講演題目 「有馬温泉の観光と交通の歴史」 講演者 神戸電鉄粟生線サポーターズくらぶ会員 小林 善彦 講師 参加者 56名 講 演 概 要 (編集責任:NPO近畿みなとの達人) (1) 有馬温泉の歴史は古くから 日本三名泉、日本三古温と言われ、古くから有馬温泉は知られている。 (2) 渋沢栄一「喜賓会」 谷あいに立地しているため、湯治場としての旅館が多かったが、明治には渋沢栄一が力を注いだ外国人観光客誘致団体「喜賓会」により、外国人保養地となり、観光地化が進んでいった。 (3) 有馬温泉を中心とした交通史 明治中期から大正にかけて、鉄道の開通のための、敷設申請や敷設権放棄が繰り返された。有馬を中心に三木、小野の鉄道が計画されたが実現はしなかった。 (4) 昭和の観光ブーム 昭和28年には3階建てのビルが建ち始め、一気に近代化していった。 郵政省、簡易保険加入者のため全国各地に建設されていた「かんぽの宿」の第1号は「簡保の宿、ありま」だった。 (5) インバウンドを受けて 外国人観光客のインバウンドを受け、有馬も新しい街つくりを行っている。 有馬温泉の歴史については、各旅館のブログ等で見ることができる。 みやげ物店「吉高屋」をご紹介する。 https://www.yoshitakaya.com/ ![]() ![]() |
||
|
第3回講演概要 ![]() 日 時 令和7年1月10日(土) 午後2時~3時30分 場 所 神戸海洋博物館 ホール 講演題 「みなと神戸の変遷」 講演者 国土交通省 近畿地方整備局 副局長 石原 洋 講師 参加者 59名 講 演 概 要 (編集責任:NPO法人近畿みなとの達人) 1) 経歴の紹介 私は、神戸出身で、国土交通省で働いているが、2024年から事務所長として、神戸に戻ってきた。 2) 明治・大正期の企業者 (敬称略) 神戸開港百年史を読んでいると、明治・大正期において、神戸や日本をけん引した企業者(兼松房治郎、松方幸次郎、川崎正蔵、金子直吉)がいたことがよくわかる。 森垣亀一郎は、ケーソン工法を明治40年に導入し、港湾土木の貢献者である。 また、神戸の特徴として、2人の土木市長がいたことが特徴である。 原口忠次郎市長は、昭和24年から44年。 「山、海に動く」ニュータウン開発と、ポートアイランド埋立計画。 笹山幸俊市長は、平成元年から13年。神戸空港の建設。 3) 神戸における災害の変遷 大きくは4つの災害からの復旧復興があったと思う。 昭和13年阪神大水害は、台風と梅雨前線により、六甲山の崩壊と土石流の被害が発生した。全国初の国直轄砂防事業が開始された。 神戸大空襲は、市街地の8割が消失した。戦後復興の出発点。 阪神・淡路大震災は、大都市直下型地震へ対応する重要性を示し、建築基準や防災計画の見直しが始まった。 平成30年台風21号は、気候変動による大規模風水害への警戒、インフラ設備やライフラインの脆弱性をまのあたりにした。 4) 神戸における橋の変遷 神戸は美しい橋が多い。摩耶大橋は、わが国で本格的な初の斜張橋である。 神戸大橋、東神戸大橋、明石海峡大橋が美しい。 現在、事業を進めている、新港・灘浜航路部海上僑に着工した。 桁下が65.7m、摩耶大橋の3倍程度の高さになり、完成すれば連続斜張橋の長さが世界最大となる見込みである。 5) 神戸港の貿易とコンテナの変遷 1950年、神戸港の貿易価額は全国シェアの42%あった。(現在8%程度) また、1967年にコンテナ船が初入港し、1990年頃はコンテナ取扱全国一であった。 神戸港での貿易品目をみると、生活関連物資が多いことが分かる。 全国有数のものづくりを支えているのが、姫路港であり、侮れない港である。 コンテナ船は少しづつ大型化しており、昭和45年ポートアイランドが-12m、昭和60年六甲アイランドが-14m、現在はポーアイ2期などが-16mとなっている。 阪神国際港湾株式会社を2014年に設立し、国際コンテナ戦略港湾の施策を強力に推進していく。 質問)BCP計画があまり聞かれなくなったが、いかが。 回答)国、地方公共団体では一通り策定された状況である。 質問)みなとまちという言葉があるが、最近は少し隔たりを感じる。 みなと&街になっている。全国をご覧になって、よい事例がありませんか。 回答)コンテナが物流の主役になると、住民から見ると迷惑施設になる。 大型のトラックが通行するし、クレーンや鉄の箱が大きな音となる。 うまくやっていけている所は知らないが、都市化が進むことで、コンテナバースに住宅がどんどん近づいている港があった。 ![]() ![]() |
||
|
第4回講演概要 ![]() 日 時 令和7年2月14日(土) 午後2時~3時30分 場 所 神戸海洋博物館 ホール 講演題目 「六甲山を世界に紹介した男ドーント」 講演者 日本山岳会会員 中村 三佳 講師 参加者 104名 講 演 概 要 (編集責任:NPO法人近畿みなとの達人) 明治から大正にかけて、この神戸に居留し、六甲山を大いに楽しみ、六甲山を世界に発信した、ドーントを紹介します。1865年 インド ムザファルプルで生まれました。当時のインドは、イギリスの植民地、軍人のお父さんがここに赴任していました。 ![]() 1894年、明治27年夏、ドーントは、はじめて神戸にやってきます。ドーントには、熱中している趣味が二つ 登山とゴルフ。ゴルフができないからつまらないと思ったのか、わずか2年の滞在で、ドーントは神戸を去り、次に神戸にくるまでの8年間 ドーントはめまぐるしく転々とします。ヴァキューム・オイルを退職してオーストラリア・メルボルンに向かい、そこで結婚。当時イギリスの植民地セイロン島(現在のスリランカ)ヌワラエリア地区で紅茶栽培をしますが、2年でやめてしまいフランスへ向かいます。1900年、フランスでは第2回オリンピックが開催されました。なんとドーントはゴルフ選手として出場、結果は5位でした。オリンピックが終わると、再びオーストラリア・メルボルンに向かいます。ヴァキューム・オイルからドーントに、再び日本で働かないかとオファーがあり、明治37年夏 再び神戸へ。そして、大正13年に神戸を去るまで、約20年に及ぶ ドーントの神戸での生活が始まります。 ドーントは、異人館街、北野の自宅からこの旧居留地のオフィスに通い、そして他の欧米人と同じように 六甲山上に別荘を持ち、別荘ライフを楽しみました。別荘の場所ですが、神戸ゴルフ倶楽部の3番ホール北にあったということです。ドーントは、神戸にきてすぐに神戸ゴルフ倶楽部の会員、翌年には倶楽部のキャプテンを務め、理事も務めています。日本の神戸ゴルフ倶楽部所属のドーントの肩書で数々の国際大会にエントリーします。ドーントが活躍することによって 世界のゴルフ界に六甲山が知られていきました。 ゴルフはイギリスが発祥ですが、ゴルフが大ブームになったのは、1880年代で、ドーントがちょうど20歳の頃です。イギリスが世界に進出するとともに、世界中にゴルフ場ができていきました。ドーントが生まれたインドにも、奥さんと出会ったオーストラリアにも、また結婚式(1898)を挙げスリランカでも、そして六甲山にもゴルフ倶楽部がありました。ドーントがゴルフ好きになったのには、ゴルフブームと年齢がぴったり重なった、ドーントがゴルフをしたいと思えは、いつでもゴルフができたという環境がありました。 ![]() では、ドーントのもう一つの趣味 登山のお話です。 ドーントは、神戸にいる欧米人に「一緒に山に登りませんか」と呼びかけました。 その呼びかけに集まった、登山好きの居留外国人たちと、六甲登山を楽しみました。 集合時間は、だいたい朝8時半、待ち合わせ場所はドーントの住まいの近くの北野、時間厳守で雨天決行、参加人数たいてい4~5人のグループで登山。休憩を取りながら登り、12時半ころドーントの別荘に着いて、2時間かけて昼食を取り、2時半か3時に別荘を出発して下り始めます。夜7時半ごろに帰宅することも多くありました。 ドーントたちが楽しそうに六甲山に入って行く姿をみた神戸の日本人があの外人たち、何をしているのか様子をうかがい、なんと楽しいことをしているのだと知り、自分たちも是非やろうと六甲山を活動エリアとした日本人だけの登山団体、神戸徒歩会が設立されます。ドーントたちは神戸徒歩会を資金面でバックアップ 自分たちが見つけた登山道を教えたり、ドーントの別荘での昼食会に招待したりしました。そうした交流の中で、神戸徒歩会は、六甲山を大事すること、登山道が傷んだら自分たちで補修、自然保護の精神を教えられ、外国人なのにこんなに六甲山を大事に思ってくれるなんてと、とてもドーントに感謝し、感謝の印として、六甲山の道にドーントの名前をつけることにしました。 ![]() また、ドーントたちは、ロープを使用して岩壁のクライミングも楽しみました。その様子をみていた日本人が、岩を登るなんて、また、ロープを使って登るなんて見たことない。是非自分たちも挑戦したいと、ドーントたちの教えを請い、ロープの使い方を練習、クライミングの練習をして、日本ではじめて、ロッククライミングクラブを設立しました。このことで、六甲山が日本のクライミングの発祥の地となったんです。 ドーントが公私ともに最も親しかった人 JPワレンは、毎日毎日、早朝、再度山へ登山をしていました。その様子をみていたドーントたちも、再度山の茶屋にサイン帳を置いて、毎日登山をしました。その様子を見ていた、神戸の日本人が、真似をして毎日登山をはじめました。それがみゃくみゃくと、ひよこ登山会さんや神戸つくばね登山会さん、山麓に住む人たちに、しっかりと継承され、毎日登山という六甲山の代表的な文化となりました。このように、ドー ントたちが六甲登山を楽しんだことで、英語の名前の付く登山道がある、クライミングの発祥の地である、毎日登山という六甲山の文化につながったのです。では、登山が大好きになるきっかけはどこにあったのでしょうか。紅茶の輸送と避暑客のために、ダージリンヒマラヤン鉄道が建設されました。1881年に完成し、現在、世界最古の山岳鉄道として、世界遺産に指定されています。このとき、ドーントは15歳です。ダージリンヒマラヤン鉄道に乗ると、ヒマラヤの山並み、絶景が広がります。写真は、ナンダデヴィ、ヒンドゥー教で、女神の意味です。きっと魅了されたことでしょう。 ![]() ![]() |
||
|
|
||
![]() |